そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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四国の特急「しおかぜ」、特急「うずしお」の列車名は、山陽新幹線開業前、
山陽本線で運転されていた151系電車特急の列車名だったこと 「つばめ」「はやぶさ」「白鳥」「かもめ」「はくたか」あたりはご存知だろうが、
「はと」「ひばり」もあった。
「すずめ」「かも」「チョウゲンボウ」はなかったと思うw >>232
本日10日は183をすっ飛ばして185人な件 189系来ちゃいました。
瀬戸際峠を超えて感染爆発に突入か? >>253
「しらさぎ」は健在だが「雷鳥」は「サンダーバード」に・・・
なぜカタカナに。「国際救助隊」じゃあるまいし。 >>233
山陽特急時代の「うずしお」もその事故のせいで80系に代走され「うすしお」だの「うそしお」だの言われてたな 「房総ローカル」の上り列車の一部が幕張行だった事。 東海道新幹線の「ひかり」は初代ではない。
1958年に九州で急行の名前に使われている。 その急行の「ひかり」は、大分から豊肥本線を経て熊本、さらに博多を経由して別府に至る
(またはその逆回り)というとんでもない代物だった。
設定当初の名前は「ひまわり」で、後にまた「ひまわり」戻された。 今では、京都・大阪と博多間といえば新幹線しか思い浮かばないが、国鉄時代には山陰本線、
福知山線をわざわざ経由して通しで運転していた特急があった。
京都・大阪から博多に行くのに(またはその逆で)丸々乗る人がいたのかどうか知らないが、
子供の頃、博多から浜田までその特急「まつかぜ」に乗った覚えがある。 昔はそういう、「線名に忠実」な運転区間の列車、ってのが結構あった。
上越線開業後も、上野―新潟間に信越線経由の列車が運転されたり。
「北海」もそうだろうな。
「あさひ」→「べにばな」が、今泉―赤湯間で律義に米沢経由だったとか
(米坂線全区間運転)。 「くろしお」も非電化時代は天王寺〜名古屋の運転があった。
その後も天王寺・和歌山市〜名古屋間の夜行普通列車が存在していた。 延々特急の王者と言えば、青森「白鳥」。
昼間特急にして、大阪から青森まで、上野を無視してずっと日本海側を走り通した。
北陸、信越本経由で上野までの、信越「白鳥」の大阪発が上りなのに対して、青森「白鳥」
では大阪発が下りだった。 その「白鳥」初代は電車ではなく82系気動車だったこと。 博多〜宮崎間を鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由で結んでいた特急「おおよど」
博多〜宮崎間を最短距離で結ぶ特急だったが、所要時間は急行「えびの」と
10分程度しか変わらなかった。 函館―旭川・釧路間運転の「おおぞら」があって、
これは、列車番号上は旭川編成が”本体”だった事
(函館―旭川間3D・4D、滝川―釧路間4003D・4004D)。
食堂車は釧路編成に連結されてたけど。 特急「北海」
函館本線の通称「山線」経由の特急だった >>249
その「くろしお」がキハ81系の最後の舞台だったこと
その後、381系になった「くろしお」のイラストヘッドマークが、
「くろしおう」に見えて仕方なかったこと >>238
雷鳥を英語にしたつもりなんだろうけど、実は雷鳥の英語名はサンダーバードではないんだよな。 >>257
さらにそのせいでライチョウが米国の神話に登場する伝説の鳥「サンダーバード」に似ているから「雷鳥」と付けられた、という誤解も生じるようになった
ただこれは681系登場前からあったこじつけであるが 当然ながら黒潮の英語は「Ocean Arrow」ではない
