かつては定番だった行先
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千代田線 代々木上原
小田急直通の本厚木行きも1時間に1本あるかないかの時代
綾瀬発の小田急車両でも距離精算の都合で代々木上原行きが多かった 全滅したわけではないが西武池袋線吾野行き。ハイキング急行吾野行きが走ってたのはもう半世紀ちょっと前。
東武伊勢崎線杉戸行きも、日光線の分岐点だというのに駅が廃止されちまったもんだから最近見ないなあ・・? 平行き、湊町行き、西鹿児島行き、それに山口線の小郡行き、み〜んな無くなっちまったあ! >>19
先頭の行き先表示幕に「普通」と出してる列車もかなり減ったな
高崎地区と長野地区の211くらいか残ってるのは >>20
高崎の115は晩年は前面幕が埋められてたね
北陸の475も >>20
ちょうど昨日大宮駅の湘南新宿ライン北行ホームで「普通」としか書いてない高崎線E231系を見た 「普通」すら表示しない白幕はもっと手抜き
それどこれか晩年の153系のように幕すら入っていないのはもっともっと手抜き 国鉄時代、京阪神緩行線の103系の非冷房車は先頭車の方向幕が「普通」で固定されていて、
京都行か西明石行きかわかりにくかった。
当時は国鉄の労使関係の対立もあって、方向幕の行先を変換するのは明石電車区や高槻電車区の職員で、
乗務員の仕事ではなかったとか。 特急はやぶさ 西鹿児島
特急富士 西鹿児島(日豊線経由) 急行 桜島 西鹿児島
急行 高千穂 西鹿児島(日豊線経由) 最近知ったんだけど
東京方面から新前橋行ってほとんどなくなったのね >>15
マジレスすると杉戸は東武動物公園に改称
それで北春日部止まりが全て動物まで延長 >>33
東急百貨店日本橋店という副題も付けられず数年間はライバル店の宣伝
中目黒では東武動物公園とまた無料で宣伝される
踏んだり蹴ったりだよな >>38
東武動物公園行きは田園都市線→半蔵門線→東武伊勢崎線系統にも存在したな(ってか今でもある?) よく地方自治体が改称したがる、
それによって良い駅名が安易に消えたりしてるが
駅名改称時に杉戸町は何ら苦言しなかったのかな。
オレ他地方民だから、てっきり杉戸は
都市名が消えたついでに改称されたと推定してたら
杉戸町、現役で在るじゃん。
単に町が、動物園の存在に乗っかったからか? 京阪神緩行線の80年代は京都-甲子園口と吹田-西明石の系統が交互運行してたな
その後、京都-神戸と高槻-西明石に 福知山線の電化区間延長で一旦はほぼ消失した「宝塚」行きだが、東西線開通や、その後の宝塚以遠減便策に伴いまた主流派の行き先となった >>40 駅の所在は杉戸町でなく宮代町ということもありそう
改称と同時に日比直が北春日部から延長されたから、それで懐柔されたのかな 湘南電車の東京行き
昔は当たり前だったのに最近減った >>40
伊勢崎線の和戸はどうかわからないが、日光線の杉戸高野台がちょうど杉戸町にあたる。
っていうか分譲したの東武で、出来る前は次がいきなり幸手だったが。
ただいわゆる平成の大合併で、幸手共々杉戸も久喜市にされていたか、宮代町が春日部市か白岡市あたりに乗っ取られなかったのが不思議な位。
宮代町が春日部市とかにならなかったのは東武動物公園の威力か? >>51
朝ラッシュのみで曳舟は短命だったと思う
業平橋は地上ホームが出来てそこそこ使っていたね 「青森駅は雪の中」
いや、本当に雪の中だったのは野辺地駅 関東鉄道常総線
水海道行き
2本に1本は水海道止まりが長いこと続いていた
沿線人口の増加で守谷折り返し便が出来た
現在は水海道で南北が分断されているが
取手発は下館行き(水海道のりかえ)になっている >>58 大きな工場があるなど固定資産税収入が多く財政に余裕があれば、周辺市町村と合併してまで市になることを望まないから。それに隣接市町村との仲。宮代と杉戸は前から仲が良くないようで。それと東武動物公園の固定資産税収入があるからか。
江戸時代、天領が多かった所は各市町村の独立志向が強く合併が進まない傾向。埼玉県で小規模の市町村が多かったのは天領が多かったから。千葉県とは対照的。 急行 元住吉
通常は通過する駅が終点という列車の代表格だったのである意味定番だったよね? 東京
佐世保、長崎、西鹿児島(鹿児島中央)、宮崎、大分、熊本、浜田、大社、出雲
などから東京行きがあった。 >>66
日比谷線直通電車の行き先でもあったな
長いこと中目黒or日吉が定番だったが元住吉と菊名も追加された >>69
入庫絡みで存在したんでしょ。
高架化で元住吉ホームから入庫出来なくなったため武蔵小杉行きに変更された。 出町柳まで延長した後も長いこと、宇治線から直通してくる三条行きが定番列車として存在してたな 新宮−日根野
和歌山−新宮
快速 御坊
快速 紀伊田辺 >>77
このスレは「全滅ずみの行先」限定ではない
「現在もあるが定番ではなくなった」も含まれる 「永原行き」は、完全直流化前からそれほど定番ではなかったようにも思う
北陸本線からのDCや419系が近江今津まで直通してて、それに合わせて湖西線列車も近江今津行きが多く、近江今津が分界点になってる感じだった
特に、北陸本線側からの「永原行き」はほとんど存在しなかったのでは…? >>86
1980年12月号だと近江今津方面から
永原行10本
近江塩津行2本
敦賀行3本
になってるよ 東上線上福岡行き
夕方ラッシュには16分サイクルに1本設定されていた 川越線高麗川行き
多くの列車が八高線経由で八王子まで乗り入れるようになったので、路線の終点なのに行き先としては少数派に 同様に、京葉線の2期開業以降には、武蔵野線が南船橋や新木場のちに東京へ直通するようになったから、「西船橋行き」が極端に減ったな 京成線、東中山。かつて、都営の乗入れはここまでだった。何で、こんな中途半端な所が乗入れの最終地点なのか、形成船橋か京成津田沼にしないのか、不思議に思っていた。 >>96
乗り入れ距離の問題だよ。
相互乗り入れでは、お互いに他者(社)に車両が乗り入れる距離が
同じになるようにしなきゃならない。
当時のダイヤでは、都営車が東中山で折り返すことでこれを調整
していたと考えられる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています