夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 1985昭和60年と言えば急行きたぐにが583系電車になったまさにあの年なのか34年前ならまだまだイケてた思ってたが 急行きたぐにと言えば1978年10月1日までの青森まで運転して
12系座席車にスロ62のグリーン車と大阪〜新潟間は10系のB寝台
とA寝台を連結していた時代が華だった 食堂車があった北陸トンネル火災までだろ。
もっと言えば「日本海」の愛称を召し上げられるまで。 1972年11月に起きた急行きたぐに北陸トンネル火災事故までの
急行きたぐにを知ってる>>433は65歳以上の老害ジジイですね 老害ジジイどころかおまえさんと同じくわざわざ懐かし板で知りもしない時代の話をさも知っているかのような顔して語りだかるガキだから安心しろ >>431
1985年は東北・上越新幹線が上野開業の改正で、同時に夜行列車は縮小されている。
夜行列車縮小は、その1年前の1984年2月改正でもかなりだった。 >>432
ごおさんとお以降も青森発着
57年11月改正から新潟短縮 >>438
そうだろうね。
でもグリーン車の有無程度ではクオリティーがそんなに落ちたとは思わない。
その意味では>>433かもしれない。
しかし新幹線博多開業前は、「高千穂・桜島」の24時間以上走る急行があったので、
食堂車の火災以外で「きたぐに」の注目度は低かっただろう。 急行「桜島・高千穂」は東京駅を10:00に発車して西鹿児島には
翌日の正午12時台に到着した全車座席車で1975年3月改正で廃止
廃止2年前に小学生1年か2年の頃に両親と東京駅から熱海駅まで
乗った事があるけど153系の急行伊豆・おくいず・東海に比べて
ぼろい事しか記憶に残ってない >>441
そりゃ冷房はなく、乗降ドアが手動の雑客車だったからw
でも当時は日中の東海道本線を走破した唯一の優等列車だった。
東海道本線内で重要性が薄く比較的空いていて、区間利用または乗換えを嫌う長距離客や、
周遊券での利用が主だっただろう。
東海道本線の昼行列車と、関西〜九州の夜行列車を足した列車だった。 急行能登と立山の関係みたいなもんだな
長岡駅や直江津駅での乗り換え必要ない急行として確かに重宝がられてはいたが快速電車まで冷房車なのにシビアだった 急行立山は北陸ワイド周遊券の自由周遊区間内の仮眠乗車が便利だった
敦賀〜糸魚川間は上り立山と下り立山を組み合わせれば敦賀で寝ると
地獄だけど組み合わせて特に下りでは安心して仮眠する事ができた。
富山22:40→(506M)→1:48敦賀2:22→(505M)→7:07糸魚川
定期急行立山は10両編成でシーズンオフの時なら自由席に空席はあった。 だから乗り鉄は鉄道会社から上客扱いなどされないんだよな 国鉄夜行の地鉄・立山乗り入れと言えば急行立山3号→特急立山と急行むろどう→特急むろどう
国鉄路線内は急行で運転して地鉄・電鉄富山から立山まで運転。457系の立山ならともかく、
キハ25やキハ55のむろうどうが地鉄線内では特急になるのは如何だろうかと思った事がある。 急行きのくにも南海線内は特急だからな
南海本線の普通電車まで冷房車の時代にCrazyなのがまかり通っていた時代だな >>441
俺は丹那トンネルで顔だしてたら、前車トイレ下から巻き上がる小便食らって泣いたことがある。 >>442
でも10系客車主体だから製造年的にはそれほど変わらんのよね
153系だってまだ非冷房車も急行で使ってたし >>441
関東から九州行き急行列車の、
その頃の東京駅での編成が、
先頭から機関車・ニ・ハ・ロ・ハ・〜で、
空いていそうなニとロに挟まれたハに乗ろうとしたら、
その日は護送車貸し切りと鉄道保安官に言われた記憶が。
刑務所から刑務所への移送だったそうな。 >>449
今ほど熱くなかったというのはあるね。
50年ぐらい前は35度を超えるのは
あまりなかった気がする。 >>452
あとマル救列車にも指定されていた。
ながらや大垣夜行前身の、東京〜大阪夜行鈍行も、マル救列車だった。
>>453
家庭内やオフィスの冷房が当たり前でなかったのがある。
今のように完全空調が当たり前だと、外に出ると放射熱で昔より暑い。 >>453
50年ぐらい前じゃ>>449と時代ずれまくりだよ >>442
桜島・高千穂は奄美・沖縄航路連絡列車でも有ったんだよ
アメリカ統治時代は国鉄の切符は鹿児島まで来ないと買えなかったから寝台や指定席を取る事が困難で自由席中心の桜島・高千穂一択だった
特に高千穂は桜島と比べて西鹿児島発車時点で空席が多かったから好まれたとも聞く 桜島の前身(?)霧島は西鹿児島ではなく鹿児島発着だった時期があったな。 >>457
昭和40年代に鹿児島駅が手狭になったから旅客列車のターミナル機能を西鹿児島に移して貨物を中心とする駅になったから主な旅客列車の終着駅が西鹿児島になった訳
鹿児島駅に貨物を残したのは鹿児島港が近いからとか鹿児島機関区の側で貨物列車を取り扱うのに便利だったから
その後国鉄貨物は衰退するわ機関車牽引列車は少なくなるわで鹿児島駅は代表駅なのにあそこまで寂れてしまった 日本国有鉄道・鹿児島鉄道管理局のお膝元駅が西鹿児島駅だったような?