また「Black Tide」でもない 加藤厚労大臣
出来る人ならコロナ担当大臣も兼任してたはず 「鹿児島本線から筑豊本線へ直通する列車は、貨物線を通過するため折尾駅は通りません
(運賃は折尾駅経由で計算します)」
というような趣旨の記載が時刻表にあった事。
で、索引地図にもその貨物線が示されてた事。 >>260 過労死させたいのか?厚生労働大臣だけでも大変だってのに 東海道本線・山陽本線で運転されていた急行荷物列車
EF58やEF61が荷物車やパレット貨車を牽引し、大阪駅にも停車して、荷物の積み卸しが行われていた。
EF58、EF61は晩年は信越本線から転属してきたEF62に置き換えられた。 両端のクハ103のみ冷房車で中間車は全車非冷房、中間車は冷房車と非冷房車混結の
京浜東北線、山手線の103系 >>265
そのあおりを食って、中間車はピカピカの新車だったのに、クハだけ103系
デビュー時に製造されたセコハンだった森ノ宮持ちの環状線と明石,高槻の
緩行線。 昭和61年11月改正で東海道本線・山陽本線の新快速は草津〜西明石間の
複々線区間では外側線走行になったが、その前年から昼間時間帯に運転される
新快速は外側線を走行する列車も設定されていたこと。 103系ATCの登場で、
小鉄が前面展望の楽しみを奪われたこと >>269
それ以前にその頃の国鉄は終日遮光幕全閉がデフォルトで車種問わず前面展望などできなかったこと。 埼京線、新宿湘南ラインが走っているのは貨物線で、EF15の単機回送なども見られた。 新快速が米原発着になったのは、民営化後の昭和63年3月改正からのこと
それまでは新快速は、米原の手前の彦根発着だった。 長岡京駅がかつて「神足」という駅名だったこと
(鉄ネタではないけど)大阪府はかつてタコが知事になったことがある >>276
500系の運行開始記念のテープカットがタコだwww >>272
京都も通過されていたが、話題にもされない。まぁ、当の京都人はそんなに気にしていませんでした。 東海道新幹線の東京のターミナルは、東京駅じゃなかったかも知れなかった事。 大阪駅や三ノ宮駅から、乗り換えなしで大垣や岡山に行けたこと。 こんな時だからこそ扉開けたままで走る通気性抜群の旧型客車列車があったことこれは鉄ヲタではなく世間一般であるが 阪急神戸線西宮北口駅構内で、神戸線と今津線が平面交差していたこと。 >>283
あかつきの他にも佐世保系統のみどり いそかぜ かもめと明星が筑豊本線を経由してた事 室蘭本線沼ノ端―岩見沢間を通って、札幌を無視する優等列車もあった事。 札幌から夕張に国鉄で行く場合一旦岩見沢まで行ってから追分を経由していた事。 外国の政治家がリニア新幹線をウサギ小屋と揶揄した。 函館―千歳空港―札幌―千歳空港―新夕張―新得―帯広―釧路、
って具合に、千歳空港⇔札幌間を往復してた「おおぞら2・3号」の存在。 >>292
ウサギ小屋うんぬんはフランス語から日本語にする際の誤訳だろ。
フランス語で都市型の集合住宅のことを"cage a lapin"(真ん中の"a"の上にアクサングラーヴ)と言うんだが、
これをどこかのアフォがなぜか直訳して「ウサギ小屋」と言ってしまったことで騒動になった。 弁護士の研修だと言うことで、電車を運転させていた某大手私鉄 >>271
新快速だけでなく快速までも尼崎通過してた事 >>296
占領後、自分等専用に使いためか特急型客車だけは見事に射撃爆撃しなかったね。
尤も戦時下は優等列車を運行休止にしていたが。 昭和40年代の頃
大阪ー岡山?広島?下関? 運転の旧客列車があったと思うんですが、正確な区間はどこだったんでしょうか?
幼少期だったのでオンボロ列車に乗った事だけを記憶しております。
神戸ー姫路間をよく乗った思い出があります。 戦前の客車特急「富士」にシャワー室が設置された客車が連結されていた。
この車両は1両作られただけで、運用効率が悪く、毎日「富士」に連結されるわけではなかった 豊橋って朝鮮だろ
浜松方面から東海道本線の電車に乗っていると嫌でも豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板を観ることになる。
でも、東京から豊橋に帰省すると豊橋朝鮮初級学校の看板を観ると、豊橋に帰ってきた実感が沸いてしまう。
豊橋駅の手前で豊橋朝鮮初級学校の看板の他に朝鮮総連のイオ信組の看板も目に映る。
旧国鉄の線路沿いの一等地は朝鮮の土地が多い。
豊橋なんか良い例だが、豊橋はマシな法。
旧国鉄の線路沿いの一等地で朝鮮の土地が多い地域は
東京は新大久保、上野、日暮里、埼玉の川口、横浜の横浜駅西口で近くに朝鮮学校が控える。川崎も川崎駅から旧川崎球場までの周辺。
名古屋だと、名古屋駅から中村区から中川区に向かう方向は有名である。京都は京都駅周辺で京都駅南区一帯は有名である。
大阪は環状線、地下鉄、近鉄が交差する鶴橋かな。神戸は長田周辺。最近では少なくなりつつあるが岡山駅周辺も朝鮮が多い。
広島は広島駅周辺は再開発が進みつつあっても、朝鮮エリアはとどまっている。
山口県は、徳山、防府の駅周辺も朝鮮エリアがとどめているし、下関は大坪があまりにも有名である。
福岡も犯罪で名高い博多の堅粕、福岡の東、北の玄関である香椎駅周辺も朝鮮地域が名高い。言い出したら切りが無いくらい多い。
あと関西の近鉄沿線の一等地も朝鮮の土地が多い。
近鉄桜井駅の目の前には色鮮やかな朝鮮チョゴリを販売する店が目を引く。
近鉄の桜井駅周辺は1990年代終わりまでは駅一帯が朝鮮関係でにぎわっていた。朝鮮の国花「むくげ」の販売店、
色鮮やかな朝鮮チョゴリの店が大きいものでも数件は近鉄特急に乗っていたら目に入ったものである。
京都のJR線路沿いは京都駅周辺も朝鮮が割と多いのだが、嵯峨野線の円町から阪急西院までの間も少なくない。
阪急西院を過ぎてから阪急電車は地上に出てくるのだが、この境目に西院朝鮮人会館と言う著名な施設があった。大物芸能人も来訪していた。
京都の半導体企業のローム本社近くには西大路五条の朝鮮総連京都府支部と言う立派な構えの鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物がある。 >>300
1966年10月号の時刻表から
07:23 327レ大阪発広島行き
09:02 329レ大阪発広島行き
10:42 331レ大阪発広島行き
13:20 621レ大阪発宇野行き
14:42 333レ京都発広島行き
15:42 223レ京都発鳥栖行き
21:25 225レ大阪発門司行き
22:20 623レ京都発宇野行き >>299
マイテ38の様な展望車は連合軍専用客車最後尾に連結
日本人はボーイ以外乗車不可能だった。
連合軍専用列車の愛称
ヤンキーリミテッド
アライドリミテッド 京都の韓国朝鮮社会は韓国民団支部よりも朝鮮総連支部の方が実に立派だな。
西大路五条に朝鮮総連支部の立派な建物敷地があるが朝鮮総連京都支部の斜め向かいに
今はマクドナルドのある敷地にはボロかったが立派な朝鮮総連系列の喫茶店、飲食店が入居するビルが存在していた。
朝鮮総連系列の団体と北朝鮮の市民団体、文化団体の行事ポスターが貼られてあって
この朝鮮総連のポスターを見てよく北朝鮮舞踊団の公演や北朝鮮音楽団体のコンサートに行ったものである。
北朝鮮の団体と朝鮮総連の行事は西京極運動公園の体育館、北野白梅町の体育館が主に使われていた。
新日本プロレスの天山広吉が京都の北朝鮮系列の人間で有名だが北野白梅町の体育館を使うことは、こうした理由があるのだろうか。 浜松事件(はままつじけん)は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。“浜松大紛争”とも呼ばれた。
戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。
小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。
5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。
浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
この事件により、朝鮮人への評判は地に堕ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円(当時)の見舞金が送られた。
同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月〜4年を言い渡した。 枚方事件(ひらかたじけん)とは、1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府枚方市で発生した公安事件。
第二次世界大戦後、陸軍工廠枚方製造所は閉鎖され、その大半が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の賠償物件となった。
大蔵省近畿財務局が管理していたが、荒れるにまかせ、タヌキが出没する有様であった。
1952年4月28日にGHQによる占領が終わり、小松製作所に9億4285万円で払い下げられた。
小松製作所は既にアメリカ軍より大量の砲弾を受注しており、正式な払い下げに先だって工廠の使用許可を得て、砲弾の生産を開始した。
1952年6月24日未明、実行犯が陸軍工廠枚方製造所に侵入、第四搾出工場にあった水圧ポンプに時限爆弾を取り付けて爆破させた。
この日の午後8時頃より、ひらかたパーク裏の鷹塚山(通称「一本松の丘」)で「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催され、約100人が集まった。
前夜祭終了後、小松製作所の関係者と目された人物の自宅を襲撃することになり、竹槍や棍棒を作るために付近の山に入り竹や木を伐採した。
6月25日午前2時頃に被害者の自宅に到着、玄関に火炎瓶を投げ込み家屋の一部を焼いた。
そして車庫にも火炎瓶を投げ入れて車庫や乗用車の一部を焼いた後、逃走した。
枚方市警察は被害者の通報を聞いて、直ちに警察官12人を現場に急行させた。警察は周辺の山林を捜索し12人を検挙、最終的には98人を検挙した。
そのため、日本共産党や北朝鮮系の在日朝鮮人が反対運動を起こしていた。
大阪地方検察庁は、事件の関係者65人を放火未遂、公務執行妨害罪、爆発物取締罰則違反で起訴した。
裁判の結果、6人については無罪としたが、それ以外については全員有罪となり確定した。
自宅を襲撃された人物は、大阪市都島区に本社を置く運送会社の社長で、
枚方工廠払い下げの受け皿となるべき会社を設立しようとしていたが、設立準備中の会社は払い下げの対象外であったため断念せざるをえなかった。
ところが、この人物の姓が「小松」であったため、払い下げが内定した小松製作所の関係者と目され、この事件の標的にされてしまった。
小松製作所は、吉田茂の実兄である竹内明太郎が創業したもので、「小松」の名称は発祥の地である石川県小松市に由来する。 Eurotrain(ICE2の動力車にTGV Duplexの客車を組み合わさったもの)
台湾には新幹線を売り込むために用意 遠軽―網走間は、廃止された名寄本線・湧網線経由の方が距離が短かったこと。 「日勤教育」なる、要はパワーハラスメントが恒常化してたとされた事。 >>317 車体頑丈にしたって衝突で乗客に伝わる衝撃は変わらないんだけどなあ。車体潰れなくても車内は肉片ぐちゃぐちゃ、それが編成後部まで。 大阪メトロ谷町線を大日から高槻市まで延伸する計画と八尾南から富田林市まで延伸する計画があったこと ホテルニュージャパンで焼け出された人が羽田空港に行ったら、逆噴射事故で閉鎖されてた事 北陸トンネル列車火災の同日に日本航空351便ハイジャック事件が発生 鶴見事故のあった日に三井三池炭鉱爆発
いや〜悪いことって本当に重なるんだな 南海電鉄南海本線男里川鉄橋から急行電車が男里川に転落した事故の3ヶ月に、箱作駅構内の貨物線に
和歌山市行急行が冒進し、入換え中の貨物列車と衝突、翌年1月には天下茶屋駅で春木発臨時急行と
回送電車が衝突する事故があったこと 20年前、日比谷線中目黒駅付近での脱線事故があったこと
この事故がきっかけで、ボルスタレス台車から従来方式に回帰する傾向があったこと
8000系でボルスタレス台車の量産車対応に最初に取り組んだ営団地下鉄(東京メトロ)が
事故後の新造車(10000系以降)でこれを使用していないこと >>182
青葉って火傷していなければ、今も普通になに食わぬ顔して生活してたのかね? キハ80系で運転されていた時の特急「おき」と同じくキハ80系で運転されていた時の舞鶴線・宮津線経由の特急「あさしお」は、
表定速度53キロと日本一スピードの遅い鈍足特急だったこと >>328-330
逮捕されるけど精神疾患を理由に不起訴になってただろうな
あそこまでやったら、死刑か無罪のどっちかだ >>331
それ(「あさしお1号」)が、後発の「あさしお2号(ゴーサントー以降は3号)」に、
追い越される格好だった事。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています