私は、絵巻物を抱えながら内裏の廊下を歩く。
 スッ、スッと裾の擦れる音とは別に、進む先から声が聞こえる。
「内裏はすっかり暗くなり、花が色褪せたかのようだ」
「先の中宮さまと、中宮さまに仕えた女房たちは華やかでしたからなあ。わけても、才女として知られた――『ゴホン!』――あッ」
 私は男たちの言葉に被せるよう、わざとらしく咳払いした。振り向いた彼らはバツの悪そうな顔をする。
 私は刺すような一瞥をくれてから横を通り過ぎる。
 先の中宮と今の中宮――帝の后を比べ評すなど。宮廷雀の何と度し難き事か。いえ、怒りを覚えた理由は、それだけではないけれど。
 ギッ、ギィ! と廊下の木板を軋ませ進む。角を二回曲がり、目的地に着く。
「彰子さま、失礼します」
 彰子さまは意地でも日には浴びぬとばかりに、部屋の奥の隅に文机を配し。そこで何やら書物を読んでいた。
「あら、香子。眉間にしわが寄っていてよ」
「……宮廷雀どもが下らぬ戯言を申していたものですから」
「成る程? お前が顔に出すほど不快な話ね。――当てましょうか? 彼女の話が出たのでしょう」
「彼女とは? 単に、お仕えする主を誹謗されただけです」
「まあ、私の為に怒ったと? それはありがとう」
 全く信じていない声音だった。
「で、雀たちは何と?」
「……陰気だと」
 彰子さまは肩で笑う。
「何を今更。陰気なのは事実でしょうに。私も、お前もね」
 このひと夏、外にちっとも出ず。部屋に籠っては書物に埋もれる。確かに、主従揃って返す言葉など持ち合わせていなかった。
「理解したわ。先の中宮や、その女房たちは快活だったと、雀は囀ったのね? そして彼女の話に発展した」
 私は沈黙を返事とした。
「一度も顔を会わせたことのない人を、そこまで嫌うとはね」
「気に食わないものは、気に食わないのです」
 この内裏にいれば、必ず耳にする女人の話がある。誰もが懐かしがって、彼女の想い出を語るのだ。――春の日向のような才女だったと。
 その話を聞くにつれ、どうしても心がささくれ立つ。
 彰子さまは肩を竦める。
「まあ、私も隣にいて欲しい人とは思わないけれど。それでも書を通して彼女に会うのは、存外悪くなかったわ」
 彰子さまは私から絵巻物を受け取ると、代わりに一冊の書を差し出す。
「これは?」
「どうせ、まだ読んでいないのでしょう?」
 苦虫を噛み潰したような心地になる。
 彰子さまは目を細めた。
「まさか、中宮からの下賜品を拒む女房などいないでしょうね?」
 嫌々手に取る。
「早いけれど今日はお下がり」
 言外に、余った時間で渡された書を読めと命じられた。
 私は一礼して自室に下がる。文机に書を置くと、少し離れた場所に座る。ちら、ちらっと件の書を見てしまう。
 ええい、ままよ! と、覚悟を決めて書を開く。
『心がときめくもの。スズメの子を飼う。赤ん坊を遊ばせている所の前を通る。
 良い香を焚いて、一人で横になっている時。舶来の鏡が少し曇ったのを覗き込んだ時。
 身分の高そうな男が牛車を止めて、供の者に何か尋ねさせているの』
 読む。読み進める。……想像していた通り。本当に嫌な人。
 明け透けだし。得意顔で知識をひけらかしては、利口ぶって漢字を書いているけど。よく見れば間違えもある。ああ、でも……。
「――なんて瑞々しい感性」
 私は堪らなくなって書を閉じる。薄い綿入れをすっぽりと被って不貞寝した。
 ふと気付けば、内裏の廊下に立っていた。
 ――これは夢だ。確信する。だって目の前には、想像した通りの嫌な女の顔がある。夢枕にまで立つとは、何て図々しい。
 彼女は日向のような顔で微笑んで『悔しければ、貴女も書いてご覧なさいな』と、そう告げた。
 僅かに汗の香りのする綿入れを剥いで、体を起こす。まだ日は落ちてない。さほど時間は経っていないらしい。
 私はサッと紙を手に取るや、文机の前に座る。急かされるように、硯で墨をする。
 ――書いてご覧なさいな? 悔しければ?
 私は筆をとる。だけど、きらきらと輝いて、どこまでも明るい。そんなもの、私には書けない。
 ならば、ドロドロの人間模様を。恋に欲望。不義密通。権力闘争。裏切り。栄光と没落。終わることなき苦悩。これは、彼女には絶対に書けない。
 思い描いたのは、一人の貴公子の物語。その栄光と苦悩の物語。
「……そうだ」
 私は口の端を吊り上げる。
いっそ、彼にはその生涯に相応しくない名を与えるのも面白いかもしれない。そう、冗談のような輝かしい名を……。
「決めた。――光源氏よ」