夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 鹿児島県国分市(現霧島市)生まれで大学から社会人まで都内にいたけど大学時代から
就職して26歳になるまで航空券が半額で利用できるスカイメイトばかり使って帰省したり、
戻ったので西鹿児島まで全区間食堂車を連結した寝台特急 富士 や はやぶさ には乗った
事はなくてスカイメイトの飛行機ばかりであった。
帰省の夜行列車といえば羽田空港から板付空港まで飛んで小倉まで戻って急行日南に乗って
帰省したり、博多から急行かいもんで西鹿児島経由で帰った事は何回かあったと思う。 板付空港とは朝鮮戦争でギンギラギンのF86が編隊で飛び立つイメージ。飛行機と、その速さを台無しにする夜行急行の組み合わせとは、
つまりDC-8に乗ってみたかったという事ですかね? 20系あさかぜ末期の1970年くらいまで板付空港って呼ばれていたな
ちなみに朝鮮戦争は1950年から1953年の約3年間じゃないかな? 1972年(昭和47年)4月1日に、現福岡空港の大部分が米空軍から返還され、レディオ・コールサインもイタヅケからフクオカへ変更された
この日で板付空港から福岡空港になったと思う人が多いと思う 松本清張の点と線懐かしい
中学か高校の時に光文社カッパノベルズで読んで
のちに映画放映をTVでも見たけどあさかぜが
横須賀線に隠れる4分間のトリック >>481
隠れるんじゃなくて、隠れないんじゃなかったか? 4分だけ見渡せるという。 「(日中は)4分だけ見渡せる」が正しい
あと、この執筆から逃れるために松本清張が羽田から板付へ逃亡しようとしていたのを捕まえ、
「博多で渡す」との言質を得るものの、清張は福岡で「蒸発」できると考えていた
しかし、この連載をしていたのが(当時)交通公社だったことを忘れており、
東京から博多の交通公社へ直通電話をかけて、清張の「確保(一部では「逮捕」)」を依頼
こうして、板付にて清張は確保されたという 母親はまーだテレビもそげん普及しよらん昭和30年代半ばに福岡離れたき、ネイティブな筑豊弁と博多弁話しんしゃー。点と線のあさかぜはまだあさかぜが旧型客車ん頃の設定たいね。東京駅の横須賀線も流線型70系吊り掛けやね。
福岡あたりでは所謂国鉄の汽車とちごて、昭和30年前半では西鉄電車の近代化っぷりが印象的やね。 亀嵩駅の蕎麦の味も上々だったけど1983年に乗車した出雲1号の
食堂車(日本食堂米子営業所)で食べた「山菜おこわ」のセットで
ついてきた出雲蕎麦の2段せいろも美味かった 木次線の夜行列車といえば急行「ちどり」だな
急行だいせんが出雲市駅から大社線の大社駅まで
乗り入れてた時代でオロネ10に10系B寝台5両と
スロ54のグリーン車に旧客ハザ3両の10両編成
スユニ61とマニ36を連結していた >>491
お前何歳だよw
もうオチンチン自立しないだろ >>493
今年の3月末で定年退職を迎えた60歳でアソコは使えるぞ
前妻を亡くして今は再婚した20歳年下のワイフと週一で
夫婦生活も楽しんでいる
40歳の淫乱妻を満足させるのは大変でニンニクサプリや
マカや滋養強壮サプリで精力パワーアップしてるぞい 昔の夜行列車乗車レポート記事をググっていたら
自分が同じ日に乗った下り八甲田のレポートを
描いたブログを見つけた。
およそ25年前だが俺は文才能力0なので書きたい
とは思わないけど記録だけでも残せばよかった。
ここにURLを晒すのもブログ主に悪いから書かない
けどグーグルにて「急行八甲田 (惜別乗車)」で
検索すると一番上に表示される。 >>497
急行出雲は1956年11月19日から1972年3月14日、オロネ10連結は1961年7月から1972年3月15日まで
だったと思う。最初のロネ連結はマロネ41、スロネ30、マロネ29、ナハネ10、スロフ62など。
自分が始めてオロネ10に乗ったのは1975年1月で急行銀河1号だった。
当時の銀河1号には宇野行きの紀伊も併結して1〜8号車が銀河1号、9〜14号車が紀伊だった。 訂正
1972年3月15日まで→1972年3月14日まで
ナハネ10は書き損じ 自慢じゃないやん
覚えてる事実を羅列してるだけやん 寝台特急紀伊が思い出に残っている。名古屋まで出雲3号と併結。そして紀伊勝浦まで運転してたね。紀伊の最終列車の写真撮りに東京駅。それから紀伊の東京駅発車時をみずに横浜駅で写真撮って見送った。横浜駅も混んでたなあ。 紀伊の併結相手はいなばの印象が強い。浜松の58だったよな
あと名古屋でのDD51の特攻 >>505
確かにいなばのほうが印象あるね。
でも夜行列車といえばやはり上野発の列車だね。オール20系の寝台急行新星が走ってた。上野~仙台間。また同じオール20系で上野~秋田走って他寝台急行天の川も新幹線上野開業前日に見に行きました。 急行瀬戸2往復 1964.10.1〜下記前日まで(1968.10.1に1往復の「さぬき」を統合して2往復化)
↓
特急瀬戸1往復 1972.3.15〜(略)
ナハフ10/11・ナハ10/11は比較的11側が多かった
急行紀伊1往復 1968.10.1から運転開始〜下記前日まで
東京−湊町(当時)の「大和」(奈良まで短縮)、東京−鳥羽間の「伊勢」、東京−紀伊勝浦間の「那智」を統合
ナハフ10/11、オロネ10、オロ11、オハネ12、オハネ12、ナハフ10/11 紀伊勝浦発着
ナハフ10/11、オハネフ12 鳥羽発着
オハネフ12、スハネ16、ナハ10/11、ナハフ10/11 奈良発着
↓
急行紀伊1往復 1971.10.1〜下記前日まで
東京−奈良間を東京−王子間へ変更(奈良−王子間普通)。鳥羽発着のナハフ10/11をオハフ(オハフ45?)へ変更
↓
急行紀伊1往復 1972.3.15〜下記前日まで 東京−紀伊勝浦間のみ。東京−名古屋間は急行銀河1号(上下ともに)に併結
オハネフ12、オロネ10、スハネ16、オハネ12、オハネ12、オハネフ12
↓
特急紀伊1往復 1975.3.10〜1984.1.31 14系寝台モノクラス
東京−名古屋間併結相手
1978.10.1まで 特急いなば(東京−米子)
1978.10.2から 特急出雲3・2号(東京−出雲市) つくば万博開催期間中の夏休みには土浦~万博中央行の20系使用の臨時エキスポドリーム号乗車した。朝まで水戸方の土浦電留線で待機。7時頃土浦駅で停車。扉は開く。そして開場時間に合わせて万博中央駅まで走った。583系と交互運転だった。 >>505
寝台特急紀伊の併結相手は寝台特急いなばのイメージ強いね
紀伊は東京〜名古屋が浜松機関区のEF58で名古屋〜紀伊勝浦が
亀山のDD51だった。
当時はEF65Pが牽引する寝台列車群より、いなば・紀伊や銀河の
EF58牽引の方が個性があって大窓、原型小窓、Hゴム小窓の
様に個体差があるEF58が牽く寝台列車が好きだった。
1978年くらいから本格的にブルートレインの写真を撮影する
ようになったが当時は藤沢市内に住んでいたので上り第1群ブルトレは
トレは藤沢〜辻堂〜茅ヶ崎、第二群は根府川の白糸川橋梁で
よく撮影したけど1回だけお召予備の60号機が牽引するいなば・紀伊を
写した事がある・・・ガキだったので大船駅先端だけどw それと夜行列車ではないけれどやはりつくば博開催期間中、万博中央発大宮行の583系のエキスポライナーも一回だけ乗った。もちろん武蔵野線経由で。取手で停車。乗降可能。そこから大宮までノンストップ。やはり583系いいなと感じた。 >>511取手じゃなかった。間違えました。安孫子でした。 20系でやってたよ。80か81のPPでやってた
エキスポの客レは80の29号機と81の301と御召やったばかりの8181が狙い目
向日町の583も応援できてた。20系や青森の583は東大宮から送り込みがあったから
大宮発があったんだよな 583系のエキスポライナーやエキスポドリーム運行でお盆時期は足りなくなり大ムコへ応援要請もあった。
エキスポライナーは12系・14系・20系・583系・583系・キハ28やキハ58・401系・403系・415系など
多数の形式車両が筑波万博のために走り、見事だった。あと一般人は乗れないけどお召出場したEF81 81に
牽かれた宮内庁のジョイフルトレインことイロハニ編成(一号編成)こと御召列車が走ったのも昭和の良き思い出。 エキスポドリームは土浦発〜万博中央駅(現ひたちのうしく駅)行き寝台列車。
尾久客車区余剰の20系寝台を使い、EF80orEF81のPP運転と583系で運行。
つくば博では、ホテル等の施設整備が整わなかったらしく、寝台列車で土浦を
出て勝田や水戸の電留線に一晩中止めて、朝万博中央駅に戻る運用の列車で
乗車券込み¥3000、ある意味素泊まり状態。 エキスポドリーム(始発発車時9647レ) 7/16〜8/28 EF80+20系+EF80
583系使用の9647Mと同じダイヤ
カヤ21(たぶん)+ナハネ20×8+ナハネフ23 の10両
エキスポライナーの20系は
カヤ21+ナハネ20+ナハ21×8+ナハネフ23 の11両をEF81で牽引(ただし、最低1日だけEF80で牽引された日があり、写真も残っている)
http://exposition.main.jp/expo85/expoliner/index.html
http://exposition.main.jp/expo85/expoliner/pc20.jpg
運転開始時はナハネ20がナハ21の代わりに2両くらいつながっていたけど、"お約束"により尾久ナハ21を「すべて使って」置換 >宮内庁のジョイフルトレインことイロハニ編成(一号編成)こと御召列車
頭悪すぎ 当時国鉄本社から現場への通達である局報というのがあって国鉄本社まで行くと誰でも買えた。これを元に臨時列車の運転日時や編成形式を事前に知る事が出来た。つくば臨の通達見た時は何やら20系とかキハ58とか583系とか、国鉄車両見本市みたいな様相でなんじゃこら?と思った。 だが大学受験に集中せねばと自分は4月からさっぱり鉄から足洗ったんで写真を撮ることはなかった。毎日通学で常磐線に乗っていたが。
だが本当の秀才はそんなにキッパリ趣味を絶たなくとも多少抑える程度に調整してぼちぼち続行けて普通に受験を乗り切るものだ。頭の悪い自分にはそれが出来なかったが エキスポライナーやエキスポドリームのEF80牽引の20系はよく撮影した。
12系座席車や14系座席車もそうだけどキハ58・28・キロ28形12連も
当時としては珍しく撮影したけど特にEF81の29・35・39・44・45号機
を中心に好んで藤代〜佐貫、佐貫〜牛久などで早朝通過の客車ゆうづる
を含めて大学生時代に家の車を借りて効率よく撮影していた。
就職してからはローンで安い中古車を買って車移動の撮り鉄が趣味に
なって乗り鉄は暫し廃業だった。 >>520
国鉄の局報なら東鉄書店で購入できたけど毎回送られて来る達誌には直接趣味的には
関連のない架線起電停止や架線や線路の工事ばかりで自分が欲しい南局・北局と
三局共通のEF58限定運用やEF15の運用と詳細時刻が欲しかったので不要な達誌は
新聞ゴミに出していたけど国鉄内部文書なので問題あったかも? そう局報の内容の9割は運転情報とは関係ない情報だったね 。
ゴハチ目当てなんで北南3局購読なのも同じ。ED16EF15が立川にあった時は西も必要だったかも。
一応国鉄は国民の共有財産で1国民にも知る権利があるという建前で購読させてくれてたから、古新聞に出しても問題はなかったかもね。 >>526
三局共通は山貨を経由するEF58やEF15の限定運用と時刻を知る時が多かった。
たまに佐倉のDD51842が成田臨や内房・外房線で臨客牽引の情報が知りたかったけど
局報は仲間を作ってコピー折半で個人負担を減らし、高局や千葉局に静局の局報を
取ってる友達を美味しい情報を相互に交換しあって仲間を増やした。
こっちはEF58やEF15の情報が欲しいだけで臨回電とかはゴミ以下の情報だった
欲しいのは目指す機関車の運用番号「臨A○○○」から引っ張って今度は客車の
運用を調べて最後は時刻だけど運用変更にウヤ・トケや時変があるから顔が聞く
駅や現業機関経由でも調べて撮影していたよ 今は大量のゴミ以下の情報から取捨選択するが
紙の時代に情報の見做し方がちと不適切ではないかね 当時広い視野と知識興味、体系的なモノの見方が出来れば局報ももっと楽しめただろうに、何せ視野の偏った高校生の坊主だったからなあ。ゴハチの運転情報以外いらねって感じだった。
ゴハチもPFとの共通運用が多かったから行ってみねぇと分からんということも多かった 。 >>530
今はパソコン端末からオンラインされる運転報から乗務員用の
スタフ(乗務員時刻表)まで同地発行する・・・臨Cが乗務員用。
紙の運転報は1995年くらいまでA報とB報で残っていたけどな
片方が動力者や客車の箱ダイヤでもう片方が詳細時刻
但し季節列車(6000番台)や臨時など時刻表に掲載される列車の
運転報取り扱いは共通通達に掲載された。 訂正 同地発行→同時発行、動力者→動力車
>>532
11月下旬から4月上旬の81系ロ.ロフ(主に品座・宮座・新座)は
暖房確保の問題でEF58牽引だったけど14系特急の踊り子5x号は
東京区のEF58限定(銀河52で状況して宮原区の間合い運用も例外で
あったけど)がPFと共通になってからは東京区へ電話で問合してから
機関車番号を聞いて撮影へ出向いていたよ。(12〜15時は電話問合せ可)
一時期連日サロンエクスプレス踊り子にEF5861ばかり運用に入って
大学の講義をスルーして伊豆急行へ遠征撮影に行った事がある。 >>526
ED16やEF15が牽く旅客臨時(臨客・団臨)は1983年3月26日の「さよならED16」、1983年6月26日の「EF15スイッチバックの旅」と
1985年3月3日の「EF15三重連の旅」、1985年4月7日のさよならEF15甲州路の旅・飯田町駅開業90周年記念号は沿線で撮影したけど
「EF15三重連の旅」のみマーク無しを山手貨物線の長者丸踏切で撮影して他の撮影地でEF58を撮影。 それ以外は初狩とか
高尾以西で撮影したが局報のおかげで詳細時刻も分かってベストな光線状況で狙えた。
EF15は高二の吾妻線への臨客や工臨も美味しかったけど竜華のEF15はシールドビームでイマイチだった。 お爺ちゃんは話が外れても自己顕示欲の為には空気も読まずにずっと喋ってるよな もしかしてですが、EF58下関集中配置の時東海道線茅ヶ崎小田原間あたりでよく撮影されて、カメラは中版ブロニカのレンズシャッターの66だったお方ですか? 中央東線夜行臨客ならEF13かEF64旧客暖房車つき
もっと渋けりゃED61重連混合列車あたりだな
もう不可能だが
むしろ甲府→辰野→塩尻のD51牽引のほうが現実的か >>539
DF50重連のオロハネ付き夜行準急だな。 >>540
ここに入り浸るお前も同じキモ鉄屑仲間だろ >>539
中央東線旧客夜行のEF64は貨物列車専用機ならEGを搭載してたELもあったはず
EF13が牽引してた時は暖房車を連結してたけど441Mの前身だった425列車や
臨時普通夜行の9431列車(のちの9631列車)はEF15だったので冬季は暖房車が
連結してあった。
上り旧客夜行は連結手の火傷防止で大月付近で暖房送気を止めたので高尾駅
くらいで寒さに震えて起きた事がある。 × 貨物列車専用機ならEGを搭載してたEF64もあったはず
○ 旅客列車専用機ならEGを搭載してたEF64もあったはず DD51はSG搭載非搭載で番台分けて区別した(例外もあり)が、EF64のEGに関してはごっちゃにシリアルなのが、不思議ではある。
スレチすまん。 DD51のSG搭載非搭載車は基本800番台(801〜899・1801〜1805)だけど
一部500番台の中に例外的なSG搭載非搭載車(587〜592の6両)があったと記憶。
但し800番台の1801〜1805はSG搭載の準備工事済みだが実際にSGが
搭載される事はなかった。
自分はDD51がSG使って客車へ蒸気を送るのを直接見たのは磐越西線と男鹿線に
くらいだが1995年12月改正からそんなシーンも見れなくなってしまったのは
本当に残念だと思う。 >>548
14系に変更された夜行急行の利尻・大雪・まりも・はDD51から
郵便車や荷物車へ暖房用蒸気を送るために14系500番台に蒸気用
引き通し管を増設して暖房を確保していた。 >>550
補機にC58でも残しときゃ良かったのにな >>551
極寒期はDD51のSGだけでは暖房が足りず、暖房車代用として後ろに連結したDD51のSGからも暖房を送っていた頃があった 道民は内地よりも金がないから最後まで夜行が残るだろうと言われてたのにあっという間に全廃 「ムーンライトながら」夏の運転日数が過去最低を更新。
■東京発
東京23:10→大垣05:45
8/1-8/17
合計17日間
■大垣発
大垣22:48→東京05:05
8/2-8/18
合計17日間
もういい加減に完全廃止にならないかな いまどきムーンライトながらなんて使わないだろうw
東京〜名古屋ならのぞみで最短1時間34分で行けて更に
2027年〜になればリニア中央新幹線が品川〜名古屋を
40分で結ぶから今さらムーンライトながらは必要ない
と思われる。 >>556
ながらはながらで趣があっていいけどね
ノロマでキップ取れないから乗ったことないんだねw 10系寝台で運転される急行ながら、位の夢が
欲しいねえ
オハニ35+オロネ10+オロネ10+ナロ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+スハネ16+オシ16+ナハ10+オハ35+ナハフ10
よーしおじさん今晩カメラにネオパンSSS詰めて3脚担いで撮りに行っちゃうぞー
3脚担いで ごめん オハニ36だった。昭和58年頃鹿児島本線原田駅では昼間オハニ36が昼寝してた。
筑豊線50系客車で朝若松方面からやってきて夜帰るらしかった。当時は戦災復旧救援車とか荷物車とか乗ることの出来ない旧型客車は割とあちこちゴロゴロしてたんであまり気にとめなかったけど、何と20系になる前の特急あさかぜの末裔だったんだねえ。
んじゃ今晩7時に日暮里山手線ホーム上野よりで待ち合わせな。 >>560
急行ながらだと159系+サロ153-900番台であってほしい そうそう 電話代かかったけど宮原当直に聞いてみたら今晩のながらはごうはちの53の牽引だって。10年前なら沼津のEF57とかだったも知れんが贅沢は言えんわな。バルブのレリーズ忘れんなよ。 10系寝台といいつついろんな車両が混じっている件について
緩急設備付き寝台車が昭和37年までなかった
ナハネフ11 昭和37年
スハネフ30 昭和37年
ナハネフ10 昭和38年〜
ナハネフ22 昭和39年〜
ナハネフ23 昭和39年〜 オハニ36+マロネ40+マロネ40+マロネフ29+スロ54+マシ35+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハ10+ナハフ10+ナハネ10+ナハフ10
を10系で置き換えると
オユ12+オロネ10+オロネ10+オロネ10+ナロ11+オシ17+ナハネ10+ナハネ10+ナハネ10+ナハ10+ナハフ10+ナハネ10+ナハフ10というところか ナハネ10の時代に冷房付きのスハネ16が出てくるなんてリアリティが欠如してるよ、坊や >>565
宮原機関区のEF58といえば大窓機の53号機がファン一番人気の名門機関車で
当時宮原機関区の運転当直室にいたA坂さんへ電話して東京方面への運用を
お聞きしてそれで撮影の計画を立てることが多く、通学の時も最悪写せる様に
F1ボディとFD50(F1.4)・FD85(F1.8)単独でタオルに巻いて鞄に入れていた。
20系銀河や14系臨時銀河は宮原の53号機狙いで年間100日以上沿線で狙うも
53号機より原型小窓機が中心で変形ワイパーが来るとショックでHゴムの58
が来ようものならノーファインダーでシャッターは切らなかった。高校時代から
使い始めたコダクローム64(KR64)が学生には高価なリバーサルだったのだ。 >>560
乞食切符でしか乗られない列車が急行とかねーよ >>567
東海道線で完結する列車の座席車にナロ、ナハとかもったいない事するワケが無い
牽引力に余裕あるんだからスロ、スハで固めるに決まってる
亜幹線直通で非力なDF50とかが牽く列車でもあるまいに >>572
走行中でもドアを開ける事は出来たよ
20系も走行中でも簡単な仕掛けで扉を開ける事は可能
但しドアエンジン改造された20系1000番台・2000番台は出来ない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています