アンパンマン強さ議論スレ Part2
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と嗄がれた、喘息やみのやうな犬の声が、耳に入つた。 そして犬の達し得る、極度の老年に達したと云ふあらゆる徴が現れてゐる。 犬は直に云ふ可らざる満足の容子を示してわし達と一しよに歩き始めた。 以前の牧師の家庭を処理してゐた老婆も亦迎へに出て、わし達を小さな後の客間へ案内してから、わしが猶引続いて彼女を傭つてくれるかどうかと尋ねた。 わしは、老婆も犬も雛つ仔も、先住が死際に譲つた其老婆の一切の家具も、残らず面倒を見てやると答へた。 そして僧院長セラピオンは、彼女が其僅な所有物に対して要求した金を、即座に払つてやつた。 わしの就任がすむと間もなく、僧院長セラピオンは僧侶学校に帰つた。 そこでわしは助力をして貰ふのにも、相談相手になつて貰ふのにも、自分より外に誰もゐなくなつた。 そしてクラリモンドの思ひ出は、再びわしの心に浮び始めたのである。 わしは、極力それを打消さうと努めたが、わしの黙想には常に彼女の影が伴つて来た。 或日暮にわしが黄楊の木にくぎられた路に沿うて、わしの家の小さな庭を散歩してゐると、気のせゐか楡の木の陰にわしと同じやうに歩いてゐる女の姿が見え、しかも其楡の葉の間からは、海のやうな緑色の眼の輝いてゐるのが見えた。 併しそれも幻に過ぎなかつたらしく、庭の向う側へまはつて見ると唯、砂地の路の上に足跡が一つ残つてゐるばかりであつた―― わしは庭の隅と云ふ隅を探して見たが、誰一人見附からない。 わしにはこれが不思議に思はれてならなかつたが、其後起つた奇怪な事に比べると、之などは全く何でも無かつたのである。 満一年間、わしはわしの職務上の義務を、最も厳格な精密さを以て果しながら、祈祷をしたり、断食をしたり、説教をしたり、病人に霊魂の扶けを与へたり、又屡々わし自身が其日の生活にも差支へる位、施しをしたりして暮してゐた。 しかしわしは心の中にはげしい焦立しさを感じてゐた。 そして天恵の泉も、わしには湧かなくなつてしまつたやうに思はれた。 わしは神聖な使命を充す事から生れる幸福を味ふ事が出来なかつた。 わしの思想は遠く漂つて、唯クラリモンドの語のみがわれ知らず繰返へす畳句のやうに、常にわしの唇に上るのである。 唯一度、眼をあげて一人の女を見た為に、一見些細な過失の為に、わしは数年間、最もみじめな苦痛の犠牲になつてゐたのだ。 そしてわしの生活の幸福は永久に失はれてしまつたのだ。 わしは、絶えずわしの心に繰りかへされた勝利と敗北を、しかも常に一層恐しい堕落にわしを陥れた勝利と敗北を此上話すのは止めようと思ふ。 或夜、わしの戸口の呼鈴が、長く荒々しく鳴らされた。 家事まかなひの老婆が起きて、戸を開けると、見知らぬ人が立つてゐる。 の角燈の光の中に、青銅のやうな顔をして、立派な外国の装ひをした男の姿が、帯に短刀をさげて、佇んでゐるのである。 が、其見知らぬ人は、彼女が安心するやうに用事を告げて、わしの奉じてゐる神聖な職務に関して、至急わしに会ひたいと云ふことを述べた。 バルバラは丁度わしが引込んだばかりの二階へ、其男を案内した。 彼は彼の女主人になる或貴夫人が、今息を引取るばかりのところで、是非牧師に来て貰ひたがつてゐると云ふことを話した。 そして臨終と塗式に必要な、神聖な品々を携へて、大急ぎで二階を下りた。 と、門の外には夜のやうに黒い馬が二匹、焦立たしげに土を蹴つて鼻孔から吐く煙のやうな水蒸気の長い流に、胸をかくしながら、立つてゐる。 其男は鐙を執つて、わしの馬に乗るのを扶けて呉れた。 それから彼は唯、手を鞍の前輪へかけた許りで、ひらりともう一頭の馬にとび乗ると、膝で馬の横腹を締めて手綱を緩めた。 伴の馬に遅れまいと、其男が手綱を執つてゐたわしの馬も、宙を飛んで奔馳する。 大地はわしたちの下で、青ざめた灰色の長い縞のやうに、後へ/\流れて行く。 木立の黒い影画は、打破られた軍隊のやうに、わしたちの右左を、逃げて行くやうに見える。 わし達が暗い森を通りぬけた時には、わしは冷い闇の中に迷信じみた恐怖から、わしの肉がむづつくのを感じた。 わし達の馬の蹄鉄に打たれて、石高路から迸る明い火花の雨は、わし達の後に火光の径の如く輝いてゐた。 その人は二人の幽鬼が夢魔に騎して走るのだと思つたに相違ない。 狐火は時々、路の行く手に明滅して、夜鳥は怖しげに、彼方の森の奥で啼き叫んでゐる。 其森には、時として山猫の燐火を放つ眼がきらめくのさへ見えるのである。 馬の鬣は益々乱れ、汗は太腹に滴つて、つく息も急に又苦しげに鼻孔を洩れるが、案内の男は馬の歩みの緩むのを見ると、殆ど人間とは思はれぬやうな、不思議な喉音を上げて、叱する。 すると馬は又、元のやうに無二無三に狂奔するのである。 多くの輝いた点が開いてゐる大きな黒い物が、急に眼の前に聳えた。 わし連の馬の蹄は、丈夫な木造の刎橋の上に前よりも声高く鳴りひゞいて、二人はやがて二つの巨大な塔の間に口を開いた大きな穹窿形の拱廊に馬をすゝめた。 広庭には松明を持つた従者が縦横に駈け違ひ、頭の上には又燈火の光が階段から階段へ上下してゐた。 わしは此厖大な建築の形を、混雑の中に瞥見する事が出来たが―― それは誠に魔法の国にもふさはしい、堂々とした豪奢の趣致と楚々とした優麗の風格とを併せ有してゐるものであつた。 以前にクラリモンドの手帳を持つて来た男である、わしはすぐにそれと気が附いた―― それから、黒天鵞絨の着物を着て首に金鎖をかけた家令も、象牙の杖によりながらわしに会ひに出て来た。 見ると大きな涙の滴が眼から落ちて、頬と白い髯の上に流れてゐる。 でも、せめてどうかいらしつてお通夜をなすつて下さいまし。」 わしの泣いたのも決して此老人に劣らなかつたであらう。 それは死者が、クラリモンド其人、わしがあのやうに深くあのやうに烈しく恋してゐたクラリモンド其人だつた事を知つたからである。 青銅の酒盞に明滅する青い光は、室内を朦朧とさした。 深秘な光にみたして、唯暗い中に家具や軒蛇腹の突出した部分を、其処此処に時々明く浮き出さしてゐる。 卓子の上にある、彫刻を施した甕の中には、一輪の素枯れた白薔薇が生けてある。 皆、香のいゝ涙のやうに落ち散つて、甕の下にこぼれてゐる。 壊れた黒い面と扇と其外肘掛椅子の上に置いてある様々な扮装の道具を見ても、「死」 が急に何の案内もなく此華麗を極めた城廓に闖入した事がわかるであらう。 わしは寝床の上を見るのに忍びないので跪いたまゝ「死者の為の讃美歌」 そして烈しい熱情を以て、神がわしと彼女の記憶との間に墳墓を造つて、今後わしが祈祷をする時にも彼女の名を永久に「死」 によつて浄められた名として、口にし得るやうにして下すつた事を感謝した。 けれ共、わしの熱情は次第に弱くなつて、わしは思はずある夢幻の中に陥つてしまつた。 一体其室は、死人の室らしい所を少しも備へてゐない室であつた。 わしが通夜の間に嗅ぎなれた不快な屍体の匂の代りに、ものうい東洋の香料の匂が―― わしは艶いた女の匂がどんなものだか知らないのである―― 青ざめた光は屍体の傍に黄色く瞬く通夜の蝋燭の代りと云ふよりは、寧ろ淫惑な歓楽の為にわざと作られた薄明りの如く思はれる。 わしは、クラリモンドが永久にわしから失はれた瞬間に再び彼女を見る事が出来た、不思議な運命をつくづくと考へて見た。 そして、残り惜しい懊悩の吐息がわしの胸を洩れて出た。 其時、わしにはわしの後で誰かが亦吐息をしたやうに思はれた。 けれ共、其刹那に、わしの眼は其時迄見るのを避けてゐた死者の寝床の上に落ちた。 刺繍の大きな花で飾られた、赤いダマスコの帳が、黄金の房にくゝられて、うつくしい屍骸を見せてくれるのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています