昔の国鉄阪和線 その2
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南海では堺も堺東も昔から特急停車駅。阪和線ではまた違う扱いなのかな >>5
昭和55年は紀勢線電化後。
その前の昭和43年の投入時からの話。 天王寺-和歌山概ね65キロを103系に爆走させた勇気に京福いや敬服 103系快速は4連+4連の8連で、アナウンスは前から4両面から5両目への通り抜けはできません、と言っていたが、いつの頃からか「4号車から5号車へ」に変わった
近郊型車両に倣ったのかもしれないが、103系には号車表示がないので無理があると思った 113系に号車の表示あったの?
号数板のサボ受けがあった記憶はあるが使用されてなかったと思う >>12
そもそも113系は貫通式なのでユニット間の行き来は可能で、案内放送する必要がなかった
さすがの国鉄時代でも解結時に貫通路のセッティングはちゃんとやっていた 国鉄時代の阪和線で113系のクハの連結ってあったっけか? 国鉄時代に増発されて4両化されたからあったよ。おかげで加速が悪くなった。 国鉄時代、羽衣線用の103系3両編成を2本連結した6両編成が天王寺〜東岸和田間の各駅停車運用に入ることもあった。 御坊や紀伊田辺まで直通する快速が無くなったのはいつ頃だったか
和歌山での乗り換えが面倒で嫌だった 1977年の旧型国電置換時に、羽衣支線用に103系3両が3本配置されました
そのため、本線6両運用に入ることは前提であったように感じました
ちなみに当時ですが、
天王寺/日根野が6両、日根野/和歌山が快速以外は4両→本線は置換少し前に全線6両化
これで、旧型国電の4+2両が6両固定で運用で和歌山までの区間快速は旧型国電限定
→103系と113系6両も全部OKになりました
快速8両はもう少し後と思います >>14
そいつじゃないけど中々興味深い
阪和電鉄が続いていた世界線で改称を経てたら
「阪和堺市」もありえなくはない
そうでなくても「阪和」の冠称は阪和電鉄を想起する 紀伊中ノ島も和歌山バスの停留所名は「阪和駅前」
ついでに、昔は海南市内に「野上電車前」というのもあった。 >>23
だから何?
俺がどう解釈して楽しんだりするかは俺の勝手だろ
おまえがそう思うのが勝手なのと同じ >>20
和歌山で客の流れは分断されるから直通しなくても不具合ないよ
それに大阪から田辺まで行く客はくろしお使うでしょ 田辺までじゃなく海南や湯浅辺りまでの各駅だとそこから大阪との流れは多少ある 紀勢線電化前は特急、急行と客レ以外は直通してなかった。
電化で快速の直通が始まった。 1989年の春から、113系6両編成で運転されていた阪和線・紀勢線直通の快速は和歌山以南の
紀勢本線の輸送量に合わせて4両編成に減車されたが、阪和線内ではラッシュ時に113系4連2本併結の
8両編成の快速が見られるようになった。 本当は解結操作があるから併結したくなかったそうだが、
さすがに天王寺~堺市で四連はムチャやな 旧国の区間快速が4両だった頃(76年11月以前)は天王寺寄りはさぞかし乗車率が凄かったろうな。
まあこっちは和歌山市民なので大して気にも留めなかったような。ガキの頃だし知らんけど・・ 区間快速が増結していたときは、和歌山発が4両で、天王寺着が6両
ただ増結は朝夕のラッシュ時中心だったのでしょうかね?
自分が行った時は、旧型国電末期で6両固定でした 阪和線の103系は本当に元京浜東北線車だったとは思わなかった >>34
区間快速ラッシュ時6両、鳳あたりで増結してたのかなあ。あまり記憶が定かでない。
ただ六十谷や山中渓なんかその76年頃まで4両対応のホームだったし。 和歌山寄りで六両を過剰とするのはあまりにも堅すぎる
空気輸送になってもいいじゃないか 電車じゃないが和泉府中の車庫や踏切待ちする南海バスは電車と同じ緑の濃淡だった
毛穴や父鬼といった奇妙な名の行先だった スレ違いになるけど、毛穴のバス停付近て当時何があった?工場だっけ?
昔の地図で調べると、長承寺付近から分岐して、今の泉北2号線のガードくぐったところにバス停があったみたい。しかも終点。 >>26
↑懐かし板なのに現実ガーだのと顔真っ赤で草
こっちが恥ずかしいわ(爆) >>41
↑中身でなくそういうトーンポリシングしか返せない段階で劣勢ですな。笑 >>42
まあそもそも「大阪と和歌山」の略が
阪和なる語だからねぇ
阪和電鉄がどうとか以前に一般語みたいなもの 阪和電気鉄道が設立される前に「阪和」という名詞があったかどうか、という史料がどこかにないかな? ないだろうね
対抗馬は阪和国道(今の旧26)になるだろうけど昭和戦前期開通としか分からんw
まあ阪和電鉄が先でしょう まあそうだな。
当時車なんてなかったし、南海や阪和電鉄ができて阪和間が楽に往来できるようになったから、そうでもならないと二都市間の略語が作られないわな。 80年(昭和55)夏休みに旧客「はやたま」で窓開けながら和歌山から天王寺乗車しました。
茶色車体にニス塗り木製内装の戦前型オハ35はもう無く、すべて近代化した青いオハ35やスハ43系、ナハ10系が中心だった。
旧客も当時、次第に過去の遺物になりつつあり、今のような歴史遺産な扱いは全くない状態(当然の話)。
ただそういう状況ながらも旅情を味わえるのは旧客と言う認識は変わらずありました・・ 昭和63年夏にバイトの関係で天王寺~杉本町に何度か乗車
非冷房時代の103系
杉本町改札は有人
駅の西口にはリゲインの宣伝キャラバン隊が試供品を配っていた
「24時間戦えますか」のロゴと時任三郎が大写しになった黄色のポスター
今から思えばすごい時代だな 杉本町といえば
大阪市立大学(イチダイ)も名前が変わってしもた >>50
バブルのころはそんなキャッチフレーズあったなあ。 >>51
府大とまさか合併するとは。
昔は府と市が合同すると「府市合わせ」→「不幸せ」になると言われたものだ ハートアンドアクションがキャッチフレーズだった事もあったな<JR西日本初期 三国ヶ丘駅の券売機、南海の横に申し訳程度にある国鉄のやつが寂しかった。 平成入ってから通学で阪和線乗ってたけど
三国ヶ丘は当時は快速は通過だったはず
堺市駅から先は地獄の超満員だったな
しかもラッシュ時は扇風機しかないような103系普通に走ってた
阪和線も環状線も
でも窓全開で走って誰も熱中症なんかにならなかったから
今より涼しかったのか昭和生まれの体力があったからなのか >>54
あのピンクのハートマークが当時から苦手だった
キャッチがただでさえ安っぽいのに
いかにもバブル的な軟弱さのデザインだったので 当時はほとんどの学校も冷房がなかったね。
103系の非冷房車を中心に側面の方向幕がないものがあって、そいつらは前面の方向幕に上段種別、下段運転区間を表示していた。区間快速も赤だった。 鳳駅の羽衣線ホームにあったグーテンバーガーの自販機
昭和の終わりには無くなってたはず 信太山がああいう場所だと子供の頃はつゆ知らず、快速に乗って通過していくだけの駅でした 今の小栗の郷はバーみたいに綺麗なところになっている「旅館」 久しぶりに天王寺駅行ったけど
昔の阪和線ホームってもうあんなに要らないんじゃね?
昔は1番線が特急専用で改札あったよね?
あと1番線の入口付近に屋台の立ち食いうどん屋あった記憶 1番2番とで特急と昭和60年3月以前は急行も含めて専用で発着してたな。ホーム内の中間改札は自由席の急行券とか売ってたっけか
うどん屋さんの隣に阪和ライナーの整理券販売所とかありましたな >>67
とうの昔に立ち食いではなくなってるし、
そもそも現行店舗の経営は当時と同じですらない
当時と同じ経営のうどん店は
数年前まで改札内の陸橋上で営業してたが
JRから閉め出され閉業させられた