昔の三岐鉄道
自社発注のエース120と130一党が琴電に売られることになって機関車に牽かれてドナドナされる様子を見送った昭和57年夏
涙があふれて仕方なかった あちらとはレール幅が違うのによく買ってもらえたもんだ 名鉄3700系が好成績だったので同系の三岐にも手を伸ばした説 裾のオレンジを除いて真っ黄色としたのは西武の影響かな
1980年代以降ずっと西武から調達してきた アレは事故防止が理由ではなかったか?
当時も今も、4種踏切がゴロゴロ 8のとおりだよ。だから、復刻電車の運行は4種だらけなんだから
視認性、安全上問題がある たしかに復刻カラーは景色に溶け込んで気付き難い
これ、名鉄がライトパープル一色塗りをすぐに止めたのは空の色と保護色になって事故が発生したから、と言うのと似てるね
名鉄では1970年代、郊外区間で四種が残っていた 三岐から別府へ譲渡されたキハ2、3、ハフ5,7は、
別々の場所で、今でも大切に保存されている。
両社に繋がりがあったのかな。 >>7
西武20m車に統一されるまでは小田急やら相鉄やら、来歴がバラエティに富んで趣味的にも楽しい路線だった 編成もバラエティで、カルダン車モハ120にはれっきとした相棒クハ210がいるのになぜか旧形車と組んで走ることが多かった
理由は2ドアが嫌われたかららしいが、どうだろうか ココは暁の通学輸送がメインだから、詰め込みが効いて器が大きいほうがよいわな この前、貨物を撮りに行ったら電鐘式の踏切が現役だったので驚いた。 >>18
やる気になればできるよ、駆動方式は関係ない
制御系と制動系に互換性あれば一応総括制御可能
西武や京王や銀座線でも吊り掛けとカルダンやWNの併結はあった
琴電ではHL制御の吊り掛け車と併結してたし
極端な話、栃尾モハ209は1両で吊り掛けとカルダンを併用する珍車
同じ台車の2つ輪軸(車端側と中央側)で方式が異なる
機関車代用だけに、見た目も電機と電車を掛け合わせたような魔改造車 国鉄富田乗り換えでは不便極まりないのでなんとか近鉄富田まで繋げてほしいと陳情したら本当に路線を新設して乗り入れてくれたと当時は大層な評判になったらしい 約15年間は併存
1970.6.25. 近鉄連絡線(近鉄富田〜三岐朝明)開通
1985.3.14. 三岐線富田〜三岐朝明の旅客営業休止、富田駅西口廃止
近鉄連絡線の建設に関して、国鉄富田駅前の商店街は反対していた
その妥協案として、近鉄連絡線開通後も国鉄富田発着を一部残された
その経緯があって、梯子をいきなり外すことは難しかったってこと あとは関西本線にあるが三岐鉄道の直通しか止まらない午起駅があったので。 まあ、三岐鉄道といえば「富田」だわな
関西本線では、近鉄に比べて名古屋に行くのに不便ということで
三岐鉄道は近鉄に行かせることにしたな
国鉄、近鉄、三岐鉄道が交差してんなら、大改造でそこを一極集中駅化に
すりゃいいのにな?
関西は、ごちゃごちゃした路線の入り混みと中途半端な路線の
あり方が多いわな
まあ、でも富田の所はそういう改善をやってくれて、まだいいわな?
これが大阪で国鉄と阪急だったら、絶対にそんなことやってくれないもんな 都市規模がちがうのに
大阪と股割レを同列比較するのは変 >>27
ばかやろう
「天は地の上に地を作らず、天は地の下に地を作らず」
アフリカだろうが、日本だろうが、アラスカだろうが同じだ
大阪だろうが三重だろうがな?
これが、高島廚の格言だ
>>27のような単細胞な次元の理解力が日本人の大半だから、
日本は過疎化問題が深刻、東京神奈川あたりの世界で断トツの人口密度の単細胞な
住み方になってるわけだ
富田だったら、やろうと思えば
「国鉄、近鉄、三岐鉄道を一つの駅にした、町づくりのやり直し」
最初からやろう思えば、できなくもなかったろ?
関西は、新大阪に行くのも阪急の南方や崇禅寺から歩くとか、俺に言わせれば
「ありえねえだろ」
ってかんじだが、おおかたの阪急民、日本人は
「歩けばいいだけやねん」
みたいな、あー言えばこー言うの頭のレベルが多いわけだ
だから、鉄道や駅を建設にるにしても、最初から先をよく考えないで作ってしまう・・・
鉄道会社別の事情による、ナンセンスな街の鉄道のあり方・・・
そんなことは、都市とか地方とか関係ねえから
むしろ
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
なんて言ってた昔の有名人もいるが、どう見てもまともな良質な人間と悪質クズ人間では
違うのが、現実の世の中だろ? >>16
それだけではない、小田急から譲り受けた2100系も同じモハ120にしてしまった
ボディは似ても似つかぬ3扉、性能も違った
もちろんカルダン車と組むことはなかったな 小田急2100系は車体が綺麗でさすが元大手出身と思わせたがあまり動いてるところを見たことなく影が薄かった 影が薄いのは小田急時代とて同じ
しかも小田急でも三岐でも短命
幸薄い車両 試作品だから活躍の場は限られ短命に終わったのも仕方ない 北勢線を引き受けたのは何か成算があっての事でしょうか 近鉄が作った食パン顔の電車に三岐イエローが合うかと不安だったが
しっくりきて良かった アンタがしっくりきても俺はきてないぞ
270系は近鉄のマルーンしか合わん
欲を言うなら三交のクリーム&グリーンの2トーンが良かった 効きが悪いんだなこれがw
音は鳴ってるので作動してるのは分かるが・・ 公式ホームにも載せられているがPCマクラギ完了記念切符が発売されたときに富田へ買いに親に連れて行ってもらった
コンクリートなのにマクラギ(枕木)というのが子供心に不思議でなぁw 西武から初めて501系3連を2本買い入れたものの中間サハがすぐに廃車されてしまい再度西武から買い直したときにはいろいろと憶測したものだ 1980年代後半に一気に西武勢に塗り替えられた感じ
だけどモハ120は手許に残して欲しかった >>49
その頃は西武が中小私鉄に活発にセールス掛けてたんだろ
直系の伊豆箱 近江が買い集めるのは分かるが
上信 流鉄 一畑にまで売り込んでたもんな 入れ替え時期がもう少し遅かったらオール京王になってたかも知れない
西武に負けじと5000系や3000系をせっせと地方に送り込んでいた >>44
行政が地方私鉄の施設近代化に補助金を出し始めた時代だな
群馬県が有名 コンサル会社の全面広告車が記憶に残る
同じ広告車は近鉄にもあったのでかなり手広く宣伝していたことになる コンサルタント企業と電車って縁遠いけど(偏見w)
経営者が鉄ちゃんなのかな 近鉄富田駅で乗り換える時に近鉄は普通車も次々やって来るのに三岐はなかなか来ず
大手と中小の格差を感じた 長年、1時間毎だったな
一時期30分毎になったが、近年は減便傾向
約1時間空く時間帯も >>35
移管の報道発表があった時は驚いたよ。
近鉄が匙を投げたわけで、もはや拾う神などいないと思っていただけに。
それからというもの休日には利用して少しでも売上の足しになるよう心掛けた。 ある日保々で見なれない全身深緑の機関車が停まってるのに気付いた
雑誌で調べて南海から来た凸型機関車と分かった
その後三岐の標準いろに塗り替えられてしまったが
機関車らしくないスマートな躯体を一目見てファンになった >>33
影の薄さでは旧小田急デハ1605のモハ140も負けてない
ほとんど動いてなかった 転入時から予備車ではなかったろ
ロートル化していくなかで追いやられただけで >>69
三岐では日陰者だったが
近江に移籍後は面目を一新して同社初の冷房車に。
最後の最後で陰から陽になれた幸せな車両と思う >>68
岳南に行くかもとか言われてたやつ
もしそうなってたら身を持て余してただろう
三岐で良かったよ 三岐電車が発着しなくなってからも富田には駅名標がしばらくそのままで放置されていたね
プラットホームも荒れるに任せて侘びしさを感じさせた