【おおぞら】キハ80系を語るスレ 3D【かもめ】
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京都→長崎を走った80系「かもめ」は、3D時代が長かった。 >>331
同じ電源付きでもキサシ80は付随車、キハ82は1エンジン動力車だから走行上キハ82のほうが有利だよね >>331
36.10の改正のときの特急増発でキハ82を作って7両を基本にすることにしたときに
キサシだと走行エンジンが足りなくて遅くなるから
10両を基本にするならキサシでも良かったんだろうけど、7+7で方向別にして特急を
網羅したかったんだね
>>333
な。153の低運と高運の合の子でライト上にしただけの感じなんだけど、バランスが絶妙
横まで回り込んだパノラミックとか、運転席、視界よさそうだったもんな
でもパノラミック、歪んで嫌がる人もいて、0系やEF66、583なんかはそれで平面にしたらしいけど
キハ82や181はどうだったんだろう。一番曲率のあるパノラミックだと思うけど >>333
キハ181の先頭部が酷似したデザインだったのは、そういう事なんだろうな。
鉄道に興味ない人にとっては、恐らくキハ82と181は同じようなものだっただろうw >>335
>でもパノラミック、歪んで嫌がる人もいて
そういう面ではクハ481でも基本番台より後発の200番台が運転士には好まれたって話があったな
まー200番台は「運転室が狭い」「冬場は貫通路部分からの隙間風が寒くて叶わん」という問題点があったが・・・
けどキハ82は隙間風問題なかったのかな?
北海道各線や『白鳥』『はくたか』など寒さの厳しい路線では特に >パノラミックは歪む
20系極初期のように、昔の航空用ゴーグルのように4枚構成にすれば歪まずにパノラミックっぽくなるかと。 >>339
そのまま名鉄8000系、初代「たかやま」〜「北アルプス」号だな
名鉄の場合、コストダウンのため平面ガラスのみでパノラミックっぽく構成していた
パノラマカーやパノラマDXも
6500のモデルチェンジ者及びパノラマスーパーあたりから曲面ガラスを使うようになったんじゃないかな
(初代5000系と3400更新車を除く) >>337
まったくもって同意なのだが
ヲタ的には前照灯カバーのRの有無だけで完全に別モノなのよね(^_^ゞ
>>340
μ鉄はよい意味でドケチよね
量産時にパノラミックをやめた銘車0系もお仲間かな >>330 >>332
キハ81の一部廃車が始まった1977年に、名古屋くろしおの付属編成も白浜か新宮で折り返しになった。
それと同時にキハ81の名古屋乗り入れがなくなった。 >>342
キハ81の名古屋乗り入れは、くろしお電車化前まであったぞ!
ただ最後の2年はほぼ片方がキハ82だった。 キハ183-100もぱっと見キハ82ぽいけど、平面ガラスの組み合わせでパノラミックウインドウではなかった。 >>344
あれは最初、キハ183基本番台に合わせた塗装だったから、ブサイク極まりなかった
キハ82のような塗装になって、何とか見える物になった 曲面窓で景色が歪む問題はガラスの成型技術が未成熟だったためか?
厚さにばらつきがあると平面でも歪む
偏光サングラスをかけると良くわかるが1987年以前のフロントが部分強化ガラス(よく見るとガラスが波打ってて干渉縞が出来て油膜っぽく見える)の自動車では視界が見にくくなるので使用禁止 パノラミックウィンドウの大型曲面ガラスは当時としては画期的だったが製造が大変だったはず
151系や20系客車(登場当初は平面の組み合わせだった)位しか採用事例がなかった
153系や113系はコスト増大を嫌い平面+円筒面ガラスになった あーそうだったね還暦キハ82
クハ151とは対極の実用設計なのに
ちっとも古びない不朽のデザイン ライトの形が南海こうや号20000系に似てるが、当時の流行? >>351
確かに似てますね
キハ183-500がキハ82になりきれなかった素敵なライン >>28
もしキハ181に変わったとして所要時間はどのくらい早くなったのかな‥? >>358
キハ181系化された「まつかぜ」1・4号は大阪~米子間の所要時間が、
キハ80系時代より9分長くなったことから、早くなるより逆に遅くなっていた 山陰本線ではキハ181の本領は発揮できないね(´・ω・`)
ところでキハ82が好きな人ってゴハチなら大窓機よりも
100番台前半の米原機や宮原機とか好きそうソースは我 国鉄時代の山陰や四国ではキハ181は本気をあえて出してなかったからな。
新大阪−出雲市で運転されてた当時の特急おきでさえ、
山陽区間内の所要時間はキハ80とほとんど同じ所要時間で運転してたし、
やくもの米子−出雲市の所要時間もキハ80系の特急とほぼ同じダイヤ設定だった。 米子発京都行特急「あさしお2号」は、キハ80系時代は米子~倉吉間を49分で
走っていたが、キハ181系化後は47分、のち43分と所要時間が短くなり、
わずかだが、キハ181系の本領を発揮していたな >>358-362
上野〜秋田の「つばさ」は、80系からキハ181系に置換わってどうだった?
当初は福米間の補機廃止が目的だったけど、やがて運転上の支障で
キハ181系でも補機が付いた。
キハ181系は元々中央西線の特急新設が、80系では難しいため開発されたんだな。
電車化の際も381系が初めて投入されたので、国鉄時代は特殊な線区かもしれなかった。
また80系より馬力を強くしたにも関わらず、車両故障や欠車が多かった。
食堂車のキサシ181を欠車したケースも多かったので、中央西線や板谷峠の山岳地帯では
想定外の支障があったかな? >>342
スーパーカーブーム全盛期だな。77年は
名古屋駅で新幹線ホームからキハ81がチラッと見えた。修学旅行で京都に向かう途中 >>363
置き換え時に時刻の変更はなかったけどその後20分から40分短縮した模様 山陰本線って今は平地直線なら同行ですらガンガン飛ばすが
当時はあまりスピード出さなかったのか >>363
6両編成を4M2m(エンジン10基)で組んだ場合、キハ80系は車体が重いので
パワー/ウェイト・レシオでキハ58系やキハ55系よりも劣っていた。
ゆえに山岳線区ではDMH17系ではDC特急の設定は無理、と言われていた。 確か高速走行を重視してハイギアになっているんじゃなかった?山岳路線ではますます不向きに… キハ80系でも高山線のひだみたいに無理して山岳線区に入ったケースはあったけど、
その場合は停車駅を最小限にして山岳区間での速度低下による所要時分の伸びをカバーしてたからな。
キハ80系時代のはまかぜが播但線内ノンストップだったのも山岳区間での速度低下をカバーするという面もあったし。 南紀末期は2M2mだったり、ときには2M3mってこともあったが荷坂峠は大変だっただろうな… 四国に入ったのはニセコエクスプレスがイベントで四国に入った時くらいか
オリジナル車が四国に転属してたら土讃線でキハ58よりも遅くなって問題になってたはず
キハ185系とはシステム上併結可能だろうが >>375
それニセコでなく、トマムサホロでっせ
北海道への帰り道、東北本線を客を乗せて
走ったんやでぇ(機関車牽引だったが) >>372
走れなくなって、運転時分の見直しを行っていた
>>374
半世紀以上経っていないか? トマムサホロはキシも組み込んだところにコヒの心意気を感じたな
心意気で終わっちゃったけどね(´・ω・`) >>377
なるほど、石勝線経由に移行した時と間違っていそうだ。
でも狩勝旧線を通った人は、151系時代の「こだま」に乗った人ぐらい
今は珍しいのではw >>379
2年差があるが利用者数考えると珍しさという点では狩勝旧線を通った人の方が希少だろうな 希少と言えば特急北海号で函館〜網走間を一気に乗り通した客だろ 2年ってなに?
石勝はキハ183と同時期、狩勝旧線って鶴見事故の検証実験したところだよな?
15年くらい違いそうだけど >>381
それも今となっては希少かもしれないが、昭和50年くらいまでの指定券が取りづらい時代まではある程度いたかもしれない。
究極だとおおとりの函館〜網走や、おおぞらの函館〜釧路を乗り通した人も希少だろう。多くは札幌で入れ替わっていた。 狩勝旧線は昭和41年9月末をもって廃線。
80おおぞら、おおとりの登場はサンロクトオだから5年間あの山道を通ってたのね。
連続25パミールが10キロ以上も延々と続く過酷な山道 >>384
新幹線ができるまでは「おおとり」は東京〜名古屋(151系車両)の特別急行でした おおぞらも初めは旭川行、釧路へ顔を出すようになったのは1年後なんだよな >>383
親父の転勤で釧路から函館までおおぞら2号のキロに乗車したことがある。
釧路発車前に蛍の光が流れたことと、函館のカーブしたホームに降り立つと「カランカランカラン……」のアイドリング音……。今でも忘れられない。 >>386
スレチだが、全日空の727が東札を70分で飛んどるのに萌えたw
スピード競争時代だね >>388
おおぞらの最初の停車駅は
函館、虻田(現在の洞爺)、東室蘭、登別、苫小牧、札幌、滝川、旭川
現在も停車駅なのは札幌だけなんだね
翌年の釧路編成の停車駅入れても帯広、釧路が増えるだけ >>386
新幹線こだま号に自由席がついて、まだひかり号と共通編成だった頃だな
まだ「ていね」に食堂車マシ35がついている
日本国内航空と東亜航空は合併前、のちに東亜国内からJASに
貴重な資料を有難うございました
なおNH60便・・・・・・
>>390
だからエンジントラブルを疑いもせずに操縦ミスで簡単に片付けようとした連中
B727の導入にかかわり、そのくせ事故調査委員長になり、その後日テレの某コンテストの審査委員?までやった、
いま逮捕者が出て問題になっている大学の某教授(故人)、おまえらのことだ >>389
>「カランカランカラン……」のアイドリング音
我は富良野でフラノエクスプレスで聴いたのが忘れられませんな
もちろんキハ84よりキハ82の方が好きだけども 今は黄色い新幹線が走っているのを見かけたら幸運が訪れると言われているが、
オラは小さいころキハ82系特急が走っているのを見かけたら、
幸せな気分になりワクワクしたわ。 >>389
おおぞら2号は、78年10月改正前の上下も1号から号数が始まる時代?
もしそうならおおとりと雁行して、青森からはくつるに接続だったけど、上り偶数号時代なら滝川から13両になった方だけど。
>>396
富良野経由で3往復時代は、少なくとも1往復は富良野通過してたな。 >>398
389の内容はどちらの列車でも当てはまるんだからどちらでも構わんだろ
フラノエクスプレスの話をしている人におおぞらの1往復が富良野通過してたと指摘しても的はずれだし >>399
時間帯と編成が違うから、そうはいかないだろう。 >>400
時間帯と編成が違うから何?
>>389
> 釧路発車前に蛍の光が流れたことと、函館のカーブしたホームに降り立つと「カランカランカラン……」のアイドリング音
これどちらでも一緒だよね >>389です。
昭和48年3月に乗車しましたので、函館行きおおぞら2号と釧路行きおおぞら2号が存在していた全席座席指定の時代です。
あと記憶にあることは、…車掌が天井にある空調装置のボタンを操作しながら車内巡回。太平洋の荒波。
洗面所の揺れるカーテン。
滝川駅停車の時、ED76 500牽引の旧客がホームに停車していたこと。電化区間に入り、架線が見えて「都会にきたなぁ」と思ったこと。
札幌駅到着前に黒々とした光景…たぶん苗穂機関区の蒸気機関車群?
「札幌で進行方向が変わります。座席の向きを変えて下さい。座席下のペダルを踏むと向きを変えることができます。」の車掌アナウンス。
札幌発車後、また黒い光景が現れる。
夕食時間帯にキロで調製したカレーライスの車内販売を見かける。
函館に19:30頃到着。カーブしたホームに降り立つ。
車内灯に浮かぶシートモケット…キロはエンジ色 キハは青色に白のカバー。黒いキノコクーラー。
そして「カランカランカラン……」のアイドリング音…。
行き先表示の赤サボとおおぞらと特急のサボ…
今思い出したが、アルプスの牧場のオルゴールのあと「この列車は特別急行おおぞら2号函館ゆきです」のアナウンス。
当時、なぜ特急ではなく特別急行なのか疑問に思っていた。
…………当時、8歳の私の記憶です。
長文スマソ >>402
言わないと言えないは違うんでね
関係のない俺に言っても意味ないし
まあ御本人が403で回答してるけどさ
マウント取り爺さんなのかな?
>>403
貴重な経験をしましたねえ その頃から北海道の気動車特急の呼称は特別急行だったんだね
貴重な経験裏山死す >>403訂正
✕キロで調製したカレーライス
◯キシで調製したカレーライス
確か隣の車両が食堂車だった様な気がします。
でも、食堂車で食事すること無く手弁当で済ませた記憶があります。
まぁ5人家族ですからしょうがないですよね。 >>406
再度訂正
×キロで調製したカレーライス
◯キシで調製したカレーライス
打ち間違いスマソ
お詫びついでにもうひとつの記憶。
釧路駅1番ホームに停車中のおおぞら2号に乗車すると隣の2番ホームには一般色と急行色を併結した気動車の編成が見えた。
ホームのアナウンスに「札幌ゆき急行大雪」まで記憶あり。
子供心に「急行なのにどうして一般色の汽車を繋ぐのだろうか?」と疑問に思っていたが、函館で急行えさしや松前が一般型気動車で運転され乗車したことで疑問が解けた。 >>409
スレチだけどあきあじって久しぶりに見たな >>409
釧網本線にSL撮影しに行ったんだろうなあ >>409
白鳥が気動車なので、>>403の少し前の時刻表だね。 >>413
ちょうど間の時ですね(笑)
73年10月もそこそこ大きいダイヤ改正だったので。
72年3月の山陽新幹線岡山開業から、75年3月博多開業までの3年間は、電化の延伸も多くて激しいダイヤの変動でした。
そのためスレタイのキハ80系も、相当な変化がありましたね(笑) >>409
>>403です。
どうもありがとうございます。
釧路駅2番ホームの急行は大雪としれとこの併結列車だったことは後で知りました。
網走方2両一般型で後が急行型だったのは記憶あります。
急行大雪は札幌と網走間がメインですが、私の大雪のイメージは今でも釧路発の列車です。
もう少し?当時の記憶を辿ると……
おおぞらの車掌さんは、真っ白の制服を着用して片腕に赤い腕章。制帽と靴も白で本当に格好好くて威厳がありましたね。
車窓なのですが、電信柱(ハエタタキ)が常にあり途切れないこと。
東室蘭の停車中に親戚から差し入れを頂いたこと。
洞爺を過ぎると闇夜に包まれなからも奇怪な岩と海。
トンネル‐海と漁り火‐トンネルと続く…… >>403
描写が一つ一つ頷ける。懐かしい。
それにしてもあの頃の80形式の特急は本当に特別感があったね
別格だったよ。
今の283だ261だ、みたいなのは風格が無い。
80形式はDMH17のエンジン音すら威厳を感じたもんだ。 >>415
続き
昭和48年当時、礼文の辺りは単線で海岸近くに線路が敷設していました。
千歳線も旧線で東札幌を通っていたのですが記憶無しです。
電化や複線化または線形の改良等により今は様変わりしてしまいましたね。 かもめは山陽本線内、電車特急と遜色ない所要時間だった! >>420
「つばめ」「しおじ」より停車駅が少なかったけど、走りっぱなしとも言えなかった。
東海道・山陽本線の停車駅は、大阪・三ノ宮・姫路・岡山・尾道・広島・宮島口・小郡・
厚狭・下関だったか。
九州に直通する特急は、「みどり」「なは」「日向」でも山陽本線内の停車駅は
絞っていたような。 瀬野八はオーバーヒートしなかったのか?
板谷峠よりかはマシとはいえ22.6‰がダラダラ長く続いてたら変速段のみで走行する事になってエンジンや変速機への負荷が凄い事になる >>422
なは・日向も含めて、その話は耳にしなかった。
元々亜幹線走行が前提で険しい峠越えも想定され、はつかりの初期故障を踏まえて
ある程度クリアできる設計だったのでないか?
北陸トンネル開通前の杉津峠や、北海道の狩勝峠、石北峠も負けず劣らずだったし、
はつかりは東北本線の勾配回避の目的で常磐線経由してたけど、ひばりやつばさも
東北本線の走行には問題なかった。 キハ82のエンジンは、必要以上に回転数を上げなければオーバーヒートはしなかった。
また上げられない構造にもなっていた。
だから坂道では低速運行せざるを得なかった。
キハ181になり高回転域が使えるようになったため、ウテシが調子ぶっ扱いて回すものだから、
オーバーヒートすることが度々起きた....というのが、国鉄時代の話。 >>425
> ウテシが調子ぶっ扱いて回すものだから、
ダイヤ通り走ってただけなのに >>422
> エンジンや変速機への負荷が凄い事になる
エンジンに不要な負荷がかからないようするためにあるのが変速機なんだけど >>391 >>393
> 岩見沢・深川も通過してた?
岩見沢はDC特急は全て停車駅だったはず
深川は50-7改正時でも「おおとり」は通過だった >>417
> 千歳線も旧線で東札幌を通っていたのですが記憶無しです。
3D(旭川・釧路行き)に乗った時は北広島辺りから北は妙にのんびり走ってましたね。
単線で急カーブが多かったからかな?
西の里信号場の「にしのさと」と書かれた駅名板?が印象的でした。 >>428
> 岩見沢はDC特急は全て停車駅だったはず
すまん岩見沢書き漏らしてた
393さんすまんね >>428
深川におおとりが停車するようになったのは、53-10の改正から?
それまでは長万部も通過する特急が多かったので、おおぞら・おおとりは別格だった。 >>431
おおとりの深川停車は55-10改正から
おおぞらは42-3の北海運転開始で釧路行単独運転になるまでは深川通過だったが、
47-3に北斗を受け継ぎ増発(3D/4D)された際の旭川編成は深川停車だった
55-10以前、他に運転開始当初の北斗とさちかぜ格上げのいしかり1往復が深川通過
だったが、運転開始から長きにわたり深川通過のおおとりはやはり別格 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています