昔の水間鉄道
>>3
杵屋グループ入りしてからも話題が多いので特に限定しない
水鉄の思い出を語り合うスレにしたい 1970~1980中盤までは旧南海1201で統一されていたが二段窓と一段窓が混在していて面白かった
二段窓の方が面積が広いため車内は明るく感じられた 昔の水鉄に詳しい人で知ってる方教えてください
車掌が乗務していた頃、車内で南海連絡→蛸地蔵を買った場合、
どんな切符(車内補充券)だったのですか?
水鉄線内完結の券は記念に当時買ってるので知ってますが
「連絡券は車掌に申し出てくれ」云々と駅の掲示にありました
なので、連絡割引になる区間(着駅が蛸地蔵など)だけ
車内でも取り扱ってたはずです
が、ヤフオクなどでその実券を見たことないんです。 >>5
それにしても赤とクリームの塗り分けはどこか東北の地方私鉄みたいでイマイチだったな
やっぱりグリーンの濃淡に限る 福岡県にも同じ読みの事業者があったんだな
あちらは「三瀦軌道」。
戦前に20年ほど営業したらしい >>4,6
「水鉄」っていつ頃から使われ始めたんだろね 長電の旧塗装もそうだな
赤とクリーム
たしかにローカルな感じ ずっと誤解されてるけどここは南海の子会社でもなくグループ企業でもない 水鉄バスは紺色系統で国鉄バスふうだった。それ程田舎でないところで小規模な鉄道が
小規模なバスもちまちまやっていたのが興味深かった
今でもあるがほとんどコミュニティーバスになった >>5
朝のラッシュアワーにはその元南海車が3連で客を満載して走っていた
今は元東急車2連だから昔の方が客の集中ぶりは際立っていた いまの寂れようから思えば3両編成で満員なんて想像できないな 沿線人口はそんなに変わってないはずだが…
マイカーやバイクに逸走したのか >>5
モハ500の行先表示板は円形と長方形の2種類があったが
使い分けのルールがあったのかなかったのか遂に分からないまま廃車になってしまった 手書きだから一枚一枚字体が違っていて不揃いなところに味があったな 赤とクリームの前は茶色の一色塗りで阪急によく似ていた
それもそのはず、請け負ったのが阪急直系の関西交通工業という会社だそうだ 昔は国電も阪神も他にもチョコレート色は多数
阪急だけではなかった 東急から7000系を譲受したときに正面の赤い帯は赤字のイメージで縁起が悪いので青い帯に変えた >>5
窓のほかにも、両運・片運、スカートの有無、正面水切りのカーブの有無などなどいろいろな部分に違いがあって、
車種統一されたといいながら実は却ってバラエティに富んだ陣容になったことが嬉しくもあった 末期は赤&クリームから
クリーム地に赤・青の帯に変わっていくらかは垢抜けた だから南海のままで良かったんだよ
塗り替え不要で安上がりだろ 昭和47年に廃止になった海塚駅は当初は貝塚南駅で、
旅客については9年ほどの間、始発駅だったらしい。
南海貝塚駅から徒歩連絡だったのだろうか。あるいは無認可で乗り入れてたのか。
場所も狭いけど始発駅だから、駅舎などはあったのか。
駅を移転したという話もあるね。昭和初期の話だけど、詳細がわからない。 昭和末期にはもうラッピング広告車が走ってた
当時関西で全身広告やっていたといえば阪堺電軌ぐらいのもの
少しでも売り上げの足しにしたいほど経営が苦しかったんだろうな 市街地・繁華街のど真ん中を走る路面電車なら広告の効果も見込めるが
民家と田畑の混在地帯を走る水間線に広告主が媒体としての魅力を感じたのかね? >>31
大阪市営地下鉄
経営が苦しかったのかどうかは知らん >>26
車内はデコラ仕上げになっていて外目はまちまちでも中は統一されていた
水鉄のポリシー?かも 石才駅の駅舎が実質屋根付き無料駐輪場になってたのがいつの間にか撤去されてしまった 1200末期に、更新して妙な感じになったのいたよね >>36
昔はどんな小駅でも駅員がいて駅舎があったんだな 石才といえば石才飯店
石才飯店といえばサツマイモの飴煮 平成に変わる頃まで南海本線も阪和線も雨除け屋根のないホームが多かったが水間線は早くから整備されていた 清児は地元民以外は読めん
元々は清稚児で、これならまあなんとか読める 清児駅の近所にあった犬鳴方面への線路用地
現在は用地は売却されて家が建っている 塗色は赤&クリームだったが当初は深紅でのちに明るめの赤になった。
あと水間の車庫に湘南顔の250形がダルマ状態で放置されてたがいつまであったんだろう。
新造10数年で合理化ゆえ廃車の憂き目に遭った 自社発注の250、淡路交通からの移籍車、南海からの移籍車、
いずれも十数年まででお払い箱にしてる
鷹揚かと思いきや東急からの弁当箱は後生大事に30年以上使用中 だからその30年間にエラい事になって鷹揚でいられなくなったんだよ 普通は破綻する前に廃線も含めた事業の見直しで縮小均衡を図るもの。
鉄道は失ったが会社は存続して他分野で営業を続けるケースなんか全国に多々あるし、
水間は何が違ったんだろ? 水鉄がケチ臭くて買換しないとかの話ではなくて、ステンレスは本当に持ちが良いことの証明じゃないか まだワンマン化する前、
名越から貝塚行に乗ったとき俺以外に5~6人同時に乗車して
各々バラバラの位置に座ったが車掌は一人一人回って全員から漏らさず運賃を回収し
次の駅到着までに間に合わせた
車内には名越以遠から乗っている客も座ってるわけで
払済の客と未払の客を瞬時に見分ける技でもあるのかと
感心したことを覚えている >>52
貝塚で降りる客にはその場で払わせず「貝塚で精算してください」でなかったか 合理化が鉄道より先に進んでいた路線バスでも南海バスや近鉄バスには2000年を過ぎてもツーメン路線が残ってた
合理化の進み具合は社風や地域性も関係するかも そして今は乗務員不足でバス路線が廃止される時代になったと… 5、6人ならまだなんとかできるが10人にもなると無賃乗車の摘発は難しいな
設備投資してでも全駅に自動改札機を置く方が実は効果的 乗車時ではなく降車時に確実に徴収すればいいだけじゃないの
後払い方式の路線バスと同じ 無人駅に着いたら車掌は車外に出て駅出口側に立ち塞がり、
下車客全員から乗車券か現金を受け取るまで発車しない。
駅出口は必ず一カ所だけに集約される構造になっている。
車掌は最短距離で駅出口に行けるように到着前にあらかじめ移動している。
たまに性格の悪い下車客がわざとゆっくり歩いてなかなか車掌に乗車券を渡さないため、
出発が遅くなることもある。
思い付くままに書いてみた。 ローカル路線こそキャッシュレス化を断行すべきだな
ただでさえ人手が足りないのに人手がかかるようになってしまっている 貝塚には自動改札機があったよ
南海のお下がりらしい 昇圧時に野鉄へ売った五両は、製造後五十年以上の老朽車両だ。
結局は重量過多でスクラップになった。
買うほうもだけど、売るほうもおかしく思わなかったのかな。 >>65
今は撤去されてICリーダーが置かれてるだけ
切符や定期の場合は駅員に提示するのでそこだけは昔に戻ってるw 旧紀泉鉄道の計画は水間の体力じゃ無理だったのかな。果たして開通させたところで大阪南部と紀北のような人口じゃ
どれだけ集客が見込めたか分らんけど。 >>68
昔は期限切れ定期や料金不足キップで改札を突破しようとする不埒な客を阻止してきたが今はどうなってるんだろうな 250が廃車後他社に売られなかったのは何か理由があったの?
まだ若かったし、車体寸法と性能は当時の地方私鉄のニーズに合ってたと思うけど >>68
ICカードは南海への乗継割引が利かないのが残念
水鉄から岸和田へ行く客は結構多いのにな 250形は見た目が昭和30年代の日車標準車体と似ている
松電・岳南・京福・新潟にレディメイド的に納入したタイプ
でもこちらは全くのオーダーメイドでナニワ工機製
2両目は収容力を高くするために少し車体を長くしている >>72
調べても分からず
1両だけ水間車庫にダルマさんにされて物置代わりにされていたことは有名
乗務員扉の脇に灯り取りの蛍光灯の基盤が外付けされていた
…物置にしては高くついた >>75
引きがなかったとしか考えられない
中古の出物は国鉄か大手私鉄から供給されるので
地方私鉄の中古はスルーされる 静鉄→福井鉄道・熊本電鉄・日立電鉄
長電→豊鉄・伊予鉄
北鉄→豊鉄・大井川鉄道
などなど、地方私鉄から地方私鉄への車両の移籍は
たくさんある >>78
北陸鉄道から豊橋鉄道?
そんなんあったか? >>80
金沢市内線2300
北陸鉄道は他にも福井鉄道に軌道線車両、関東鉄道にディーゼルカーを出していて
1960~1970年代の中古車供給元の主力でもあった 客にしてみれば全金車体の250形から半鋼車体の500形は明らかにグレードダウンで、
苦情が出なかったのかな 1990年に乗車した南海貴志川線1200はシートが青紫の新品に張り替えられていて美しかった
その少し前に乗った水間500はシートが所々ヤワになっていて残念な様子だった
おそらく東急7000に入れ替えることが決まってたから
そのままにしていたものと思われる 南海は昭和48年の昇圧で1201形を昇圧の対象から外したが
状態の良いものだけは貴志川線用に残して
良くないものを水間と京福に売った
京福は移籍後たった10年あまりで廃車してしまっていることからも
いかに良くなかったかが分かる 南海は老朽化が進んだからお払い箱にしただけで別に悪くない
中古車の売買はそれも了知したうえで成り立ってる >>36>>38
名越にも駅舎があったがこちらはかなり前に取り壊されてやはり駐輪場に。 水間観音の駅舎が立派すぎるから他の駅はなくてもいいよ >>90
もう何十年も変わってないな
歴史を感じさせる 子会社化しても社名を変えさせようとはしなかったのは素晴らしい 中古投入にしても今はどこもかしこもステンレスやアルミの無塗装車が多く、地域色というかコーポレイトカラーの
特徴的な車体がやっぱりいい。まあガキの頃よく見たあの500形(元南海1201)の赤とクリームの印象が強すぎんだけどねw
10数年かそこらだけど、あの色塗ってたの・・ >>95
ちょっと大げさかも知れんけど「水鉄」というワードは地元ではブランドなのよ
改名なんて地元から猛反発を食らって不乗運動されてたかも 御坊臨港鉄道が買収されて紀州鉄道へ改めたことに倣うと、
水間鉄道の改名は「泉州鉄道」がいいね たかだか貝塚市内にとどまってる小路線なのに旧国名を名乗るとは 水鉄とJRの交叉部に新駅はできないのかな。
南海に遠慮せんでもええような気がするけど、
単に金がかかるからなんやろか。 >>26
一段窓と二段窓では見映えがかなり異なるのだが無頓着に組ませていた >>66
野上の件
日方に水間カラーのままでライトだけ外されて放置プレイ
白基調なので嫌でも目立ってJRからでもよく見えた
>>102
編成美ってやつか
たった2連ごときで文句言われる筋合いはないね 水間観音への参詣路線だから水間鉄道以外に相応しい社名はあるまい 勿体ないと言われている250は所謂車体更新車で機器がぼろい
淡路から来た比較的近代的なのもそうだった >>103
末期の野鉄を語るときには欠かせないエピソードだが、
初出は鉄道ファンの短信だったように思う
当時にネットがあれば間違いなく炎上案件になってたことだろう 昭和59年夏水間駅で1枚窓車が客用窓全部をフルオープンにしてるところを目にして衝撃だった
本当にフルオープン 車体が大き過ぎて入線できない、
車体が重過ぎて入線できない、等のしくじりは
他社にもあったと思うけどな。
決算は特別損失で処理して、関係役員が譴責を受ける、で終わり。 まあ全開というけど4分の1ぐらいは引き残りができるようにはなってる
あと鎧戸風の日除けも付いていて夏の午後の西日を遮ることができた
モハ500形全車に付いていたかどうかは覚えていない
付いていなかった車両もあったかもしれない 鎧戸の本家本元の阪急も今やカーテンに置き換えられて過去のものに よく下降窓は雨水の侵入で車体の腐食が進みやすいというがその辺はどうだったのか
っても南海の旧1000系や21000系なんて相当の車齢まで使用されて(今も一部現役だしな。 鎧戸は日除けにはなるが逆に暗がりになってしまうのが弱点
でも車外転落防止の役割は果たせていた
今のカーテンは各社とも効率重視かコスト優先か知らないが
薄っぺらくて何とも頼りない限り >>112
阪急に乗って面食らうのがこれ
初めは使い方が分からへんかった ヨロイ式日除けってそも阪急独自なモノでもないわな
電車客車問わず鉄道院旅客車の落とし窓時代からある
下げシェード式よりトラディショナルな方式 先月阪堺の旧型に乗る事が出来たが、よろい戸の操作がわからない人が
ムリに下げようとしてぶっ壊すかと思った 上昇窓の日除けにヨロイ戸は見た事ない
巻き上げ式カーテンが相場か 南海1201は旧型車の部類だがよくよく眺めるとスタイルは均整が取れていて
デカ過ぎる2001や貧相過ぎる簡易鋼体化車に比べるまでもない名車であることに気付かされる
よくぞ水間に来てくれた
福井でも歓待されたのではなかろうか 古く傷んでいたので比較的短命で終わった
すぐに阪神ジェットカーに車体を丸ごと載せ替えられた >貧相過ぎる簡易鋼体化車
ワロタ
ほっといたれよw 堺・泉北ニュータウンでさえ想定を下回る人口しか集められなかったのに
さらに大阪都心から遠くなる泉南は初めから無理筋な話
大阪のニュータウンは千里ひとつで足りていたのだ >>58
いや、全区間均一運賃こそ究極の簡略化ぞ
運賃前払いだから収納率100パーセント!
全長5.5キロの水鉄はお誂え向きだ
ただ、他社線連絡ができなくなることだけデメリット 導入していないから、何か不都合があることぐらい理解しろ 既出だが、割高感があるから
均一料金250円ぐらいじゃない?