>>984-986
(>>993 のつづき)

じゃ、その「愛」とは何か?
キリストは、十字架にかけられる前夜、聖画でも有名な「最後の晩餐」で、弟子たちの足を洗って次のように言ったそうな
「師である私が弟子であるお前たちの足を洗ったのだから、お前たちも互いに足を洗い合いなさい。私がそうしたのはお前たちに模範を示すためだ。私はお前たちに新しい戒めを与える。互いに愛しあいなさい。私がお前たちを愛したように、互いに愛しあいなさい」

「キリストが愛したように」と言うのがミソ。ここで言う「愛」の定義は「キリストの愛」という事。キリストは人類への愛ゆえ、人間の罪を身代わりに背負って、十字架に死なれたと言われている。つまり生きている愛は犠牲がともなうということさね。そのような「愛」で、互いに愛しあいなさいと、キリストは弟子たちに教えた。

アンがグリーンゲーブルズに残る事を決めたのも、決して小さくない犠牲を払って「愛する」ことを選んだから。しかしここで重要なのは、アンは誰かに無理強いされてそれをしたと言うのではなく、自分の意思で選んだという事。愛が愛である所以は、自発的な意思に基づくから。

アンがレドモンド辞退の決心をマリラに伝えたときも「ああマリラ、あたしを気の毒だなんて思わないでね。あたし人に同情されるのは嫌いよ。第一その必要もないわ」なんて言えたのは、誰かのせいでそうなったのではなく、アンが自分でそれを選んだから。因みにキリストも、誰かが強いて彼に十字架を負わせたのではなく、自分でその道を選んだと言っている。自分で選んだのだから、被害者意識や自己憐憫なんかに陥ることもない。

つまりね、意識するしないにかかわらず、アンは極めてキリスト教徒的な行動原理に基づいて決断をしたという事さね。愛には犠牲がともない、自発的で利他的だと言う決断をね。

( >>995に続く)