【おおぞら】キハ80系を語るスレ 3D【かもめ】
京都→長崎を走った80系「かもめ」は、3D時代が長かった。 平成4年の千歳線架線事故では
代行列車として苗穂に寝ていた5連が出動していた。
扉が少ないから車掌が自分の居る運転台の扉からも乗せていた。
もちろん俺は千歳まで往復してきた。 故障連発してからといって散々叩いたマスコミはどの社だ 朝日か読売?つか、マスゴミなら何処も叩くだろ。奴ら叩くだけが取り柄生き甲斐のクズ商売だから。 はつかりガッカリ、ですね。
鉄道なんでも入門で知りました。 まあ、故障して迷惑かかったのは事実のようだからなぁ
ミスにもならないようなささいなことをほじくり出して大げさに叩いたのならマスコミは批判されても当然と思う
というかそういうのが最近はやたら多いのだけれども マスゴミは嫌われ者だから。先の戦争も民衆を煽り立てて巻き込んだのもマスゴミ。冤罪事件もマスゴミ。坂本弁護士一家殺したのもマスゴミ。 晩年に名古屋でナイター列車として走ったことがあった。
当時地元住まいだったが親父が野球に全く関心がない人で(この世代には珍しい)、
乗りたいとせがんでも聞いてくれなかった。 せめてお父さんに鉄分が入ってたら価値を認めて連れて行ってくれてたかもな >>11
マスゴミって言葉を使う奴でまともなのを見たためしがないんだけど
今回もそれが証明されたようでなにより グリーン車をボックスにしていたな。
リクライニング全開にして乗ってたのは俺くらいなもんだった。
当日券は巨人戦だったから完売で入場できなかったなあ。 ナゴヤ球場へは名鉄利用がデフォルトじゃないの?
名鉄から客を奪えた? 山陰地区は早々に撤退しJR西日本が承継しなかったんだな
ひだ・南紀がキハ82の姥捨て山になってた?
ひだにキハ181投入しようとして現場が嫌がったとか ひだ・南紀の80系は、晩年になっても綺麗に車体が清掃されていた。普通だと屋根が煤煙で真っ黒になるところ、銀色に輝いていた。 北斗にも中央西線の181を入れるはずだったけど組合が嫌がって流れたとは昔のスレで聞いたな。
キサシも活用できたろうに。 本当かどうかは判じかねるけど、室蘭本線投入だったなら
キサシは勿論、屋根のラジエーターもうまく機能したろうな。 >>18
今の真っ黒なキハ85と違って国鉄時代は名鉄局の気動車は名ナコ、名ミオとも美しかったね ナゴヤ球場用だとグリーンはそのままおなじみの赤モケット >>16
東臨港線の臨駅「ナゴヤ球場正門前」はまさにその名に違わない至近距離。
JR沿線の人なら殆ど移行したんじゃないかな? >>17
早々でもないぞ。60.3改正まで博多まつかぜで奮闘してた。
その改正以降は北海道と名古屋発のみ。 >>27
博多まつかぜ、伯備線電化で余ったキハ181系で置き換えようとしたら
門鉄局に拒否されたとのこと。
結果、キサシ180は活用の場がなく全車廃車の憂き目に…。 >>27
>>28
博多まつかぜは車両数の関係からキハ80系のまま据え置かれた。
向日町運転所担当のキハ80系「あさしお」、倉吉「はまかぜ1・4」号のキハ181系化が
スムーズにいったのは、当時の国鉄の労使対立による関係が緩和されたこともあった くろしお、いなほのキハ81、運転室に冷房つけたのに夏場は窓開けている写真ばかり。
効かないのかな? >>31
運転室に排気管が立ち上がっているのも影響したのかな? 運転室用は付録みたいなものだった
限られた容量では客室優先 キハ82は、運転室寄りにあったユニットクーラーが運転室用か。 キハ80系の「あさしお」や「はまかぜ」は、キハ82のヘッドマークに黒いすすのような物が付着している
写真をよく見かけるが、山陰本線や播但線などの狭いトンネル内に籠もったキハ58系やDD51などの他車の
ディーゼルエンジンの排気やすすが、トンネル通過中のキハ80系の先頭車の前面にまで回り込んでヘッドマークが
汚れたのだろうか 1両編成なら1両目は自車の排気煙を被るだけで済むけれど13両編成の13両目は
13両分の排気煙を被るわけ、80系なら機関26基分の排気を浴びているんだから
汚れるのも自明の理 キハ82はほぼどこもそう
理由はヘッドマーク取り付け外周に沿って密着用の突起がないため、その隙間、特に下側は中央1箇所止めだから排気カスが入り込んで「裏側」が汚れる 博多「まつかぜ」1・4号のキハ80系が博多から新大阪に到着し、
向日町運転所に回送後、同運転所で給油、清掃、点検などののち、
翌朝、再び博多行「まつかぜ1号」として出区していたようだが、
走行距離調整や検査などの関係で編成中のキシ80が予備車と差し替えられるなど、
編成組み替えも行われていたようだ >>39
800キロ近くを1日中走り続けたから、そのくらいはあっただろう。
もっとも新幹線博多開業前の山陽本線485・583系よりマシだったけど。 >>39
そりゃあそうだろ
完全固定なんて有り得ないじゃん 国鉄時代、向日町運転所の気動車留置線には「まつかぜ」用のキハ80系の
予備車がキハ180やキハ58なとど混結されて留置されていたり、キシ80とキハ180が連結されて留置されていたりされていたな >>39
キハ80向日町全盛期の昭和47年あたりは、他に「白鳥」「かもめ」「なは・日向」も
存在したから、当然相互で編成組み換えはあっただろうな。
「白鳥」はグリーン車2両連ねた独特な編成だったけど、
1000キロ以上の区間を博多「まつかぜ」以上に過酷な地域を走っていた。
また「かもめ」「なは・日向」の食堂車付きの編成を前にもってくれば、
博多「まつかぜ」編成のできあがりだった。 まつかぜの松江以西ってどれほど乗っていたんだろうね >>44
キハ181系の特急「おき」が空席が目立っていたように、
「まつかぜ」も出雲市以西では「おき」と同じくらいの乗車率だったのではないか >>42
函館なんて客車もごちゃ混ぜにつないでたよ >>46
函館運転所のキハ80系の中間車キハ80は向きの異なる車両も存在していて、
検修などに不便だったり、ドアの位置が偏るなどの問題もあったな >>47
方転したキハ80のおかげで編成を組んだ時にドアの位置が一定になったんだけどな。
基本編成の南側に増結する場合、増結車のキハ80を方転しないと先頭のキハ82と
次位のキハ80のドアが向き合ってしまう。
函館では基本編成や基本編成の北側の増結車に方転したキハ80は使わなかった。 >>48
向日町運転所にキハ181系が転属してきて、「あさしお」「はまかぜ」が
キハ80系から置き換えられたとき、2号車のグリーン車のドア位置はキハ80系時代と
ほぼ同じだったが、中間のキハ180のドアの位置が京都寄りになっていた。
昭和57年11月末にグリーン車が4号車に変更されたときに、編成が方転されて、
向日町運転所の「あさしお」「はまかぜ」のキハ180、キロ180のドアの位置が
鳥取寄りになったが、ドア位置を「まつかぜ」のキハ80系と揃えて、検修しやすくしたのかも >>49
函館の方転キハ80は1970年代から1986年の「おおとり」183系置換えまで
変わらなかったから、方転が検修に影響するとは考えにくい。
むしろ営業上の理由の方が大きいと思う。1985年の函館のキロ+キシの方転は
183系とグリーン車の位置を揃えるためだった。
もっとも、向日町には検修絡みの特有の事情があったのかもしれないが。 特急「まつかぜ1・4号」のキハ181系化後、向日町運転所のキハ80系は派動用車となり
修学旅行などの団臨やミステリー列車などに使用されたのち、昭和61年3月までに
全車廃車となり、加古川駅構内などに留置されていた キシ80の食堂車従業員用トイレは、和式、洋式、男子用小便器のいずれだったのでしょうか。 >>53
ご教示ありがとうございました。3人の調理担当者だけのトイレだったのですね。ウエイトレスや車内販売嬢は、乗客と共用の他車のトイレを使用していたのか。 オシ14や24も男子トイレだけ。車端隅の丸窓が特徴。
トワイライトエクスプレスのスシ24は和式トイレだった。 北海道のキハ80系特急は、キハ82の次位にキシ80が連結されている変則編成の列車もあったが、ジャンパ栓や回路などを改造してキシ80がキハ82と連結できるようにしたものだとか この時期になると思い出す。昭和48年頃の事。
薄暮の八雲辺りを函館を目指す特急おおぞら
車窓風景は雪、蛍光灯で明るい車内は満席
床下からコロコロとエンジン音
函館まであと1時間。連絡船乗船名簿の配布が始まる。 その後、回収した乗船名簿の枚数から乗船人数を算出して、キロ80に設置された専用無線機で函館駅に報告するのですか。 >>56
元々80系の回路は片渡りでキロ側とキハ側をそれぞれキシと背中合わせに連結する
規則だが、あの編成(60-3改正後のおおとり、オホーツク)の場合キロとキシを
繋げたまま方転した形なので、キハ82にしろキロにしろ背中合わせにキシと連結
する規則に則っていることは変わらず、無改造でも回路が繋がるはずなんだけどな。
キシとキハ82を直接連結するには他に制約があったのだろうか…? 向日町のキハ80系の高砂工場入場回送列車や出場後の試運転列車が、
キハ82+キシ80といった編成で東海道本線・山陽本線を走行することもあった 82系デビューに際しての試運転ではキハ82+キロ+キシ+キハ82の4両編成と
いうのもあったようだ。
60-3の編成替えのとき本当にキハ82を改造したのかな?些か疑問。 途中で向きが逆転するのって国鉄では50〜60年代に流行したな
181系は両渡り化改造してなくてクハ180が製造された
最近では371系や215系がユニットが背中合わせになってるが片渡り 1950年から1969年
1955年から1965年
国鉄で途中で向きが逆転するのが流行したのはどっち? キハ82の妻側も両渡りの準備工事が行われていて、それを完工させたら使えた
あと、キロ80の乗降扉側も初期車は準備工事だけにとどまっていたけど、途中から新製時から両渡りが使えるようにされていた
どこが最初にキハ82両側両渡りにしたのかは調べてもらわない限り分からん >>66
準備工事じゃなくて、キハ82の後位は当初からジャンパ栓受を3位→ 4位、4位→3位へ
移動できる構造になっていて、キロ、キシを連結しない編成でも繋がるようになって
いた。キロ後位も同じ構造で当初からキシ抜き編成でも繋がるようになっていた。
キハ82後位はジャンパ栓受移動が面倒となったため両渡り化されたと思われるがすべて
ではなく、どの程度改造されたかは不明(今まで特集記事でも触れられたことがない
のでは!?)。
ただ、小樽の1、三笠の87と100、八甲田丸の101はいずれも両渡り化され、他にも
ネットの画像から901、902(元キロだから当たり前!?w)、番号不明だが苗穂工場の
半キノコの廃車体が両渡り化されていることが確認できた。北海道には両渡り改造車が
多かったようだ。 キロの改造と新製時からの両渡り化については有名なので省略w
ジャンパ栓受移動についてはRP No.735を参照 化け猫の国鉄時代
キハ81の記事はキハ815とはっきり言及しなかったよな >>69
化け猫ってなに?キハ81に興味があるので気になる… キハ81のデッキのところにある売店は「くろしお」に転用後は、売店として使用されず、
車販準備室として使用されていたようだ。 >>72
いなほ以前のキハ81使用列車では、車内販売もキハ81の売店(前後2か所とも?)も両方営業していたのでしょうか。 >>73
キハ81の売店が営業していたのは「はつかり」に使用されていたときだけで、
つばさ、いなほ、ひたちに転用後は車内販売だけで、売店は車販基地として
使用されていたと思われる >>74
ご教示ありがとうございました。売店営業は早々と昭和43年に廃止されたんですね。 工場や機関区などでキハ81のボンネットを開けてエンジンの検修をするときは、
ボンネットの開口部が小さいため整備士は作業がしにくい、タブレット授受の際は
助士が高い運転台から乗務員ドアのところまで降りていかなければならないなど、
最終配置の和歌山機関区の職員や紀勢本線職員の間でも、キハ81はあまり歓迎されなかった >>78
くろしおキハの時代やキハ81最後の活躍で検索したら、そんなことが書かれていた うまい!キハ81と掛けたのか
おい!山田!>>81に座布団3枚やれ! スカートの連結器周囲の切り欠きの形状が異なっていたり、タイフォンの形状、
運転席窓の上の手すりの有無 >>85
ありがとうございます。それにプラスしてヘッドマーク高さやその上の飾り帯?形状・高さも違うんだけど、どれがどれかあまりわかってないんですよ。
高さに関してはキハ81 4のみ低いのはわかるですが…。 模型化に際しエラーエラー騒ぎそう。カトーから出てるけど。 キハ81は、やはり大宮の鉄道博物館に持って行って保存すべきだったと思う。
その時は、連結器カバーも復元して装着して、ヘッドマークも「はつかり」で。
キハ181を2両残して1両は津山、もう1両を京都鉄道博物館に保存して、国鉄特急色にして「あさしお」のヘッドマークを取り付けて保存しても良かったのではないか 同型6両のうち1両でも残ったんだからいいじゃないか。
クハ86なんて3枚窓が残って湘南顔が残らなかったという、
当時の人間つかまえて問い詰める必要があるような状況だぞ。 >>90
あれ、特徴からどうみてもキハ81 5だもんな…。なんで車番だけすり替わったのか謎。 境線大篠津駅構内の側線に廃車となったキサシ180やDD51に混じって、
廃車となったキハ80も1両留置されていたが、このキハ80だけキサシ180より
先に解体されたのかいつのまにか姿を消していた。
残ったキサシ180やDD51は昭和63年頃、現地で解体され、米子市内のスクラップ工場に
その解体された車体が置かれていた 食堂車解体時に鼠昆類の死骸が出てきてあんな過酷な環境でよく暮らせてたなと生命力に感嘆した記事どこで読んだっけな
飲食店で毎日欠かさずバルサン焚いても涌いてくるのと一緒か >>94
キサシ180は北海道にキハ183系の食堂車として転用することも検討されてたらしいが、
結局は廃案になってキロ182に調理室兼売店を設けることになってしまったからな。 >>93
留置状態では素人には車番が判断できなかったからな。
保存改修も素人任せだったのだろう
高砂工場もいつの間にかなくなっていたみたいな感じ。
んで、絶対にキハ81 5とは認めない。 >>97
単なるヲタのお前が国鉄の中の人を素人ってw 特急「ひだ」「南紀」のキハ80系の一部の車両のシートが117系や185系と同じ転換クロスシートに
交換されたとき、転換クロスシート車は指定席、ブルーの旧式の回転シート車は自由席車用と
差別化が図られ、指定席車の転換クロスシートは長時間腰掛けていても疲労が少なくなり、
快適になったな。 「ひだ」はとにかく、「南紀」では転換クロスシートの格落ち感は否めなかったな。
晩年の現役時代の晩年、既に急行「かすが」や快速「みえ」で、新幹線の簡リクと交換したものがあったから、
それに比べると、転換クロスはやはりしょぼかった。
117系と同じ、と言う点で余計。 北海道のキハ80系は、国鉄末期になってシートのモケットのみキハ183系と同じ茶色のものに交換されたり、民営化後はシートがキハ183系と同じものに交換された車両もあったな。 >>98
高砂工場の持ち出しに国鉄が関与してなかったんだよ。
お前が一番素人 >>108
業者が適当に持ち出した。
国鉄職員でも番号は判断しにくい状態。 高砂工場には、札幌運転区で廃車になったキハ82-45とみられる車両が留置されていたという
この車両も剥がされたナンバーの文字の跡などからは、本当にキハ82-45かどうかはわからないが 転クロでも0系の物と117系の物では
けっこう違うからなあ。
後者なら腰掛交換する意義が感じられない。
北海道の腰掛は民営化後に183-500のリクライニングシートへ替えられていたな。 国鉄民営化後、JR東海のキハ80系によるイベント列車か団体臨時列車が京都から山陰本線に
入線して運転されたことがあった 「はつかり」の頃は知るべくもないが、45〜6年ごろ上野駅で「いなほ」「ひたち」をよく撮っていた。
夕方、「いなほ」のマークのまま地平ホームに入線してきて、停車するや「ひたち」に換装(?)
するのを眺めていた。翌朝帰ってくるときは高架ホームだった。
そういえば中間にキハ82が組み込んであったが、あれは補助電源対策だったんだろうか? >>114
> そういえば中間にキハ82が組み込んであったが
それは昭和47年3月改正以降だね
9両編成になったから発電用エンジンが3機必要 それまで、発電エンジン搭載のキサシ80が連結されていたってこと? >>116
それまでは7両編成だったからキハ80二両でまかなえてた
>9両編成になったから
と書けばそれ以前はもっと短い編成だったと理解できると思うんだけど無理? >>116
「はつかり」はキサシ込みの10両編成だったね キハ81
「つばさ」時代は7両だから電源車2両で済むが、「いなほ」転用後すぐはどうだった?
最初から9両くらいはあった気がする
だとすれば、中間にキハ82が必要になる >>115
解説有難う。7連から9連になったんだね
>>120
資料をありがとう。なんせ昔のことだから記憶があいまいになっているよ(笑)
当時、羽越線電化のあとすっかり廃車になると思っていて、転用と聞いて「くろしお」が気の毒になった覚えがある
キハ81にせよモハ181にせよ薄汚れていてボロに見えていた(当時中学生)
邪推するに、都内の車両基地で河川や下水の汚染防止のため洗剤を使えなかった・・とか?公害のため(笑) >>121
冬至は尾久や田町じゃなくて秋田や新潟に移管済み 小学1年生?の頃ばあちゃんと白浜に旅行に行った時、まだディーゼルで、行きはきのくにに
帰りはくろしおに乗ったんだが、そのくろしおは白浜で増結で、先頭車に乗った。
そう、あれが生涯唯一のキハ81乗車体験だった。翌年には53・10で消えた。 キハ81は、秋田機関区から和歌山機関区に転属するとき、日本海縦貫線を米原まで下って、
米原から吹田、吹田から城東貨物線、阪和貨物線経由で杉本町へ出て、そこから阪和線経由で
和歌山機関区へ回送された車両と、平から回送で尾久客車区、尾久から機関車牽引か、
自走で名古屋第一機関区、そこから関西本線、和歌山線経由で和歌山機関区へ回送された
車両があるようだ 9月26日がキハ81のいなほ、ひたちの最終運行日
で10月2日にはくろしおとして運行開始だから日程タイトだね >>124
>>125
和歌山以外、名古屋、亀山、多気、新宮、紀伊田辺で現車による研修があっただろうから、
結構きついだろうな
他に運転業務担当しているところがあったかな 和歌山機関区では、紀勢本線和歌山〜新宮間の電化前にキハ81-2を秋田機関区から
借り入れて、キハ81を試運転させて同車の運転席の高さと阪和線、紀勢本線の信号機の高さを合わせたりするなども行われた いきなりキハ81で通過駅でのタブレット扱いとかつらそうw >>127
電化前ではなく、キハ81型が「くろしお」で運用が開始される前に トヨタCH-Rのフロントビュー、キハ81に似ている。 JR東日本に承継されてたらアルカディア火災事故後のDMH17H全廃政策でエンジン交換の対象だっただろな
副次的効果でエンジンの許容回転数向上で110キロ運転対応になってたはず
キハ185はキハ82と同一減速比だがエンジンの許容回転数が向上してて110キロ出せる 追記
発電エンジンも交換しないといけない(DMH17H-Gであるため) 1989年、修学旅行は団臨でキハ82だったな。
行きは千歳周り、帰りは山線経由で俺は嬉しかった。
あれが最後のキハ82 高砂工場でのキハ80系の全般検査では、エンジンを取り外して、同工場で検査、整備済みの
キハ80系用のエンジンを換装し、検査のために取り外されたエンジンが検修に回されるという
作業工程だったようだ >>135
そんなもん国鉄工場に限らず鉄道工場なら大体どこも同じような工程じゃない?
ワンオフ的な車両は別にして。 >>135
>>136が言うとおりそれが普通。じゃなきゃ全検出場に時間がかなりかかることになる。 EF66の振替台検という記事でその方法を知った。
職場で多用するものについてワンセット多く用意するという改善案のネタにした。 台車を余分に用意して検査済みの台車に交換もやってたな
国鉄末期にこのような検査は廃止され余ったパーツで103系3000番台を作った キハ81の台車は交換されて、それまでの台車はキハ58系に流用されている >>140
そのキハ58が履いてたDT22系台車はキハ55初期車の台車交換に転用された。 大阪・弁天町にあった交通科学博物館がリニューアル工事中の時、屋外展示されていた
キハ81は、同科学博物館から一時姿を消していたが、同車は大阪港の方でシートを
被せられて仮留置されていたらしい。 >>143
テニスコートやコインパーキングになっている くろしおにキハ81が使われていた頃、基本7Rの先頭はキハ81でも、付属の3Rの先頭はキハ82ということはあったのでしょうか?
また、キハ81が基本の7Rは、必ず名古屋行きに使われていたのでしょうか?
もし名古屋行き限定だったのなら、その理由が判れば教えてください。 >>146
>付属の3Rの先頭はキハ82ということはあったのでしょうか?
それはあった。
>また、キハ81が基本の7Rは、必ず名古屋行きに使われていたのでしょうか?
名古屋−天王寺のくろしおは、最低どちらかの先頭がキハ81だった。
詳しい理由は分からん。 >>147
分割併合のやりにくいキハ81を中間に入れない為だったかと。
だから分割併合の無い名古屋–天王寺運用の両端が本則。
末期は基本の天王寺方に入った事もあった様だけど。
俺が乗った白浜増結のキハ81は何号だったんだろう。 ご教示ありがとうございました。
天王寺〜名古屋の全区間を10Rで走行していたのですね。
串本辺りを走行中の新宮方がキハ81、天王寺方がキハ82の7Rの写真を見たことがある(確かRF)のですが、あれは名古屋くろしおではなく、新宮くろしおだったのてをしょうか。 >>149
末期の頃は
1号車キハ82+2号車キロ80+4号車キシ80+5号車キハ80+6号車キハ80+7号車キハ80+8号車キハ81+9号車キロ80+10号車キハ81
※9,10号車は多客期のみ連結。3号車は欠。
という編成だったらしいよ
ソースARC >>150
それピクトリアル78-12号にも載ってるよ。 >>150
>>151
早速ありがとうございます。
これなら、8号車と9号車の間は通り抜けできなかったんですよね。
9号車と10号車の人は、名古屋行きなのに食堂車に行けなかった(車販も来なかった可能性も)とはお気の毒な。。 >>150の編成ではキハ81が8号車と10号車に連結されることになっているが、
編成の中間にキハ81を連結することってあったのかな? >>135-139
国鉄はそれをやってたから、保存予定の蒸機を間違えたりしたのだろうか?
関東大震災の頃、義経のつもりで東京に保存のため回送されてきた7100形蒸機が
実は弁慶だった、という話とか。
スレ違いスマソ。 >>154
それはまた違う話かも?
工作精度の都合、蒸機は1両毎にバラしては同じモノで元に戻さないとアライメントがズレたりして不調をきたしてしまうので。だから各部品に形式・車番が打たれてたし。
ただ、末期を中心に他車から流用して、ってこともあったりするみたいだね。
取り違いと言えば他にも色々とあるな。
京都鉄道博物館にあるキハ81 3が、実は車番だけ変えられた5とか。 >>152-153
150は恐らく8号車をキハ82と間違えてないか?
8号車に入れるくらいなら1号車をキハ81にするだろうし、
昭和51年ごろにキハ81の一部を廃車したので、末期にキハ81を両端に入ることは滅多になかった。 >>156
8号車をキハ82にすると
キハ81は多客期しかお仕事無くなる ネット上で新宮だったかのくろしお同士の行き違いでキハ81が並んでいるのを見たことがあるなぁ。その当時は3と5が残るのみだったはずだから、そのときすでに両端キハ81編成はみられなかったみたい。 >>157
ならば1号車をキハ81にして、キハ82と入替えればいいだけ。
少しは考えろ!
現実には昭和51年10月改正から、名古屋〜天王寺のくろしおも、両端キハ81が滅多に見られなくなった。 >>159
俺が考えても意味ないだろ
当時の国鉄がやってたことなんだから ところでキハ81を中間に組み込んで制御回路引き通しはどうするんだ >>150
離れ小島?の付属編成の9号車にわざわざキロ80を組み込んでいる理由は、レチさんの居場所のためかも。
ちなみに、当時のDCくろしおのレチさんの乗務状況は、本編成に2名、付属編成に1名でしたか? >>162
欠車の3号車が本来グリーンだからその代わり >>156-161
>>161の言う通り制御回路の問題もあるし、やっぱり中間にキハ81って考えにくい。
RF 78-08に載っている最後の年(78年)5月の7連の2Dの写真には天王寺方先頭に
キハ81が連結されていて、8号車に連結されていたことが確認できる。
RP 78-12には同年8月の新宮での1D、2Dの交換を天王寺方から撮った写真が
載っているが、1D、2D共先頭がキハ81で1Dは10号車(次位はキロ)に連結されて
いたことが確認できる。
で、キハ81は1D、2Dに各1両、通常期は8号車に連結して9,10号車の連結はなく、
多客期に9,10号車を連結する場合は10号車がキハ81で8号車はキハ82だったのでは
ないかと思うがどうだろう? 制御のKE62を2つ仕込めるほどの穴が開いていないから無理じゃねー
ツナギ板接続も違うし
51.10に向日町からキロが増備されるまで、キロの予備車はない
52.12に81が4両廃車で、
53.1から残った81×2はキロと2両増結へ組成再編され、名古屋発着編成は基本でのキロ2両立て続け連結もなくなる
先頭車予備は81が1両と82の各2両しかなくなっており、超繁忙期に82が3両(あと転車台で反転させたら1両増加)ダウンしたら81しか投入できなくなる >>165
時刻表の編成表からは、1D・2Dくろしお5/2号はほぼ2・3号車グリーン車の
10両編成だった。新婚旅行需要が減退したので、150の編成に変更したのか?
もっともダイヤ改正間近だと、転属や廃車など絡むから編成変更もあり得るけど、
衆目の通り中間にキハ81が来るのは不自然。
なので9・10号車連結時は、おっしゃる通り8号車はキハ81ではなさそうに思う。
新宮電化完成後の特急南紀がキハ80系6両編成となったので、元々名古屋口で10両は
輸送力過剰だったかもしれない。
でもコロナ禍とはいえ、今の特急南紀が2両編成で運転とは、尾鷲・熊野地方もかなりの過疎化か? ピクの78-12を信じるなら8号車にキハ81は存在してるんだわ。
あと増結編成が1号車側に来たりで当時の撮り鉄を悩ませたらしい。 >>172
キハ85系200番台は当初、「南紀」用として製造されて、「ひだ」とは運用は別になっていて、シートのモケットが背ずりの裏側にも回り込むなど、座席が改良されたりして0番台よりグレードアップされているが、最近は200番台は「ひだ」で運用されて、
「南紀」は0番台車で運転、200番台は「南紀」運用に入らないなどして、
「南紀」は冷遇されているように見えるな >>164
ナゴヤ球場輸送ってそれじゃなかったのかな? ナゴヤ球場正門前って超スーパー乗り得列車だったな
有り合わせの気動車使ってたので車種を問わず運賃だけで乗れた
野球観戦しないのにキハ82に乗るためだけに乗車した鉄ヲタもいた? JR東海に在籍していたキハ80系改造の「リゾートライナー」は、ジャンパ回路を急行型に合わせたため、特急「南紀」「ひだ」用のキハ80系とは連結できなくなり、キハ58系などと連結されて運用されていたな。 >>176
1979年の臨時増刊名鉄特集では、1ぺーじの2/3(もう少し多かったかな)ほどの正誤表が
後の定期号に載ったな、
あの頃のピクはちょっと中途半端なやつが多い 和歌山機関区でキハ82とキハ81が向かい合って連結されて留置されている写真を
見たことがあるが、検査の関係か工場への回送列車なのか >>172-173
キハ85が80系を絶滅に導いたのに、それが老朽化とは相当年月が経ったものだなw
南紀がキハ85に置換えられたのが1992年だから、80系絶滅から30年近くか!
80系気動車の現役時代を知る者は40歳以上だろうな。 キハ80系南紀を名古屋から紀伊勝浦まで
乗ったことあるわ・・・(*ノωノ) >>183
40代以上より未来の鉄道が見られるように長生きすれば良い 特急「南紀」のキハ80系は、名古屋〜紀伊勝浦間を1往復半するごとに給油されていた
ようで、列車によっては紀伊勝浦に到着後、新宮運転区へ回送、そこでも給油されて、
再び紀伊勝浦へ回送、折り返し名古屋行上り「南紀」となる列車もあったようだ >>185
そりゃまあ一往復半なんだから
両方で給油するわけだよな 運転開始当初、キハ80系で運転されていた特急「おき」と、舞鶴線、宮津線経由で
運転されていた特急「あさしお」1往復は、表定速度53キロと日本一遅い鈍足特急として有名だった。「おき」がキハ181系化されるまでは両列車とも米子発着の
「あさしお」1往復と「はまかぜ」1往復と車両は共通運用されていた。 駅ホームに給油設備を設けて乗客を乗せたまま給油に挑戦はしてないな
白鳥でも無給油で走破できるくらい燃料タンクが馬鹿でかい
現行の気動車は1000キロ以上もの超長距離で走行する事が無く燃料タンクが小さいのか? >>188 駅ホームに給油設備?
編成のエンジン付きの各車両(ほとんど全車両だろうけど)の給油のために、何人もの駅員が張り付かなくてはならなくなるんでは?短い停車時間中にどれだけ給油できるのか?
小規模な私鉄線ならともかく、非現実的としか思えない。 元カラそういう意味のこと書いてるようにしか思えないんだが。 間違っていたらごめん・訂正よろしこ
キハ80系 走行用550リットル/エンジン・発電用800リットル/エンジン
キハ181系 キハ181が2200リットル/「両」、キサシ180以外の中間車が1500リットル/「両」
キハ183系 900リットル/「両」
キハ283系 1160リットル/「両」
キハ185系 600リットル/エンジン(キロハ186のみ800リットル/「両」)
キハ189系 650リットル/エンジン
キハ120 450リットル/エンジン・両 >>185
53.10特急「南紀」登場時
1日目 朝の1号で名古屋から紀伊勝浦、新宮まで回送 泊
2日目 昼に新宮から紀伊勝浦まで回送、4号で紀伊勝浦から名古屋 夕方名古屋から紀伊勝浦 新宮へ回送
3日目 新宮から紀伊勝浦、2号で名古屋すぐ折り返し3号で紀伊勝浦、折り返し6号で名古屋
3D→6Dの際、一旦新宮へ戻しているかもしれん、
間違いがあったらすまん >>188
そういや宇和島駅にはホームの間に給油設備が有るな。 >>195
【擬人化】885系かもめ
何でここに? >>188
江若鉄道では三井寺下で客を乗せたまま給油していた 実際は危険物の規制に関する政令第27条で給油中エンジン停止が義務付けられてるので車内が停電しちゃうな
真冬のDMH17系だとエンジンの真下に火鉢を置いてオイルパンを温めないと始動できない
ダイヤ乱れで長時間足止め食らってアイドリングで燃料浪費しちゃったらどうするんだろ ブルトレのカニとか満タンで何時間稼働できたんだろうな >>200
マニ20の燃料タンクは700リットル×2個だが「あさかぜ」での運用実績で
1個でも十分そうなので、カニ21では1個に減らした。 >>201
電源車的に増量が減っても荷物車的には増えてるだけだろ >>201
1700リットルでは?
700リットルでは流石に持たんやろ…
片道1700リットル、往復して給油を前提に2個装備でマニが作られたけど、結局片道ごとに給油してたから1個装備になったと何かで見た気が…違ってたらゴメン。 マニ20 1700リットル2個
カニ21の最初期3両だけ 1700リットル1個 1,51,52のみ(のちに量産化改造)
↑ あさかぜ運用実績とあさかぜ運用のため。あさかぜで押し出されたマニ20は鹿児島(はやぶさ)運用へ回す計画だったものの・・・
カニ22(架線集電MG付) 1700リットル1個(予備車となった51だけ架線集電MGは積まれず車内に800リットルタンク2個増設で完成)
↑のちに架線集電MG撤去・燃料タンク増設車は増え(52,53が1965年に改造、1,2,3は1968年に改造して全て架線集電MGなし)
カニ21量産車 1700リットル2個
マヤ20 900リットル2個
改造マヤ20を除く20系電源車新製配置年
1958 マニ20 1,51,52
1959 カニ21 1,51,52
1960 カニ22 1,2,51,52
1963 カニ22 3,53
1964 カニ21 2,3,4,5,6
1965年以後カニ21だけ
以上スレチ ○○
「鉄道伝説」Vol.2のキハ181系の回に出てくるキハ82の落成写真、よく見ると凄い編成。
キハキシキシキシキハ
3両だからジャンパ栓の亘りも正しい向きになる。
ttp://pbs.twimg.com/media/EtOQj_gVgAMp-IE.jpg
ttp://twitter.com/TechnoTreasure/status/1356587398033932289
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) キハ81の高砂工場出場回送車は、工場で再塗装も行われて新車同様に美しくなっていたが、
「はつかり」で運転開始した当初のような華やかさは感じられなかったな。 >>207
向日町運転区1961.9.1新製配置の日車製
キハ82 8,40
キシ80 7-9 タブレット無くても、こだま顔にDMH17H-Gは収まらなかったと思う。 >>207
>3両だからジャンパ栓の亘りも正しい向きになる。
ならないだろう。キシの制御回路は2位->3位へ[/]の形で通っているから、
3両繋げても[/][/][/]の形にしかならない(方転しようが)。両端のキハは
繋がっても真ん中のキシが繋がらない。
鉄道誌に載ってる回路の略図を見れば繋がらないことがわかるが、もし、
写真の編成の回路が繋がっているなら何らかのからくりがあるはず。
80系の回路は謎があり、回路が繋がらないはずの編成の写真が雑誌やネットで
見られる(もちろん営業列車)。次回どこかの雑誌で80系を特集するときには
そのからくりを解明してくれないかなw 画像ではキシは1両だけ逆向きで組成されてますね
試運転だし制御回路の構成は細工ありでしょうな 百何十馬力のカランコロンエンジンでよく特急列車を走らせた。 キハとキシは繋がるよう連結されている
しかし、キシ同士はどれともつながらない
また、運転士が居ない(1961年10月改正時前でキハ80系を用いていたのは「はつかり」だけ。東海道本線の豊橋−米原間で気動車急行列車なし)
よって、メーカ日車豊川でキハ+キシ(キシは繋ぎ直してもう1両も)にて試運転した後、それらを繋いで機関車へ牽引されて向日町着
そして、2両だけエンジンを回して気動車区画へ入れた
と想像 >また、運転士が居ない
定期の気動車列車がなくてもさすがにそれはない
こういうのは指導担当とか特に指定された運転士が担当する カランコロンカランコロンカランコロンカランコロン、ドッ、ブォ〜〜〜〜〜〜ッ 北海道の三笠鉄道記念館に屋外展示されているキハ80系6両編成は、キロ80の連結位置が
キハ82の次位ではないなど、本来の編成とは編成順序が異なっているな 途中で引き通し反転は一時期ブームになってたが廃れたな
晩年はキハ82の連結面よりを両渡り化改造してキハ181系みたいな中間車の向きが全部揃った組成になった JR北海道のキハ80系は、キロ80やキシ80がすべて廃車となったため、モノクラスで
編成が組めるように回路が改造されたりされていたな 151系→181系はどういう訳かクハを両渡り化改造せず
クハ180が登場した一因 モノクラス編成は民営化以前に登場している。1970年夏に運転されたエルム51号。
1982年に廃車となったキハ82 1は両渡り化済みだし、キハ82後位の両渡り化も
国鉄時代に行われていたようだ。 キハ80系時代の特急「あさしお」は、6両編成に付属の3両を連結した9両編成だったが、
閑散期には8両編成で運転される事もあり、その時は中間にキハ82が入らない編成と
なっていたな。 というか境線あるんだから鉄ヲタはみんな知ってると思ってたわ
217見て分からんのなら理解できるけどな
223に聞いてるからな オルゴールが二種類あったな
苗穂の最終編成は
運転台がブラームス
車掌室が気動車汎用アルプス 車内放送オルゴールって受話器に付いてるゼンマイ式?それとも本体に付いてるの? >>214
本当に非力な、旧式なエンジンで、しかも極寒地やら勾配線区やら、さぞや保守に手を焼いただろう。51〜2年ごろ(183系登場前)の「電気車の科学」なる雑誌に、故障頻発の記事がよく載っていた >>230
もっと種類あるはず
あれこれ入り混じってたな
ブラームスの子守歌は20系客車と同じチャイムである >>234
80系のブラームスは20系客車のものとはメロディが違う。 KATOのHOゲージ・キハ82 900番台を買った。
模型で是非とも1両欲しかった車両だ。
実物では絶対に乗りたくない車両だったけどw グリーン車を普通車に改造したため、窓割とシートが一致していない。 クハ480やサハ481-1100?もそうだったっけ? >>239
クハ481-1100のことかな?
だとすると中間グリーン車→先頭普通車の改造だからキハ82 900番台と一緒のケースだね
クハ480はサハからの改造だろ? ほれ
https://dotup.org/uploda/dotup.org2399590.jpg
特急「くろしお」 名古屋―八田(近鉄烏森―八田)
1970年か1971年
珍車と再確認したのはスキャンしてから S45(1970).9.22に902(元キロ80 5)が鹿児島から和歌山へ転属されている 博多「まつかぜ」1・4号が米子発着に変更されてキハ181系に置き換え後、
向日町運転所で用途廃止となった「まつかぜ」用のキハ80系の一部が
名古屋第一機関区と函館運転所へ転属したが、これらの転属車の中にはキシ80も含まれていて、
函館運転所で状態の悪かったキシ80が向日町から転属してきたキシ80と
置き換えられて昭和61年11月の国鉄ダイヤ改正直前まで使用されていたな >>240
ひたちにサロ481の普通車格下げもなかった?
あと、九州にはボンクロの格下げ車。 キハ82 901-キハ80 901-キロ80-キハ82 902
狭窓編成w キハ82のヘッドライトの周りがグレーなのとクリームなのがあるんだが、どういった違いからなんだろう? >>247
それ前スレでも指摘してた人がいたけど
特に話が広がらないで終わってる ヘッドライトと標識灯の各レンズカバー枠のことか
あれ、国鉄時代はほぼ末期まで北海道とそれ以外は違う
北海道:鋼製で塗装あり。レンズ部径が本州のに比べて若干狭い
本州:たしかアルミで塗装なし
だから、本州と北海道を行き来したのは転入してから数か月間はカバーが転出前地区のものが付いていたりする
ほぼ使われなくなった標識灯側はもっとひどく、北海道→本州転配車は要検まで交換されないこともあった >>249
詳細にありがとうございます
北海道と本州で違いがあったのですね 気動車特急は非電化区間を主に走るから、思いがけない駅で蒸機と出逢ったり…
キハ80系の時代には、まだそんな楽しみがあった。 また単線区間を多く走ったから、思いがけない列車交換もあったな。 タブレット授受のシーンは電車特急にはない魅力ですね >>253
しかしそれもあって表定速度が伸びず、特急なのに50〜60キロ台が大半だった。 天下の東北本線も電化前は腕木信号機にタブレットだったからね。 山陰本線や宮津線などでも、信号機が自動信号化される前は、キハ80系特急「まつかぜ」や
「あさしお」などは駅での列車交換の時はタブレットを授受していたな キハ80やキハ181全盛期は交換駅でのタイムロスを改善する考え無かったよな
直線部やカーブでの高速化で手一杯だった
1線スルー化はJRになってから >>257 一線スルー化するには、CTCとスルー線に入っている列車がどちらの方向に向かうのか識別できる信号装置が必要なんでは?
もしくは数十キロに渡り特定方向に進む優等列車完全優先、というダイヤにするか。その優等列車が遅れても、反対方向に進む列車は各駅で待機。高密度運転だと列車識別装置なければ難しいんではないかなあ >>258
高山本線は100キロ走行可能な大型の両開き分岐器に変えたが緩和曲線が無くて大きく横揺れする
行き違いする普通列車がホームがコロコロ変わって旅客案内が混乱するのを回避したか? >>257
その1線スルーを急行時代にやってのけたのが四国の予讃線(松山より高松側だけだったと思う)
昭和34年から数年間で 長距離運行の特急かもめや白鳥とかで、編成中何両かガス欠とかあったのかな?
当時は弛み国鉄だったしw >>261 キハ80でそんな話、聞いたことがない。 主要駅には給水ホースと燃料給油設備くらいはあったはず 無給油で見込み走行距離2000km位のはず
その気になれば東京〜西鹿児島を無給油走行できる 実際「白鳥」は方向転換する新潟で給油いていたのでは?
「かもめ」も広島か、小倉で給油してたとか? キハ80のひたち・いなほ運用で秋田から新津廻り上野折り返しで平まで無給油で走っていたんだし・・ >>266
40-10以降は新潟経由になった
但し客乗せたまま給油してたか否かは知らん 客乗せたまま給油しないし、主要駅に給油設備なんかないだろ
ローカルじゃないんだから 停車時間考えたら燃料タンク一個づつ給油とか無理だからなあ
走行用エンジン24台分の燃料タンクに一斉に給油しないといけない
それでも5分じゃ到底無理 手持ちのRJによると、80系が無給油で走れる距離は1000〜1100kmで、
かもめは長崎、なはは鹿児島、おおぞらは釧路、おおとりは釧路と網走で
給油していたようだ。白鳥も途中で給油せず青森で給油だろうな。 そもそもディーゼル特急の開発過程で大阪-青森の特急は想定済みだろ?
だったらそれに合わせて燃料タンクの容量決めるわな >>269 米沢駅構内には気動車用給油設備があるが、ここは奥羽本線が標準軌化されたという特殊事情があるからなあ。 トワイライトEXPみたく長時間足止め食らったらどうなる?
走らなければ燃料の消費はわずかか >>274 そのような場合には、タンクローリーに来てもらって給油することもあるが。
高山本線が豪雨で寸断され、部分運行再開で高山駅にいた車両を走らせたときはこの方法で給油した。
2005年、盛岡で給油するのを忘れて釜石線内でキハ110がガス欠したときも同様。 >>270
F1のピット作業みたいに人海戦術になるよな
自動車と違って燃料タンクが巨大なので満タンにするのに異様に時間が掛かる 白鳥のような片道8時間以上の長距離走行ならともかく、片道5時間位の名古屋、金沢間ひだのようなそれほどの長距離でない運用でも、燃料タンク満タンにしてたのだろうか?
ひだの場合、金沢発の往復で名古屋に三時間いるから、この間に機関区で整備して給油できるだろうし。
満タンにすると車両が重くなり燃費低下するし、条件が許せば満タン避けるのではないかと思うのだが。 この列車は、特別急行白鳥、青森行きです。
すいません、ガス欠しました。
てへぺろ(・ω<) >>276
鉄道に携わる仕事しているけど、水タンクでも満タンにするのに時間がかかる。 水は駅でいれてたな。あのホースなんだろうと思ってた
どこにでもあったのにな、あのホース >>277
一度仕業表を見て「水」、「油」などの表記がどこに書いてあるか知ったほうがいいよ >>281
配置区などでは、省略していると思われる場合がある 昭和49〜53年頃の北斗下り1号・上り3号は札サウ持ちだったとは驚いた
…てっきりおおぞら(併結の釧路編成)・おおとりとの共通運用で函ハコ持ちだと思ってた オイルショックの時が大変だったのでは?
燃料代押し上げて経費が嵩んで赤字になってた?
鉄道車両は免税軽油なので自動車とは違い軽油引取税は課されない >>285
そういえば、当時オホーツクと同じ編成だったな >そういえば、当時オホーツクと同じ編成だったな
同じ札転の7両編成なのに北斗1-3号は1〜7号車、オホーツクは4〜10号車だったな。 >>286
〜では?キチガイ
流れを読まないから嫌い >>290
当時の札転の受持ちは基本編成のみで北斗2・2号、3・1号の基本編成も4〜10号車だったが、
函運持ちの1〜3号車を増結する2・2号、3・1号はともかく、1・3号と同じ所定7両の
オホーツクが4〜10号車だったのが不思議でしょうがなかった >>291
当時の北海道総局の方針で、函館の80系が不測の事態が起こった際に、
札幌の編成で「北斗」を仕立てるようにしたのでは? >>292
当時(47-3改正 1972年)北斗の基本編成が札幌に移管されたのは函館の収容能力が
限界に達したからで、それ自体は別にどうということはない
わからないのは、同じ札幌持ちの北斗1・3号(48-10改正で増発)とオホーツクが
どちらも7両編成なのに号車番号が異なったこと
53-10改正で北斗3・4号と5・2号(改正前の2・2号、3・1号)の基本編成はキハ1両減の
6両(4〜9号車)となり7両編成の北斗1・6号(改正前の1・3号)やオホーツクとは運用が
別になったと思われるがオホーツクは4〜10号車のままだった
オホーツクの号車番号が逆順ながら1〜7号車になったのは北斗が函館に再移管された
55-10改正だった
長くなってしまった どうでもいいかwこんな話 オホーツクは48(1973).10から前(遠軽側)に3両増結して、北見で切り離す予定だったらしい
でも、雪まみれかつ極寒の北見で連結できるかと北見側に蹴られた
で、オホーツク増結用の3両はやりくりして捻出した3両を合わせて北斗増発(48.10の31D/32D)へ回された
定期で北見解結が行われるのは、55(1980).10のおおとりか1ら ようつべでおおとりのダイジェスト映像?を見かけたことがあったが、真冬は扉が凍りついて駅員だったか車掌が蹴ったりするシーンがあったりしていかに環境が厳しくて大変なのかが判ったわ。 >>295
当時通常期でも満席の日が珍しくなかったおおとりならともかく、盆暮れ正月を除けば
満席の日は稀だったオホーツクに増結なんて俄かには信じ難い話だが。ソースを教えてほしい。
(道内気動車特急の中で真っ先に自由席が設けられたのも乗車率の悪さ故と思っていたw)
北斗1・3号(31/32D)は なは 電車化で発生した捻出車による増発だったと思う。 「北海」の網走延長と間違えていないかい?(下りで末端は普通車全て自由席)
おおとりもオホーツクも自由席が通しで設定されたのは昭和53年10月ダイヤ改正からだったと思うけど >>298
オホーツクの自由席設定は、昭和51年10月から。 >>299
しかも初めは3両だったなorz(53-10改正から2両) JR東海車は117系と同じ転換クロスシートに交換するとか意味不明改造してたんだな
簡易リクライニングじゃダメか?
快速みえ用のキハ58とアコモデーションと最高速度が逆転してたとか異常 >>301
快速みえ用のキハはエンジンはカミンズに台車は82用のエアサス流用した化け物だからな
0系から発生した簡易クロスに置き換えてもあの爆走可能だったけど、82はエンジン乗せ換えはしていないからどうしても差が出ちゃうんだよな 歴史上、東京駅に定期で発着してたディーゼルカーは、キハ80、181しかないのではないか さっと思いつくのは、キハ81 ひたちとキハ181つばさかな。上野発着の一部特急が東京乗り入れしてたやつね。 準急「日光」キハ55系
1957.10.15−1959.9.21 >>305 いなほからひたち、それにその逆の運用の場合は東京駅乗り入れはなく上野で転換してたってことか? >>307
秋田0925→(2012D)→上野1741/1810→(1001D)→平2059
平0633→(1002D)→東京927→(この間の動きが分からん。尾久あたりに引き上げ?)→上野1350→(2011D)→秋田2200 >>308 尾久に引上げ、整備なんだろうな。キハ80系のはつかりもここで検修受けてたし。
東大宮かと思ったが時期的に早すぎるし遠い。 >>309
そもそも尾久配置でしたよね、80系も181系も。
(いなほ・ひたち時代の80系は秋田でしたが) キハ82やキハ181って中間に連結されている場合は運転室は通り抜けできたのかな?
機械室の関係とかで貫通路は飽くまで非常用というイメージだが。。。 機械室の扉が並んでたけど当然鍵付きで中も見えないから乗客が通り抜けても問題なし そうでないと、付属編成の客が食堂車に行けなくなり、問題になるだろう あの貫通通路は運転席も覗けないのでつまらない思い出 >>315
キハ82だけど、南紀引退後のナゴヤ球場臨で何度か乗ったが運転席を覗けたけどなぁ。 エンジン本体は床下にあるが全ての機器が収まりきらず機器室出来ちゃってる
キハ183N系は発電セットを丸ごと床下に収めて機器室を廃止できた 82も181も183も発電セットは床下だけどね。ラジエターやタンクが収まらないから機器室あるけど
N183はDMF13が小さいからラジエターも床下にできただけで キハ183_101〜104は、デッキ側に機械室だから、
座席にたどり着くまでに通路が長かった 同じキハ81系使用列車でも『いなほ』や『くろしお』は中間にキハ82が挟まっているのに
『はつかり』がそうじゃないのは何故?
『いなほ』や『くろしお』は途中の主要駅で編成の一部を切り離していた? 『はつかり』は駆動エンジンを持たないキサシ80を連結しており、同車は発電セットを持っているため、編成中にキハ82を組み込まなくても、9〜10両編成ができたと思われる。 >>321
発電セットが三台だから食堂車込みでも11両まで給電可能なんだよね >>321
???
『いなほ』や『くろしお』も食堂車は連結してたでしょ?
キハ82を編成中間に挟む理由とは関係なさそうだけど・・・? そのころには発電セットを積んだキサシ80をやめて、走行エンジンを積んだキシ80になってる
キシ80は別に電源が必要 キサシ80なきあと、食堂車込みで8連以上にするには電源車として中間にキハ82を連結する必要がありました。 43-10改正で増発された「北斗」が「はつかり」電車化で転属となったキサシ80を
組み込み、中間にキハ82を挟まない9両編成だった。
翌年の44-10改正で愛称が「エルム」に変わってもキサシがキシ80 903に改造される
までは同じ編成だったようだ。 >>322
名古屋直通は天王寺から10連で新宮で3両切り離してた >>326-329
なるほど
例えば9両編成だとするとキハ81が2両とキサシ80が1両有れば
両端のキハ81それぞれが自車も含め近隣2両の電源を賄い、
編成中間のキサシ80で残り2両の電源を補うと
それが食堂車をキシ80にするとキシ80自体には発電機能がないから
代わりの電源車として編成中間にキハ82を入れる必要が生じた
こういうことか
でもだったらキシ80なんて造らずキサシ80のままで良かったような気もするが・・・
同じ9両編成で中間にキハ82を入れたら編成全体の定員も減るだろうし・・・
これはまた別の事情がある? >>331
キハ81→キハ82に移行する際
・運用上、9両固定編成までは必要ないこと
・定員や分割併合を考えると、6〜7両が適当なこと
ちなみに6両の場合、キハキロキシキハキハキハ で総定員約300人
・6両の場合、走行性能からは最低でも4M2mにする必要がある
・両端がキハ82の駆動系1エンジン車になるから、中間は全て2エンジン車になる
・もし食堂車をキサシにした場合、先頭車は鼓動系1エンジン車と2エンジン車を作る必要がある
その場合は4M1m1T 、これでは3M3m相当で、勾配区間には対応できない
4M2m相当にするには、キサシにサービス電源を集中して、5M1Tにするしかない
・結局、食堂車をキシとして、ブースターにしたほうが何かと便利
・ブースターにすると食堂車の定員が減る(40→32)が、6両編成なら問題ない
結果的に実にフレキシブルに対応できる内容の系列になった
>>330
名古屋まで両端キハ81で来ていた記憶があるのだが、今手元に資料が無いからなあ
以上、長々すまぬ キハ82の前頭部をデザインした人は天才
本当に色褪せなくて格好いい >>331
同じ電源付きでもキサシ80は付随車、キハ82は1エンジン動力車だから走行上キハ82のほうが有利だよね >>331
36.10の改正のときの特急増発でキハ82を作って7両を基本にすることにしたときに
キサシだと走行エンジンが足りなくて遅くなるから
10両を基本にするならキサシでも良かったんだろうけど、7+7で方向別にして特急を
網羅したかったんだね
>>333
な。153の低運と高運の合の子でライト上にしただけの感じなんだけど、バランスが絶妙
横まで回り込んだパノラミックとか、運転席、視界よさそうだったもんな
でもパノラミック、歪んで嫌がる人もいて、0系やEF66、583なんかはそれで平面にしたらしいけど
キハ82や181はどうだったんだろう。一番曲率のあるパノラミックだと思うけど >>333
キハ181の先頭部が酷似したデザインだったのは、そういう事なんだろうな。
鉄道に興味ない人にとっては、恐らくキハ82と181は同じようなものだっただろうw >>335
>でもパノラミック、歪んで嫌がる人もいて
そういう面ではクハ481でも基本番台より後発の200番台が運転士には好まれたって話があったな
まー200番台は「運転室が狭い」「冬場は貫通路部分からの隙間風が寒くて叶わん」という問題点があったが・・・
けどキハ82は隙間風問題なかったのかな?
北海道各線や『白鳥』『はくたか』など寒さの厳しい路線では特に >パノラミックは歪む
20系極初期のように、昔の航空用ゴーグルのように4枚構成にすれば歪まずにパノラミックっぽくなるかと。 >>339
そのまま名鉄8000系、初代「たかやま」〜「北アルプス」号だな
名鉄の場合、コストダウンのため平面ガラスのみでパノラミックっぽく構成していた
パノラマカーやパノラマDXも
6500のモデルチェンジ者及びパノラマスーパーあたりから曲面ガラスを使うようになったんじゃないかな
(初代5000系と3400更新車を除く) >>337
まったくもって同意なのだが
ヲタ的には前照灯カバーのRの有無だけで完全に別モノなのよね(^_^ゞ
>>340
μ鉄はよい意味でドケチよね
量産時にパノラミックをやめた銘車0系もお仲間かな >>330 >>332
キハ81の一部廃車が始まった1977年に、名古屋くろしおの付属編成も白浜か新宮で折り返しになった。
それと同時にキハ81の名古屋乗り入れがなくなった。 >>342
キハ81の名古屋乗り入れは、くろしお電車化前まであったぞ!
ただ最後の2年はほぼ片方がキハ82だった。 キハ183-100もぱっと見キハ82ぽいけど、平面ガラスの組み合わせでパノラミックウインドウではなかった。 >>344
あれは最初、キハ183基本番台に合わせた塗装だったから、ブサイク極まりなかった
キハ82のような塗装になって、何とか見える物になった 曲面窓で景色が歪む問題はガラスの成型技術が未成熟だったためか?
厚さにばらつきがあると平面でも歪む
偏光サングラスをかけると良くわかるが1987年以前のフロントが部分強化ガラス(よく見るとガラスが波打ってて干渉縞が出来て油膜っぽく見える)の自動車では視界が見にくくなるので使用禁止 パノラミックウィンドウの大型曲面ガラスは当時としては画期的だったが製造が大変だったはず
151系や20系客車(登場当初は平面の組み合わせだった)位しか採用事例がなかった
153系や113系はコスト増大を嫌い平面+円筒面ガラスになった あーそうだったね還暦キハ82
クハ151とは対極の実用設計なのに
ちっとも古びない不朽のデザイン ライトの形が南海こうや号20000系に似てるが、当時の流行? >>351
確かに似てますね
キハ183-500がキハ82になりきれなかった素敵なライン >>28
もしキハ181に変わったとして所要時間はどのくらい早くなったのかな‥? >>358
キハ181系化された「まつかぜ」1・4号は大阪~米子間の所要時間が、
キハ80系時代より9分長くなったことから、早くなるより逆に遅くなっていた 山陰本線ではキハ181の本領は発揮できないね(´・ω・`)
ところでキハ82が好きな人ってゴハチなら大窓機よりも
100番台前半の米原機や宮原機とか好きそうソースは我 国鉄時代の山陰や四国ではキハ181は本気をあえて出してなかったからな。
新大阪−出雲市で運転されてた当時の特急おきでさえ、
山陽区間内の所要時間はキハ80とほとんど同じ所要時間で運転してたし、
やくもの米子−出雲市の所要時間もキハ80系の特急とほぼ同じダイヤ設定だった。 米子発京都行特急「あさしお2号」は、キハ80系時代は米子~倉吉間を49分で
走っていたが、キハ181系化後は47分、のち43分と所要時間が短くなり、
わずかだが、キハ181系の本領を発揮していたな >>358-362
上野〜秋田の「つばさ」は、80系からキハ181系に置換わってどうだった?
当初は福米間の補機廃止が目的だったけど、やがて運転上の支障で
キハ181系でも補機が付いた。
キハ181系は元々中央西線の特急新設が、80系では難しいため開発されたんだな。
電車化の際も381系が初めて投入されたので、国鉄時代は特殊な線区かもしれなかった。
また80系より馬力を強くしたにも関わらず、車両故障や欠車が多かった。
食堂車のキサシ181を欠車したケースも多かったので、中央西線や板谷峠の山岳地帯では
想定外の支障があったかな? >>342
スーパーカーブーム全盛期だな。77年は
名古屋駅で新幹線ホームからキハ81がチラッと見えた。修学旅行で京都に向かう途中 >>363
置き換え時に時刻の変更はなかったけどその後20分から40分短縮した模様 山陰本線って今は平地直線なら同行ですらガンガン飛ばすが
当時はあまりスピード出さなかったのか >>363
6両編成を4M2m(エンジン10基)で組んだ場合、キハ80系は車体が重いので
パワー/ウェイト・レシオでキハ58系やキハ55系よりも劣っていた。
ゆえに山岳線区ではDMH17系ではDC特急の設定は無理、と言われていた。 確か高速走行を重視してハイギアになっているんじゃなかった?山岳路線ではますます不向きに… キハ80系でも高山線のひだみたいに無理して山岳線区に入ったケースはあったけど、
その場合は停車駅を最小限にして山岳区間での速度低下による所要時分の伸びをカバーしてたからな。
キハ80系時代のはまかぜが播但線内ノンストップだったのも山岳区間での速度低下をカバーするという面もあったし。 南紀末期は2M2mだったり、ときには2M3mってこともあったが荷坂峠は大変だっただろうな… 四国に入ったのはニセコエクスプレスがイベントで四国に入った時くらいか
オリジナル車が四国に転属してたら土讃線でキハ58よりも遅くなって問題になってたはず
キハ185系とはシステム上併結可能だろうが >>375
それニセコでなく、トマムサホロでっせ
北海道への帰り道、東北本線を客を乗せて
走ったんやでぇ(機関車牽引だったが) >>372
走れなくなって、運転時分の見直しを行っていた
>>374
半世紀以上経っていないか? トマムサホロはキシも組み込んだところにコヒの心意気を感じたな
心意気で終わっちゃったけどね(´・ω・`) >>377
なるほど、石勝線経由に移行した時と間違っていそうだ。
でも狩勝旧線を通った人は、151系時代の「こだま」に乗った人ぐらい
今は珍しいのではw >>379
2年差があるが利用者数考えると珍しさという点では狩勝旧線を通った人の方が希少だろうな 希少と言えば特急北海号で函館〜網走間を一気に乗り通した客だろ 2年ってなに?
石勝はキハ183と同時期、狩勝旧線って鶴見事故の検証実験したところだよな?
15年くらい違いそうだけど >>381
それも今となっては希少かもしれないが、昭和50年くらいまでの指定券が取りづらい時代まではある程度いたかもしれない。
究極だとおおとりの函館〜網走や、おおぞらの函館〜釧路を乗り通した人も希少だろう。多くは札幌で入れ替わっていた。 狩勝旧線は昭和41年9月末をもって廃線。
80おおぞら、おおとりの登場はサンロクトオだから5年間あの山道を通ってたのね。
連続25パミールが10キロ以上も延々と続く過酷な山道 >>384
新幹線ができるまでは「おおとり」は東京〜名古屋(151系車両)の特別急行でした おおぞらも初めは旭川行、釧路へ顔を出すようになったのは1年後なんだよな >>383
親父の転勤で釧路から函館までおおぞら2号のキロに乗車したことがある。
釧路発車前に蛍の光が流れたことと、函館のカーブしたホームに降り立つと「カランカランカラン……」のアイドリング音……。今でも忘れられない。 >>386
スレチだが、全日空の727が東札を70分で飛んどるのに萌えたw
スピード競争時代だね >>388
おおぞらの最初の停車駅は
函館、虻田(現在の洞爺)、東室蘭、登別、苫小牧、札幌、滝川、旭川
現在も停車駅なのは札幌だけなんだね
翌年の釧路編成の停車駅入れても帯広、釧路が増えるだけ >>386
新幹線こだま号に自由席がついて、まだひかり号と共通編成だった頃だな
まだ「ていね」に食堂車マシ35がついている
日本国内航空と東亜航空は合併前、のちに東亜国内からJASに
貴重な資料を有難うございました
なおNH60便・・・・・・
>>390
だからエンジントラブルを疑いもせずに操縦ミスで簡単に片付けようとした連中
B727の導入にかかわり、そのくせ事故調査委員長になり、その後日テレの某コンテストの審査委員?までやった、
いま逮捕者が出て問題になっている大学の某教授(故人)、おまえらのことだ >>389
>「カランカランカラン……」のアイドリング音
我は富良野でフラノエクスプレスで聴いたのが忘れられませんな
もちろんキハ84よりキハ82の方が好きだけども 今は黄色い新幹線が走っているのを見かけたら幸運が訪れると言われているが、
オラは小さいころキハ82系特急が走っているのを見かけたら、
幸せな気分になりワクワクしたわ。 >>389
おおぞら2号は、78年10月改正前の上下も1号から号数が始まる時代?
もしそうならおおとりと雁行して、青森からはくつるに接続だったけど、上り偶数号時代なら滝川から13両になった方だけど。
>>396
富良野経由で3往復時代は、少なくとも1往復は富良野通過してたな。 >>398
389の内容はどちらの列車でも当てはまるんだからどちらでも構わんだろ
フラノエクスプレスの話をしている人におおぞらの1往復が富良野通過してたと指摘しても的はずれだし >>399
時間帯と編成が違うから、そうはいかないだろう。 >>400
時間帯と編成が違うから何?
>>389
> 釧路発車前に蛍の光が流れたことと、函館のカーブしたホームに降り立つと「カランカランカラン……」のアイドリング音
これどちらでも一緒だよね >>389です。
昭和48年3月に乗車しましたので、函館行きおおぞら2号と釧路行きおおぞら2号が存在していた全席座席指定の時代です。
あと記憶にあることは、…車掌が天井にある空調装置のボタンを操作しながら車内巡回。太平洋の荒波。
洗面所の揺れるカーテン。
滝川駅停車の時、ED76 500牽引の旧客がホームに停車していたこと。電化区間に入り、架線が見えて「都会にきたなぁ」と思ったこと。
札幌駅到着前に黒々とした光景…たぶん苗穂機関区の蒸気機関車群?
「札幌で進行方向が変わります。座席の向きを変えて下さい。座席下のペダルを踏むと向きを変えることができます。」の車掌アナウンス。
札幌発車後、また黒い光景が現れる。
夕食時間帯にキロで調製したカレーライスの車内販売を見かける。
函館に19:30頃到着。カーブしたホームに降り立つ。
車内灯に浮かぶシートモケット…キロはエンジ色 キハは青色に白のカバー。黒いキノコクーラー。
そして「カランカランカラン……」のアイドリング音…。
行き先表示の赤サボとおおぞらと特急のサボ…
今思い出したが、アルプスの牧場のオルゴールのあと「この列車は特別急行おおぞら2号函館ゆきです」のアナウンス。
当時、なぜ特急ではなく特別急行なのか疑問に思っていた。
…………当時、8歳の私の記憶です。
長文スマソ >>402
言わないと言えないは違うんでね
関係のない俺に言っても意味ないし
まあ御本人が403で回答してるけどさ
マウント取り爺さんなのかな?
>>403
貴重な経験をしましたねえ その頃から北海道の気動車特急の呼称は特別急行だったんだね
貴重な経験裏山死す >>403訂正
✕キロで調製したカレーライス
◯キシで調製したカレーライス
確か隣の車両が食堂車だった様な気がします。
でも、食堂車で食事すること無く手弁当で済ませた記憶があります。
まぁ5人家族ですからしょうがないですよね。 >>406
再度訂正
×キロで調製したカレーライス
◯キシで調製したカレーライス
打ち間違いスマソ
お詫びついでにもうひとつの記憶。
釧路駅1番ホームに停車中のおおぞら2号に乗車すると隣の2番ホームには一般色と急行色を併結した気動車の編成が見えた。
ホームのアナウンスに「札幌ゆき急行大雪」まで記憶あり。
子供心に「急行なのにどうして一般色の汽車を繋ぐのだろうか?」と疑問に思っていたが、函館で急行えさしや松前が一般型気動車で運転され乗車したことで疑問が解けた。 >>409
スレチだけどあきあじって久しぶりに見たな >>409
釧網本線にSL撮影しに行ったんだろうなあ >>409
白鳥が気動車なので、>>403の少し前の時刻表だね。 >>413
ちょうど間の時ですね(笑)
73年10月もそこそこ大きいダイヤ改正だったので。
72年3月の山陽新幹線岡山開業から、75年3月博多開業までの3年間は、電化の延伸も多くて激しいダイヤの変動でした。
そのためスレタイのキハ80系も、相当な変化がありましたね(笑) >>409
>>403です。
どうもありがとうございます。
釧路駅2番ホームの急行は大雪としれとこの併結列車だったことは後で知りました。
網走方2両一般型で後が急行型だったのは記憶あります。
急行大雪は札幌と網走間がメインですが、私の大雪のイメージは今でも釧路発の列車です。
もう少し?当時の記憶を辿ると……
おおぞらの車掌さんは、真っ白の制服を着用して片腕に赤い腕章。制帽と靴も白で本当に格好好くて威厳がありましたね。
車窓なのですが、電信柱(ハエタタキ)が常にあり途切れないこと。
東室蘭の停車中に親戚から差し入れを頂いたこと。
洞爺を過ぎると闇夜に包まれなからも奇怪な岩と海。
トンネル‐海と漁り火‐トンネルと続く…… >>403
描写が一つ一つ頷ける。懐かしい。
それにしてもあの頃の80形式の特急は本当に特別感があったね
別格だったよ。
今の283だ261だ、みたいなのは風格が無い。
80形式はDMH17のエンジン音すら威厳を感じたもんだ。 >>415
続き
昭和48年当時、礼文の辺りは単線で海岸近くに線路が敷設していました。
千歳線も旧線で東札幌を通っていたのですが記憶無しです。
電化や複線化または線形の改良等により今は様変わりしてしまいましたね。 かもめは山陽本線内、電車特急と遜色ない所要時間だった! >>420
「つばめ」「しおじ」より停車駅が少なかったけど、走りっぱなしとも言えなかった。
東海道・山陽本線の停車駅は、大阪・三ノ宮・姫路・岡山・尾道・広島・宮島口・小郡・
厚狭・下関だったか。
九州に直通する特急は、「みどり」「なは」「日向」でも山陽本線内の停車駅は
絞っていたような。 瀬野八はオーバーヒートしなかったのか?
板谷峠よりかはマシとはいえ22.6‰がダラダラ長く続いてたら変速段のみで走行する事になってエンジンや変速機への負荷が凄い事になる >>422
なは・日向も含めて、その話は耳にしなかった。
元々亜幹線走行が前提で険しい峠越えも想定され、はつかりの初期故障を踏まえて
ある程度クリアできる設計だったのでないか?
北陸トンネル開通前の杉津峠や、北海道の狩勝峠、石北峠も負けず劣らずだったし、
はつかりは東北本線の勾配回避の目的で常磐線経由してたけど、ひばりやつばさも
東北本線の走行には問題なかった。 キハ82のエンジンは、必要以上に回転数を上げなければオーバーヒートはしなかった。
また上げられない構造にもなっていた。
だから坂道では低速運行せざるを得なかった。
キハ181になり高回転域が使えるようになったため、ウテシが調子ぶっ扱いて回すものだから、
オーバーヒートすることが度々起きた....というのが、国鉄時代の話。 >>425
> ウテシが調子ぶっ扱いて回すものだから、
ダイヤ通り走ってただけなのに >>422
> エンジンや変速機への負荷が凄い事になる
エンジンに不要な負荷がかからないようするためにあるのが変速機なんだけど >>391 >>393
> 岩見沢・深川も通過してた?
岩見沢はDC特急は全て停車駅だったはず
深川は50-7改正時でも「おおとり」は通過だった >>417
> 千歳線も旧線で東札幌を通っていたのですが記憶無しです。
3D(旭川・釧路行き)に乗った時は北広島辺りから北は妙にのんびり走ってましたね。
単線で急カーブが多かったからかな?
西の里信号場の「にしのさと」と書かれた駅名板?が印象的でした。 >>428
> 岩見沢はDC特急は全て停車駅だったはず
すまん岩見沢書き漏らしてた
393さんすまんね >>428
深川におおとりが停車するようになったのは、53-10の改正から?
それまでは長万部も通過する特急が多かったので、おおぞら・おおとりは別格だった。 >>431
おおとりの深川停車は55-10改正から
おおぞらは42-3の北海運転開始で釧路行単独運転になるまでは深川通過だったが、
47-3に北斗を受け継ぎ増発(3D/4D)された際の旭川編成は深川停車だった
55-10以前、他に運転開始当初の北斗とさちかぜ格上げのいしかり1往復が深川通過
だったが、運転開始から長きにわたり深川通過のおおとりはやはり別格 デッキと客室間のドアは引き戸ではなくドアクローザーが付いたタイプで、押すか手前に引いて出入りするドアだった。
キハ181系はキロ以外は引き戸でしたね。 >>432
46-7「さちかぜ」新設と引き換えに、7D・8Dが区間短縮(札幌〜旭川間廃止)になっている。 >>375
トマムサホロとJR東海のリゾートライナー >>441
https://shiranaimachiwoaruitemitai.at.webry.info/201602/article_25.html
>従来のアプト式を利用して走る列車(右)と新たな方式の試験運転をする列車。
>1963年5月から7月の間に撮影されたという=安中市で(碓氷峠浪漫倶楽部提供)
画像のURLそのまま載せておくれよ >>444
碓氷峠スレでアップした
無断転載とかかれたな >>445
無断複製と書かれたんだろ
意識してない人が多いけどimgurにうpは確かに無断転載だわな >>446
数多くの国鉄車両に携わったデザイナーの故黒岩保美氏だと思う。 >>449
ありがとうデス
国鉄のインハウスデザイナーだったんですね そういえばキハ82は、セノハチ越えで補機を付けたことが確かなかったな。
151系電車でさえ、上りは補機を付けていた。
こちらも181系になって補機解消されたのか? >>452
151系や153系は東海道本線くらいしか長距離電化区間がない時代の産物
キハ82は全国に特急網を構築するための車両
そりゃあ勾配に強いのはキハ82だわな >>452
181系になって補機解消だが、全車181系になるまで付けていた筈
なお、特急電車は勾配+カーブに案外弱い
中央西線の「しなの」が、シミュレートでは、181系では気動車と電車ではほとんど所要時間が変わらなかったとか。
電車の場合、勾配曲線区間ではノッチのオンオフを繰り返す「のこぎり運転」になりがちになる
そのために速度が下がってからノッチオンするので、スピードは上がりきらない
気動車の場合、5ノッチの連続に注意すれば、それなりに上がりきる
なお、気動車の勾配への実力は、キハ55>キハ58>キハ82 (勾配の程度にもよるが)
以上、石井幸孝氏の「入門鉄道車両」(ちっとも入門ではない)にこのようなことが書いてある
長々すまん 今朝、「新日本紀行」の「尾道」(1968)で、
空撮から尾道駅に接近する下り列車がキハ82先頭のキハ80系だったけど、
どの列車だったんだろう
熊本以南、大分以南、長崎本線はまだ非電化の頃だから
かもめ、いそかぜ、あたりかな
ヨン・サン・トオの前みたいだったから、なは、日向、はまだだったみたい キハ44000でやったスーパーチャージャー試験をキハ80系でもやってたらどうなっていたか キハ17←キハ45000だろ
でも、DMF17の改良は基礎技術力が低い時代に行われたため、排気周りの廃熱量を計算していないため改良せず、後年の5分5ノッチにつながった
だから、ターボチャージャーを付けても同一気圧における排気量すなわち排熱量が増大しているから、5ノッチ可能時間は5分を下回った
むしろ、端的な表現でDD13から運転制御装置を撤去して、読替装置を付けた100km/h運転化可能なブースター車両を連結した方がよいと思う
車両端は両側ラジエターの中央通路、車両中央はエンジンをやや片側にずらして反対側を通路
食堂車と普通車の間に繋いでおけば、そこそこ行き来があるから死角にはならない >>457
尾道駅に停車なら「かもめ」が濃厚だけど、通過なら「いそかぜ」かもしれない。 DMH17にターボを付けたら5ノッチ2分になってしまいそうだな
輸出用でターボ付きのDMH17HSがあったが平坦路線でしか使えなかったはず 小5のとき特急ひだがキハ80系との出会い
ようやく設定された禁煙車に乗れてもなぜか鼻先を漂うヤニ臭が消えなかった思い出
父親はタバコ吸わず、ヤニ臭に対する免疫がない家庭に育ったので、喘息持ちには辛い空間だった 座席がリクライニングしない上に背面化粧板とかチャチだな
485系は同一形状だが背面もモケット張り
日よけもロールカーテンだし気動車は予算が抑えられてたのが伺える
JR東海は転換クロスシートに交換したとか意味不明改造してた >>464
特急南紀
転換クロス・最高速度100km/h・要特急料金
快速みえの一部
新幹線余剰の簡易リクライニング・最高速度110km/h・料金不要(一部要指定席料金)
完全に逆転現象だが、既にキハ80系の命運は見えていたのでそのまま・・・ >>466
その台車は廃車したキハ82系からの流用というのは内緒か? >>466
その台車は廃車したキハ82系からの流用というのは内緒か? >>468
まあ内緒でもなんでもないけどな
更に付け加えれば
南紀・・・所定で2M2m(2エンジン車と1エンジン車の比率が1:1)という鈍足編成
みえの速いやつ・・・オールM、どころか、キハ58は350Ps×2というバケモノ
JR東海は元々長く使うつもりは無かったろうから、あえて放置か 快速みえ
キハ28-キハ58
急行かすが
キハ65-キハ58 >>464
キハ80系は北海道でしか乗ったことがなかったので、名古屋駅で“ひだ”の車内を
見て唖然としました。何で転換クロスになったの?
シートバックテーブルがあると車内で飲み食いするのに都合がいいのに…。
>>470
> 快速みえ
> キハ28-キハ58
キハ28の入る編成もあったのですか? >>472
80系は国鉄分割民営化当時であと数年の寿命で、85系の新車投入計画が既にあったから、
シートは最小限の改良で、当時快速で主力だった117系に合わせたのでは?
あの転換クロスも、当時国鉄のマイナスイメージから脱却の意味合いがあった。
快速みえはキハ28も入っていた。 リゾートライナーがキハ58併結で運転してたのはエンジンの老朽化が原因というデマがあるが車重が重くてキハ82一般車と同一スジで走れなかったため
せめて1エンジン車はカミンズエンジンを250PSにデチューンして換装しても良かったはず 北海道のキハ80系。これはイラスト入りになる直前だな。
https://youtu.be/kKfRhN9VeRs >>476
パワー/ウェイトレシオではキハ80系よりもキハ58系のほうが勝ってるんだよね JRマークを付けたキハ81が見たかった
70年代に全廃されてる
キハ82は少数が北海道と東海に承継された >>477
更に勝っているのがキハ55系
中央西線の急行はキハ55からキハ58になって、所要時間が延びたという
>>478
Mm比(2エンジン車と1エンジン車の割合)が同一の場合、ってことでしょ
紀勢線「南紀」の最晩年、キハ80系でMm比が1:1になって所要時間がかなり延びた
急行並みかそれ以下じゃなかったかな 更に一部は機関換装と足回り強化による最高速度110km/h化で追い打ちをかけていたな…怪速みえ >>483
キハ80系
・・・・117系並の転換クロスシート
快速みえ機関換装車及び急行かすが
・・・・新幹線から転用の簡易リクライニング 転換クロスだと背面テーブルが無くなる
意味不明な改造してたとか異常
登場時の185系並みのアコモに低下してる 1M2mで走行した事例はないな
キハ181系は3両で走った事がある >>485
185系登場から5年しか経ってない時代の話だからな JR北海道はリクライニング化したとか正反対の改造してる
しかし一般車両はJR北海道が先に廃車になってる
東海のやつはナゴヤ球場正門前駅の輸送で95年まで生き延びた >>489
キハ80系については、美濃太田所属は少なくとも特急運用時代はなかった。 キハ58はキハ28を適当に混ぜないと冷房できないんだったかな。 東海のキハ82系のJRマークはオレンジのと白の二通りが居たね >>488
北海道のキハ80系のリクライニング化は、定期列車運用がすべてなくなって、
臨時運用に入れる際に改造したんもの。
定期運用の際のアコモ改良は、茶色の壁・茶色のモケットの回転シートというもの。 東海はキロ80が承継されてるが北海道は民営化時点で定期運用が無くなってて波動用で普通車とキシのみだった
キシを承継した理由が謎
1両がトマサホに改造されたが残り2両は放置プレイだった >>496
フラノエクスプレスか、他のリゾート気動車に連結する計画があったのでは?
北海道は他に583系も、何も手を加えず廃車したし。 仮にもし北海道でキロが承継されたとしてもジョイフルトレインしか使い道が無くて放置プレイだっただろうな
波動用と割り切ってモノクラスになってた >>497
北海道のサシ581は客車に改造する計画があったとか言われてるが冷房装置がパンタグラフ折り畳み高さまで突出してるので入線可能線区が限定される >>496
80系は回路をキシまたはキロで、クロスさせるので、キシも残しておいたのでは。
言い方も正確ではないとは思うが。 >>500
先頭車を両渡りにすることでモノクラス可能にしてる キハ82の機器室を通り抜けた人いる?音とかどうだったかな。 キハ82の写真見ると乗務員ドアの窓を開けっ放しで走行してること多いな ラジエーターが収まらなくて苦肉の策で床上に置いてたな
キハ181・183初期も同様
完全に床下に収めて客室化したのはキハ183Nから JR東海車は晩年2M2mで走行する事が多く出力でキハ58・65に劣ってたな
挙句の果てには快速みえに下剋上される有様
一般車では1M2mがシステム上可能な最小構成だがこれで走った事例を聞いた事が無く非常に遅くなる >>497
台車だけ、クリスタルエクスプレストマム&サホロのキサロハ182になった。 あすかの場合運転系統的に失敗だったが
へいわの場合は電化までの中継ぎだから黒歴史じゃないでしょ >>510
運転系統、時間帯もそうだしあすかが走る時間帯に関西線内でかすがが並行して走ってたからそりゃ人気もないよな
もう1往復名古屋を朝方発車する列車を設定して天王寺や湊町に行ってたら名阪間需要を取り込めてた気がする >>511
80系にちりんと共通運用で回していた。
にちりん全面電車化で廃止。
つばさが181系気動車時代に存在したあおばと同じようなもので、失敗とは言えない。 >>513
確かににちりんの間合いだけど、えびの1往復を格上げしたものの、変速機が高速向けだから肥薩線の勾配はキツく、高い金払わせてるのに所要時間はそれほど上がらなかったはずだから個人的には失敗と思ってる。
当時は全国各地で特急格上げが進む中、廃止後に同区間は急行のみとなるってことは、試験的に間合いで特急化したものの需要があまり望めなかったってことでもあるだろうし。
逆に需要があったとしたら国鉄お得意の全国転配をしてでも格上げによる増収を図ろうとするのでは? >>514
博多〜都城・宮崎では、にちりんより距離や所用時間の点があっただろう。
矢岳越えの遅さは、八代〜宮崎の特定特急券で利用促進したし。
そのせいか利用はそれなりにあった。
200キロ以上を特定特急区間にして、特急を安売りが失敗だったと言えばそれまでだが、紀州東海岸を行く特急南紀も、遅さは似たような感じだったし。 >>512
近鉄に勝てないでしょ
その近鉄も名阪甲特急が乗客減少で2両で走ってた時代 1975年2月 特急おおよど 博多−宮崎 下り6時間21分 上り6時間8分
1975年2月 特急にちりん 博多−宮崎 下り6時間27分、6時間32分 上り6時間21分、6時間30分
にちりんは、所要時間の短いほうが電車、長いほうが気動車 >>517
日豊本線の単線区間が長いのもあって、485系も80系気動車も大して所要時間が変わらなかったな。
その当時存在した、485系電車化して1年足らずで廃止になった特急「日向」も、
所要時間は80系気動車時代と差がなかったと言われている。
1ヶ月後に新幹線博多開業してエル特急になった「にちりん」も、大差ない所要時間だった? 1975年4月 特急にちりん 博多−宮崎
下り6時間35分、6時間48分、6時間42分、6時間37分、6時間37分
上り6時間31分、6時間38分、6時間35分、6時間31分、6時間36分 こういうの見ると、昭和30年代って、ものすごいスピードで技術が進歩してたんだなって 三岐鉄道にもかつてキハ81、キハ82という形式があって、しかも関西本線に乗り入れてたらしい
国鉄のキハ81やキハ82と交差することはあったのかな? >>522 戦後、アメリカから入ってきた溶接や生産管理等の先進技術が普及したことが原因。エンジン含め、基本的な技術は戦前から戦時中にかけて開発されていた。ただ、当時は物資不足と生産技術が貧弱だったため、量産できなかった。
ステンレス車にしても、米国で戦前に開発されている。 >>521
そちらは電車特急だがいしかりも「いしかりがっかり」と呼ばれてたな
やはり「かり」で終わる愛称は不幸ばっかりだな 81系の「はつかりがっかり」ばかりが取り沙汰されるが、82系の「瀕死の白鳥」の事も偶には思い出して下され >>527
北陸本線が柳ヶ瀬経由だったころの旧線でキハ80系「白鳥」が車両故障を起こして、
C57に牽引されたとか >>528
北陸トンネルが翌年6月に開通したから、杉津峠越えの白鳥は1年足らずだったな 80系のはつかりとか白鳥っていうと、経路が災害等でダメになった時に
はつかりは花輪線~奥羽本線~五能線経由、白鳥は高山本線経由で運転したこともあるんだよね
特急の重要性とか災害時対応のマニュアルの違いとか
今とは色々事情が異なるのは分かってるつもりだけど、それでも凄いことしてたんだなと思う >>530
その他、キハ80系の「白鳥」は五能線や小浜線・舞鶴線・山陰本線経由で迂回運転されたこともあった >>531
気動車ならではの、線路があればどこでも迂回できる機動力だけど、そんな迂回運転すると、実質夜行列車にならなかった? >>527
「瀕死の」ははつかりも「瀕死のはつかり」と取り上げたメディアもあったよ ヘッドマークが絵入りになった時でも、まだ少数走っていましたね
北海、北斗、オホーツク、おおぞら、おおとり
それぞれ1往復だけでしたが、撮ることは出来ました
美しい印象ばかりです キハ81の開発にあたって、たしか前頭部(ボンネット先端から運転台後部あたりまで)の、ひとのアタマ2個分くらいの大きさの塗装済みのモックアップのモノクロ写真をなにかで見た記憶があるんですが、当該モックアップの写真が掲載されている文献もしくはサイトを御存知のかたはいらっしゃいませんか
いま探しているんですが、なにで見たのかが思い出せなくて >>530 災害による緊急時とはいえ、行き当たりばったりで事前テストもなく五能線などのローカル線走らせたのだろうか。自重、全高等、キハ55とあまり変わらないから、入線可能と判断されてたのだろうか。 >>536 自己レス、Wikiでキハ80とキハ55の寸法比較してみたが、ほとんど変わらない。
全高でキハ80の方が2p高いだけ。高運転台、裾絞りの外観に捉われていた。 当時はそのへん結構雑だったのかもしれない
キハ10系の銚子電鉄乗り入れ運用にキハ20入れたら観音駅で車体がホームこすって
以降直通やめたなんて話もあったりするし…… >>535
自分も見た記憶がありいろいろ探してみたら鉄道ファンNo.180(1976年4月号)の
「ディーゼル特急"はつかり"の登場」という記事にモックアップのモノクロ写真が
載っていたが、これかな?
>>536
昔の国鉄は迂回ダイヤを常に用意していたそうで、はつかりや白鳥の話じゃないが
石北線過去スレにおおぞらの池北線ルート、おおとりの名寄線ルート等の迂回ダイヤを
駅で見せてもらった人の書き込みがあったな。(なんとも羨ましい・・・)
入線テストがあったかは知らないが、行き当たりばったりではなかったようだ。 祖父が学生の頃、まだ急行だった『日本海』で北海道に向かう際、
秋田の手前くらいでなんらかの災害が発生して奥羽線が不通となり五能線経由に臨時変更
但し五能線の規格、五能線に入れる機関車の牽引力、カーブの関係などで『日本海』の編成から半分くらいの客車が減じられたと言っていた
80系『白鳥』五能線経由の様に、気動車特急がローカル線経由に変更になった場合、同じ様に減車されたりする場合もあっただろうか?
10両編成くらいだったらキロ・キシの他とキハ80の4両くらいを抜き取るとか 8620やDF50だったら日本海の通常編成で問題ないと思うけどな >>540
客車と違ってキハ80系の中間車抜き差しでの減車は無さそうかなぁ。
減車するなら基本7両のみで行く感じだったんじゃない? ありがとうございます!
いくら探してもなかなか見つからなくて困っておりました
こだま形のような前頭形状からキハ81のあのデザインに至るきっかけについてちょっと考えてみたくなり、必死に探し回っておりました
御回答、感謝申し上げます!! >>539 さん
追記、ナンバーの書き忘れ、たいへん失礼いたしました
深謝 白鳥の五能線迂回は1963年と1966年の2回
1963年の時はそもそも青森白鳥は6両編成、1966年の時ははくたか分離後で新潟折返し編成のあった時代で10両
これだったらそのまま五能線に入れるでしょ 五能線の各駅交換長は一部駅で160mがあるけどだいたい240m以上
だから、10両編成までならほとんどそのまま入れる
交換長を越える編成を通過させる場合、
交換長を越える編成は機外停止させて、先に交換する有効長内の列車を駅へ進入させて停車させ、その後で交換長を越える編成が駅進入→出発 南紀で晩年のキハ82系を扱っていた名古屋工場の検修のインタビューやルポの載った当時の雑誌ないかな?今ならイカロス辺りが取材してそう。 故障が連続したからってしんぶんにまで叩かれるなんて不運だな >>550
当時としては20系客車、151系こだま型に続き、期待が大きかったのだろう。
それらを踏まえて改良したキハ82が、故障が少なかったのも結果的に収穫だった。 >>545-546
編成が逆になってしまうが、青森のデルタ線でも使って直したか? >>552
復路を同じ経路で走れば、編成の向きは元通りになって尾久に戻れんでは? すまん、はつかりではなく白鳥の話だったか
だとしてもやはり、同じ経路で戻れば、車庫に戻る時の編成の向きは元通りだが ピク10月号で予定されている特集『思い出のキハ80系』が楽しみだ
前回の特集(2003年8月号)に載っていたキロ後位のジャンパ栓受移動と
キシの電力負荷分担の解説は非常に興味深く楽しめた
前回の特集から(単独では)いつのまにか20年、この先ますます取り上げられることが
少なくなるだろうし、この機会に可能な限り濃い内容で発売してほしいな 公式やamazonでは売り切りだったが地元の書店に行ったら複数冊が棚にあったので買った
>>551
82の方も「瀕死の白鳥」と新聞には叩かれた様だが 80系が走っていたころの特別急行は
字の通りそうそう乗れるものではなかったのでは。 同じ80系を名乗る湘南電車の方も初期は故障多発で『遭難電車』と揶揄されてた おおぞらは3本とも出自が違うとか書いてあったが
今のおおぞらも昔からの3本に加え狩勝つの帯広以東の格上げしたタイプ2本と臨時まりもの定期化したタイプと出自がばらばら
最後まで283を使っていたのが臨時まりも格上げ便と昔からの3往復のうち2往復
おおぞらの中でも格式に差があるのかな >>463
おおとりの間合いで使用していた
札幌を夕方にでる急行大雪の格上げ
札幌発着の急行大雪はノーマルタイプ
釧路延長タイプ
紋別、はぼろを併結タイプがあり、置き換えやすいノーマル→釧路→紋別、はぼろ併結の順に格上げしていった 80系と183系混在の時代に、キシ80目当てで乗り鉄旅行に行ったが、おおぞら は真っ先に183系化されてたので一度も乗らなかった。今から思えば、絶対に営業されてたに違いないビュフェもどき、見ておけば良かった! キハ82後位の両渡り化改造が国鉄時代から行われていたことは知っていたが、それが昭和41(1966)年度と古くから
しかも北海道だけで行われていたことは今回初めて知った てっきり道外でも改造されていたものと思っていた
昭和46(1971)年から電車化までの「白鳥」のキハ82+キハ80の客用ドアが向き合う付属編成は、キハ82後位に元々
備えられていたジャンパ栓受移動の機能を使って連結していたんだな 名古屋~富山経由~金沢を走った急行加越が、80系の特急ひだに変わったのが昭和43年なので
20年以上も居座っていたのがすごい。 >>565
『ひだ』は奥羽本線電化で余ったキハ80系、同期の『しなの』は新製の新型キハ181系
(しかも食堂車付き)
しかし『ひだ』のほうが故障も少なく安定していた。 燃料タンクが大きく航続距離的に2000km位走れたとか凄いな
最近の軽快気動車だとどっかで給油しないと大阪~青森とかの超長距離は走れないはず >>567
まあ使用する列車に適応するように設計しているからね あと流石に2,000kmは無理だよ
キハ80系の燃料タンクって550Lしかなかったし 夏季のみ延長運転していた函館〜網走間の「北海」に通しで乗ってみたかった 網走延長運転時の「北海」はいろいろ特徴がある面白い列車だったな
延長運転期間中は札サウ受持ちの「オホーツク」と組み合わせた運用だったので、通常は組み込まれない
キハ82 900が編成に入っていたり、「北海」は山線経由のため函ハコ編成と札サウ編成の向きは逆になるので、
「北海」も「オホーツク」も毎日上下で編成の向きが違っていた
1974年頃までは10両編成のまま網走まで運転されたが(「オホーツク」も「北海」延長運転期間は10両)、
1975年頃から旭川で付属編成を切り離して7両で石北線に入るようになり、基本編成が札サウ持ちの時は
函館−旭川間で号車番号が函館方から@ABIH…DC号車となっていた(@〜B号車の付属編成は函ハコ持ち)
(1980年の55-10改正で道内特急の号車番号は札幌方から@AB号車の順、「オホーツク」も@〜F号車の7両に変更されたが、
1981年夏季延長運転時の札サウ基本編成時の号車番号は未確認<(_ _)> 想像だが函館方からIHG@A…EF号車かな?)
1981年まで夏季の「北海」網走延長運転は行われたが、直後の56-10改正で「北海」は函館−札幌間に短縮、
札幌−網走間は「オホーツク3・2号」(札サウ受持ち、特急なのにサボがツートンでガッカリ…)として定期化された tps://youtube.com/shorts/3RylCbqMdUY?si=EfYPhNr5PMuLAw_h
かもめ かつて「おおぞら」や併結時代の「おおとり」釧路編成が通った路も今日限りだな
石勝線が開通して寂れてしまったとはいえ、特急が走っていた線区が廃止されるとは・・・
それにしても80系が活躍していた頃と比べて北海道の鉄道地図はすっかり寂しくなってしまった