起きしなに窓から空を仰いだ。青々とした葉から青空が覗いている。快晴だ。
 三日三晩も雨音を耳に入れていたから、重くなっていた頭を持ち上げるのに少し苦労した。
 寝室のある部屋から階下に降りると、頭の重みはどんどん取れていった。耳の穴から三日分の雨音が排水されているような、そんな感覚を覚える。さらさらさら、と外から聞こえる音のせいだろう。
 昨日のうちに用意した釣具を持って、玄関の扉を開けた。

 さらさら、さらさら。

 予想通り、家の前は大きな川になっていた。いくら晴れたところで、客なんて来やしない。流れはそこまで急ではないが、水位が高いのだ。この建築を設計した人は大したもんだと思う。最初は玄関の高さに懐疑的だったが、たびたび周囲が『川化』することを知っていたに違いない。地上から十五段もある階段を設けて大木のウロを整形して住居にするなんて、それでも酔狂としか言えないけど。
 アヒルやカワウソなら泳いで来れるだろうが、おそらくうちのコーヒーは好かないだろう。何か、彼らに出せるメニューでも考えておこうか。ひまわりの種ならいけるだろうか。
 そんな事を思いながら、やっぱり今から来られても困るので『洪水につき閉店中』の看板を立てた。
 階段上から三段目に座って両足を川に浸す。運動不足で浮腫んだ足に、ひんやりとした水が心地良い。そのまま釣竿をゆるゆると振る。針の代わりに付けた巨大なフックのおかげで、思いの外よく飛んだ。
 この釣りの狙い目は魚じゃなくて、家具だ。上流の街から流れてくる椅子や机なんかを狙いたい。前回、一度だけピアノが流れてきたことがあった。さすがに大きすぎて釣り上げられなかったが、今回のフックはあの時よりもずっと良いものだ。釣竿もロープで家の柱と結びつけてある。もし力負けするような大物がかかったら、私は自分の家と職場を同時に失う事になるだろう。

 しばらく釣り糸を垂らしていると、奇妙なものが流れてきた。
 大きな黒革の鞄……そこまではいいのだが、上にヒトが寝ている。大の字になって、空を見上げているヒトだ。両手両足を水に浸しながら、木にぶつかりそうになるとバタバタと動かしていた。溺れているようにも見えなくもない。が、表情に必死さを感じない。何とも脱力した風である。

「おーい、きみ。大丈夫かね」
「んあ……ああ、釣り人? 釣り人がいる。ウケるな。釣れますか?」

 親切で声をかけたのに、逆に煽られた。こんな理不尽、あるだろうか。

「釣れないよ。それよりきみ、流されてるようだけど大丈夫なのかい?」
「うーん……ダメかも」

 彼は急に苦しそうにすると、顔を横に向けた。こちらからは見えないが、鞄の周囲が虹色に染まっていく。おろろろろろ。どうも酔っ払いのようである。

「……このフックに捕まってくれ」
「いいのか?俺は金を持ってないぞ」
「未来の釣果をきみの体液で染めたくないんだ」

 ぐいぐいと彼を釣り上げて、家に招き入れた。
 それから、カップ一杯の水を与えると、さっきの気怠そうな気配とは打って変わって、はきはきと喋り始めた。

「いやあ!悪いな。今は払える金はないが、俺、実は売れないルポライターなんだ!いずれ恩返しできる日が来るまでここに住ませてくれ!」
「さてはきみ、シラフの時の方が厄介だな?」

 言っている事がめちゃくちゃなやつだが、彼がいると新しいメニューをたくさん思い付くような気がした。
 明日からこき使ってやろうと思う。

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『郊外の喫茶店・ヤマミ』

 隠れ家的な、という表現にぴったりの喫茶店がある。ここは街から離れた、水捌けの悪い森の中にある喫茶店だ。
 立地条件は最悪で、マスターの愛想もすこぶる悪い。が、誰でも分け隔てなく接してくれるのがこの店の良いところだ。この前はガチョウがコーヒーを飲みに来ていた。
 私がこの店に出会ったのは数日前のことで、その時は洪水の日だった。洪水の日にやることと言えば、酒場でギャンブル。内容は割愛するが、大負けした私は川に流された。
 流されている時に偶然、釣りをしているマスターと出会ったのがヤマミを知るきっかけとなったのだ。
 彼女と出会った時の洒落たやり取りを、私は今でも覚えている。

 記者「やあ、こんなところでも釣れるのかい?」
 マスター「ああ、今まさに釣れたところだよ。きみがね」