にっしょく西日本を語ろう 2店目
スレチだが思い出のみちのく号記念弁当発売のときは思わず買ってしまった
包装の日本食堂謹製の文字が重みを感じさせた 業務多角化が持て囃された頃に、給食サービスを展開しようとして
総合病院や老健施設までは開拓できたがそこまで止まりだった
巨大市場と目された公立学校の給食は規制に囲まれた聖域であり
民間企業が参入できるようになるのはそれから十年以上も待たねばならなかった >>9
給食事業と外食産業は相容れないものと思うが? 給食事業は今後も需要は期待できるが
食材代と光熱水費の高騰で利益が出せない
あと、求人事情の悪化も足を引っ張る 食堂車衰退の流れは
既に1972年きたぐに火災事故から始まっていた
乗客のニーズよりも保安上の問題 ちょっと無理がある
衰退の決定打はコンビニの普及よ エキナカビジネスとか飲食店(特にチェーン店)も戦犯だな いやいやいやコンビニ弁当がいつ頃から世に出始めたのか分かってから書きなよw 北陸トンネル火災は電子レンジが原因だった
ならば調理器具に不具合があっても火災にならないような対策をとればよいわけで
それは難しくないと思うがどうだろうか 一時期サンドイッチにツナにペッパーをまぶしてたことがあってマヨネーズ和えが美味かったのだが辛いの苦手な人が多かったのかなくなってしまった
今ではサブウェイやその他専門店でも見られなくなって寂しい
世の中はピリ辛敬遠志向なんだろうか 子供の頃食堂車には行かせてもらえず車販の紙の箱に入ったサンドウイッチで辛抱させられた
上蓋には、旅のレストラン日本食堂、のロゴが付いていた >>39
マジレスすると、2極分化。
激辛大好きと、大甘大好き 街のカレー店や中華屋のメニュー見てると激辛市場はまだまだ拡大の余地ありみたいだよ にっしょく西日本といえばスーパー雷鳥にあった食堂車改造のサービスコーナーとか、白山のラウンジコンビニエンスとかもやってたな。
どっちも晩年はカウンターでの温かい飲食物の提供は行われなくなって、単なる車販基地になってしまったけど。 食堂車のテーブルに飾られる花は西日本と東日本で選ばれる種類が違っていた? 日本食堂→J・diner 上野営業所の学生時代長期バイトをしてました。
東海道新幹線の東京ー新大阪を担当してました。
車販、ビュッフェ、食堂車です。 花は知らんけどランチョンマットは端っこに「旅のレストラン 日本食堂」の刺繍があった テーブルクロスはいつも綺麗に整えられていて気持ちが良かった
汚れている所を見たことがない
どのタイミングで交換してるんだろ お茶を入れてもらうように頼むとき「おぶうちゃんちょうだい」といった客が忘れられない
方言か 京言葉じゃないの
お茶漬けのことをぶぶ漬けというよ 新幹線の食堂車には日本食堂の他にも有名ホテルの供食セクションも進出していたとは知らなかった
日食の独占じゃなかったんだね >>58
52です。帝国ホテルとビュッフェ東京と都ホテルさんもいました。 国鉄が食堂車運営を日食やホテルに委託していたのか、
それとも、
国鉄が日食やホテルに食堂車を場所貸しして営業させていたのか、
どちらなんだろ 座席指定取らず自由席にも座れなかったのでコーヒー一杯だけで食堂車で粘る客
東京新大阪間二時間半でコーヒー一杯はNGか >>58
市販の時刻表に4社載ってた
今月のおすすめメニューみたいなのも
4社体制は東海道山陽だけで、東北や上越は日本食堂しかなかったのはおそらく採算性から二の足を踏まれた為と思われる 東海道・山陽でも採算が合ってたか疑問
コンビニが普及する前から駅売店、車販などライバルは多かった
早く撤退したいけど国鉄から引き留められてやむにやまれず営業してた? >>59
レスどうも
列車での供食のオペレーションはホテル本体でのそれとは全く勝手が違うので
本体から供食に移籍した人はなかなか慣れずに苦労したそう
またひとたびダイヤが乱れたら客の動きも変化して予期せぬメニューが出続けて売切れになったり
さらにはスタッフは休憩の時間が削られて東阪間往復させられて連続5時間の大車輪ということもあった
ときいた