S660のLPL代行を務めた安積氏は開発する若いスタッフを集め、一番最初に「スポーツカーを作るということは大変なことだ」と伝えたという。
「私も長い経験の中でいくつかスポーツカーの開発に関わってきましたが、そこで思ったのは『スポーツカーとは高い理想と膨らむ欲の塊である』ということなんです。
このジャンルではすべての面において妥協はなくもっともっとと理想が高まり欲も広がっていきます。たとえば社内においても『ホンダのスポーツカーはこうあるべきだ』
という意見を社員それぞれが持っていて、そのプレッシャーはかなり大きいから、社内の中でも中途半端なものは認めてもらえない。また、スポーツカーを期待する
お客さんていうのはさらに高い満足度を望んでいて、たとえばコストや生産性の都合で生じたちょっとしたほころびが見えただけで許してもらえないんです。」
「さらに、開発過程でも自分たちが『もっとパワーを上げたい』 『もっとシャシー性能を上げたい』と、今以上の性能向上を盛り込んでいってしまうことで価格は高く
開発難易度は上がっていくという負のスパイラルにも落ち込んでしまう。そして膨れ上がった新車のコストは高騰し、商品力と価格設定のギャップから、
開発を断念することもありえる。これらすべてに対峙しながら開発しなくてはならない。だから普通の気持ちではスポーツカーなんて作れないんだよ、
ということを解ってもらうために言ったんです。」

ベテランならコストや開発課題を考えてやらなかったかもしれないけれど、若いスタッフから出てきたことで採用したアイデアなどはあるのでしょうか?

「たとえばボディでいえば、開発の終盤でクロスメンバーをフロアに追加しているんです。それはもうボディ開発としてはほとんど出来上がっている状態での話で
、我々が乗ってももう十分だろうと思えるレベルに来ている状態だったのですが、それでも若手の開発者たちは『もっとやりたい、つくり込みたい。そのためにこのメンバーが必要だ』
と言うんですね。でもそれを実現するためにはフロアの金型を作り直す必要があるから、コストも日程もかかるんです」

実際に、そのメンバーを追加することでシャシー性能は上がるものでしたか?

「それはまあ、専門職が乗ってみると有る無しでの違いは明確でした。ただし、普通のお客さんが使うような局面で違いがわかるかどうかは微妙なところです。ですから莫大な
追加コストを考えればやるかやらないか、かなり悩みました。私としては、今の開発段階を判断して十分なレベルに達している、だからここからの設計変更に関しては
消極的なことを伝えました。それで引き下がれば想いの強さはそんなものかな、と思うですが、やっぱり彼らは引き下がらないですからね。」

「他にも終盤になって、ほぼ仕様が確定したところで『もっとステアリングまわりの剛性を上げたい』とか『サスペンションのダンパー性能を上げたい』とか『メーターやディスプレイの内容
を変えたい』とかすべて熱く語るんですよ。全てコストは上がる話でしたが、最後は彼らの熱意に負けて採用することになりました(笑)」
他にもボティ下面に追加されたブレースなどについても、コストや車重、そして生産する工場の工数を考えると安積さん側からすれば「ない状態でも十分ならば、つけない選択肢も
ありだ」という話はしたという。しかし装着した方が車両の価値が高まるという結果を前にして、若い開発陣はそれを逃がすはずもなく、ブレースは量産車に装着されることになった。