夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 乗っただけいいじゃないか。オレは田舎が九州だったんで東北方面に縁がなかった。行くようになったのは仕事で新幹線乗るようになってからだな。上野で58 103の引く八甲田撮りながら
Hゴム電暖ツマンネとか思ってた自分がつまんなかったと思う。 >>691
アプト区間の走行の障害になるからディスクブレーキ付の新型空気バネ台車だよ
>>692
逆に自分は583系津軽には一回も乗らないで終わった。津軽は旧客、12系、20系、
14系の時代が一番乗ったけど2往復あった津軽の頃が良かったと思ってる。
>>693
宇都宮運転所のEF58は電暖装備のHゴムが多くて魅力は無かった。まだ上越装備の
長岡運転所や高崎第二機関区のEF58はヒサシやスノープロウがあって格好よかった。
八甲田や津軽に原型小窓でヒサシ付きのEF58103が来るとヒガハスで夢中で撮影した。
102号機も米原機関区にいた頃は原型小窓であかつきとかを牽いていたんだけどね。 末期の安芸は20系時代はEF58P限定だったが24系25型化されてからは限定が外れてPS22装備車とか入ったり荷物列車並みの百鬼夜行状態だったらしいね
PS22のEF58好きだから見てみたかった >>695
25形化以降何故か車体載せ換えグループのポンコツEF58が担当するというネタ光景が多かったみたいね
最新の客車と超絶オンボロ機関車という組み合わせは面白い
あかつきの15形化当初もこういう超絶オンボロ機関車と最新鋭客車との組み合わせがありそう >>692 毎日、一人で1ボックス独占できるほど空いてたら早急に廃止されてるわな。
91年の11月に葬儀の帰りに鷹巣から上野まで583系津軽、1ボックスに家族4人、10時間以上乗ったが、寝台にするなと車掌から警告受けるわ、コチコチのシートで腰痛くなってくるわ、でリクライニングシートの夜行バスの方がよっぽど楽と感じたわ。 臨時急行おが、自由席開放B寝台は楽だった。はしごないけど懸垂で上段寝台に寝れらから。
車掌からは危ないから降りて下さいと言われたが。 鷹巣を経由する、東京と能代を結ぶ「ジュピター」は、1989年から運行されているんだな。 >>701
当初は国際興業と秋北バスの共同運行だったが、冬季の安全運行などを考慮して国際興業の系列会社でもある秋北バスの単独運行に移行し今に至る 九州特急と言えば、かつては九州行き一群の寝台特急(「あさかぜ」「はやぶさ」「さくら」
「富士」「みずほ」・・)であったが、今ではJRQの特急が出てくる。 58 103のHゴムを嘆いてはいたが、出発して行く急行八甲田の車内の若い人達はこれからの安旅に(失礼)心ウキウキしてる様子が見て取れた。本当はそっちをきちんと記録に残しておくべきだった。
ゴハチ車体のせかえボロガマって関西ブルトレ引っ張ってた昭和50年前後の時点で既にボロかったんだろうか?その頃のEF58 12なんか大窓で感激してしまう 。 >>699 行きは各自、夜行寝台か何かで行ったけどな。自分はあけぼののB寝台で行った。帰りは葬儀の後、出発する時間がわからないから、家族と共に津軽に乗ったわけで。津軽もほぼ満席に近かったし、夜行寝台取れなかったんじゃないかな。
夜行バスがあることは帰ってきてから知った。突然、葬式の連絡が入ってきたから、事前に調べる余裕なかったもので。 >>704
少なくともそこら辺のパンタグラフがダメになってのPS22化なわけで
PS22+一体形ひさし+白ニャンコのコンボワザで EF58末期時期は車体載せ換え、台車交換、部品交換なんてザラだった
ロイヤルエンジンこと御召指定の61号機でさえ、先台車は12号機だったか
14号機のを使って1END側の握り棒は118号機の握り棒を使ってる
国鉄の慢性的な赤字で新製できなかった部品は「二休」車をパーツ取りと
使っていたから珍しくなかった >>696
15型化当初、山陽区間はEF58が牽いていた。
1年後にPF化。 関西発着のEF58牽引ブルートレインと言えば忘れられないのはセノハチのEF59だと思う
しかし下りも上りも深夜や未明のためゆえ、広島駅のバブル撮影しか出来ないのが難点
このスレの住人の中にはHMを取り付けたEF58に牽かれるシーンの関西発着ブルートレインの
走りをカメラに収めた諸先輩方もいらしゃるのでしょうね
自分は1978年にEF58115などが牽引する25形の安芸を神足〜山崎で撮影するのがやっとだった >>700
その辺考えると、「あけぼの」「はくつる」のゴロンとシートは破格のサービスだったな。
「はくつる」は廃止まで間がなかったので、1年程度で終わってしまったけど。
もっと早く「はくつる」客車化あたりから、ゴロンとシートサービスを実施すべきと思ったけど、
盛岡以北や秋田新幹線開業前は、そうもいかない夜行寝台列車需要があったのかな? 横になれる事がかなり贅沢という価値観を
ひきずってた時代だったということなんだね。でも良くも悪くもバス飛行機が
競争力持って鉄道の混雑がなくなって1人が占有できる面積が広くなってたという罠 。
夜行スレだけどゴハチネタの食いつきの良さと言ったら。。ナウでヤングな東京シティボーイな自分にはブルトレといえば500かPFだった訳ですが大阪のボーイにはEF58も加わるという訳で、大窓EF58 12の引くあかつきとかまさにファンタジー >>709
EF58牽引の寝台特急といえばいなば・紀伊や20系銀河だな
しかし俺はDF50の紀伊やDD51が牽く あかつき を筑豊線の
非電化区間で撮影するのが萌えだった。 ヤングなせいで自分が撮ってた頃は既に東機58 12 や 68 はとうの昔にOM工場黒Hゴムボーイズのひとりだった訳ですが、68でさえ昭和47 8年頃まで大窓だったという神話。 >>710
>もっと早く「はくつる」客車化あたりから、ゴロンとシートサービスを実施すべき
まだ需要があった当時に利益など間違っても出るわけがないゴロンとを前面に押し出すのは自殺行為でしかない >>715
早くから始めて利益を生まないサービスにばかり客が集中する事態になると
列車そのものが見限られるのも早まりかねんしな ♪ナウなクジラはアロハを着込み、クラゲとフラダンス >>716
あんだけ人気を集めたわくドリも
西の銀河みたいな改造車作ってまで続けようとしなかったあたり
そういうことなんでしょうな
座席で何回かやったけど結局終了
>>717
日比谷線の話題は他所でやってくれ 713 筑豊線で撮ったあかつきヘッドマーク付きDD51の写真がありますぜ、旦那。
あれは年季が結構入ってて早岐機関区の蒸機に付けてたやつが機関区内に
転がってたのをまた使ったのかな? 失礼しました。早岐じゃなくて鳥栖機関区でした。
昭和25年朝8時発急行31列車、直方着は翌朝716 新飯塚737、麻生多賀吉ん方ゆく人ばこちらで降りてつかぁさい、その次飯塚741、冷水峠ば超えて原田は825着になりますばい。
あかつきはそん31列車の名残ばい。最後は飯塚直方ではほとんど乗り降りしよんしゃれんごとあった。 >>719
筑豊線廻りのDD51牽引、あかつきは非電化区間の冷水峠でのシーンが最高やった
佐世保行きあかつきは佐世保までDD51だったけど電化区間なので眼中なかった 1974年4月25日改正で寝台特急「あかつき」が24系24形になって電源車が
不足してカニ22改造のカニ25を連結した24系「あかつき」シーンには笑えた オロハネ時代の夜行さんべ、知る人ぞ知る九州内はDD51牽引だったね。 夜行さんべの九州内はず〜っとDD51でしたよ
電気機関車は定期だと関門間だけでしたね
もっも良くあった山口線経由の迂回だと小郡〜下関はEF58牽引もありました
益田〜幡生間は海が荒れると夜間は運転取り止めになることがあります
自分も迂回や足止めを食った事があります >>713
紀伊は亀山でDF50に付け替えだっけ
DF50のブルトレ牽引も良かったけどな
特に出雲号 出雲はDD54でしょ
急行時代はDF50だったから代走はあったかもだけど あと他のDF50のブルトレはみずほと富士と彗星ですね DF50牽引の「みずほ」なんてあったんだ。
いつの話?
一時期、長崎編成はDD51が牽引してなかった? ディーゼルは夏の窓開けっ放しの非冷房旧型客車で最も蒸機に対してのメリットが大きい訳で、窓固定密閉空間の20系だったら蒸機で盛大に煙吐いて見やがれってんだ、と思うが違う? >>728
>>729
1963年6月1日 みずほは20系14B化へ、
付属編成を大分へ(2007列車・2008列車)となり
東京〜熊本・大分行きになる
1964年10月1日
3・4列車となり、大分編成は「富士」として独立
みずほの付属編成は東京〜博多へ
>>730
蒸気機関車が盛大に煙を上げるのは駅発車と登り急勾配があるとき
C62牽引20系ゆうずるはそんなに煙を吐いてなかったと思う
あけぼの20系だと矢立峠は煙を吐いていたのか不明だが
自分が直接目で見た時はすでにDD51牽引になっていた 蒸気機関車が黒煙モクモクは末期に撮り鉄がやたら注文したから演出された面が強い
出発時と急勾配走行時は確かに出るが、窓から車内に猛烈に入り込むような煙は列車がトンネルに入ったときだけ
あと、うまい機関士だと白煙しか出ない
それ以外は勾配がきついとこで窓開けていても煙がはいるのは少ない
長大トンネルに入るまえに窓を閉めないと悲惨 面なんか強くないよ。上手い下手はあるだろうけど、構造的に絶気するか完全燃焼するか
しないと煙はでる。少し考えればそんな状況がどれだけあるかわかるようなもんだけど
>>730
はくつるや日本海みたいな優等が真っ先にDD51化されたんだから、窓とか関係ないね 煙よりも出力の問題じゃね?
いくら20系が軽量化車輌とは言っても遊びのない密自連だから
発進時は蒸機にはキツかったんじゃないか? 蒸気機関車が煙を大量に吐いたのは不完全燃焼が原因。
第二次世界大戦末期みたいに燃焼効率のよくない悪い石炭をくべて
長くて重い貨物を牽くと煙を大量に出していた。
燃焼効率のよい石炭は軍事産業に回されてたから鉄道は
カスみたいな石炭を使い、煙管に不具合があった釜もあったので
煙も出ていたけど戦後の蒸機牽引旅客優等列車でいい煙を上げて
いたのは急行ていね(のちの急行ニセコ)の長万部〜小樽間。
蒸機牽引20系だとゆうづる、安芸は煙ショボショボだった。 20系みずほがあさかぜにオカマを掘られる事故があって大規模な車両不足に陥り
生き残ってる20系をかき集めてあさかぜ代走の列車を仕立てたが使える電源車が
みずほ用のマヤ20しか無くて東京口にマヤ20-0番台の怪しい姿を表す事になった
さくらへの準急あきよし追突で発生した姥桜の写真記録は多いけどこのあさかぜ
の写真は余り見かけないから編成も良くわからないけど発電能力からして相当に
短い編成だったと思われる >>736
さては、カロリーが低い部類(要するに粗悪な石炭)の
「亜炭」じゃないよね?
当時、世間では「ニセモノの石炭」とか呼ばれてたそうな 夜行といえばやっぱ旧客PCだな
牽引はSLでもDLでもELでも構わない
100歩ゆずって12系
だが、ECやDCはダメ、絶対 そんな過激派がサンライズに乗らないんですね分かります 旧客PCって表現には違和感あるな
最近はそう言うのも普通なのか? >>741
PC=Passenger car=客車
旧型客車はOld passenger carなので
略するならOPCになるのかも?
>>739
JRには機関車が牽引する客車の夜行列車はクルーズトレイン以外ないから
こだわっても無いものねだりだと思うよ。2020年春にデビューする
「WEST EXPRESS 銀河」が電車なのは萌えないけど夜行列車には使わず
ツアーとして運行するようなので関係ないかな。 E26系は今はクルーズトレイン的な使い方をされているとはいえ
クルーズトレインそのものではないだろう 夜行列車は1974年から数え切れない(列車名で約85種)乗ったから
もう夜行列車はもういいや的には考えるけどここまで激減すると
また乗ってみたくなるものだが、客車も牽く機関車もないのだから致し方ない。
JRが時刻表に掲載する新たな夜行列車を作るはずもないからな。 古き良き客車列車を堪能したいならタイ国鉄だろう、パダンプサール・スンガイコーロク行きは
18時間乗れる。 ムーンライトえちごは中越地震の時、どこまで走ったんだっけ?
今なお現役だったら、全区間ウヤかな? あの時はきたぐに、日本海、北陸その他
と新潟県は夜行列車の銀座通りだったな >>746
新潟県中越地震は発生時刻が17時56分だったので直接ムーンライトえちごは影響なし
新潟県中越沖地震は発生時刻が10時13分だったので直接ムーンライトえちごは影響なし
しかし長野県北部地震は発生時刻が3時59分(上越市:深度5強、湯沢町・長岡市が
深度5弱)だったので臨時ムーンライトえちごが運転されていれば下りなら長岡駅手前で
抑止になっていたかもしれない。また臨時の上りが運転されていれば高崎駅付近で
抑止になっていたかも? 高崎駅付近は関係なかったので訂正w
中之条町深度5強、みなかみ町・沼田市は深度4だったが
高崎は離れているから微妙だと思って書いたのだがw >>742
夜行といえばやっぱ旧客PCだな
で十分じゃねえのか? ああしまった
コピペして修正し忘れた
夜行といえばやっぱ旧客だな
で十分じゃねえのか?
のつもりだった
ところでさ
>>744
>客車も牽く機関車もないのだから致し方ない
夏の臨時で急行津軽83号ってのがあるじゃん
12系客車6両編成
秋田22:30→青森6:03 夜行ではないが、夜走ってた特急いなほの乗客が52名、普通列車は2名。
普通列車については、編成両数よりも人数が少ない。 実況板でなぜ電化されているのに気動車なのかなレスが散見 東北方面の急行十和田・八甲田は季節時臨時で5往復くらいあったよね
それも旧客仕様で
だけど、乗ってみたかったなぁ >>753
その12系は高崎にある普段信越線や上越線で走るSL列車用の客車だよ。
秋田〜青森間を夜行列車で走らせるには数箇所の駅で纏まった停車を
作るのだろうが車で追いかける撮り鉄にとっては深夜駅の長時間露光撮影が
できるから逆にアングル違うコマ数を稼げるので楽しそう。 旧客の悪さは夏場の冷房のなさ。それでも40年ぐらい前は
9時頃は涼しくなってたが。
逆に冬場は室内材に木が多かったせいか、暖かみがあった。 旧客は冷房なくても走行中はそれなりに窓から涼しい風がはいってくるから気にならなかった
停車中も今より世の中が涼しかったのかアイスキャンデーや氷ミカン食ってると気にならなかった
冬場はスチームが異常に熱くなって逆に嫌だった 北海道の冬の旧客夜行列車だとネットに入れたミカンを窓の外に
ぶら下げておくと早朝には美味しい冷凍ミカンの出来上がり。
冬季、北海道の旧客夜行列車は内地の者からすると暑いイメージが
あるけど室内側の二重窓を少し開けると隙間風で適温にできたので
便利であった。
利尻や大雪に連結されていたオロハネ10は北海道特有の形式で
編成中央にあった扉が格好よかったなー。 >>765
> 利尻や大雪に連結されていたオロハネ10は北海道特有の形式で
> 編成中央にあった扉が格好よかったなー。
それ500番台
本州には0番台も走ってた(「さんべ」等) オロハネは最初中央東線に投入されたのが北海道へ転用されたんじゃね?
穂高から大雪だったっけな 確かナロハネ10→オロハネ10の詳しい歴史・変遷は
ピクのどっかの特集(10系客車・寝台篇、もしくは合造車?)で
しっかり記されてた記憶が
今手元にはないんで確認できないけど オロハネ10はマロネロ38の代替だからな
利尻や大雪もマロネロ38だった
利尻用にはギリギリ間に合って青塗装されたマロネロ38も居たらしい ナロハネ10形は中央本線など牽引定数が限られた亜幹線用として尾久、長野に配置され 、
急行「北陸」や準急「アルプス」「妙高」などで使用されたが、1964年に2等寝台(ロネ)の
冷房化改造によりオロハネ10 1〜5と北海道向けのオロハネ10 501〜504に改番された。
改番後余剰となった1両が新幹線用工事車(939-201)に改造され、さらに1両が需給の関係で
北海道向けのオロハネ10 505に追加改造された。その後も急行「大雪」「利尻」「さんべ」などで
使用されたが、1979年までに残る8両が廃車されたため形式消滅した。 AB寝台合造車で足りるほど客が少ない場所
昭和30年代という時間
ネロハネはこのふたつを掛け合わさっていて 昭和20年代30年代、東京発門司行各駅停車
という凄まじい列車があって青春18切符で
乗り通すのはかなり面白かった、であろうw
東京→門司
25年 111レ 1430→2201
31年11月 111レ 1420→2201
36年10月 143レ 1456→652姫路227レ 700→2021 昭和57年3月1日に青春18きっぷの前身となる「青春18のびのびきっぷ」が発売開始
昭和20年代や30年代前半にはワイド周遊券もなかったと思う 通じない冗談言った私が悪うございました 。
姫路止まりになった後の時刻的にはもしかして同じ車両そのまま使って実質直通運転してたようにも見えるけどそんな事はないよね?
昭和31,36年の時点で35時間もかけてる旧態依然とした列車と、所要17時間と平成10年代の所要時間と大して変わらない特急あさかぜが共存してるのが面白い。あさかぜの何と輝いていることか! 青春18のびのびきっぷの時代は昼頃に三島→大垣の普通列車が1本あって京都からの山陰号につなげられた
さらに豊岡〜出雲市の間のどこかから豊岡→門司の普通列車に乗ると門司からながさき号につなげられて
実にのんびり気楽で豊かな旅が出来たもんだ 夜の10時頃下関についてどうするつもりだったのだろうか?
戦前なら、関釜便があっただあろうに 1970年台は上野駅から旧客の普通列車が東北線経由だと一ノ関まで
常磐線経由だと上野〜仙台が2往復に高崎線信越線経由の長距離鈍行が
まだ走っていた。
上野発11:23発の東北線経由一ノ関(22:42着)行き 123列車
上野発05:55発の常磐線経由仙台(14:04着)行き 221列車
上野発12:36発の常磐線経由仙台(21:32着)行き 223列車
上野発06:14発の高崎・長野・直江津経由の新潟行き2321列車
(途中小休止しながら客車はそのままで列番のみ変わる2321レ〜321レ〜323レ)但し末期は12系だった >>781
22時下関駅に着いたら門司駅まで移動して駅寝したら門司5:23発、福知山(23:50)行き・824列車に乗ればいいさ >>781
22時なら接続あっただろ
なくても主要駅は24時間開いてて朝の列車待つ人がいた。そば屋やキヨスクも開いてた
1980年代くらいまで開いてる駅あったよな。夜行と一緒で新幹線がそれをなくした >>775
>東京発門司行各駅停車
長距離鈍行って通過駅ありそうだけどな 781 門司駅で九州内夜行各駅停車にちゃんと
接続してたようです。
昭和25年 31年 36年
411レ 長崎行き 2220-712 2240-633佐世保454 2238-709
133レ肥薩線吉都線周り都城行き 2320-1112 2340-1047 121レ2340-1103
131レ 鹿児島行き 間に合わず2112-830間に合わず2153-829 間に合う119レ2151-833 下関から関釜フェリーは戦後昭和40年代まで再開しなかったみたいだねえ。最も昭和25年はまさに朝鮮戦争始まったばかりで死にに行くようなもの31 36年は独裁恐怖政治の最中で日本人がウロウロしてたらスパイ容疑で捕まるような時代だったのでは?
京城行きはノースウエストとCAT航空の飛行機が唯一の手段?どちらもアメリカCIAの息のかかった航空会社らしいw >>780
当時の113系電車で三島−大垣なんて苦痛そのもの。
近郊型はボックスシートのシートピッチが狭いだけでなく、
国鉄時代は窓枠のテーブルがなかったので、飲食にも一苦労だった。 >>788
ロングシートよりは全然マシでしょ
むしろ普通列車なら113系は上等な方で10系気動車や30系気動車が現役な時代だからね
現に上記のコースで平戸口に向かった時に佐世保から先はキハ17初期車だったもんな
それに当時は三島で昼食を食べて乗車してたから別にテーブルはいらんかったな
東京から三島に直通するのだと到着時刻が早かったし 113のボックスは、2000番台かそうでないかで天地の差
膝も肩も密着 山陰やながさきがあって18切符がでてた頃の話なら、静岡の113とか大目玉で非冷房の
ボロだらけだったろ。8連で東京口まできてたよな >>780
沼津15:23発の大垣行き1543Mですね、大垣着が当時の時刻表だと20:49になってる
自分は当時国鉄品川駅まで徒歩15分の場所に住んでいたので青春18きっぷで日中西へ
行く時は東海道線始発・品川4:35発の721Mに乗ると沼津から431M浜松行きに乗り換えて
浜松から1533Mに乗ると米原まで行けて米原到着が12:26で更に西へ乗り継ぐと
大阪14時台、広島20時台、そのまま乗り継ぐと柳井か小郡くらいまで行けたので混雑する
345Mに乗らなくても早朝(未明)に出発して楽して18きっぷで西へ行く事ができた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています