【国鉄最後の10年】1977年から1987年までの鉄道
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「あずさ2号」大ヒットの1977年からJR発足までの1987年春までの10年を語ろう
国鉄民営化だけではない
京阪電車が京都三条〜七条辺りの地上を走っていた最後の10年でもあった その10年は首都圏では通勤電車冷房化の10年だったように記憶している 確かに201系や203系、205系は最初から冷房車だった 西武だったら赤電解消の10年か。改造されて赤電で無くなった701や401もあるが。 あずさ2号
いい日旅立ち
ホームタウン急行
サヨナラ模様&青春18
オクセンマン
国鉄終焉に向かっているんだけど、それを惜しむようにいい歌も生まれてたね。 >>7
それは落ちてしまった前のスレで、俺が書き込んだものだ。
勝手な転載はけしからんな。 昭和56年~59年にかけて、国鉄はたるんでいた。
総武線や中央線などでは運転士が無帽・ノータイなどの乱れた服装で101系や
103系を運転していた。
名古屋駅と西明石駅で発生した寝台特急の事故は、機関士の飲酒運転が原因だった。
昭和60年3月ダイヤ改正と同時に国鉄は良くなり、それまでのタルミ国鉄のイメージは
なくなった。 高校卒業後、しばらく国鉄でアルバイトをしていた中山竹通は
「オレのほうがずっと真面目に仕事をしていた」と、当時の国鉄職員を
批判していた。
のちにマラソンで世界的な選手にのし上がる。 阪和線の電車は昭和52年4月15日から、103系と113系の2形式にまとめられたが、
103系は京浜東北線や横浜線などからの転属車ばかりで、阪和線用の新製103系は、
昭和55年に阪和線に投入された先頭車が高運非ATCのクハ103が先頭の6連3本だけだった。 いい日旅立ち 1978年 昭和53年
くぅぅ泣ける時代だわ 寝台特急「出雲3・2号」「紀伊」を牽引していたEF58型は、
昭和55年10月改正でEF65-1000番台に置き換えられ、
この列車も東京発着の他の寝台特急と同等に見劣りはしなくなった。
ただし、機関車にヘッドマークの取り付けはなく、機関車へのヘッドマークの
取り付けは、「紀伊」が廃止されて「出雲3・2号」の単独運転となってから
だった 民営化反対とかで中核派はじめ極左勢力が下痢れてきは快活道を活発にしていた時代。 >>14
昭和59年2月に紀伊が廃止されて1年間、本家の出雲1・4号がヘッドマークなしだったな。 >>14
また同時期にさくら・みずほのB寝台二段化完了し、初のB寝台個室・カルテット登場。
しかし4人で利用しないと割高なので、利用しづらかった。 東から紀州と紀伊、西からはやたま(南紀)ときのくにと、毎朝4本の夜行列車が着いてた頃の新宮駅は、さぞ賑やかだったでしょうね。 >>18
利用者が少なかったので、まばらだった。
でも早朝から、めはり寿司・さんま寿司などの駅弁販売はあった。 >>17
もともと4人家族向けに用意したのがカルテットだろ >>20
4人が都合よく集まるシュミレーションはなかなかないだろう。
3人家族や5人家族もあるし、カップル利用でも割高!
4人家族でもうち誰かが都合が悪い事態も起こりうる。
麻雀の面子と同じ4人だが、いざ集めると意外と難しい。
中国の軟臥同様に、単独で相部屋利用もOKなら別だったが。 昭和59年2月改正で、長距離普通列車の運転区間縮小や廃止が行われ、
山陰本線の門司発福知山行き824列車は下関発出雲市行きとなり、
出雲市で出雲市発福知山行き548列車に接続するダイヤに改められた 広島シティ電車やするがシャトルなど
全国的に短編成短区間高頻度化がトレンドだった
18キッパーには乗り換え乗り換えの苦行と化すw >>22
山陰本線の長距離鈍行は、実態はそれでも変わらなかったけどなw
それでもまだ浜田発大阪行の長距離客車鈍行が残ってたし。
その後60年3月改正でも大幅に整理され、国鉄最後の昭和61年11月改正で旧客全廃。
しかし旧客は消えたもののキハ181による長距離快速が設定されて、18きっぱーには
ウマーになったがw 東急新玉川線(現 田園都市線)ができたのは昭和52年4月だった >>25
75年3月改正でも、線区によって急行は死に体だったけど、80年10月改正以降拍車がかかったな! 名古屋〜大阪(急行比叡)は残していただきたかった。今でも
大阪,京都⇔岐阜,尾張一宮
滋賀県⇔岐阜,一宮,名古屋
が移動しにくいので >>28
それは東京〜静岡の急行東海にも言えないか?
373系で特急に格上げされて、利用しずらくなったとも言えるが。 昭和61年11月改正で、東海道本線・山陽本線の草津~西明石間の複々線の国鉄本社の管理下だった
外側線が大鉄局に開放され、それまでは国電扱いで内側線を走行していた新快速が外側線を走行
できるようになり、205系7連4本が京阪神緩行線に投入された。 そう言えば特急しなのも大阪直通なくなって久しいよね 81年10月から東海ごてんば併結急行が16連になったのは驚いた 鈍行夜行山陰は良かった
京都ー米子まで乗った思い出
米子から境港まで行ってそこから隠岐へ行ったな ドリーム号に最後に乗ったのは1987年。2回乗った。あとのほうは民営化後。
懐かしい昭和の思い出。 >>21
相部屋は防犯上問題があるからな
特に男女だと 上越線 高崎〜長岡間界隈
新前橋〜水上間 非冷房115系0番台(高シマ)
水上〜長岡間 新鋭115系1000番台(新ナカ)
※冷房準備車が大半だが一部は早くから冷房化された
群馬ローカルの115系がいかに冷遇されたか
今も高崎線の中古211系に甘んじているが
新性能化直後も高崎線に新鋭冷房車(1000番台)が投入
同線をお役御免された0番台が転用された >>25 >>27
キハ28は非冷房車を中心に
1975年3月改正を機に普通列車へ転用されたな
1980年10月改正でキハ58も非冷房車から
普通列車へ本格的に転用されたな >>37
プライバシーとかにうるさそうなイメージがある海外は
逆に同個室内への男女乗り合いが許容なんだよな そもそも田中角栄が悪い
無理な新幹線建設で国鉄の赤字幅を拡大させてローカル局を次々に廃止した >>44
問題がどうとか以前にあっちのコンパートメントってのはそういうもの
シャーロックホームズとかポワロとかのドラマや映画で見たことない? >>45
赤字拡大は国鉄の生産性を大幅に低下させ、スト乱発で信用を粉砕した労組が主因 1977年といったら、東京国電区間では
青梅線・南武線・横浜線・鶴見線にまだ73系がはたらいてたな・・
今は鉄博にいるクモハ40も営業運転してた
首都圏旧国のさいごの一年、ってかんじだったのかな >>43
今はどうかわからないけど、ユースホステルに泊まったらドミトリーは男女同室でビックリした。 たしか、国鉄の電車特急のヘッドマークが、文字だけから絵+文字になったのって
78年ダイヤ改正からだったっけ・・・?
てことは絵のヘッドマークって、国鉄的には10年しかなかったってことか ブルートレインは78年以降も東京発着列車以外はヘッドマークは文字だけ DC特急の絵入りはもっと後でした
北海道では、82年、84年では文字だけ、85年と86年は絵入り
特急北海の絵入りは2年程度?
山陰では、まつかぜは83年では文字だけ、85年と86年では絵入り
昔撮った画像を改めてみて、DC特急の絵入りが遅かったことに改めて気が付きました 国鉄って台風接近とか大雪予測とかですぐ列車を止めるよな、昔から >>54
そうかな?俺が高校生のとき使ってた八高線(キハ35時代)は
青梅線や中央線が止まるような嵐でもあまりとまらなかった印象だな
多摩川が増水してゴウゴウいってるときでも平気で鉄橋を爆走してたがな
クラスメートの間で「悪天候に強い八高線」っていわれてた 最近は、大事をとって早めに止める傾向
時代でしょう 前半〜いい日旅立ち、53年10月改正、復活SLやまぐち号、ブルトレブーム、全線20000キロ踏破、
種村直樹の本、大都市特例運賃導入
後半〜東北&上越新幹線開業、改造サロンカー、車内暴力、広島シティ電車、カー&モトトレイン 実はこの時代のほうが海外からの鉄道受注は多かった、とのこと。
今の日本は、海外からの鉄道受注という観点で見れば、鉄道衰退国。 いかにも胡散臭い話だな
今はAZUMAに代表されるように現地生産に切り替えたんで当時と単純に比べるのは無意味
衰退国言いたいだけだろ 何だかんだで車輌の近代化を達成した10年だったな。
1977年といったら東海道線や中央西線、山陽本線といった大幹線ですら
モハ80、70などの旧国が健在で、
首都圏や関西圏の4扉の通勤電車でもツリカケが残っていたくらい。
交流区間や非電化区間の幹線の普通は相変わらず旧客メイン。
53-10で旧国を大削減して、多くの直流幹線でやっと新性能化を達成、
地方の旧客も60-3でほぼ淘汰したかな。 旧客は国鉄と共に概ね消えたかな
民営化後に一般の列車で残った旧客ある? もう赤字国鉄最末期だったが、自分としてはあの辺の10年は小中からハタチころの青春時代♪
鉄道以外にもベストテンのアイドルやニューミュージック、洋楽、バイク、ギター・・
色々思い出がある。。 私(S47生)が小さい頃、東急東横線在住で母方の実家名古屋まで帰省するのは
とても大変だったとよく聞かされた。
ルートは不明ですが大荷物を持って東急、国鉄を乗り継ぎ新横浜へ。
そこから更に名古屋まで超満員の「こだま」で延々と立ち続けていたらしい。
当時「ひかり」は新横浜無停車でしたので。
明日から東急東横線沿線は新横浜まで乗り換えなし、新横浜からも「のぞみ」で
名古屋まで無停車って母に言ったらビックリしていた。 79年の秋、友人が通っていた多摩地区の某都立高校の文化祭で鉄道部の展示見たら、如何に国電が時代遅れの車両走らせていて運賃高いか、中央線と京王線と比較して説明していた。201系試作車が走り始めた頃だが、これでようやく私鉄並みになると感じた。 今では想像付かないけどこの当時のこだまって超満員だったんだな >>67
そうです、そしてシートは灰色&青色の転換シート。
アームレスト先端に小さな灰皿がありました。
子どもの時、よく指を挟んでしまい痛かった記憶が・・・(><) 国鉄私鉄競合というと京阪神地区。
76年の大幅値上げで国鉄離れは加速していた。
京阪間は阪急も京阪も70年代後半まで確か220円だったが国鉄幾らだっただろう。
400円近くか。とにかく高いのでめったに乗らなかった。特定運賃もまだ制定なかったような。
153系ブルーライナーから117系シティライナーに置き換え(80年1月)たが
あまり利用しなかったなw 大幅値上げでも追い付かず毎年値上げしてたような。。 戦後の歴史を振り返って変化が最も小さかった10年が1977年〜1987年
一億総中流で雇用環境も安定して
企業の経営理念は社員=家族で福利厚生も充実していた
1987年以降は情報技術の飛躍的向上で社会情勢は激変した
生活面で便利さが増した一方
経済のグローバル化の進展での企業経営がより辛口になり
格差が拡大したのは周知の通り
2010年以降東日本大震災、新型コロナと相次ぐ大事件がこれらに拍車をかけた 解体すべきは国鉄ではなく労組ではなかったか?
不沈空母たる国家は鉄道も国有が理想、って誰かも言ってたような 労組だけ解体するなんて無理よ
国鉄解体した後でもしぶとく残っているくらいなんだから 必要以上の労組批判が労働者の立場を弱め経営側に追い風になって
日本からなかなかブラック企業がなくならない原因にもなってるのだが 新幹線は国鉄時代に開通した区間だけで十分だな
JR発足後は無駄に増え過ぎ 混色とか色違いの電車が多くて楽しかったな。
中央緩行線を週1で利用していた頃、オレンジの103系にあたるとテンションが上がった。
殆どが黄色で、しかもまだ一部に101系が残っていた時代。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています