そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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>>734
Erectile Dysfunction Ossan タワー
あまり高そうにない・・ 2020年廃線
大船渡線(気仙沼−盛)
肥薩線(吉松−隼人)
くま川鉄道湯前線
北海道旅客鉄道 >>727
北方領土は2島返還で内定してたのに
NHKが4島返還ごり押ししたためいまだに1島たりとも返還されてない 「北海道に電化されてない鉄道路線があった事」
ってな話になる日も近いのか…。 何という逆説的な発想だことw
でも、北海道新幹線はどうするんだ? 初めからブルマ採用していない学校ばかりなんだってな北海道は。
日教組は無関係だと思うが。 電車内や駅のベンチで学校指定の靴下をルーズソックスに履き替える女子高生がいたこと >>776
それ以前に札幌に電気機関車が往来してたことがかなりの伝説だし。 北海道の電気機関車の中で、ED76-500は、50/60Hz両用だった事。
何の必要があったんだか不明だが。 >>784
ED76-500が50/60Hz両用だったというのは初耳なんだけど >>784
485が何のために走ってたのようなもん
なので悪いけども別に〜としか思わんw >>784
ED76-500番台 は九州用と比べて車長が一メートル長く貫通扉付きで別形式に見えたな。
そのせいか分からんが、ED75-500番台は501の一両で終わった。 そだよ
サイリスタ制御を試すための試験機でもあった
その成果が、客貨両用SG付きのED76-500
そして、サイリスタ制御を改良したその後の交流機につながるわけだ 何かの本にそう書いてあったのを目にして、
「何で北海道でしか使う可能性ないのに、50/60Hz両用なんだ?」
と思った記憶があるけど、
その本の記載が間違ってたか、こっちの誤解だったのかも知れない。
大変失礼。 >>774-775
と言うか、その二島は北海道。
千島ではないから。 >>791
交流電気車両要論(川添雄司著、1971年)に掲載の諸元表によると
電気方式は、20kV, 50 (60) Hz となっている。
これは他の50Hz用電機でも同じで、60Hz用は 60 (50) Hzとなっているから、
これだけでは、なんとも言えないかな。
ただ、補機電源は50Hz用になっていて、事実上は50Hz専用ということになりそう。
60Hz対応が実際にどうだったかは、公式の説明を見たことないのでわからない。
試験機だと余計な機能(ここでは60Hz対応)をわざとつけていることはままあるんだけど、
ED93(→ED77 901)のサイリスタ制御をもとに作られたED75-500は事実上の量産先行車で、
サイリスタ制御がうまくいった暁には量産する計画があったようなので、
時期的にはED75-300(60Hz用)の後釜候補くらいには考えていたかもしれない。
まぁ、実際には九州(石炭輸送のあった北部を除く)他の地方線区では軸重関係でED75は使いづらく、
中間台車付きのED76(従来制御)やED77(ED75-500を改良したサイリスタ制御)が投入されたんだけどね。
ところで、ED76-500は、整流回路はサイリスタが採用されたけど、制御自体は低圧タップの従来型で、
>>790 にあるような、ED75-500の改良型、というより、一部断念型といった感じだな。
ED75-500の本当の改良型は、ED77ということになりそう。
なんかここに書くような内容ではないよう w 黄色文字で大きく書いてあった
道 外 禁 止
の貨物車両 >>794
ノロマだから北海道に閉じ込められたんだっけ? 平塚七夕号という臨時快速が新宿から平塚という短距離の運行で165系が走ったこと 北海道の国鉄は、列車到着間際にならないと改札されずホームに入れなかったこと。
だから、改札口で列を作って改札が始まるのを待っていたこと。
そんなことを札幌市内の駅の日常の通勤通学客に対してもやっていたこと。
余所者にとっては怒りがこみあげてくる理不尽で不快な慣習だが、地元の人はそう思ってなさそうな様子だったこと。 昭和時代の東海道・山陽新幹線の1時間に数本しか発着しない駅も列車到着10分前ぐらいにらならないと、ホームに入れなかった。 列車本数が多くないところは何処も同じ
「ただいまから◯◯行き列車改札します。乗り場は橋を渡って3番線です」 >>795
・脱線防止の改造ができない
・経年経過で近いうちに廃車する予定
の車両が北海道に送られてそうなってたはず >>800
一般貨物列車の最高速度を75km/hに引き上げた時(従前は65km/h)、改造しなかった(できない)車輌を閉じ込めた
本州から送ったものではないし、本州内でも75km/h未対応の限定運用の貨車があった(ロシキなど頭に小さくロが着く車輌は65km/hまで) 485系1500番代の後に1000番代が登場した事。
で、その1000番代に関しては、クハが片栓だった事。 大阪メトロ谷町線で、御堂筋線10系に準じた20系が走っていたこと 113系1000番台の1次形は1度も東京地下線に乗り入れたことがなかったこと >>806
ここでいう東京地下線とは総武快速線の地下区間のことだけどな >>805
その113系1000番台、一部編成が湘南色で115系のふりをしていたこと もっと言えば113系1000番台(Tcだから111系だが)が大阪に1両だけいて先頭にたっていたこと 湘南色とスカ色では、塗分線の位置が違った事。
スカ色の青の領域 > 湘南色の緑の領域
になってた。 >>717
瀬野八では、EF210-300になった今でも無線は手持ちのようだ
ギシギシ……日本最大級の急勾配で貨物列車を後ろから押す「補機」EF210に乗ってきた | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/37998 東京ディズニーランドの最寄り駅が東京メトロ東西線の浦安駅だったこと >>813
その頃のディズニーランドには園内を移動するためのゴンドラリフトがあったこと 大阪―青森間の「白鳥」は、当初は新津―新発田間で羽越本線経由だった事。 大阪―青森間の「白鳥」は、直江津から上野に向かう編成が連結されていた事。 >>805
その一次車が広島や和歌山、静岡を走っていた。 >>810
山陽線にスカ線塗り分け幅の湘南色がいたね。
通常塗り分け幅のと混結してたから、
全車湘南色なのに編成として眺めると凸凹だった。 N700系「のぞみ」は東京〜博多間の所要時間が4時間50分
500系「のぞみ」は4時間49分と1分速かったこと 473「系」とはいうものの、これに該当する車両は、1ユニット2両しか存在しなかった事。 抑速ブレーキ付の車両に製造を統一したせいでサロだけの系式が出てしまった事 >>824
その車両のうち1両が余剰となり、近郊型に改造されたあげく、同期の車両よりも
5年早く廃車にされた。 >>813
志摩スペイン村の最寄り駅も志摩磯部だったこと クハ164は、165系の一族になったけど、
前面の塗装は全てオレンジ(クハ153当時)のままだった事。 183系を普通車のみでムーンライトながら用に10連を組んだら8M2Tになってしまったこと。 似たようなパターンだと、
山陽本線に各駅停車用に集められた153系の晩年は、
4M2Tx2(8M4T)の強力編成で、
瀬野八でもEF61による後押しが不要だったこと >>829
むしろ電車も押してたことの方が忘れられてそうだけど 瀬野八や関門を含む区間だと151系電車特急よりも80系気動車特急のほうが速かったもんな。 >>831
山陽新幹線開業前、新大阪〜倉敷間ではキハ181系の特急「おき」よりも
キハ80系の特急「かもめ」の方が速かった。 EF61-100、なる補器が登場する予定だった事。 >>832
山陰の181はエンジントラブルを回避するためにあえて80系相当のダイヤで運転してたとか。
しなのとかつばさはフル性能で走らせてたからエンジントラブルも多かったからな。 >>829
各停もあったと思うけど、基本は快速だったはず >>834
キハ80系からキハ181系に置き換えられた当初の特急「あさしお」「はまかぜ」
もキハ80系時代のダイヤで運転されて、編成は8両編成に改められたが、
キハ181系化後の「あさしお」は、わずかながらスピードアップされて、
京都〜米子間の所要時間がキハ80系時代に比べ2分〜5分程度短くなったな。 キハ181系「つばさ」は、廃止した補機を復活させた事。 初代特急「おき」は新大阪〜出雲市を山陽・伯備線経由で運転されて、
車両はキハ181系で、山陽新幹線岡山開業後は特急「やくも」となり、
昭和50年に設定された小郡〜米子・鳥取間を山口線経由で結ぶ2代目「おき」は
「はまかぜ」などとの共通運用のキハ80系で運転されて、のちキハ181系化されたこと。 急行「だいせん」としては、日本国有鉄道(国鉄)が1968年10月から大阪駅 -�ケ取駅・米子駅・出雲市駅・益田駅間など山陰本線の主要駅間を福知山線経由で運転を開始した。
「だいせん」の名称自体は、岡山駅- 松江駅間を伯備線経由で運転を開始した快速列車として1953年3月から使用されていたが、1968年10月のダイヤ改正により、伯備線経由の「だいせん」を「おき」に変更して、福知山線経由で運行する急行列車に「だいせん」の名称が使用されるようになった。
確かにこのあたりいろいろとややこしい 「まつかぜ(博多発着)」は、下りが大阪発、上りが新大阪行、だった事。 急行「だいせん」。
京都から大社へ行く列車なのに
なぜか赤穂線を経由していた時代が(笑)。 急行「丹後」の一部列車には山陰本線・舞鶴線・小浜線経由の敦賀発着編成が併結されたり、急行にも関わらず京都〜城崎間では特急「あさしお」より速い列車もあったこと。 >>655
⚫はGマークということ(四つ葉のクローバーではない) 遠軽―網走間は、名寄本線・湧網線経由の方が距離が短かった事。 米子発の特急「まつかぜ2号」は大阪行だったが、昭和60年3月改正で新大阪行となったこと 富士駅では、身延線は東京方面から東海道線に合流する格好になってた事。
今の「ふじかわ」は、進行方向変える必要なかった。 >>813
あの頃は
雨でも降った時には
アトラクションの待ち時間ゼロで
怒号のスペースマウンテン5連ちゃんとかやってたわ 昭和49年9月30日から昭和51年11月6日の2年の間に普通列車のグリーン料金は
100〜300円から700円〜1500円に一気に跳ね上がった。 グリーン席、A寝台には
通行税がかかってましたね。 >>847
線路を付け替えるキッカケとなった「富士宮臨」などというものも今ではまったく無いのかな。
>>849
それを出すなら東名ドリーム号の指定料金が、1979年夏当時の運輸大臣(後の塩ジィ)指示で\500→\1,500に爆上げされたのも。
競合だらけで一括運賃の今となってはいくらが適正だったのかよくわからないよね。 >>851
まぁ、最早存在しないと考えるのが自然だろう…。
で、急行「富士川」の時代には、1往復だけ三島―富士―甲府っていう列車があって、
これは言わば、「富士で進行方向を変えなくて済むようになった」という存在だった。 京阪神緩行線で、神戸駅折り返しの普通電車が日中にも運転されていた 岡谷―辰野―塩尻間は、今でもれっきとした「中央本線」である事。 国鉄時代、金谷駅構内に東海道本線と大井川鐵道との連絡線があった頃、
113系電車や80系電車、「サロンエクスプレス東京」などの国鉄の臨時列車が
大井川鐵道に乗り入れていたこと >>854
更にその前甲子園口折り返しだったこと
そしてその頃芦屋駅で快速乗り損なうと吊り掛けモーターの旧型電車各駅停車で大阪駅まで爆音で行くしかなかったこと 「東海道本線と山陽本線の境界は神戸駅である事」
ってのも、ともすれば忘れられがちだな。 東北本線の起点は東京駅であること。
昭和40年代には上野発着の特急「ひたち」、「はつかり」、「いなほ」など
東北方面への特急の一部も東京駅発着だったこと 総武本線の本来の起点は「御茶ノ水駅」であること。
鉄ピク2020年9月号通算977号で知った人多いのでは? 田町電車区にはマヤ検用のクモハ73が奇数向き偶数向き各1両あって、ATC化までしぶとく残っていたこと。
それと平成に入っても品川客車区に入場時控え車としてナハフ11が2両残されていたこと。 >>863
その旧山手線区間は現山手線も含めて、東北本線の支線だった。
山手線だった名残りで北イケ101系8連で運転されていた。 >>865
101系(カナリアイエロー)は山手線で使われていた8連(6M2T)が
山手線103系新製投入で押し出されて、そのまま転用されただけだな
名残というわけではなく、たまたま同じ電車区だったと言うだけだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています