夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>551
極寒期はDD51のSGだけでは暖房が足りず、暖房車代用として後ろに連結したDD51のSGからも暖房を送っていた頃があった 道民は内地よりも金がないから最後まで夜行が残るだろうと言われてたのにあっという間に全廃 「ムーンライトながら」夏の運転日数が過去最低を更新。
■東京発
東京23:10→大垣05:45
8/1-8/17
合計17日間
■大垣発
大垣22:48→東京05:05
8/2-8/18
合計17日間
もういい加減に完全廃止にならないかな いまどきムーンライトながらなんて使わないだろうw
東京〜名古屋ならのぞみで最短1時間34分で行けて更に
2027年〜になればリニア中央新幹線が品川〜名古屋を
40分で結ぶから今さらムーンライトながらは必要ない
と思われる。 >>556
ながらはながらで趣があっていいけどね
ノロマでキップ取れないから乗ったことないんだねw 10系寝台で運転される急行ながら、位の夢が
欲しいねえ
オハニ35+オロネ10+オロネ10+ナロ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+スハネ16+オシ16+ナハ10+オハ35+ナハフ10
よーしおじさん今晩カメラにネオパンSSS詰めて3脚担いで撮りに行っちゃうぞー
3脚担いで ごめん オハニ36だった。昭和58年頃鹿児島本線原田駅では昼間オハニ36が昼寝してた。
筑豊線50系客車で朝若松方面からやってきて夜帰るらしかった。当時は戦災復旧救援車とか荷物車とか乗ることの出来ない旧型客車は割とあちこちゴロゴロしてたんであまり気にとめなかったけど、何と20系になる前の特急あさかぜの末裔だったんだねえ。
んじゃ今晩7時に日暮里山手線ホーム上野よりで待ち合わせな。 >>560
急行ながらだと159系+サロ153-900番台であってほしい そうそう 電話代かかったけど宮原当直に聞いてみたら今晩のながらはごうはちの53の牽引だって。10年前なら沼津のEF57とかだったも知れんが贅沢は言えんわな。バルブのレリーズ忘れんなよ。 10系寝台といいつついろんな車両が混じっている件について
緩急設備付き寝台車が昭和37年までなかった
ナハネフ11 昭和37年
スハネフ30 昭和37年
ナハネフ10 昭和38年〜
ナハネフ22 昭和39年〜
ナハネフ23 昭和39年〜 オハニ36+マロネ40+マロネ40+マロネフ29+スロ54+マシ35+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハ10+ナハフ10+ナハネ10+ナハフ10
を10系で置き換えると
オユ12+オロネ10+オロネ10+オロネ10+ナロ11+オシ17+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハ10+ナハフ10+ナハネ10+ナハフ10というところか ナハネ10の時代に冷房付きのスハネ16が出てくるなんてリアリティが欠如してるよ、坊や >>565
宮原機関区のEF58といえば大窓機の53号機がファン一番人気の名門機関車で
当時宮原機関区の運転当直室にいたA坂さんへ電話して東京方面への運用を
お聞きしてそれで撮影の計画を立てることが多く、通学の時も最悪写せる様に
F1ボディとFD50(F1.4)・FD85(F1.8)単独でタオルに巻いて鞄に入れていた。
20系銀河や14系臨時銀河は宮原の53号機狙いで年間100日以上沿線で狙うも
53号機より原型小窓機が中心で変形ワイパーが来るとショックでHゴムの58
が来ようものならノーファインダーでシャッターは切らなかった。高校時代から
使い始めたコダクローム64(KR64)が学生には高価なリバーサルだったのだ。 >>560
乞食切符でしか乗られない列車が急行とかねーよ >>567
東海道線で完結する列車の座席車にナロ、ナハとかもったいない事するワケが無い
牽引力に余裕あるんだからスロ、スハで固めるに決まってる
亜幹線直通で非力なDF50とかが牽く列車でもあるまいに >>572
走行中でもドアを開ける事は出来たよ
20系も走行中でも簡単な仕掛けで扉を開ける事は可能
但しドアエンジン改造された20系1000番台・2000番台は出来ない >>576
走行中の旧客夜行列車・最後尾の貫通扉から小便は流石にした事はないけど
朝の津軽線旧型客車と日中線の旧型客車で最後尾切妻扉からした事はあるよ
自分は徐行区間だけだが奥羽線4駅連続スイッチバックを旧客最後尾の貫通扉
からやった人はいたよ 某鉄道雑誌編集部のピーッさんw 準急「ノサップ」
釧根地区は帯広や池田に比べて、同じ道東でも涼しいが、今日は27度・・・・ >>578
?スレを間違えていないかじいさんよw
>>577
そのモラルがどうとかそれはさておき、鳥取県の東浜駅近く民宿なんか事故現場
?民宿台所が面していたわけだからなw
臨海学校行った時何とも思わんかったが723列車を見て喜んでいたまさにその時723列車客そういったのが民宿台所直撃
?していたと思うと改めて凄い時代だw デッキから失敬する時は宮城大検校〜‼
って叫びながらするのが作法よ。 走行中、旧客夜行列車の最後尾にある貫通扉から
スイッチバックする眺めを早朝に眺めた事はあるけど
そこから小便放出はした事はないなー。
つうか夜行急行だと車端は寝台車やグリーン車に郵便車
そして荷物車が連結する事が多くて下り列車はそんな
所業もできなかった。 >>581
ある意味「自分をトキハナツ!!」的開放感がありそうw >>581
旧客夜行列車でスイッチバックする途中駅なんかあったっけ?
急行大雪の遠軽駅みたいにただ進行方向が変わるのは違うだろ >>581
急行妙高崩れの普通列車ならあったが、それだと後半の部分と矛盾してないか? >>584
中央東線篠ノ井線経由新宿発長野行鈍行なら1970年ぐらいまで早朝に
韮崎・穴山・長坂でスイッチバック 最後尾からスイッチバックと言えば、都内住みで田舎が福岡なシティーボーイな俺は、寝台特急の増併結入れ換え作業をオハネフスハネフから眺めるという機会がなかったが1度だけ筑豊線経由のあかつきに気まぐれで乗った時に確か小倉駅で経験した。
先行して停車してる方にこちら側が連結しに行くのを興味津々で眺めた。勢い余って大ショックと共にクラッシュする位の刺激を欲したが僅かなショックで至って順調に作業終了したのが少しもの足らなかった。w >>584
夜行ちどりが出雲坂根の三段スイッチバックを越えてるし旧客の時代もあった >>584
札幌21:43発、函館行き普通夜行列車44列車の仁山仮乗降場
1978年くらいまで上り列車もスイッチバックしていたけど
下りの43列車は藤城線経由なので無感銘だった >>589
1959年にキハ55系気動車が投入され、準急列車として定期列車化された
準急ちどり→急行ちどりが走っているけどそれ以前の蒸気機関車が牽引
していた夜行ちどりについての文献は少ないようですが、その当時の
編成や牽引状態とかご存知でしたらご教示願います。 昭和31年4月
快速ちどり 米子12:58発 ヘッドマーク付
オハ35+オロハ30+オハフ33 昔は短編成では1両の緩急車で平然と運転されていたものの、
のちに
オハフ33もしくはオハ35+オロハ30+オハフ61 となった
広島−C58−備後落合−C56−米子
そのため、木次機関区C56にはヘッドマークステーが取り付けられていた
昭和34年4月に気動車化 >>591
オロハ30をオハフ33で挟んだ3両編成
オロハ30は固定だが前後はオハフ61他が入ることも有ったらしい
牽引機は広島〜備後落合までがC58でその先がC56
山陰線内の牽引機は不明 >>593
片側のオハフ33はひっかけ式のテールランプを使っているからオハ35だよ >>561
夜行ちどりの編成はオハ35 オロハ30 オハフ33 と半室ながら
2等座席も連結されていました。
夜行ちどりの牽引機は木次線に限れば木次機関区のC56が専用機で
ヘッドマークを掲げ、デフレクターに千鳥の装飾が施されたC56も
あったようです。またオハフにはテールマークが取り付けられました。
快速「ちどり」は、昭和28年11月に誕生した陰陽連絡列車です。当初は
臨時列車としての運行だったものの、翌年秋には毎日運行となり、好評で
「夜行ちどり」も登場しました。 坂本 衛氏 昭和の車掌奮闘記より
20系臨時日本海にて、
秋田大館駅助役
「コノレッサノドアハスンドウスキカナ」
坂本氏 はあ?助役さんもう一度言ってみてくれ
助役氏 コノレッサノ...
坂本氏 お前分かるか?
同僚 分かりません
助役氏 コノレッサノドアハ テデスメルベカ?
坂本氏 おーわかった。この列車のドアは手で閉める、つまりスンドースキは手動式ってことか
助役氏 んだんだ >>596
坂本 衛(著)の「昭和の車掌奮闘記」は戦後復興期の昭和28年に国鉄に入社し、昭和35年に念願の車掌となる。
その後、専務車掌に昇格し、退職する昭和62年まで「一車掌」として働き続けた著者による列車の中の昭和史。
この時代なら扉が完全手動の10系寝台や旧型客車に同じく扉の開閉が手動の20系が当たり前の時代なのに
>>569の20系手動ドアに驚くのがワザとらしく思えてならない。 20系はドアエンジン更新車と未更新車あったんだろ。閉めるときは自動か
手動の違いあって、一度閉めると手動式も走行中は開けられない 20系の自動扉化は実質12系化改造車だけ
12系併結以外で自動扉付20系が運用された事は無い >>598
どう読めば手動ドアに驚いているととれるのか?
訛りが聞き取れなかったってだけのハナシだろ。 >>599
ドア機構を12系に合わせた1000・2000番台以外は最後まで自動では閉まりませんでしたけど 20系はボーイが乗っていた頃はボーイがドアを手動で開閉していた スレチだけどロマンスカーもドアの自動化はかなり遅かったんだっけ
各ドアに人が立ってドア扱いしてたから ところで、あのロープはなんのために付いているの!!
扉開閉用じゃないよね? あの位置に人が立たないようにじゃないのかな。ステップに立ってて外から開けられたら
挟まれる 583系きたぐにでもはってあったっけ
雪国に折り戸とかよく開閉できたなと >>609
1〜2月の24系下りあけぼの(板谷峠経由の時代)は折戸の
隙間から雪が忍び込んでステップに雪が積もって偶にそれが
凍って折戸が全開に開かない事故が少なくなかったよ。
特にあけぼの1号は宇都宮(23:25)を出ると湯沢(5:29)まで
営業停車はなく、6時間扉は開かなかったので珍しくなかった。 >>613
20系なら可能だろうが24系書いてるぞw 整った13両編成の客車が粛々と入って来て止まり折戸がいっせいにパタンと開く。ホームの蛍光灯が歪んで複雑な形に白く映える青い車体に点々とドア灯が赤く灯る。駅と夜行列車というちょっとした小宇宙ではないか。 >折戸がいっせいにパタンと開く。
一斉にバタンなんて音しなかったんですけど 14系寝台車や24系寝台車は片方しか扉が無かったし、折戸の開閉音は
微妙にシンクロしなかったので”折戸がいっせいにパタンという”音は
聞こえなかったと思う。寧ろ1両に両END扉があった12系、14系ハザ、
やキハ65は1両の両ENDに扉があってすぐ隣の折戸ドア開閉音が聞こえ
やすいような? 同じ折戸でも新製時のナハネ10の片側だけ窓がある折戸も格好いいよな。ナシ20の50番台とか昭和30年代ってなかなか意匠に凝ったものがあるよな。その後は実用一点張りになっていくけど >>622
黒字会社と赤字会社じゃそういうところが違ってくるんだろ 目糞鼻糞
目くじら立てて
重箱の隅つつくように文句つける人が多いスレだね >>624
西工96MCのB型の一部ですね
最終の製造が2010年頃だからあと数年と言うところでしょうか
その後はマニアが動態保存しそうな車種ですが バスはハードル低くは無いがヤル気さえあれば個人で動態保存出来ちゃいますからね 裏を返せばそういう形をとらないとまず後世に残らない
つくば博の連節バスとか結局どうなったんだろ? >>632
いやそれは知ってるんだけどさ
そのあと車両はどうなったのかなあって >>628
江ノ電バスにはロングボディワンステップの2014年型エアロスターがいますな。 夜行列車の車内で花札賭博やって逮捕された事例あったな
犯罪の温床なのか?
スリも結構多いと聞く 開放寝台に最後まで金庫の類が装備されなかったのはなんとも
それ以前にあの形態が(ゴロンとはともかく)ブルトレ全滅まで残っていたというのもどうかと思うが >>637
海外の寝台列車ではまだまだ開放式多いで、タイも2等寝台は開放式プルマン型だし。
全車個室とかはクルーズ列車しかないだろう。 >>638
バルセロナ〜コローニャ・ヴィーゴのタルゴ7型寝台車を使った列車は
個室寝台とリクライニングシートの座席車しかないよ
モスクワ〜ベルリン〜パリ・ニースの寝台車は昔は全車基本3人部屋で個室売りもあったけど
新型寝台車は4人コンパートメントでベッドばら売りが基本の解放寝台と同じになっちゃったね >>639
リスボン〜マドリードのタルゴでクソ狭い4人部屋の寝台を思い出した。
下段でも起き上がると頭つかえるほどの空間しかない。タルゴ客車は
天井低いからしゃーないが。 >>640
モスクワ〜ベルリンにも走ってたっけ?
小田急LSEに二段寝台突っ込んだようなもんだよね 映画ひまわりの最後の下降窓ごし別れのシーン見て10系寝台車はこれを再現したかったんだと思ったけどヨーロッパでは気候の関係で下降窓で問題なかったのかそれとも10系寝台の設計に問題があったのか >>642
中の人が排水の設計が失敗だったと書いてるのを読んだ覚えがある >>636
国鉄時代の専務車掌や車掌長は鉄道公安管が乗り込んでいない列車に限り、司法警察権を行使をできたからね。 それは元車掌区の人から聞いたことがある。
富士で東京〜大分担当していた人。
車掌室の反対側の部屋って駅で身柄引き渡すまで監禁できるよう
外から鍵かけられる。
あと、これも聞いたけど忍び錠なくても開けらるやりかたあるんだよな。 >>646
ベルリンからミュンヘンな、もう廃止になったけど今はナイトジェットが走ってるんだっけ >>646
ロシア鉄道がスペインから買ってきた中古車で運転してる東西急行じゃないかと思う
ベラルースキー(モスクワ)駅発ベルリン経由パリ行の寝台急行 昭和31年11月改正の時刻表に長距離列車の混雑率なるものが載っていて、東京九州方面では下り鹿児島行き霧島と高千穂が浜松 京都 岡山 博多周辺でも3等座席が180とか190とかでえれぇ混んでた。
下りでも博多までとかは2桁で全員着席の様子だが、博多以遠、小倉以遠の事考えて東海道山陽道中ずっと混む列車にしがみついてないといけなかったんかな?
まだ空いてる 博多行き乗って九州島内で乗り換えるという発想はなかったんやろか? もとい 博多までの列車は概ね2桁に収まっていて、だ。 >>649
ダイヤ上では1975年3月の廃止まで大した変わりがなかったと思うが、当時は新幹線がなかったので、
東海道本線昼行急行の役割と、名古屋・関西〜九州の夜行列車の役割が重かっただろうな。
もちろん東京〜九州の直通客も多かったと思う。
それから>>454のマル救列車の役割もあって、そのために乗車率が高かった一面もありそう。
今と違い航空路線も高速道路発達してない時代だったので、長距離急行の混雑は凄かった。
昭和40年代まで繁忙期の混雑緩和のため、自由席でも乗車整理券が発売されていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています