そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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>>377
その両国駅の急行列車乗り場と新宿駅の特急・急行列車乗り場の入り口に改札が有って、
急行券・特急券を検札,回収していた。 京阪電鉄びわこ浜大津駅は、昭和56年に駅舎統合されるまで、
京津線と石山坂本線は駅舎が別になっていて、三条〜石山寺間の急行も運転されていたこと。 西武拝島線玉川上水駅に、屋根も番線案内も一切ない、一見廃ホームのような頭端式ホームがあったこと。
小学校の遠足で、この駅から飯能へ直通する臨時電車が出て、往復それに乗った。
確か451系の6連だったような気がする。
後に玉川上水〜小平間の区間運転用に多少整備されたと聞くが、そのときはどういう形になったんだろうか。 >>382
京津線の浜大津と石坂線の浜大津東口は
駅舎どころか駅自体が飛び地で離れていた
頁下方に航空写真(1975、2008)
ttp://tsushima-keibendo.a.la9.jp/keihan/keishin2.html
江若の16番レイアウト(京阪浜大津あり)、再開発前の構内案内図など
ttp://takehiro-tanimoto.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f49c.html
ttps://lycaste621.shiga-saku.net/c1618.html
16番浜大津セクション
ttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bb-62/rakuhokuitiban/folder/443895/62/10027062/img_0
ttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9f-f9/keihan2600club/folder/75378/46/35860546/img_0_m?1457872800
ttps://2.bp.blogspot.com/-cPNh6yU5FZo/VSPsLxgM5II/AAAAAAAAAcw/wJ_hKFObnDs/s1600/hamaotsu-station-diorama.jpg 大阪環状線が現在のように正式に環状運転になったのは昭和39年3月22日で、
西九条駅の高架化が完成するまで、大阪環状線は桜島〜西九条〜大正〜天王寺〜鶴橋〜京橋〜大阪〜福島〜西九条〜桜島といった運転形態だったこと >>383
廃墟状態から一応こぎれいに整備されて上りホームから間にある留置線を渡る構内踏切も作られたけど屋根もなく輪郭はもとのままだったな。
朝の小平行にしか使われず玉川上水終着の列車はなくこの列車用の車両は回送で送り込まれてきた。
廃墟状態の頃はそのホーム発着の立正佼成会の墓参り貸切列車も運転されて
拝島線は非冷房の赤電しか走って来なかった頃に冷房付の101系でうらやましかった思い出がある。
まあ、お彼岸で冷房は使わない時期だったけど。
まだ現北口ロータリーや車両基地が米軍基地跡地の廃墟だったころ。 北丹鉄道という非電化の小私鉄が福知山駅から分岐していた。
同社は、線路保守も車両の修理もできない経営難だったこと。 でも北近畿タンゴ鉄道引き継いだしな。江若鉄道引き継ぎ湖西線みたいなもん。
福知山駅と言えば旧型客車のメッカかつ1960年代後半福知山線からは貨物除きSL牽引列車が引退後も福知山から先はSL牽引列車乗り放題だった事いうのが優先順位としてはやはり先に来る思う。 主にターミナル駅の切符売り場の中に拾得定期券の掲示板が有り、
定期券の日付、区間、氏名、保管場所が、記載されていた。 >>385
その経路では西九条で進行方向が変わる。
最初の桜島は不要では。 >>385
その経路では西九条で進行方向が変わる。
最初の桜島は不要では。 >>373
川西飛行機工場の貨物輸送のため、武庫川線が三線軌条だったこと
武庫川団地延伸まで、終点だった武庫川から北、洲先から南の廃線で三線軌条がそのまま残ってたこと 阪神電鉄本線で運転されていた準急は、ジェットカーによる各駅停車の停車駅を
少し減らしただけのいわば赤胴車による各駅停車としての位置づけで、
停車駅も多く、一駅置きに停車といった運転形態で、途中駅から特急や急行と停車駅が
同じになったり、2駅も3駅も連続通過する列車ではなかったこと >>388
北丹は線路が由良川の河川敷を通っていたため、毎年梅雨から台風のシーズンにかけ
川が増水するたび線路やバラストが流出、まともに保守もできなかった 東海道本線尼崎駅は、かつて「神崎」という駅名だったこと 福知山線は昭和31年に尼崎〜塚口間がすでに電化されていて、EF58牽引の
展望車付きの客車特急「つばめ」などが方向転換のために塚口まで入線していたこと。 天王寺駅1番線、2番線は紀勢本線直通優等列車用ホームだったこと。
ここにも中間改札があった。 阪和線堺市駅の天王寺方と和歌山方に上下線との連絡用ポイント(渡り線)があったこと ATS-Pは、スピードオーバーによる脱線事故を防げる手段ではない事。 1990年、大阪の鶴見緑地で開催されたされた「花の万博」開催期間中に運転された
京橋発着の特急「エキスポくろしお」と京橋発着の天王寺経由特急「エキスポ雷鳥」 非電化時代の片町線の長尾−大住間に煉瓦造りの短いトンネルがあったこと。
当時は松井山手駅はまだ建設さえ行われてなかった。 大阪メトロ谷町線の起点駅が大日になったのは、昭和58年
それまで谷町線は大日の次の駅の守口が起点だったこと 阪急宝塚線の三国〜庄内間に半径100mの急カーブがあったこと 阪急三国が準急停車駅だったこと
梅田・十三・三国・豊中以遠各停(箕面行・池田行) 1991年3月まで、JR西日本桜島線で101系が運用されていた >>408
そんなん知らんかった
176号線を跨ぐ鉄橋ができる前なんかな?? >>408
仙石線の本塩釜のカーブもすごかったな
と言うかあれでは三国駅が急行みたいに通過でも準急みたいに通過でも変わらん 近鉄桜井駅の伊勢中川寄りにもきつめのカーブがあって、桜井駅構内改良により
カーブが緩和されるまで特急も桜井通過の時は、スピードを落としていたこと >>412
関西って101系顔の103系が走っていたよね? >>416
素人目には103系も同じ顔のカテゴリだけど、
どう違うん?
窓が大きいの? >>418 何で103で前面窓少し小さくしたか?
スト権奪還などのスローガンやステッカーを組合が貼るスペースを広げるため。
103ATCはもっと広げた。急行型、更には一般型気動車のキハ40も同様。 京阪神緩行線で一時期、福知山線から明石電車区に転属した高運転台の
スカイブルーのクハ103を先頭にした103系7両編成が走っていたこと >>416
大阪環状線の一部を8両編成化に伴いサハ101形とクハ100・101形の一部がサハ103形750番台とクハ103形2000・2050番台に改造編入 >>417
そうじゃなくて、どう見ても101系に見える103系があった >>424
関西線や阪和線に入っていたクハ103の一部だろ。
あれはクハ101とクハ100からの改造だから、車体はまんま101系だった。
奈良に住んでいた頃俺も見たことがある。 JR東海飯田線北殿駅で、停車中の119系と構内に進入してきた165系が衝突した事故 三鷹事件の生き残り車両が西武鉄道で旅客列車として走行していたこと。 東北本線に115系の塗り分けをした113系1000番台がいたこと。
タイフォンの位置が115系と異なっていたので、すぐ見分けがついた。 なんとなく、トリビア・スレの様相に…
忘れていたというより知らなかったよw 新幹線300系は初期トラブルが多かったこと。
部品が脱落して、その部品がホースを切断したことから東海道新幹線内で300系ひかりが4時間立ち往生したり、
マスコンハンドルが折れる事故も(施工は川重) それ以前の問題として、300系の企画自体が
JR発足直後の見切り発車状態だった為、設計上の欠陥が重なったこと
それらの中には、量産化前にすでに判明していたものもあったが
計画上の問題から、すでに引き返せない状況に・・・ 新幹線100系は、登場当初、2階建て車両2両を外して編成減車された12両編成で「こだま」に充当されたり、
2階建て車両が1両しか連結されていなかったこともあること。 動橋は昭和45年9月末まで特急停車駅、長いホームと広い待合室がその名残。 泉北高速鉄道は開業時から1993年まで全業務を南海に委託していた。
そのため、泉北高速線の運転士、車掌は南海の乗務員だった。 山陽本線の111系に、
湘南色なのに側窓周りの橙色の幅が
スカ線や急行型と同じように狭い塗り方の車両がいたこと。
通常の幅広の塗り方の車両と混結するので、
凸凹の外装だった。 京急新馬場駅は、北馬場駅と南馬場駅が統合されてできた。
そのため、ホーム有効長が200メートルと長いこと 新京成の北初富駅近くに北総線との連絡線があったこと ほぼグリーン車、のグランドひかり1階席。
ほぼ2人用個室、の24系25型の端っこ。
ほぼA寝台、の583系のパンタグラフの下。 特急たんば 京都〜福知山
特急文殊 新大阪〜天橋立 京都丹後鉄道宮福線は、開業当初は電化されていなかった 急行つくばね号は新幹線の上野開業前まで走ってたこと。
水戸線が筑波山の麓を通るから「筑波 根」なんだろうと邪推してますた。
彼の地ではお山を筑波嶺と呼ぶのだそうで(恥) >>438-439
名鉄の島氏永もそれだったはず。 山陽新幹線0系「ウエストひかり」に連結されていたビデオカーとビュッフェ車改造の子供の遊び場
キハ181系臨時特急「マリンはまかぜ」に連結されていた客室の一部が子供の
遊び場に改造されたキハ181 グリーンアテンダントの元祖ともいえる東北新幹線のソワニエ
東北新幹線の個室
同上の二階建て車両 >>450
だったら普通に「つくば」でもいいだろと思ったわ
「つくば」じゃなくて「つくばね」にしなきゃならないのは何故だろうか?
商標登録とか? >>447
福知山止まりのきのさきが元のたんばか
でもきのさきの方がたんばになるべきだわ
あと文殊は走行区間ごと消えたな
むしろ「もんじゅ」ときいたら福井にあったあれの方を思い出す 泉北高速鉄道の3000系や100系が南海高野線の各停河内長野行、三日市町行などに使用されていたこと 南近畿ワイド周遊券では紀和〜和歌山市間は乗れなかったが、のちに和歌山市駅でも
乗降できるようになったこと 二階建てグリーン車は二階席から埋まるのに、おっさんだけに限ると一階席からな理由。 >>461
言いたいことはわかるが、俺は変に疑われるのが嫌なので、階下の窓際に座ったらカーテン閉めるwww >>455 考えられる原因、常磐線から筑波鉄道線に乗り入れる臨時快速「筑波」と間違えられやすい。こちらの方が筑波山の登山口に直行する。 つくばねの通る水戸線沿線なんて裏筑波だろと言ったら、下館、岩瀬辺りの住民から叱られるか・・ 黒石線が弘南鉄道に移管した初めの2年間だけ、黒石線の方の川部駅は弘南川部が正式名称だったこと。 阪神大震災の時、JR東日本の秋田車両センター所属の非冷房のキハ58系を
JR西日本が借り入れて、播但線の普通列車に使用していたこと 御庄か、懐かしいな。
山陽新幹線新岩国駅と隣接するも、全く接続の意図無し。
清流新岩国駅になって、少しは変わったのだろうか? トイレのような臭いが立ち込めるホームから、ロッド式のディーゼル機関車牽引の臨時快速筑波が発車する土浦駅。
駅舎は軍艦のような形をしていた。 トイレのような臭いが立ち込めるホームから、ロッド式のディーゼル機関車牽引の臨時快速筑波が発車する土浦駅。
駅舎は軍艦のような形をしていた。 紀勢本線の特急「くろしお」の381系電車への置き換えは、昭和53年10月のダイヤ改正前の
昭和53年9月15日から順次実施されていったが、381系に置き換えられた「くろしお」は
キハ80系気動車のダイヤのままで運転されたため、電車化によるスピードアップはダイヤ改正の日までお預けだったこと。 それで昭和53年9月にはさっそく「おおよど」に「天ワカ」印の車両がお目見え。
休む間もなく酷使された。 大阪環状線・関西本線の今宮駅は、昭和39年に大阪環状線に新今宮駅が
開業したことにより、廃止されかけたことがあること。 板谷峠を通過するつばさ(キハ81)に補助機関車(EF16 EF64 EF61)を連結 2250kw、2550kw、3900kw な〜んだ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています