夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>584
札幌21:43発、函館行き普通夜行列車44列車の仁山仮乗降場
1978年くらいまで上り列車もスイッチバックしていたけど
下りの43列車は藤城線経由なので無感銘だった >>589
1959年にキハ55系気動車が投入され、準急列車として定期列車化された
準急ちどり→急行ちどりが走っているけどそれ以前の蒸気機関車が牽引
していた夜行ちどりについての文献は少ないようですが、その当時の
編成や牽引状態とかご存知でしたらご教示願います。 昭和31年4月
快速ちどり 米子12:58発 ヘッドマーク付
オハ35+オロハ30+オハフ33 昔は短編成では1両の緩急車で平然と運転されていたものの、
のちに
オハフ33もしくはオハ35+オロハ30+オハフ61 となった
広島−C58−備後落合−C56−米子
そのため、木次機関区C56にはヘッドマークステーが取り付けられていた
昭和34年4月に気動車化 >>591
オロハ30をオハフ33で挟んだ3両編成
オロハ30は固定だが前後はオハフ61他が入ることも有ったらしい
牽引機は広島〜備後落合までがC58でその先がC56
山陰線内の牽引機は不明 >>593
片側のオハフ33はひっかけ式のテールランプを使っているからオハ35だよ >>561
夜行ちどりの編成はオハ35 オロハ30 オハフ33 と半室ながら
2等座席も連結されていました。
夜行ちどりの牽引機は木次線に限れば木次機関区のC56が専用機で
ヘッドマークを掲げ、デフレクターに千鳥の装飾が施されたC56も
あったようです。またオハフにはテールマークが取り付けられました。
快速「ちどり」は、昭和28年11月に誕生した陰陽連絡列車です。当初は
臨時列車としての運行だったものの、翌年秋には毎日運行となり、好評で
「夜行ちどり」も登場しました。 坂本 衛氏 昭和の車掌奮闘記より
20系臨時日本海にて、
秋田大館駅助役
「コノレッサノドアハスンドウスキカナ」
坂本氏 はあ?助役さんもう一度言ってみてくれ
助役氏 コノレッサノ...
坂本氏 お前分かるか?
同僚 分かりません
助役氏 コノレッサノドアハ テデスメルベカ?
坂本氏 おーわかった。この列車のドアは手で閉める、つまりスンドースキは手動式ってことか
助役氏 んだんだ >>596
坂本 衛(著)の「昭和の車掌奮闘記」は戦後復興期の昭和28年に国鉄に入社し、昭和35年に念願の車掌となる。
その後、専務車掌に昇格し、退職する昭和62年まで「一車掌」として働き続けた著者による列車の中の昭和史。
この時代なら扉が完全手動の10系寝台や旧型客車に同じく扉の開閉が手動の20系が当たり前の時代なのに
>>569の20系手動ドアに驚くのがワザとらしく思えてならない。 20系はドアエンジン更新車と未更新車あったんだろ。閉めるときは自動か
手動の違いあって、一度閉めると手動式も走行中は開けられない 20系の自動扉化は実質12系化改造車だけ
12系併結以外で自動扉付20系が運用された事は無い >>598
どう読めば手動ドアに驚いているととれるのか?
訛りが聞き取れなかったってだけのハナシだろ。 >>599
ドア機構を12系に合わせた1000・2000番台以外は最後まで自動では閉まりませんでしたけど 20系はボーイが乗っていた頃はボーイがドアを手動で開閉していた スレチだけどロマンスカーもドアの自動化はかなり遅かったんだっけ
各ドアに人が立ってドア扱いしてたから ところで、あのロープはなんのために付いているの!!
扉開閉用じゃないよね? あの位置に人が立たないようにじゃないのかな。ステップに立ってて外から開けられたら
挟まれる 583系きたぐにでもはってあったっけ
雪国に折り戸とかよく開閉できたなと >>609
1〜2月の24系下りあけぼの(板谷峠経由の時代)は折戸の
隙間から雪が忍び込んでステップに雪が積もって偶にそれが
凍って折戸が全開に開かない事故が少なくなかったよ。
特にあけぼの1号は宇都宮(23:25)を出ると湯沢(5:29)まで
営業停車はなく、6時間扉は開かなかったので珍しくなかった。 >>613
20系なら可能だろうが24系書いてるぞw 整った13両編成の客車が粛々と入って来て止まり折戸がいっせいにパタンと開く。ホームの蛍光灯が歪んで複雑な形に白く映える青い車体に点々とドア灯が赤く灯る。駅と夜行列車というちょっとした小宇宙ではないか。 >折戸がいっせいにパタンと開く。
一斉にバタンなんて音しなかったんですけど 14系寝台車や24系寝台車は片方しか扉が無かったし、折戸の開閉音は
微妙にシンクロしなかったので”折戸がいっせいにパタンという”音は
聞こえなかったと思う。寧ろ1両に両END扉があった12系、14系ハザ、
やキハ65は1両の両ENDに扉があってすぐ隣の折戸ドア開閉音が聞こえ
やすいような? 同じ折戸でも新製時のナハネ10の片側だけ窓がある折戸も格好いいよな。ナシ20の50番台とか昭和30年代ってなかなか意匠に凝ったものがあるよな。その後は実用一点張りになっていくけど >>622
黒字会社と赤字会社じゃそういうところが違ってくるんだろ 目糞鼻糞
目くじら立てて
重箱の隅つつくように文句つける人が多いスレだね >>624
西工96MCのB型の一部ですね
最終の製造が2010年頃だからあと数年と言うところでしょうか
その後はマニアが動態保存しそうな車種ですが バスはハードル低くは無いがヤル気さえあれば個人で動態保存出来ちゃいますからね 裏を返せばそういう形をとらないとまず後世に残らない
つくば博の連節バスとか結局どうなったんだろ? >>632
いやそれは知ってるんだけどさ
そのあと車両はどうなったのかなあって >>628
江ノ電バスにはロングボディワンステップの2014年型エアロスターがいますな。 夜行列車の車内で花札賭博やって逮捕された事例あったな
犯罪の温床なのか?
スリも結構多いと聞く 開放寝台に最後まで金庫の類が装備されなかったのはなんとも
それ以前にあの形態が(ゴロンとはともかく)ブルトレ全滅まで残っていたというのもどうかと思うが >>637
海外の寝台列車ではまだまだ開放式多いで、タイも2等寝台は開放式プルマン型だし。
全車個室とかはクルーズ列車しかないだろう。 >>638
バルセロナ〜コローニャ・ヴィーゴのタルゴ7型寝台車を使った列車は
個室寝台とリクライニングシートの座席車しかないよ
モスクワ〜ベルリン〜パリ・ニースの寝台車は昔は全車基本3人部屋で個室売りもあったけど
新型寝台車は4人コンパートメントでベッドばら売りが基本の解放寝台と同じになっちゃったね >>639
リスボン〜マドリードのタルゴでクソ狭い4人部屋の寝台を思い出した。
下段でも起き上がると頭つかえるほどの空間しかない。タルゴ客車は
天井低いからしゃーないが。 >>640
モスクワ〜ベルリンにも走ってたっけ?
小田急LSEに二段寝台突っ込んだようなもんだよね 映画ひまわりの最後の下降窓ごし別れのシーン見て10系寝台車はこれを再現したかったんだと思ったけどヨーロッパでは気候の関係で下降窓で問題なかったのかそれとも10系寝台の設計に問題があったのか >>642
中の人が排水の設計が失敗だったと書いてるのを読んだ覚えがある >>636
国鉄時代の専務車掌や車掌長は鉄道公安管が乗り込んでいない列車に限り、司法警察権を行使をできたからね。 それは元車掌区の人から聞いたことがある。
富士で東京〜大分担当していた人。
車掌室の反対側の部屋って駅で身柄引き渡すまで監禁できるよう
外から鍵かけられる。
あと、これも聞いたけど忍び錠なくても開けらるやりかたあるんだよな。 >>646
ベルリンからミュンヘンな、もう廃止になったけど今はナイトジェットが走ってるんだっけ >>646
ロシア鉄道がスペインから買ってきた中古車で運転してる東西急行じゃないかと思う
ベラルースキー(モスクワ)駅発ベルリン経由パリ行の寝台急行 昭和31年11月改正の時刻表に長距離列車の混雑率なるものが載っていて、東京九州方面では下り鹿児島行き霧島と高千穂が浜松 京都 岡山 博多周辺でも3等座席が180とか190とかでえれぇ混んでた。
下りでも博多までとかは2桁で全員着席の様子だが、博多以遠、小倉以遠の事考えて東海道山陽道中ずっと混む列車にしがみついてないといけなかったんかな?
まだ空いてる 博多行き乗って九州島内で乗り換えるという発想はなかったんやろか? もとい 博多までの列車は概ね2桁に収まっていて、だ。 >>649
ダイヤ上では1975年3月の廃止まで大した変わりがなかったと思うが、当時は新幹線がなかったので、
東海道本線昼行急行の役割と、名古屋・関西〜九州の夜行列車の役割が重かっただろうな。
もちろん東京〜九州の直通客も多かったと思う。
それから>>454のマル救列車の役割もあって、そのために乗車率が高かった一面もありそう。
今と違い航空路線も高速道路発達してない時代だったので、長距離急行の混雑は凄かった。
昭和40年代まで繁忙期の混雑緩和のため、自由席でも乗車整理券が発売されていた。 マル救列車とか暗号めいた呼称だけど143列車・144列車という
列車番号があったのだから列番で呼んでやればいいものをww
その後143M・144Mの電車化になると更に列番は347M・344Mに
なって345M・340Mから375M・372Mになって165系の大垣夜行
は末期を迎える 昔は新宿駅の夏冬の繁忙期に夜行列車指定席無しに乗る場合
列車ごとに順番待ちするでっかい広場に誘導されて
そこで数時間待機してからやっとホームに誘導された
まだ0番線ホームがあった時代 >>653
昔の繁忙期の上野駅とか待機場所は駅の外だぞ 649ですがすみません、件の混雑率の計測年月ですが昭和30年12月とありますので下旬は年末の帰省時期にも掛かっており、あまり普段の混雑率を反映していないかも知れません。
年末ですと南九州までの通し客がベースになって東北山陽地域の急行も兼ねていてずっと混雑が続いたという事でしょう。 お盆や年末年始の東北方面は品川発で上野は ‖ だったような。 臨時不定期列車の東北方面が品川発なのはままありますが、珍しいのが終戦後の引き揚げ列車列車で佐世保南風先発上野行き。
これは関東以北まで行く復員兵さん引揚者さんの乗り換え便宜のため?東京駅での機回し回避のため?客車が尾久検車区のため?だったのかなどと疑問が膨らみます。 宮脇俊三氏の著書に出てくる普通列車東京発早岐行は復員列車の回送
関東地区発の行先のわからない列車の代表格だったと思う
3駅先の佐世保行ならどうと言う事も無かっただろうけども 定期列車は上野発着だけど臨時だと品川駅から出していた臨時夜行急行は存在した。
品川16:48発 臨時急行「おが51号」 大館行き 1973年夏臨より
品川18:42発 臨時普通 3415列車 新庄行き 1960年冬臨より
品川19:55発 臨時急行 「男鹿」 大館行き 1960年冬臨より
品川21:29発 臨時普通 3413列車 仙台・新庄行き 1960年冬臨より
他多数 南風崎でした。失礼しました。何だか敢えて引き揚げの為に付けたようなロマンある駅名ですね。
出発時は超満員でも停車駅ごとに、じゃ、失礼、どうぞお達者で、などと挨拶しながらお客は降りて行ったのでしょうから特に関西過ぎると空席が出来てきたのか一般客の扱いもしてたようですね。
逆に下り早岐行きは朝鮮韓国への帰国者の客扱いをしていたようですが、、間もなく起きる朝鮮戦争に巻き込まれる運命を考えるとなんとも。。。 >>653
新宿発の夜行列車待ち合わせ場所といえばアルプスの広場
アルプスの広場は441Mと信濃森上駅行きの臨時アルプスの
自由席待合場所で定期アルプスは他の場所だったと思う。
441Mではないけど参考画像(新宿駅アルプスの広場)
http://mikimoto7.hatenablog.com/?page=1556990636 Jtrain vol33 p138に441Mの車内写真があります。スキーヤーらしき人が床に
寝っ転がってて麗しい20系や24系寝台列車に比べると遜色具合いが半端ない
遜色鈍行 笑。急行に使われては叩かれ長距離夜行に使われては叩かれる115系 昔の品川駅臨時ホームから旧客の臨床急行が出てたな
乗るのに何時間か待った気がする 間違えた
臨床急行ではなく、臨時急行な
とんでもない列車になるな 普通列車東京発早岐行は復員列車の回送
普通列車岐行発東京行は福音列車の回想 中央夜行441Mも上越夜行733Mも同じ山岳夜行で同じく115系だけど
どうも153系(155系)や165系の大垣夜行に乗りなれた身には115系の
ボックスシートは狭くて115系に乗った後のキハ58・キハ28の夜行列車や
153系(155系)や165系、455(457)系や12系のボックス席が快適に
感じてしまった当時が懐かしい 115系と155系もしくはキハ58系を乗り比べたのなら座席違いはわかるけど、
115系と165系を比較されてもねぇ
台車のバネ違いって書けばわかるかな 「〜だぜ」ってところに相当な時代を感じる。
さてはたろさと同世代だな。 キハ58系気動車のキハ57形とキロ27形はエアサスこと空気バネ台車で
乗り心地はよかったけど信越線の横軽こと碓氷峠の下り線急勾配区間は
座屈現象防止のために空気バネをパンクさせていたのだろうか? パンクさせるのは前後方向にもクッション作用のあるダイヤフラム型空気バネ装備車だけだろ
上下の作用しかないベローズ型の空気バネまでパンクさせる必要あるなら板バネやコイルバネの旧客とか通過出来なくなるじゃん 昔のアプト時代はパンクさせていない
でも、EF63時代にパンクさせていたかどうかは不明
ちなみにEF63時代でキハ57系(キハ57/キロ27)は碓氷峠を通過していない(臨時はしらん)
キハ82系だけが2年程度碓氷峠を通過している EF63、増備車以外にはキハ82だけじゃなく57のジャンパあるよな。想定はしてたんだから
抜くことにはなってたんだろうけど
http://www.tetsudo-densetsu.com/first_season/densetsu_003/index.html
これ写真小さいけど57だよな。試運転くらいはやってるな
>>670
115はシート幅狭いからな。まぁそれだけじゃなく止まる度にドアが開く音で目が醒める
ドアからは風吹いてきて、暑いわ寒いわ、バカ停だと蛾が突っ込んでくるし、MGやら
CPがうるさいし、発車したらモーターが五月蠅い。それに比べるとデッキ付は天国 EF63単機で急行型気動車を牽引
ただし、単機だから試運転時 EF63はキハ57のジャンパー栓受はあるね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/b/bd/EF63jumper-coupler.JPG
上から2段目左側のKE66形がキハ57系用、上から3段目中がKE53形キハ57系用
数回くらいはEF63牽引でデーゼル急行妙高あたりを牽いてるかも? >>681
ジャンパはあるよ
EF63製造時には(EF63)重連で550t押しするつもりだったから
でも、試運転の結果(EF63)重連で気動車は7両制限を食らってしまい、1両多く連結できる電車に切り替えられた 上野から58系みたいなのに乗って、長野に行った気がするんだが、何だったのだろう? >>683
信州じゃねえの?
57はパンクさせてたろ?てかそのための空気バネだろ。 軽井沢から先未電化で、切り通しの壁にDMH17の音が反響していた。
長野で乗ったのがマルーンの2000系だった気がする。 >>684
逆だ、逆。
キハ57の空気ばねはパンクさせる為じゃなくて、満員でも車高が下がらない為、つまり車体を浮かす為の装備。
満員の時にコイルバネだと車高が下がって床下機器がラックレールと干渉して運転できなくなるから空気ばねを採用した。 >>688
今はEF63による粘着運転に切り替わったときのキハ57の扱いの話してるんですけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています