輪るピングドラム187 STATION
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※ワッチョイはスレ立てるごとに消えるので適宜増やす
■僕の愛も、君の罰も、すべて分けあうんだ。 きっと何者にもなれない お前たちに告げる
@TVアニメ『輪るピングドラム』公式サイト及びツイッター
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■前スレ
輪るピングドラム186 STATION
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ranimeh/1560793446/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:: EXT was configured
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) あ、でもこのスレで「りんごの計算は正しい!」と自論を展開するピンドラファンには
私から絡んでいくと思うからヨロシクw
間違ったものは訂正してかないとなぁ、お互いの納得いくまで 私は間違ったものに対し「見て見ぬフリ」は出来ないからなぁ。
自省もしてるし、これから本当にピンドラを理解しているファンを増やす為でもある。 このスレはお互いのスキがぶつかりあう場所だから仕方ない。
ユリ熊嵐の屋上でありスキが試される断絶のコートでもあるし
ウテナの決闘広場でもあるのだから。
「あなたのスキは本物?」
皆さんのピンドラへのスキや「りんごの計算」へのスキを存分に語ってもらいたい。 しかしピンドラを理解すると逆にユリ熊嵐で分からなかった部分も
何となく「こうじゃないか?」と思えるようになるなぁ。
ピンドラを読み解くのは面倒だがリターンはある。
例えばユリ熊嵐のユリ承認バンクで銀子の「紅羽、私はあなたを食べる」という夢を2度見た後の
ユリ熊8話の「約束のキスを私に」で紅羽がデジャヴを感じた通り
紅羽が見た白昼夢はピンドラの「運命の列車」の演出と同じく未来予知だったのだろうな、とイクニさんの演出意図が読めるようになるし。 そしてユリ熊嵐を理解しているから私だからこそ
1話と最終話の賢治について話す少年達や
最終話で冠葉に林檎を返して「上下のある兄弟」から「上下の無い対等の関係」に変わる凄さも分かるのだろう。
ピンドラ最終話の「貰った林檎を返す」事とユリ熊嵐の「スキを返す・約束のキス」は一緒。
つまりユリ熊嵐のユリ承認で変身するウィニングモード(半熊半人)と
箱の中で飢餓に苦しみ、箱から出た後に賢治について語るペアルックの少年達は同じ演出なのだろう。
再び林檎を分け合った高倉兄弟も俗世のしがらみや断絶を越え「対等の関係」やユリ熊嵐でいう所の「本当の友達」になれた。
ピンドラ劇場版決定の時に1話のペアルック少年のデザインをしていたアニメーターさんが後悔していたインタビューを読んだ事があるが
ユリ熊嵐のウィニングモードと比べたらそりゃ後悔もするだろうな。
そしてユリ熊嵐の最終話、約束のキスを果たした紅羽と銀子が断絶を越え旅立ったように
冠葉に林檎を返し一緒に果実を食べた兄弟二人も楽園から追放されたアダムとイブのように
別の世界へと旅立っていった、というオチなのだろうピンドラも。 私にとってピンドラはずっと煽ってくる印象の悪い作品だったなぁ。
12年間ネットのファンの誰も理解出来てないし説明も出来なかった状態なのに
「愛の話なんだよ、何で分かんないかなぁ」と最初と最後で煽ってくるし
「何者にもなれない」は劇場版まで何の意味があったのか分からなかったし。
そしてサリン事件のオウムが起こした事件をモチーフにし
その子供も同じ罪を犯したのに
フィクションとはいえ、それ正しく償われたのか誰にも分からないまま夢オチで終わってるし。
だが「箱の回想」の演出意図を解けた'23年5月18日から
私がネット初のピンドラを理解出来たファンになるのもきっと運命だったのだろうなw まぁ1話のペアルック少年は地味だからオチが成り立つのであって
実際にウィニングモードみたいなのだったら伏線として濃すぎるから演出意図が似たものでも比べるのは違うけどなw ピンドラのアニメーターさんの後悔を反映させると
ユリ熊嵐で例えるなら絵本「月の娘と森の娘」の二人の娘の衣装をまんまウィニングモードにするようなものだろうしなぁ。
そうすると伏線が成り立たなくなってしまう。 「創作の世界」で現実と同じ事件を起こしたら
必ず現実と同じように裁かれなくてはいけない、と言いたい訳ではないが「やりたい放題」だなぁとは思うし
夢オチはその方面では投げっぱなしだな、とも思う。
まぁ最終話の眞悧の台詞の通り「利己的なルールが支配した世界」なんだろうが
私から見たら「やりたい放題」だな。
冠葉に殺された週刊実話の記者は乗り換え後の世界ではどうなったんだろ?
自分が殺される悪夢を見て飛び起きたから今後は強引な取材は気をつけよう、とか思ったんだろうか。
そっちの描写もしてフォローすべきだったと私は思うのに、ホント説明不足の尺不足。
小説版で書いとけば脚本さんの作業だけで済むだろうに。
ユリ熊嵐でも三毛別羆事件をモチーフにしてるが
あれは「熊に人間のルールは通用しない」で納得するし
現実の世界でも人を襲った熊は殺処分されてしまうので納得する、分かり易い。 まぁ「熊に人間のルールは通用しない」けど
では「人になりたい熊は?」と考えると
物語や世界観に深みが出てそこが面白いしんだよなぁ、ユリ熊嵐は。 ま、21話の冠葉に殺された記者は乗り換え後の世界で夢を見ていたってのは私の勝手な解釈で
殺されたせいで子どもブロイラーで砕かれたように乗り換え後の世界では存在そのものが消えてて
冠葉は酷い事をやったしその罪の償いも行われてない、って後味悪い解釈もあるけどな。 >>905
まぁ運命がテーマの話だからね、彼らに共感しちゃったらきっと辛いでしょう。
私は理不尽は理不尽でもご都合の理不尽だなぁって思うけど。
特に妹想いの高倉兄弟がダブルHに捨てられた陽毬の心の痛みに気づかずに余命宣告を迎える最初から
テロ事件を起こすまでに至る最後までの運命のずっとね。
高倉兄弟が持ち前のブラコンを発揮して気づいていればテロ事件を起こす運命にはならなかっただろう、と私は推測してるし。
まぁその場合でも伯父の家売却問題が冠葉一人に圧し掛かっただろうとは思うが。 '11年の洋画、空飛ぶペンギンを見た
ペンギンがクール便で送られてくる元ネタはこれの原作だったんだなぁ
放送当時に気づいて自サイトに書いてた人は二人居たようだが、情報助かるわ。
コメディで楽しかったな
ピンドラもこれ位最初から最後までコメディなら陰鬱な気分にはならなかったのだが
ペンギンが離婚した家族のつながりを再生するというピンドラと同じ作風。
ペンギンを飼育する為に部屋を寒冷地風にリフォームした所は
両親が失踪して泣いてる陽毬の為、兄弟がリカちゃんハウス風に家をリフォームしたシーンを思い出した。
そしてどっちも「居場所」の話でもあった、銀河鉄道の夜もだが。
物語の途中でペンギンを育てるのを諦め動物園に引き渡したが暖かい家の中ではペンギンは飼えない。
ピンドラ21話で家族を続けるのを諦めた晶馬が陽毬を伯父の家に行くように説得したシーンを思い出し
居場所を選べない陽毬とペンギンが重なった。
ピンドラの一番の謎も解けた事だし
これからは元ネタを見て理解を深めてくか。 空飛ぶペンギンの劇場公開はアメリカではピンドラ放送開始の三週間ほど前で
日本では公開されなかったそうだが
アメリカのアニメファンは映画の公開で元ネタも分かり易かったのかもなぁ。
また「空飛ぶペンギン」劇中でペンギンをクール便で送ってきたのは主人公の死んだ父親だったので
ピンドラでもペンギン達を送ってきた人物も剣山の関係者、つまりピングフォースなのかもしれんな、写真の通り南極に行った事があるようだし。
しかし9話で箱からピングフォースのシールが剥がれている。
これはどういう意図なのだろうなぁ?
23話では桃果の能力を封印するかのように眞悧はシールを貼り
劇場版ではシールを貼ってプリンチュペンギンを洗脳していたようだが。
仮に9話で眞悧の成すがままに陽毬がキスを受け入れた場合だと
ピングフォースのシールも剥がれなかった、という事なのだろうか? 眞悧のキスと眞悧のシール貼りは似たような演出、という事なのかなぁ?
キス繋がりでアンプルも。
つまり23話のあのシーンは眞悧が桃果の凸にキスしたようなものって事か? 結局「なぜ21話で晶馬は高倉家を出て行く陽毬に熊のぬいぐるみを持たせなかったのか?」
という意味不明な問題も「二人がそういう運命だったから」が答えだったのだろうなぁ。
制作者的にはそれが答えなのだろうが
視聴者側としては納得出来る答えにはなってないがw
何故なら、昔の晶馬は「陽毬にとって熊のぬいぐるみが何なのか」分かってなかったから
陽毬がこどもブロイラーに行く時に置いていった気持ちは分からないだろうが
熊のぬいぐるみの中に大切な手紙を入れた今の晶馬には「熊のぬいぐるみ」が大切なものだと分かってるはずなので
陽毬が忘れていった後はボ〜っとアルバムなんか見ずに
郵送の準備でもしておくのもまた彼っぽいと私は思うのに。
制作者と視聴者の解釈の違いなのだろうな。
制作者はどうしても「陽毬が熊のぬいぐるみを置き忘れた」という状況を作りたかったのだろう。
「そういう運命にしたい」のだから。
漫画版で陽毬は「伯父の家は氷の世界なんかじゃないけれど」と言ってるが
それも十分酷い想像かつ例えだなw
まぁこれも私の考察通り「20話の回想とリンクした"運命"だった」という事だろう。
ホント面倒な作品だ。
こっちとしては「熊のぬいぐるみの中に手紙が入ってる事を知らない21話の晶馬は偽者だ」とすら考えたのに。 陽毬はこどもブロイラーに行く時も伯父の家に行く時も熊のぬいぐるみを手放したが
この行動も陽毬という娘を捨てて居なくなった実母と同じ。
人形は陽毬にとっての娘のようなもの。
捨てる遺伝子は同じ、決まった運命。
そういう運命だが、兄弟は最後かつ劇場版に命をかけて熊のぬいぐるみを届けたのだろう。
そして陽毬が手紙を読む事で何者にもなれなかった冠葉と晶馬は「乗り換え後の世界」でも「陽毬にとっての兄」だったと証明出来た。
運命「こどもブロイラー」がすべてを奪ったとしても「大切な人に伝えたい言葉」が人の世界で輪ってくのだ。 ま、上手く辻褄を合わせようとするなら
結局、冠葉も晶馬も「兄としての自信」が無くなってたのだろうなぁ。
21話で陽毬が熊のぬいぐるみを忘れた時も届けるべきなのか?と思ったのだろう、おそらく。
劇場版の公開挨拶でもイクニさんと木村昴さんが追加シーンでの台詞について話してた通り。
ピンドラは冠葉と晶馬にとって兄としてのアイデンティティが揺らぎ失われそうな話だったのだろう。
私としては「面倒な奴ら」で潮干狩りで陽毬を見つける思い出の時だけで十分家族で兄だったと思うのだが
それに後からそんなに必死になるなら何故、不治の病になる前の
ダブルHに捨てられながらもグッズを集め応援してた陽毬の心の痛みに気づかなかったのだ?という話でもあるが。
ま、ユリ熊嵐のユリ裁判と同じように事ある毎に「兄としての存在」を試されてるという状況だったのだろうな。
プリクリはライフ・セクシーのような役割か。 ピンドラは運命の話だ。
愛の話ではなく(運命を変える)愛の話と言った方がより分かり易い。
さらに「(世界から消えてしまう運命になってしまった子供が再び世界とつながれるように運命を乗り変える為の)愛の話」
と言った方が分かり易い。
また、捨て猫にサンちゃんと名づけたから
その時の事を忘れたとしてもペンギンに再び3ちゃんというあだ名をつけたのもまた運命。
陽毬と晶馬が出会った時から「予め決まっていた運命」
そんな感じに私たちの暮らす現実世界から運命の理がちょっと大げさになった運命の世界なのだ。
そして、晶馬は陽毬に要らないKIGA林檎を丸ごと渡してしまったから
陽毬に高倉家の罰が集中する運命になった、と晶馬は勝手に信じ込んでいたのだろう13話や20話の通り。
一々感情的になって喚き散らして晶馬はそこが面倒な奴だったな、親が罪を犯したら社会は子供全員に罰を与えるというのに。 放送当時ここ(2ch)で作ってたまとめwikiも
「りんごの計算」と似たような表が書いてあるようだな。
ttps://w.atwiki.jp/penguindrum/pages/15.html
おそらく2chの連中も絵を見て「同じ解釈になった」と興奮しちゃって
その解釈を信じたファン達は下手に自信がついてしまったのだろうなぁ。。。
実際は間違ったものを10年間信じ続けていたのだが。
お前ら、晶馬が陽毬にあげたKIGA林檎は丸ごとだったシーンをもう一度確認しろよ。。。
「りんごの計算」の絵を描いた人だけが間違ってた訳ではない、2chを通じて「計算が出来る」と勝手に信じて増えていったネット民みなが間違ってたのだ。
本編をよく見れば20話で陽毬は晶馬から「林檎を丸ごと貰ってる」という見方が正しい。
そして丸ごと渡したから後々陽毬に高倉家の罰が集中する運命になった、と晶馬が信じ込んでいるという解釈が正しいのに。
しかも陽毬が林檎を丸ごと持ってる描写は数度あったのに何故「りんごの計算」を信じているファンは皆、確認を怠っていたのかなぁ?
思考停止してたからかイクニさんの演出意図が分からなかったのか皆同調圧力に呑まれていたのだろう。
まぁ本編の見落としして間違った考察をするのは誰にでもあるものだ。
私も一時期「乗り換え後」の池辺家内部の背比べに気づかず「兄弟のリフォーム時に世界線が変わっていた」と間違った考察していた事があったので
とやかくは言えん。
実際は「乗り換え後の世界」は「10年前の兄妹3人の出会いから運命が変わって、陽毬は池辺家の養子になっていた。」という解釈の方がより正しかった訳だが。
現在ピンドラの再放送中で次回は20話だが
これからの放送ではどれ位のピンドラファンがまだ「りんごの計算」を信じているのかも見ていこうと思うw、ツイッターとか そういや、陽毬を庇ったせいで怪我をした母が病院に運ばれたから、その後テロリストだとバレた。みたいな書き込みを見たが
それ位でバレるなら嵐の日に陽毬が熱出してテロ犯の父が背負って病院行った過去の時点でばれてる筈だろうし
母は'95年のテロ事件当時は晶馬を出産直後でテロ事件には参加してないのだから
簡単にバレるとは思えないなぁ。
可能性があるとするなら「病院で高倉夫妻が揃った状況」が
病院内の人間に嵐の日の陽毬の入院時より気づかれ易かった、という所かな。
それに嵐の日は他人の事や過去のテロ事件を考えてる余裕なんて無いだろうしな。
つまりその解釈もアリという事だろう。 ホントこの作品はどうなってるのか一々考えるのも大変なものだ。
例えば、熊のぬいぐるみに入った手紙にしても陽毬が一度でも抱きしめれば
「乗り換え前の世界」だろうと気づいたはずである。
しかし気づかなかった理由はおそらく
小説版に書いてある通り破れた部分には「盲腸の手術痕」という設定があるからだろう。
兄弟が行った「手術」は間違いなく「下手」だったのだ、抱きしめたらまた傷口が広がる位。
だからずっと人形は抱きしめられないままだったのだろう。
陽毬は兄弟と違って裁縫が得意なのだから後々自分で直せば良いものを
兄弟が直してくれた事に意味があると思っていたから
直さず抱きしめもしなかったので乗り換え後の世界まで手紙が残っていたのだろうな。
つまり人形に手紙が入れられた時から乗り換えるまでの3年間に加え
乗り換え後の世界で10年間
足して約13年もの間、熊のぬいぐるみは一度も陽毬に抱きしめられる事無く
乗り換え後の世界の陽毬は人形遊びを卒業してしまい
危うく捨てられる所だった、のかもしれない。
そして最終話の3月20日を越えた春の時期にようやく兄弟が繕った縫い糸が切れたのだろう。
10年以上切れなかったとは糸自体は割と丈夫だったのだろうなぁ。
そして10年以上経ってるから手紙も古く黄ばんで居た、と。
私はそこまで繊細な人間では無いのでここまで高倉兄妹の関係性を読み解くのに時間がかかったなぁ。。。
しかし私以外のピンドラファンも誰もここまで読んでる考察は見た事が無いので
やっぱりこれも私が初めてなのだ。 だったら尚更、21話の晶馬が人形を陽毬に届けるべきなんだけどなぁ。
そして21話で人形を「大切なもの」だと言ったばかりの陽毬が池辺家に持ってくのを忘れるのは不自然だと思ったが
まぁ良い歳した女の子が親戚に厄介になる時に人形を持ってくのも変、という考えもあるのかもしれない。
陽毬自身は分別をつけようとしたのかもなぁ。
池辺家に厄介になる以上、子供っぽさや「可愛い」とかは捨てなければいけないと。他人行儀だが。
さらざんまいのサッカーボールを捨てた悠みたいなものか。
ホント細かい所まで読まないといかんのがピンドラの彫りの深い所でもあるが面倒な所でもある。
「手術が下手だったから抱きしめられなかった」のならそう小説に書いといてくれよ。
イクニさん、読者に「察する力」を求めすぎじゃないの?
でも「20話の回想とリンクした運命にしたかった」という制作者目線の理由もあるのだろうし
陽毬を捨てた母親と同じ行為をしている状況も作りたかったのだろう。
また、21話の陽毬は晶馬と別れる為にマフラーを返し、晶馬の決断を認め「20話の回想」という運命とは違う道を歩もうとした。
話は逸れるが、20話の回想で晶馬が子供ブロイラーで陽毬を見つけられた理由は陽毬がマフラーをつけてたからと推測。
で、マフラーが無くなったから陽毬を見つけられなくなったんじゃないかなぁ?と勝手な妄想。
そして、最終話
晶馬は「運命に無駄な事なんて一つもない」と言っていた苹果に感化されて
「20話の回想」も無駄にせず「陽毬を介して冠葉に林檎を返す為」に使ったのだった、運命のリサイクル。 資源ゴミと不燃ゴミの違いが地域によって変わるように
「子供にとっての大切なもの」も育てる親によって変わるものなのか。
可愛いものが好きな親なら大切にしてくれるし
可愛いものが嫌いな親ならゴミのように捨てられる。
池辺夫妻がどっちのタイプかと言ったら
最終話の乗り換え後の世界でも熊のぬいぐるみがあったように
大切にしてくれる方だったのだろう。
熊のぬいぐるみも「乗り換え前の世界」と変わらずリサイクルされていた。
ピンドラ世界にとって「分別をつける」ってのは
ゴミの仕分けでもあるし
大人が用意した居場所に子供が適応する事でもあるのだろうなぁ。。。
子供にとってどんなに大切なものだろうと居場所(運命)が変わる時、勝手に分別されたり自分で分別したりして
要らない物はこどもブロイラーで粉々にされてしまうんだ。。。 21話で池辺家の子供になる為に熊のぬいぐるみを置き去りにした時の想いを
分別をつける為だと仮定するなら
結果的に陽毬の取り越し苦労だったって事なのだろうな。
・・・と言っても「運命の乗り換え」の設定は我々の暮らす現実世界ではあり得ないもので
「銀河鉄道の夜 第三次稿」のジョバンニの切符みたく「乗り換え前(夢)の世界」で貰ったアイテムを
「現実(乗り換え後)の世界」に持っていける、という設定になっているのだろうし
それで熊のぬいぐるみも持っていけた。
また、「乗り換え後の世界」では陽毬は10年前から池辺家の養子で
熊のぬいぐるみも10年前からずっと兄弟に補修されたままの状態という奇妙な設定で
(乗り換え前の世界では兄弟が補修した時期は3年前)
一般的なループものにおける世界線の並行移動では説明出来ないものだろう。
やはり「銀河鉄道の夜 第三次稿」の設定を元に「運命の乗り換え」を説明するのが一番分かり易いのだ。 こどもブロイラーにいつの間にか多蕗もそうだろう。
要らない個性を砕かれて社会に適応し易い透明な存在になる。
しかし未来に発芽する鳥篭の中の「生き物がスキ」という気持ちまで自ら捨てようとしたので
桃果に止められたのだろう。
そして救われた多蕗の生き物への想いは実り、彼は生物教師になれたのだった。
ピンドラは「(世界から消えてしまう運命になってしまった子供が再び世界とつながれるように運命を乗り変える為の)愛の話」である。
ピアノが出来なくなった多蕗は世界から消えてしまう運命だったが
「生き物がスキ」という欲求が彼を世界につなぎとめたのだ。
そして世界から消えてしまう多蕗の運命を変えたのは桃果だろう。 細かい所まで見るようになって今更気づいたがこの作品の地下鉄は懸垂式モノレールなのに
13話とか24話での桃果と眞悧が立つ場所には線路があるんだよなぁ。
モノレールに線路が必要なはずも無く13話みたく天井にレールがあるのが普通だろうに。
つまり桃果と眞悧の居た場所はモノレールになる前の「'95年以前のT-tube時代の線路」って設定なのだろうな。 21話が再放送されたか。
18話の回想でこどもブロイラーから多蕗を救ったのは桃果だが
あれは今回18話のラーメン屋跡地で高倉夫妻の遺体を見つけ途方に暮れた多蕗を見つけるゆりとの運命も暗示していた、と私は解釈している。
何故なら18話の桃果の「帰るわよ!」の台詞と
21話のゆりさんの「さぁ帰りましょう、私たちの家に」の台詞がそっくりである。
何より「18話の桃果」が「15話の桃果」よりキツそうな性格をしてる理由は
「18話の桃果にはゆりさんのイメージが入っているから」だろうw
つまり多蕗の18話の回想も「多蕗と桃果が出会った時から予め決まっていた運命」で
その後「運命の乗り換え」で桃果は自身の運命をゆりに譲った。
だから最後に多蕗はゆりと結ばれた、と私は解釈している。
桃果が運命日記の通り「多蕗に恋していた事実」には間違いないだろう。
「多蕗のピアノを隠れて毎日聴いていた」という苹果と同じストーカー気質を告白しだす所からも分かるように。
そして5話の日記通り、桃果はその恋心を「自分という箱」に隠していたのも間違いない。
だから15話回想でゆりが日記に触れるのを止めさせた。
仮にゆりに日記を見られたら「3人の友達関係」という桃果の大切な世界が壊れてしまうのだから。
にしてもあの状況でもよく「乗り換えに近づいては駄目!」と中二病的な台詞が出てきたもんだw
15話は昔は感動したのだが節々の違和感に気づき、その理由を考えて世界観が分かるようになってくると
「うーむw」って感想になるな 同様に15話の回想の桃果には「多蕗のイメージ」が入ってるのだろう。
だから15話の桃果は多蕗みたく草食系で生き物に優しくて「他の回の桃果より女の子っぽい」
そして「22話のゆりが多蕗を病院のベッドで見舞うシーン」も「15話のゆりが桃果を病院のベッドで見舞うシーン」とリンクしている。
つまり15話の回想は「桃果とゆりが出会った時から予め決められた運命」
そして桃果は自身の運命を「運命の乗り換え」で多蕗に譲った。譲ったから多蕗がゆりと結ばれた。
私事だが15話の桃果は多蕗のように女の子っぽいから
百合が好きな私に一度刺さったのだろうなw
「何故桃果の性格が回想によって変わるようにしたのか?」という疑問からイクニさんの真意に気づくと
百合好きとして鳥肌が立ってくるようだ
「なんてモノ(ノンケ)を百合だと錯覚させてくるんだ」って感じでw まぁ回想と違って「本当の桃果」は運命日記や妹の苹果に受け継がれた遺伝子通り
妄想癖が強くてストーカー気質なのだろうなぁw
劇場版で初めて真の桃果が登場したが
私のイメージとちょっと違うというか
「多蕗に恋したけどゆりに譲ったから二人は現世で仲良くやってて自分ここで一人寂しい」現世の未練を
ちょっとでも語ってくれたら
私の桃果のイメージと重なったのに・・・って思ったな。
それとも10年も前の事だったら流石に吹っ切れてるのかなぁ。
プリンチュペンギンは多蕗とゆりの息子のペンギンか?
と劇場版公開前に一時期妄想していたのを思い出す。 この作品には「自分の運命は他者に譲る事が出来る」みたいな設定がある、と私は思うんだよなぁ。
でなければ最終話の「乗り換え後の世界」で高倉夫妻とは血のつながりの無い陽毬が
池辺家(旧高倉家)で養子をやってるはずも無いのだから。
陽毬が高倉夫妻の実子である晶馬から運命を譲られたから
本来、池辺の養子として育てられるはずの晶馬の代わりに
池辺の養子になる運命に変わったのだろう、と私は思っている。 で、冠葉は真砂子に夏芽家の跡取りになる運命を真砂子に譲って
陽毬の代わりにこどもブロイラーで粉々にされる運命を引き受けたから
最終話でガラスのように砕かれた、のかもなぁ。。。 「運命の乗り換え」の設定がある程度分かってくるようになると
冠葉は少なくとも2度は自力で乗り換えしてたんだろうなぁ、と思えるようになった。
一度目は夏芽父が真砂子とマリオを手元に残すと言った時。
冠葉が自分を残すよう父を説得し、妹弟の運命を変えたのはまさに「運命の乗り換え」で
冠葉の熱意が父の本来の方針を変えた、という事だろう。
ピンドラ世界の子供たちは皆、自分の居場所を決められないけど
きっと自身の居場所を他者に譲る事は出来るのだろう。
そして父を説得し方針を変えさせた冠葉の熱意は正に「蠍の炎」そのものだったのだろうと推測する。
だが乗り換えが終わった後、冠葉は父から愚痴を聞かされる羽目になったんだろうなぁ
「お前を選ぶんじゃなかった」はおそらく冠葉が運命を変えた代償だったのだろう。
・・・一時期、夏芽父は冠葉が後腐れなく高倉家の子供になれるよう
あえて突き放すように「お前を選ぶんじゃなかった」と言ってたのかなぁ?と想像したが
22話で父はどの子を選ぶか言ってたし、そこは素直に受け取るべきだったって事だな、
ピンドラは素直に受け取れない描写が多いのでうがった見方をしてしまうが。 冠葉2度目の「運命の乗り換え」は
高倉家の壁をペンキで塗った「高倉家のリフォーム時」だった、と私は推測する。
仮に冠葉が高倉家をリフォームを提案しなければ
少なくとも兄妹3人は池辺の伯父が親戚と手分けして育てる為に離散する運命だった、と推測される。
そして晶馬も一時その運命を受け入れていた。
しかし冠葉がリフォームを提案し「責任は俺が取る!」と兄らしい姿勢を見せたので
晶馬は冠葉を初めて兄だと認め、3人で家族として再び生活していこうという希望を持てた。
つまり、冠葉の熱意(蠍の炎)が運命を変えた。
この2つのシーンから分かる通り
「蠍の炎」の本質とは「他者の信念を変えるだけの熱意」と推測される。
また、最終話の罰を受けてでも陽毬を救う為に呪文を唱えた苹果も
不変の呪われた運命を受け入れかけていた晶馬を変え、彼も自己犠牲をしてでも陽毬を救うと決めた。
つまり呪文を唱えた苹果の行動が晶馬の意識を変えたのだ。 そして高倉家をリフォームし運命を変えた代償が
熊のぬいぐるみを破った事じゃないかなぁ?と推測している。
人生や運命は幸福な事ばかりではなく
しわ寄せでどこかに不幸も起こる、それが代償ではないだろうか。
にしても熊のぬいぐるみを破った兄弟は
何故「大スキだよ」と手紙を書いて人形のお腹の中に入れておいたのだろうか?
「箱の回想」と「高倉家のリフォーム」を合わせて考えると
本来、兄弟は高倉家のリフォーム完成時に陽毬に「大切な人に伝えたい言葉」も言うつもりだったのだろう、と考えられる。
そして兄弟も満足し、例えその後に兄妹3人の生活が終わる運命が来たとしても受け入れられたのだと思う。
しかし熊のぬいぐるみを破ったせいで陽毬を泣かせてしまい兄弟の計画は完璧に上手くはいかなかった。
だから兄弟は「今度は上手くやりたい」と熊の中に手紙を閉まって
兄妹3人の生活が始まったのではないだろうか?
といつもよりも妄想を広げてみた。
明日はサリン事件の日か。。。 高倉家のリフォームし「責任とってでも兄妹3人で暮らす!」と決めた冠葉の熱意は
晶馬だけでなく池辺の伯父の方針も変えたのだろうしなぁ。。。
晶馬の意識が変わるのは分からないでもないが
池辺の伯父はテロ事件の兄宅を目立つ壁に塗った甥に対して
血の気が引いたり逆に冷静になって「駄目だこいつ、早く親戚で手分けして育てないと」とか思ったりしなかったのかなぁ?
子供を育てた事が無いから基本的に放任主義なのだろうか? 仮に冠葉が運命の乗り換えをしなかったら
高倉家の子供は真砂子、晶馬、陽毬、マリオの4兄弟になっていた可能性もあった、って事なんだろうな
・・・纏まるのか?
マリオを中心にして皆で可愛がれば纏まるのだろうか?
そして夏芽冠葉は祖父に訓練されて女に不自由する事なくサクセスロードを歩いていったのだろうか?
代わりに大切な人との運命の出会いは中々無さそうな気はするけど。 高倉家のリフォームは運命の乗り換えというより
自分たちの居場所を作ってる、運命を作っているとも言えるのか。
コメンタリで木村昴さんも言っていた様に。
そしてその作った運命は劇場版の追加カットのように砂浜に立てた砂上の楼閣のようなものでもあって
脆く壊れてしまうのだった。
つまり高倉家のリフォームは「運命の乗り換え」には当て嵌まらないのだろうな。
終わるはずだった高倉兄妹の運命を続けるための行動って所か。 今日は地下鉄サリン事件の日
この作品の兄弟は親と同じ運命に導かれたようにテロ事件を起こさざるを得なかった可哀想な子供たちのように
見えるがそんな事は無い。
陽毬が「デビューしたダブルHに置いてけぼりにされたようで辛い」という気持ちを兄弟に打ち明けていれば
彼女は病気にはならなかっただろうし
兄弟だってその陽毬の気持ちを汲み取れる機会は幾らでもあっただろう。
そうすれば1話みたいな不治の病で妹死亡どころか冠葉も人殺しまでする必要は無かった筈だ。
この作品は愛も罰を分け合うという教訓が込められているが
「お互いの気持ちを話し合う」という当たり前かつ大切な教訓も込められてるのだ、とファンも気づけたら良いなぁ。
そして22話で冠葉の行動を見て見ぬフリをした事を後悔し自殺した陽毬を反面教師として
プリプリのように家族の運命に口出しする位の気概を持ってくれたら言うことは無いんじゃなイカ? イクニさんも何でこんな作品を作ったのかと考えるが
'11年に起きた震災とかつての'95年という時代に繰り返される運命を感じちゃったんだろうな。
これはピンドラ劇中の箱の回想の「予め決められた運命」で設定レベルで盛り込まれている。
また「銀河鉄道の夜」もよくある一般的な解釈で伝えられる「死者を運ぶ列車」ではない。
イクニさん独自の解釈であろう「運命共同体に未来に起きる事を予め見せる回想列車」として作中で用いていたのだろう。
また、闘病していたウテナ役の川上とも子さんの死と
宮沢賢治の妹トシ子が重なってしまったのだろうし、私にはそう思えた。
繰り返される運命、人は何の為に生きるのか。
サリン事件の再来は創作ゆえに過激な運命を求めていたのだろうなぁ
あの当時も現実でも事件まで繰り返されなくて良かったわ。 サリン事件もホント狂乱した集団によるテロ事件と他人事のように思わず
心の隙間を突かれたら誰でもああなってしまう可能性がある、と肝に銘じておかないとな。
人相手なので教訓にパターンがあって分かり易いし伝え易い三毛別羆事件より厄介なのが癪だが。 事件の日に際して何故私がピンドラを理解するのに時間がかかった理由も考えると
私は「運命」にとことん興味が無かったからだろうなあ。。。
運命はオカルトだと思っているのか
繰り返されるキャラの台詞も馬の耳に念仏とばかり聞き流していた。
ピンドラ劇場版からだったからなぁ、運命に本格的に興味を持ち始めたのは。
「犬神家の一族」を見たのも運命に興味を持ち始めるきっかけだったのかもな
ピンドラばかり見ずにパロディ元も見たりして視野を広げたから
結果的にピンドラを俯瞰して見れるようになったのかもしれない。 だけど分かるようになっても私は運命には興味無いわw
さらざんまいの誓みたく運命は面倒だと思ってるタイプ
でもここまで運命に支配された世界観を創る為には
相当才能を注ぎ込んだのだろうし
イクニさんやスタッフさん達の蠍の炎のような熱意は感じてるよ。 だけど桃果の運命日記を持っていたのに
ゆりが桃果の同級生だと14話まで気づかなかった苹果の間抜けさは不自然だし
運命日記がどういう設定のものなのか?
それとも単に視聴者を驚かせたくて苹果と運命日記の設定を失念したまま書いた脚本のミスなのか?と
今でも気になる部分もあるけどね。 高倉家のリフォームの方は「運命の乗り換え」とはちょっと違うか。
あれは兄妹の列車の旅の終着駅に急に着いてしまった運命を無理して延長したようなものだろう。
本当は高倉夫妻の失踪によって3兄妹の運命の列車の旅も終わるはずだった
しかし冠葉がリフォームの提案をして旅を延長したのだろうな。
そして最終話で世界から消える陽毬を救う為に呪文を唱えてくれる苹果をようやく見つけた。
兄弟による無茶な延長の旅もそこで報われ、冠葉も希望の光が見えたから成仏していったのだろう。
そして「乗り換え後の世界」では冠葉と晶馬どころか「高倉家」まで
初めからこの世界に存在していなかった事になったが
それでも海賊熊のぬいぐるみだけは繋がっていた。
しかしずっと疑問なのだが
なぜ「乗り換え後の世界」では陽毬を拾ってくれたのが高倉家ではなく池辺家になっていたのだろうなぁ?
都合良すぎかつ説明不足だろ、と思ってしまうが
「乗り換え前の世界」で起こった出来事は「乗り換え後の世界」でも起きるって事なのだろうか。
池辺の伯父の「陽毬はウチで面倒を見る」という口約束も繋がっていたという事なのだろうか?
或いは20話の回想で集合住宅に居た陽毬は実はその時点で池辺家の養子だったが
それでもあの場所に母の姿を求めて毎日訪れていたのだろうか?、池辺夫妻に内緒で。
そして企鵝の会の演説に飽きた晶馬と出会ったのかなぁ。。。 すごい粘着質のいるけど
この手の輩は何も生み出せない自分と作品を生み出した作者を同格か
何だったら自分の方が上位ぐらいに置いてるから誰とも対話できないんだよな
失念がどうの喚いてるのキツイわ
作品や作者が自分の思い通りにならないって当たり前の事なのに
何故か設定や描写に不備があると思い込む認知の歪みヤバい それ全てあなたの自己紹介になってますよ、
でも理解した。
だからここの住人は君みたいに私の解釈の間違いを指摘出来なかったし
自分らが信じる「りんごの計算」「三兄妹の間でのピングドラムの輪り方」間違いにも13年間気づかなかったのだろう。
「13話回想」「21話回想」など「20話の回想」以降の運命の果実を分け合った後も
陽毬がKIGA林檎を一個丸ごと持ってる描写を間抜けにも気づかず
「晶馬は箱の中で冠葉から貰った半分の林檎を更に分けたんだ」と本編の描写には無い根拠の無い妄想を作り、信じ続け
誰もその間違いを指摘出来なかった。
或いは間違いを指摘していた賢いピンドラファンも居たのだろうが
>>942のように怒りの感情によって知性を無くした妄信信者が調圧力によって排除していたのだろう。
イクニさんや脚本の伊神さんは「放送後も視聴者が考察を語り合ったり出来るように空白を作っていた」ようだが
>>942のような厄介な自治厨が居たから10年間ピンドラ考察が変わらなかったのかと想像すると、イクニさんらの思いは半分届かなかったようで残念だ。
対話とは努力だと私は思っている、他者を理解しようとするという不断の努力。
だが君は>>942自己紹介通り最初からその努力を怠っていた。
そんな貴方に対話云々を語る資格は無い。
対して私は他者を理解しようとする努力を怠らなかったから
「何故、20話の回想でも陽毬はKIGA林檎を丸ごと一個持っていたのか?」というイクニさんの意図を読めたし
「りんごの計算」やピンドラまとめwikiに書いてある「こどもブロイラーで晶馬⇒陽毬へ半分渡す」も
アニメ本編の描写とはかけ離れた「視聴者それぞれの勝手な妄想だ」と気づけた、面倒臭かったけどw。
「きっと何者にもなれない」とは運命が辿りつく未来の事だが
間違っていた「りんごの計算」もこれから語られる事は無くなっていくだろうから忘れられる運命だろう。
或いは忘れられなくとも「放送当時のネット上のピンドラファンは妄想でこんな間違った事を皆で信じてたんだなぁ・・・」
と新規ファンからは反面教師として語られていく運命だ、と私は未来を思う。 また「空白の余地を残した作品」を作った結果、未来の感想が賞賛ばかりが続くとは限らない
私のような「疑惑の目」も向けられるのも仕方ないだろう「空白の余地を残した」のだから。それもまた運命。
さらざんまいの通り「希望も絶望も命と共にある。」
何かを選んだ結果、全部良い事ばかり起きはしないのが多様な価値観を持った人々が暮らすこの世界というもの。
もしも「空白の余地を残した作品」は「賞賛しか認めない」というのならそれはユリ熊嵐でいう所の「傲慢」だろう。
ピンドラの後にユリ熊嵐を作ったイクニさん達はそんな事は思わないはず、と勝手ながら期待してしまう。
イクニさんらは大変だろうが
より正しい解釈、制作者の意図を求めようとする意思は受け止めて貰いたいなぁ・・・
或いは受け流してもいいよ?、と私は感じている。 結局、私の考察が素晴らしすぎて嫉妬してるから
何とか瑕疵を見つけてでも排除したかったのだろうなぁ・・・
それがここに潜む「ピンドラファンのスキ」
年月が経って腐ったのだろうか?
単発だしそれが「本物のスキ」には私には見えなかったな。
もしもスタッフさんをフォローしたいのなら
「これこれこういう理由で苹果ちゃんは14話までゆりさんが桃果の幼馴染だと気づかなかったんだよ」
と「空白の余地」を自ら考察し、それを披露すれば私を排除できたかもしれんのになぁ・・・努力しろよ
それに私は例え「運命日記を持って何度か読みその内容を信じていた苹果」を失念したミスだとしても
これを創った人は悪だとは思ってない。
私だって作中の描写を見落として解釈をミスる事なんて幾らでもあったのだから、これまで書いてきた通り。
蜜子さんの台詞通り「罪を犯さない生き物なんて居ない」のだ。
誰だってミスを犯す、そんなの分かりきっている。
それなのに>>942は上とか下とかに拘ってて他者を見下してくる幼稚なピンドラファンだな、と私は思う。
まるで冠葉に林檎を返す前のメンドクサイ晶馬を相手にしてるようだった。 まぁミスではないと信じたいのだが
それなら何で4話で「古い友人」だと紹介され16話でゆりも載った運命日記のページがあったのに
何故、8話で日記を奪われるまでの苹果は「ゆりが桃果の友達」だって気づきかなかったのだ?
という話だよ。 疑問を持つ、というのはイクニ作品を理解するのに大切な過程だ
例えば21話で晶馬は何故家を出てった後の陽毬を追いかけるなり何なりして熊の人形を持たせなかったのか?
と私はずっと疑問に思っていた。
21話で陽毬に渡せば最終話の下りが必要が無くなると思ったからだ。
いつまで考えても訳が分からなかったが或る日「箱の回想」の謎を解いて
「出会った時から予め決まっていた運命」という設定がある事に気づいたから
「あぁ、だからこの脚本さんは運命通り陽毬が熊のぬいぐるみを置いてぼりにしたかったんだ」
と分かるようになった。
だから幾ら細かかろうと疑問を持つのは大切な事だと私は信じているのだ。 「古い友人」は良い見方をすれば考察している視聴者に花を持たせようとした
或いは伏線なんだろうが
視聴者と違って運命日記という情報源を持っている&運命日記を信じ成就する事に執着している苹果が気づかない
のは不思議というかアホだよなぁ
別に気づいてたって大きな何かが変わるとは限らんかもだが。
というかこんなので花を持たせたとしても他は闇の中なのだから気が滅入る。
21話の熊のぬいぐるみを置き去りにする所と比べると遊びの部分なんだろうな。 きっと何者にもなれないお前たちに告げるってマインドコントロールにあってどうしようもないって感じではなくて単純に犯罪者ジュニアだから詰んでるって解釈でいいのか >>949
最終話の「乗り換え後の世界」で「兄妹の縁が切れる運命」だったと予め決まってたから、だろう。
運命「こどもブロイラー」が「兄妹が一緒に暮らしていた思い出」もすべて奪ってしまうのだから。
10年後の劇場版見て「箱の回想」の謎も解いてようやく理解したわ、長かった。 「犯罪者ジュニアだから詰んでる」ってのは別の側面でしかない
ようは高倉兄妹にとって「家族という関係性が無くなる運命」であり「兄妹という関係性も無くなる運命」だった。
ピンドラはそういう話。
「他者との関係性」が「自分を何者か」と位置づける、という事。
だから「きっと何者にもなれなくなる運命」
そして「箱の回想」は冠葉が晶馬に「林檎という生きる希望」を与え、関係性を結ぶ運命
つまり「二人が出会う前から決まっていた運命だった」という事。
だから1話アバンの晶馬の台詞
「『あの時』から僕たちに未来なんて無く、ただ『きっと何者にもなれない』って事だけがはっきりしてたのだから。」
の『あの日』とは「両親が犯罪者だと世間に暴かれ、かつ失踪した日」で晶馬はそこで一度「生きる希望」を失った。
しかし冠葉が晶馬に「高倉家のリフォーム」を行う提案をし
「二人で陽毬を笑顔にして家族をやり直そう!」と希望(林檎)を半分与えたから
晶馬もそこで初めて冠葉を「本当の兄」だと認め、「僕もまだこの世界につながって生きていられる!」と思えた。
最終話の晶馬の台詞通り、父が冠葉を養子にした日に
勝手に兄だと関係を言い渡された事は、晶馬にとって本当に気に食わなかったのだろうw
しかしそんな晶馬の嫌悪感とは裏腹に「箱の回想」の通り
それでも冠葉は後々晶馬に半分の林檎であり命を与え
本当の兄弟になる運命は出会う前から決まっていた、という事。 ピンドラは説明するのも本当にややこしい作品だw
10年間誰も理解しておらず
劇場版を見た私くらいしか理解者が居なかったのも頷ける
1/4の林檎が〜、とかそんなのはあくまでただの一解釈でしかなかった。
「運命とは何か?」を理解する方が大切だった。 「犯罪者ジュニアだから詰んでる」とか関係無い
「他者との関係性」が無くなれば
生き物は誰だって皆「世界から消えてなくなる運命」だ、とこのピンドラって作品では定義しているのだろう。
だから「きっと何者にもなれない」。
例えば、生物教師を辞めた多蕗だって「こどもブロイラー」によって「世界から消えてなくなる運命」に近づいたし
歌劇団のトップ娘を引退したゆりさんも、いつかファンから忘れられて世界から消えてなくなる運命」に近づいた。
しかし二人は結婚し
多蕗は「ゆりの夫」になり、ゆりは「多蕗の妻」となったので
その関係性が失われるまで「世界から消える運命」から一時的に遠のいたし
もしも二人に子供が出来たなら、例え二人が死んでも二人の遺伝子は未来につながっていく、愛とともに。 「「犯罪者ジュニアだから詰んでる」のではなく
「犯罪者ジュニアだから」と人生を諦めて
「自分という箱」に引きこもり他者と林檎を分け合うのも諦めるから「詰む」んだよ
でもこの兄東弟達は諦めずに「高倉家のリフォーム」に林檎を分け合っていた。
しかしそうやって運命を変え家族関係を延長しても限界が来た、そういう話。
だけどリフォーム時に手紙を残しておいたから
「乗り換え後の世界」でも陽毬は兄の記憶を思い出せた、かどうかは知らないけど
再び「他者と林檎を分け合おう」と思えるようになった。 そして、陽毬は「高倉夫妻の指名手配報道」と「ダブルHのデビューと離別」を経て
他者と林檎を分け合う事を諦めてしまっていた、「犯罪者ジュニアの自分には無理だ」と。
>>257から既に書いていたが。
「乗り換え後の世界」での陽毬は
池辺家の養子という境遇から周囲に遠慮していた所はあるのだろう。
「実親に捨てられた私は過去に誰かに愛されていたのだろうか?」という不安もあったのかもしれない。
それを払拭する為の「熊のぬいぐるみの中の手紙だった」という事なのだろうし
電車の中で偶然事故に巻き込まれて出会った苹果との運命も大切にしよう、と思ったのだろう。 「蠍の炎」とはやはり「他者の判断を変えるだけの熱意」なのだろうな、私の解釈通り
それは「運命を変える力」つまり「乗り換えの呪文」でもあるし罰も受ける。
冠葉で考えるのが一番分かり易い
22話回想の真砂子とマリオをテロ集団である自分の元に残す夏芽父の判断を変えた時の冠葉が
妹弟の運命を乗り換えた後に「お前を選ぶんじゃなかった」と罰を受けたように
あれは「蠍の炎と運命の乗換え」だったと分かる。
そして12話、すでに冠葉から一度命を分け与えられたので「もう無駄だ」と分かってるのに
それでも「やってくれ」と懇願する冠葉の中に「蠍の魂」を感じて判断を変えたプリクリと
矢張り「無駄だった」結末に「どうして俺じゃ駄目なんだ!」と冠葉はまた罰(トラウマ)を受けた。
つまりこれも「蠍の炎と運命の乗換え」
よって「蠍の炎」には「他者の判断」つまり「運命を変える力」がある。
しかし変えた結果、絶対に上手くいくとは限らず
特に「上手くいかなかった場合」は「蠍の炎」を発した者に罰が向かうのだろう、何故なら運命を変えた責任が伴うのだから。 「蠍の炎」と「運命の乗り換え」と罰の相関関係はユリ熊嵐で考えると分かり易いだろうな
私はイクニさんの創った「ユリ熊嵐」が一番スキなアニメだが
このアニメには一つの大きな「運命の分岐点」があった。
ユリ熊嵐は元々は'12年に「ピングベア」という仮タイトルで発表され
ピンドラのファン達は続編か?と大いに期待をしていた。
しかしイクニさんは途中で「新作が作りたい」と続編コースを捨て、結果「ユリ熊嵐」というアニメが生まれる運命になった。
これは一つの「運命の乗り換え」だったのだろう。
スタッフさんの中にもきっと「ピンドラ続編の方が良いはず」と思っていた人が居たかもしれない。
しかし、新作を推すイクニさんの「蠍の炎」という熱意に感化されユリ熊嵐が制作される事になった。
そして'15年、ユリ熊嵐は放映されたが結果的に円盤は800枚位しか売れず
多くのピンドラファンは「ピングドラムの続編の方が良かった」と監督のイクニさんを叩いていた、これが「運命を乗り変えた罰」
今でもユリ熊嵐はイクニさんの代表作から外されたりと不遇の作品となっている。
私はユリ熊嵐の方がスキだし名作だと思っているので「そんな事は無い」とこれからも言い続けるが
ピンドラの「運命の乗り換え」の設定を語る為にはこれが一番分かり易いだろう。 そしてピングベアの話を知らない人達には
世界の風景が変わった事には気づかない
知ってる人だけは気づく。
「運命の乗り換え」はそういう設定なのだ。 つまり12話の「蠍の魂」の下りをやらせた意味は
単に冠葉の熱意が「プリクリの正しい判断を変えさせた」ってだけなのだろう。
でも陽毬の命を生き長らえさせるには冠葉だけでは駄目で
晶馬と一緒に救わなければいけないのだろうな、最終話の通り
めんどくさいw
18話でもそんな感じだったのだろうな。
冠葉では「人生に希望は無いと思っている陽毬の運命」は変える事は出来ず陽毬は自ら命を絶とうとしたが
冠葉の蠍の炎に桃果と同じものを感じた「多蕗の運命」の方だけは変える事が出来た、だから陽毬は助かった。 では「何故、13話の眞悧のアンプル(林檎)は陽毬の命を一時的に救っていたか?」だが
眞悧が陽毬に「もう一度ダブルHと友達になれるかも?」と偽りの希望を見せる運命に変えたから、だ。
眞悧は「関係性が切れる運命になっている者達」に「偽りの希望」を見せる存在なのだ。
最終話の通り、「乗り換え後の世界」では陽毬とダブルHの縁は完全に切れてしまう。
その運命が分かっているので眞悧はダブルHにマフラーを届けたりして陽毬に「偽りの希望」を見せていた、と私は解釈している。
その希望が陽毬を一時的に健康にした、まるでアンプルを注射するかのように。
そうやって彼は「運命の乗り換え」をさせないようにする為のキャラクターなのだ。
「運命の乗り換え」を推奨する桃果とは真逆の存在。
また、乗り換えの呪文がダブルHから苹果に伝わったのは
冠葉という手駒を得た喜びから油断したうっかりミスだろう。
そうでもしないと眞悧がゲームに勝ってしまうからな。 ぶっちゃけアンプルの下りも演出的には何だって良かったのだろうな。
眞悧が「一時的にダブルHと陽毬の縁をつないで、陽毬に生命力を取り戻させました。」と表現出来れば。
でも眞悧は「絶対に陽毬とダブルHが友達に戻れない運命」だと知っている上で
陽毬に偽りの希望を持たせた後に裏切って絶望のどん底に叩き落します、というのをやりたかったのだろう。
眞悧はまるでピンドラ放送の1クール前にやっていたアニメ「魔法少女まどかマギカ」の
希望を持った魔法少女を絶望に叩き落してエネルギーを回収するキュウべえと似たようなもの。
眞悧の元々の色彩設定は「全身真っ白で瞳だけ赤」だったらしいが
おそらくキュウべえの色彩を意識していたのだろうな、と私は推測している。
他に兎カラーや「ガンバの冒険」の白イタチのノロイって可能性もあるが
時期的にはキュウべえ一択だろうなぁ。 運命の至る場所からやって来た眞悧は
過程は分かってないのだろうが未来がどうなってるかは知っているのだと思う。
・高倉兄妹がバラバラになってる事
・陽毬とダブルHが完全に縁が切れてる事
その2つの運命は眞悧は知ってる前提で最初から行動していたのだろうけど
・陽毬と苹果が友達になってる事
・熊のぬいぐるみの手紙
は知らなかったんじゃないかなぁ?おそらく。
ピンドラは眞悧がどこまで運命を知っていたのか分からんから
それも意味不明だと言われる理由だろう。 眞悧は「乗り換え後の世界」の陽毬のキャラや境遇だけはほぼ完全に理解していたのだろうな。
例え列車の事故によって陽毬と苹果が一時的に縁が出来たとしても
遠慮がちの陽毬では長続きしないだろうと陽毬は思っていた。
しかし熊のぬいぐるみから出てきた手紙が
陽毬の「苹果との不思議な運命を大切にしよう」という気持ちを強くさせたのだろう。 再放送が終わったが、私はピンドラ見ても泣けないんだよなぁ、意味不明な事が多すぎて。
最終話だって「え?なんでこのタイミングで熊のぬいぐるみが破れかけてるの?」って方が気になるし。
「なんで3号は熊のぬいぐるみを拾って乗り換え後の世界に届けたんだ?、3号は手紙が中に入ってるのを知ってたのか?」
というのも気になって都合良すぎだろと思ってしまう。
でも10年後の劇場版の追加シーンで「兄弟が3号に人形を託したのだしあれだけの出来事があったら破れても仕方ないよね」と
理屈の方は分かるようになってきた。
でも相変わらず「どうしてこれで泣けるんだ?」って感情の方が強い。 ピンドラは13話の高倉家の玄関に置いてあった3つのKIGA林檎といい
謎だけ置いといて回収を忘れた作品だな、と思っている。
小説版ではそのシーンは「林檎っぽい花」が代わりに置かれているがこれも意味不明。
数年後に出た漫画版でようやく玄関の林檎を回収してるし
「忘れてたんじゃないの?」と疑ってしまういい加減さ。
13話でKIGA林檎の置いてあった玄関には
元々アール・ヌーヴォー風のヒトヨタケのランプが置いてあった。
ヒトヨタケは毒がある茸だし、林檎で毒と言ったら白雪姫なので
毒によって幽霊とか見るようになったりしてしまう、と言いたかったのではないだろうか?
また、4話のKIGAマーク付きのスカンクの屁も毒のようなものだ。
つまり「毒性のものを内に秘めたもの」にKIGAマークは描かれていた的な事を表現する為だけに
高倉家玄関のキノコのランプをKIGA林檎に変えていた、と私は解釈している。
でも回収し忘れた、或いはアールヌーヴォー様式に聡いファンが気づいてくれる事を期待していたが
放送当時は誰も気づかなかったのだろう、ピンドラファンの知能はここを見ればお察しの通りだ。 ピンドラTV版は「これ位の表現なら視聴者も理解してくれるだろう」と見誤って
演出が極端に難解になった作品だ、と私は思っている。
小説版も読みキャラクターの置かれた心情も極限まで理解しなければ
「箱の回想」と「高倉家のリフォーム」の関連性も解けない。
そして解けたファンは過去一人も居なかった。
難易度調整が完全に間違っている、イクニさんも久々のアニメ制作で加減が分からなかったのだろう。
後々の「ユリ熊嵐」や「さらざんまい」でイクニさんの演出意図を読めるようにならなければ
ピンドラは読み解けない、そんな仕様になっているとすら思える。
だがそれでも「何者にもなれない」が何の事かは私にも分からなかったんだよなぁ、劇場版を見るまでは。
ピンドラは劇場版でようやく素人でも意図が分かるようになる、そんな作品。 イクニさん、エキサイトしてるなぁ。
視聴者の一人として私もエキサイトしてたのだから受け止めたい。
違う立場の者同士中々分かり合えない、でも気持ちは私なりになら分かる。
「何者にもなれない」はプリクリの台詞のように感じてしまうが
元々は1話アバンの晶馬の台詞なんだよなぁ。
そこがポイントというか>>951で書いてるけど。
ようはピンドラって作品はテロ犯の父母が子供達を置き去りにして
病気になった陽毬も余命宣告受けちゃった結果
晶馬は「僕達はあの日から何者にもなれない運命なんだ・・・」と1話冒頭から絶望してる所から始まるけど
紆余曲折を経た最終話で「箱の回想」で思い出した冠葉に半分の林檎を分け与えられた時の記憶の意味は
高倉夫妻失踪で泣いてる陽毬を笑顔にする為に冠葉がくれた希望を分け合って「本当の兄弟」になった「高倉家リフォーム」を暗示する運命だったのだ
と気づいたから
晶馬は「僕は『あの日』から『何者にもなれない』と絶望してたけど『冠葉の弟』になれてたし『陽毬の兄』にもなれてたじゃん」と気づき
「なら今度は冠葉から貰った林檎を返さないとな」と冠葉に「陽毬が幸せになる為の光り輝く希望の林檎」を返した。
それが次のシーンの陽毬の為に「乗り換えの呪文」を唱える苹果ちゃんに繋がる、と。
そういう風に私は受け取っている。 自分で書いたものを自分で読んでも何のこっちゃ分からんw
だがこのピンドラって作品は「予め決められた運命」である回想の演出が
他には無い独自の世界観を作り出してるんよ。そこを理解しないとね。
Xには「箱の回想の謎」を解けたファンは一人くらい居たのかしら? なんかまた京アニの事件を基にしたアニメ映画やるらしいが
ピンドラもそうなんだよな。
サリン事件を扱ったのも
'95年と'11年に起きた震災に便乗して
「子供はテロ事件を起こした親に似る」という「運命」を口実にしていたから
・・・客観的に見ても中々あり得ないと思うが
また二人の兄に愛される陽毬に共感する女性ファンも多いだろう。
ピンドラはそんなファンが望む一つの夢・願望である。
妹の命を救う為にテロ事件を起こすドラマは
そんな女性ファンにとって嬉しいシチュなのかもしれない。
そんな女性ファンを喜ばせる為にサリン事件を扱ったのは
「夢を創る仕事」としてはクリエイターの命を繋ぐ為の生存戦略として正しいと思うが
喜ばせる以上の事はあったのだろうか?という疑問は付きまとう。
どれだけピンドラを見たファン達は地下鉄サリン事件の事や
その親の犯した罪に巻き込まれた子供達の事を考えたのだろう。
特に、ただ運命に翻弄され不治の病になった陽毬自身に過失は無かったのだろうか?
22話の水族館で自らの罪を告白し自殺したから無罪?
そもそも不治の病になった理由だって「友達のダブルHに捨てられたけど追いかけたい」という気持ちを封じたから。
そして封じた理由は二人の兄に迷惑をかけたくないから。
その気持ちは分かる、分かるけど結果的に陽毬が不治の病になったせいで冠葉がテロ事件を起こし
人殺しになったのだから救えない。
私は愛の物語ではなく反面教師としてこのピンドラという作品を考えている。 そして「テロ事件を起こして陽毬の命を救う」という運命以外にも
「ダブルHにもう一度陽毬と友達になって貰うように頼んで陽毬の命を救う」という運命もあったと思うんだよな、私は。
ピンドラの世界を創った神様ピングループが「子供が親と同じくテロ事件を起こす運命にしたい」から
このドラマになったと分かると視聴者の私としては頭が痛くなってしまうのだった、その為に地下鉄サリン事件を扱ったのかと。 そして'11年の震災の時期にサリン事件を扱ったアニメを創った理由も矢張り
「運命」を考えて欲しかったからだろう。
1話アバンの晶馬のモノローグ「僕は運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸
それらが予め運命によって決められているのなら僕たちは何の為に生まれるのだろう?」
その晶馬の台詞の「別れ」の内にはきっと「大切な人の死別」も含まれる。
例えば、前兆はあるけど人類の知恵ではいつ来るか誰にも分からない大地震。
震災という「大切な人と死別した出来事」を「運命だ」と誰かに言われてしまう場合はある。
それは地下鉄サリン事件も同じで
イカれたテロ事件を起こすオウム真理教みたいな奴らと偶然一緒の地下鉄に乗っていただけで
死に別れたり後遺症を負ってしまった悲劇も「運命だ」と誰かに言われてしまう場合もあるかもしれない。
12話の桃果の葬儀でも「桃果の死と同じ日に生まれた苹果に何の因果が」と運命に関する噂話が出ていたし
冠葉と晶馬も13話の高倉父母の指名手配報道と失踪後に初めて自分達の誕生日とテロ事件のあった日が同じだったと知って
嫌な運命を感じてしまったのだと思う。 それは高倉兄弟も同様で
1話の物語の始まりの幸せな朝食の団欒の時点から「陽毬との別れの運命」は頭の隅にあったはずだ。
またピンドラの「何者にもなれない」とは
20話や24話の通り運命「こどもブロイラー」によって世界から消えてしまう子供達の事だ。
「大切な人との別れの運命」によって世界との繋がりを全て失ってしまうと
透明になった子供は世界から消え、人々の記憶からも忘れられていってしまう。
つまりピンドラの「何者にもなれない」とは
運命によって消える事まで予め決められている世界で
「世界に何も残せず消えていってしまう人」の事だ。
ピンドラ世界の運命は残酷で、最終話の通り世界から消えてしまった高倉兄弟が存在した痕跡は全く見当たらない。
しかし劇場版の通り兄弟が「手紙の入った熊のぬいぐるみ」を「乗り換え後の世界」に行く3号に持たせ
それが池辺陽毬に届いたので
兄弟が消えた後の世界でも冠葉と晶馬は「陽毬を愛していた兄」という「何者かになれた」
桃果はその「乗り換え後の世界の運命」まで分かっていたので
「きっと何者かになれるお前達に告げる!」と言っていたのだ、と私は解釈している。 イクニさんは「何者かになれる」と「サクセスできる」は違うと言っていた。
高倉兄弟も物語の最初1話の通り
陽毬の「幸せだね」という台詞から
兄妹みんなでこの家で暮らし続ける為に頑張ってはいたけど結果的にそれは失敗、サクセス出来なかった。
しかし「大切な人に伝えたい言葉」というピングドラムを見つけ
そのミッションは「熊のぬいぐるみの手紙」の「大スキだよ」で果たしたので
「兄妹一緒に暮らす幸せ」の方はサクセス出来なかったが
「大切な人に伝えたい言葉」という「本当の幸い」の方ではサクセス出来たんだよ、と言いたかったのだろう。
プリクリが兄弟に探させたピングドラムとは「銀河鉄道の夜」の「本当の幸い」なのだ。 そして劇場版で「運命の乗り換え」を完了させた冠葉と晶馬は「有名になれる」どころか
名前を覚えてそうなのは多蕗とゆりの二人位だろうしな
つまり何者かになっても「ほぼ無名」
仮に、熊のぬいぐるみの修復時に手紙を入れた冠葉が
陽毬への恋愛感情を伝える為に
「大スキだよ!!、冠葉より」と書いていたら
その手紙も兄弟たちと一緒に運命によって消えていたのだろうか?
乗り換え後の世界の池辺陽毬には届かなかったのだろうか?
この世界を作ったイクニさんは先日ようなツイートを書く位だから消していたかもなぁ
「冠葉より」ではなく「お兄ちゃんより」だから「乗り換え後の世界」でも手紙は消えなかった、という事だろう。
冠葉が恋愛感情を隠し「3人兄妹で家族をやり直そう」と手紙に自分の名前を書かない選択をしたからこそ
「乗り換え後の世界」の陽毬に届いた、と考えるとピンドラ世界独特の浪漫があって
女性向けの兄妹ものがスキなイクニファンが泣いちゃうのも分かるなぁ。。。
私が泣く程スキなシーンは9話の病院のベッドのシーンと
13話最後の両親がテロ犯だと知って動揺する冠葉のシーンの2つだな。 高倉家のリフォーム時
熊のぬいぐるみの中に「大スキだよ」の手紙を書いたのは
或いはその手紙の内容にしたのは冠葉じゃないかなぁ?、と私は推測している。
仮に手紙を入れる提案をしたのが晶馬なら「大スキだよ」と書かないような気がするからだ。
晶馬はこの時点で陽毬を家族に選んだ事を後悔してるのだろうし
その上、陽毬の大切な人形を破いたら愛情表現より謝罪をするはずだ、と私は思うからである。
つまり冠葉が陽毬への恋愛感情を隠しつつ
晶馬と一緒に手紙を書いて熊のぬいぐるみに入れといたのだろう。
或いは晶馬にすら内緒で縫ってる最中に手紙を入れといたのかもしれない
21話で家を出てく陽毬に人形を届けようとしない点から察するに。
つまり晶馬は人形の中の手紙の事を知らなかった。
或いは知ってたとしても
「冠葉の陽毬への恋愛感情を隠した手紙」だとは察せられなかったのだろう。 言うまでもなく私の考察はオリジナルだ、見たとしても他者の考察には基本的に影響されない。
だから他に類は無い。
影響されてないから「りんごの計算」の不自然な点も気づく。
でもこのスレでは考察してる私は悪だと思われてるのかたまに排除されそうになるw
そして私だって最初からこんなにイクニさんの意図に近い考察なんて出来てなかった。
2年前のスレ見返すとプリクリの正体は「アイドルになれた世界線の陽毬」みたいな事も言っていたなw
まぁ現時点の考察だとプリクリの正体は
「22話の水族館で意識不明になった陽毬」が過去の時間に飛んで過去の陽毬の精神を一時的に乗っ取っていた。と考えてるけど。
陽毬とプリクリの大きな違いは「運命の乗り換え」に「消極的」か「積極的」かって所だからな。
陽毬の主張は「3人兄妹でずっと一緒に暮らしたい」
プリクリの主張は「運命の乗換えをしろ」
だけど消極的な陽毬の意識が変化するシーンが作中に一つだけある
それが22話の水族館で死ぬ場面。
つまり22話で意識不明になった陽毬は
'04年の洋画「バタフライ・エフェクト」の日記を読むと過去に戻れる能力を持つ主人公エヴァンみたく
色んな場面に飛んでプリクリという別人格を演じて兄弟を炊きつけていた。
そしてペンギン帽と桃果が23話で結びついたのは「単なる辻褄合わせでしかない」とも解釈している。 「バタフライ・エフェクト」の主人公エヴァンは運命を変える為に過去に飛ぶのだが
その過去は洋画「セブン」が放映されていた'95年なんだよな。
ピンドラの「運命の至る場所」である'95年につながってるとしか思えない。
そして大学生のエヴァンが小学生の自分の意識を乗っ取るから
「口の悪いプリクリ」みたいになるんだよなw
イクニさんもバタフライエフェクトを意識してプリクリの設定を作ってたんじゃないのかなぁ?、と想像している。 また「バタフライ・エフェクト」の主人公が運命を変える為に過去に飛んだ少年時代に放映されていた'95年の洋画「セブン」のテーマは「7つの大罪」で
それは9話に登場する杉並区立中央図書館の「7つの大罪」が刻まれた石碑とも繋がっている。
そう、つまり9話に登場する「3号を追いかけて7つの大罪の石碑のある図書館を訪れていた陽毬」は
「22話の水族館で意識不明になった陽毬」ではないか?という推測が成り立つ。
「22話の水族館で死んだ陽毬」がプリクリとなって運命を変えようとしていた、という推理だ。
「バタフライ・エフェクト」の主人公と同じく。
だから9話の最後「ペンギン帽を被ってプリクリとなった22話の陽毬」が病院の遺体安置室で死んだ陽毬の身体を乗っ取り
プリクリを演じていた。
つまりプリクリの正体は「22話という『運命の至る場所』で死んだ陽毬」なのだ。
彼女の自己紹介「妾は運命の至る場所からやってきた」の通り。
そして飛んだ過去で兄弟への助言(17話の部分まで)をすべて成した後にプリクリはその座を桃果に返した
だから23話の通りペンギン帽が桃果として喋るようになった。
そう私は解釈している。 つまり9話や劇場版の「7つの大罪の石碑のある図書館」を訪れる者は
運命を変える為、或いは運命の乗り換えを完了する為に
「未来からやってきた」という事だ。
洋画「バタフライ・エフェクト」の運命を変える為、
「セブン(7つの大罪)」が放映された'95年という過去の少年時代に飛んだ主人公エヴァンのように。 イクニさんもおそらく9話担当の武内さんも相当の映画好きだからなぁ
洋画モチーフを使った時間跳躍ネタが隠されていたとしても不思議ではない。
そしてペンギン帽=桃果としたオチは「素直じゃないなぁ」と私は思っている。
或いはこれも何かの元ネタがあるのかもしれないが。
それにしても「素直ではない」と思うが。
こんな事やって視聴者の「知りたい欲」に答えない作り方をしたから
TV版は意味不明と言われてしまうのだと思う。
私も「プリクリの正体は桃果ではない」と言い続けていたが
その度に「プリクリ=桃果」説の本編を馬鹿正直に受け取ってしまうファンに絡まれて
めんどくさい想いをしたのだった。 冠葉の箱にだけ林檎があった理由は
冠葉には高倉夫妻が失踪した『あの日』の後から高倉家のリフォーム中までに
「大切な人に伝えたい言葉」を言える機会が巡ってくると運命で予め決まっていたからだろう
冠葉にとって大切な人は絆創膏を貼ってくれた陽毬
もしも兄弟がリフォームせずバラバラになった場合でも
冠葉は陽毬との別れに「大切な人に伝えたい言葉」を恋愛感情と共に言っていた、と私は推測している。
また、晶馬にとっての大切な人は苹果だが
冠葉がリフォームを提案し3兄妹一緒の旅を延長しなければ晶馬は苹果と出会う事は無い、だから晶馬の箱には林檎は無かった。
冠葉がリフォームを提案し晶馬に半分の林檎を与えたから、「箱の中の運命」通り晶馬は生き延びて
苹果と出会い恋をして最終話の通り苹果「大切な人に伝えたい言葉」である「愛してる」を言えた。
そして3兄妹一緒に暮らすために恋愛感情を表に出せなかった冠葉も最終話の「乗り換え後の世界」に熊のぬいぐるみの中に入れといた手紙によって
池辺陽毬に「大切な人に伝えたい言葉」をようやく言えた、という事だろう。 しかし漫画版では冠葉は最終話の蠍の炎に包まれていく運命の列車の中で
晶馬と同時に陽毬に「ありがとう、愛してる」と言ってるんだよなw
まぁ意識を取り戻そうとしている陽毬には聞こえてないのだろうけど。
これは別パターンと思っておくか つまり冠葉も晶馬も「箱の中」で林檎を分け合って一緒に生き延びる運命を選んだ時点で
「大切な人に伝えたい言葉」を言った途端に成仏する運命だと出会った時から予め決まっていた、という事だろう。
まるで「さらざんまい」10話のマブみたく。 そして「林檎は愛による死を自ら選んだ者へのご褒美」の意味は
22話の通り真砂子とマリオに普通の人生を与える為に
実父を説得し、彼女らの代わりに企鵝の会に残る事を選んだ冠葉だった。
しかし、21話の通り実父はご褒美をくれる所か罰を与え
冠葉は自信を失いそうになった。
だが出会ったばかりの陽毬が貼ってくれたおかげで冠葉は正気を保てた。
「その絆創膏が冠葉の箱にご褒美の林檎」となって現れた、と言った所かなぁ。
そして箱の中で、冠葉が晶馬にその半分の林檎を与えたから
最終話でそれが晶馬から返ってきた。 つまり真砂子やマリオの為に乗り換えをして希望が無くなった冠葉にとって
「大切な人」である陽毬に出会えた事がご褒美だった、と言った感じかな
後に高倉夫妻が失踪して晶馬と一緒に飢餓で死ぬ前に「大切な人」に出会えていたから「冠葉の箱」にだけ林檎が見つかった 「死ぬ」といっても身体(自分という箱)が死ぬって意味はなく
心の方(箱の中の本当の自分)が死ぬんだろうな。
「大切な人に愛を伝えたい」という心の方が死ぬ、という事だろう。
そして人は透明になる。 箱の回想と冠葉の関係が分かってくると
冠葉にとっては「大切な人に伝えたい言葉」を言える運命を晶馬に半分渡して
自身はその運命を封じたまま
晶馬と陽毬を養っていた、という事だったんだなぁ。。。
冠葉の陽毬への恋愛感情は作中で大々的に描写されていたのに
熊のぬいぐるみの手紙との関連は中々気づかなかった。
しかし、「陽毬への恋愛感情を封じた冠葉」といい「多蕗への恋愛感情を封じた桃果」といい
この作品は「自分という箱」に秘めた想いを持つキャラは視聴者に変人だと思わせるような描き方をしてたんだなぁ、と分かる。
冠葉は1話から寝ている妹にキスをする変態として視聴者にインパクトを与えたし
桃果も妹の苹果によって「多蕗と恋人になった妄想する日記」を遺した変態として視聴者に印象を刻み付けた。
二人とも度を越した変態だと視聴者に印象を植え付けていたが
視聴者とは違いピンドラ世界の中では「秘めたもの」で
ピンドラ世界に暮らす人々は本来なら誰も知らない気持ちなのだ。
変態行為を視聴者に見せ付けていた冠葉と桃果だが
冠葉は「兄妹3人で一緒に暮らす為に自身の陽毬への恋愛感情を封じて長男として二人を養っていた」訳だし
桃果もおそらく「多蕗の恋人になる運命をゆりに譲って自分は身を引き、書いた分の日記も封印しようとしていた」のだろう。
変態だが自己犠牲精神もある所がイクニ作品のキャラらしい。
そしてその欲望を「自分という箱」に封じていたから変態行為が視聴者に漏れたんじゃないかなぁ?、と推測する。
陽毬とマリオは自分の本当の気持ちを封じると不治の病になってしまうが
冠葉と桃果の場合は封じた変態が漏れる。
桃果は15話でゆりと出会う前から多蕗との妄想日記を書いていたのか
それともゆりと出会った後に妄想日記を書いてたのか分からんが
15話で日記を持ってるのでおそらく出会う前から日記を書いてたのだろう、と私は思う。
だからゆりが妄想日記に触れるのを止めた。
18話で多蕗を救った後に15話になった、と推測する。時系列的に。
だとすると15話の桃果は左手にバーナーに炙られた火傷跡があるはず、しかし火傷跡が無いのが不思議。 1話の陽毬が復活したシーンで
晶馬の方が陽毬に抱きつくのが一瞬早かったせいで割を食ったのは
冠葉の自制心を強調する為だったか。恋愛感情の有る無しの差だな。
そして晶馬が抱きついた後に二人とも抱きしめるのは
二人とも愛してるよと、という意思表示化。
どっちも高倉家のリフォーム時に長男役を引き受けた影響からか。
仮に高倉家のリフォームを冠葉が提案しなかった場合
彼は本当に陽毬に恋愛感情を伝えていただろうか?
陽毬は高倉夫妻が居なくなった事で泣いていたのだから
そんな時やそんな後で告白したとして
成功しようがしまいが冠葉の自己満足なのは間違いない。
そこで陽毬の痛みを察知しリフォームというほぼ正解な対応を叩き出す所が
冠葉の貧乏くじの始まりであるが素晴らしい。
では何故、両親失踪で泣いてる陽毬の痛みを的確に察知対応出来た冠葉が
ダブルHのデビューで凹んでるのに元気なフリをしてグッズをあれだけ買って応援してる様を見て
その後、不治の病にまでなってしまうまで
何故手をこまねいて放っといたんだよ、という話。
神の視点を持ってなければ「ダブルHとの絆の喪失=不治の病」には気づかないかもしれないし
陽毬は両親失踪時と違って負の感情を表に出さなくなったとは言え。
だが「ダブルHを応援する元気な陽毬が病気になっていく」という視聴者の視点では見る事が出来ない様を
冠葉は見ているのだぞ。
視聴者には見れないが、ピンドラ世界を創った神様ピングループには見える視点の話を。 変態も度が過ぎると目が眩むんだろうなぁ・・・
というか「熊のぬいぐるみの手紙が冠葉が書いたもの」ってのはファンのどれだけ気づいてたのだろうか。
これすらピンドラファンは私が初めてなのだろうか?
ピンドラファンは「ピンドラ見て泣いた泣いた」と書いてるのはよく見るけど
そこら辺に言及してる考察は見た事は無い。
まぁただの推測だが兄弟二人で書いたなら「お兄ちゃん達より」と複数形になるはずだしなぁ。
冠葉が抜け駆け、或いは自分の隠し続けなければならない恋愛感情を手紙で発散させた。
例え3人で暮らしてる最中に見つかっても誤魔化せるように名前を書かず。
しかし筆跡で冠葉と晶馬どっちが書いたかくらい陽毬には分かるだろと思うが。
放送当時、OPの影の手を解析して晶馬か冠葉かを見分けたファンが居たらしいから
世界を創った神様ピングループとそれにお願いして運命を変えられる立場のイクニさんは
箱の回想や熊のぬいぐるみの手紙の謎は13年間誰にも解けないくらい難しくした、としか思えない。
20話で熊のぬいぐるみを破いた足すら晶馬か冠葉か分からないしなぁ
わざわざ真っ白な靴下とジーパンと、下半身だけペアルックにして。 影じゃないか
しかしOP解析されて困ったであろう箇所は兄弟の見分け方ではなく
林檎を落とす手が苹果で林檎を受け取る手が陽毬って事だろうな。
その運命はOPから流石に変えられなかったのかもなぁ。
陽毬の命を救うのは真砂子ってパターンもきっと出来ただろうに
そうしなかった理由は。
運命は予め決まっている、という世界のルールは破りたくなかったのね。
しかし手と言えば劇場版OP最後のKIGA林檎を挟む手は誰のものなんだろうな。 結局ピンドラは
ピングループという「アニメを製作する神様たち」と
ピングフォース(企鵝の会)という「アニメを企画し制作する神様たち」の争いの話だったんだな、と私は考えている。
ピンドラはオウム真理教と地下鉄サリン事件だけの暗喩では無い。
荻窪はアニメ制作会社のある町でもあるし
例えば「機動戦士ガンダム」のサンライズ本社も荻窪にあるらしい。
また、ピングループとMBSは何故「製作委員会」ではなく「製作」なのだろう?
私はアニメ業界の仕組みが分からないただのアニメファンだからよく分からない。
だがイクニさんのアニメ全てのクレジットに製作委員会がほぼ無い事は見れば分かる。
分からんがピンドラをアニメ業界の話と気づいたのは放送されて十数年、私くらいしか居なかったようなので
思った事をつらつらと書いていく。
イクニファンは多いはずだがオウムの事件の印象の方が強いのと
製作ピングループが劇中に登場している事に気づいた人、更にそれが神様だと気づけたのは私くらいしか居なかったのだ。
さて、アニメとは「アニメ制作」と「アニメ製作」どっちの神様も協力しないと
アニメの世界もそこで暮らすキャラと彼らが辿る運命も世には産まれてこないものだ。
最近もイクニさんのピングドラムを創るまでのインタビュー記事が幾つか出ていたが
ウテナから10年以上干されてその間の鬱憤もあったのか意固地になっていた事は伺える。
また、アニメ製作委員会とは運命共同体のようなもので
皆でアニメを作るお金を出し合い
アニメの成功によって利益が出れば皆で分け合い
失敗してしまったらその被害も皆で分け合うシステムだ。
まるでピンドラ最終話の晶馬の台詞「僕たちの愛も、僕たちの罰も、皆分け合うんだ」そのものだと
アニメ業界の事を殆ど知らない私なりにそう思う。
このようにピンドラにおける林檎とは「アニメの商売で輪るお金」でもあると気づくと生々しい。
生々しいが欲望と愛は表裏一体、どっちも無いと社会では生きていけないのはこの世の真理だ。 つまりピンドラは「アニメ業界に暮らす一部の神様たち」によって作られた世界とその子供たちの話だったのだろう。
「運命の子供たち」とは神様によって不幸な運命を背負って生まれてしまった者たち
そんな子供たちが運命と向き合ってピングドラムという「本当の幸い」を見つける事が出来るのか?
とそこら辺は「銀河鉄道の夜」と同じである。
井戸に落ち、自らの死の運命を受け入れてイタチに命をあげ損なった蠍が
「みんなの本当の幸いの為に」と神様に祈って夜空の赤く燃える星アンタレスになったという賢治の創り話。
「井戸に落ちた蠍が星に変わるなんてあり得ない」と読む度に私は思うが
創作の世界なら「何でも有り」である。
それはピンドラも同様で「ダビデ像が東京タワーに変わるなんてあり得ない」のと一緒だ。
しかし創作の世界だから「何でも有り」なのである。
「人類が初めて井戸を作ったのは新石器時代に対しアンタレスという星が生まれたのは・・・」
と真面目に考察し矛盾を探しても馬鹿馬鹿しいのである。
そして、銀河鉄道の夜の「蠍が星になった話」のように
ピンドラの世界でも自らの命を犠牲に「運命」や「世界の風景」を変える事が出来る設定になっているのは確かだ。
この点を考えると「願いを聞き届ける神様という存在は自己犠牲を凄く喜ぶんだな、その物語の企画ならアニメの制作費も出すんだろうな」と私は思い浮かべるし
多分イクニさんもそう皮肉って「銀河鉄道の夜」をモチーフの一つにしたのかもなぁ、とも私は思う。
ウテナも自己犠牲によってアンシーの運命を変えた、そしてウテナは皆の記憶からも消えた。
つまりイクニさんの作風を知ってる神様ピングループはそういう自己犠牲的な話が「世間受けする」と分かってるから
イクニさんも「輪るピングドラム」でも似たような設定を考えたのだろう、と私は推測している。
つまり神様である製作ピングループが自己犠牲をするキャラ、15話では桃果の願いを聞き届けるから
背景のアニメーターさんも「ダビデ像のある風景」から「東京タワーのある風景」を創るのだ。
そうやってピンドラの世界が変わる。
「運命の乗り換え」とは創作の世界だからこそ出来る神業なのだ、現実ではこうはいかない。
現在ある建物を壊し新たに建築して世界の風景を作り変えるのだから
アニメーターさんが背景を描くのよりずっと時間がかかるだろう。
だから同様に最終話の乗り換え後の世界になった時も
「高倉兄弟が存在する世界」から「存在しなかった世界」へと変わる。
そのロジックを我々の住む現実の世界の理屈と照らし合わせて考えてはいけない。
考えようと十数年間もがいていた私も馬鹿だったのだろうw さらざんまいは「子供が将来なりたいものを夢見る話」で
「サッカー選手になりたい」という夢を持つ一稀たちが
面倒な繋がりによって悪戦苦闘するさまと
イクニさんの子供の頃に好きだった映像作品の「帰ってきたウルトラマン」がつながっていて
単純で笑えて愉しいのに対し
ピングドラムはアニメ業界で苦労してきたイクニさんの話だから
どうなってるのかを考えると面倒くささの方が半端無いんだよなぁ。。。
疲れる。
企鵝の会アジトで「この世界は間違ってる!」と血気盛んに演説する高倉剣山は
自分の思い通りのアニメ企画を通したいイクニさんでもあったんじゃないの?これ
企鵝の会はアニメーターさんなど搾取される現状に不満を持つアニメ制作者さんたちの集まりなんじゃないかなぁ?
と私は推測している。
キャラデザの西位さんも度々ツイッターでストライキの声を上げてる。
ピンドラの意味不明な内容をアニメ業界と繋げて考察するのは面倒だと思うけど
そうやって自分達の地位向上しようと声を上げるのは大切だよね、と私は思う。
私も好きなアニメはグッズを買って応援とかしないとな。 あぁ、最終話の冠葉と晶馬が引き受けた「運命の乗り換え」は
「銀河鉄道の夜」でいう所の「蠍が星になる」程度の世界の改変では無い、と私は解釈している。
ピンドラ最終話の運命の乗り換えは
「銀河鉄道の夜」でいう所の第3次稿から第4次稿へと物語が書き換わるレベルの改変が行われた結果だ。
銀河鉄道の夜において
第3次稿ではジョバンニとカンパネルラの関係は親友でも無い「ただのクラスメート」だが
第4次稿では「二人のは親ぐるみの友達」と関係性が変わっているのだ。
また、第3次稿に登場し、ジョバンニを導いていたブルカニロ博士の出番は
第4次稿では削られている。
そしてピンドラも最終話も苹果が陽毬の為に乗り換えの呪文を唱えた事によって
陽毬と苹果は友達の関係になっていて
冠葉と晶馬は最初から存在が消えている。
つまり冠葉と晶馬のモチーフは単にカンパネルラとジョバンニだけでなく
「存在が消滅する事で次稿に繋げている」という役割的にブルカニロ博士でもあった、と私は解釈している。
・・・ピンドラの考察は多いが
最終話の「運命の乗り換え」が「銀河鉄道の夜の第3次稿から第4次稿へと書き換えられた事がモチーフになっている」
という考察も'11年の放送後、私が初めての事なのだろう。るる賢〜い! レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。