尤も九州鉄道管理局やのちの九州総局の局所在地は門司だったけど 昔は門司には停まるが小倉には停車しない寝台特急も普通にあった。
客車だから門司に停まるのは当然ととして、小倉通過は今から考えると意外な気がする。
街の中心部が移動したということだろう。
電車寝台は逆に門司通過、小倉停車だったと思う。 >>460
博多止まりは門司・小倉の両方停まってた。 >>458
臨時の桜島が西鹿児島発着で設定されたり、はやぶさが西鹿児島発着に変更されたのが昭和35年だろ?
昭和40年代に入って鹿児島発着って霧島くらいじゃないの?
ぎりぎりさつまも入ってくる程度 >>460
そもそも門司駅って当時から街の中心部じゃないし あさかぜ
昭和31年 登場時
東京 - 横浜 - 熱海 - 静岡 - 名古屋 - 京都 - 大阪 - 神戸 - 姫路 - 岡山 - 福山 - 広島 - 徳山 - 小郡 - 下関 - 門司 - 博多
(この時の小倉駅は今の西小倉駅の設備をほぼ使っており、ホームに余裕がなかった)
昭和33年3月 小倉駅が現駅へ移転(昭和49年に西小倉駅として再開するまで旧駅は廃駅状態)
昭和33年10月 20系化
昭和47年10月もしくは昭和48年3月(少なくとも昭和49年1月には停車済)のダイヤ改正で小倉にも停車するようになる
581・583系使用特急については、昭和42年の月光から小倉駅には停車・門司駅は通過していた(関西ブルトレのあかつき(客車)でも小倉駅は通過)
→のちに有効時間内駅発着電車は門司駅・小倉駅両方停車するようになる >>456 その頃から沖縄・奄美から大阪行く航路もあったのでは?現在でも大阪南港や神戸に行くフェリーがある。
ただ、沖縄本島や奄美大島以外の小島に立ち寄るのは鹿児島航路しかないし、半世紀前なら船の速度は今より遅かっただろうから、東京から鹿児島まで24時間以上かかっても十分阪神航路経由ルートに対抗できた。 夜、乗ってからは「ワーイ!夜行列車だよーん!」と心の中ではしゃいでなかなか眠れなかったりするが、
翌朝目が覚めるとひたすら退屈になり「早く(目的の)駅に着かねーかな」と思っていた。 >>464
国鉄時代の電車・気動車特急は、門司通過だっただろう。
大阪〜博多の「まつかぜ」も門司通過だったし、後釜の「いそかぜ」も門司を通過してた。 高千穂で鹿児島まで行ってそこからさらに船で沖縄へって遠すぎるー
どんな罰ゲームなんですかい? 通しで東京ー那覇航路の方が楽だし
所要時間も大して変わらんでは? >>470 半世紀位前の船だと、天候によってはかなり揺れるのではないかな。船酔いしやすい人は、なるべく航路を短くしたい。
今の船は改善されてるけどね >>471 続き、70年に竹芝桟橋から伊豆大島行き乗って、ゲーゲー吐いた自分にとっては、東京から沖縄まで3日間洋上で船酔いし続けるというのは悪夢でしかない >>468
新幹線岡山開業から博多開業まで3年間だったが、その間でも山陽・九州の特急は目まぐるしく
変わってたな!
新幹線博多開業直前で、門司・小倉両方停車の583系も珍しかったが、博多止りの「明星」の後続に
熊本行き「明星」があったのも意表を突いてる。
東京発なら遠方に行く順序が伝統だったけど、583系運用の関係だっただろうな。
博多「あさかぜ」の小倉停車は古かった方だが、それでもそのあたりか。
「富士」の小倉停車は、新幹線博多開業の改正からだな。 >>470
ごめん。2年前に行きは羽田〜那覇だけど
帰りは那覇港〜鹿児島港・鹿児島中央〜宮崎〜大分〜小倉〜新横浜をやりましたわ。 鹿児島空港が現在地に移転しジェット機が就航したのが72年。新幹線博多開業と相まって、地方空港のジェット化が進展した70年代半ばになると、一昼夜かけて鹿児島まで行く夜行急行の利用価値が薄れたってわけだ。安いことを除いて 鹿児島県国分市(現霧島市)生まれで大学から社会人まで都内にいたけど大学時代から
就職して26歳になるまで航空券が半額で利用できるスカイメイトばかり使って帰省したり、
戻ったので西鹿児島まで全区間食堂車を連結した寝台特急 富士 や はやぶさ には乗った
事はなくてスカイメイトの飛行機ばかりであった。
帰省の夜行列車といえば羽田空港から板付空港まで飛んで小倉まで戻って急行日南に乗って
帰省したり、博多から急行かいもんで西鹿児島経由で帰った事は何回かあったと思う。 板付空港とは朝鮮戦争でギンギラギンのF86が編隊で飛び立つイメージ。飛行機と、その速さを台無しにする夜行急行の組み合わせとは、
つまりDC-8に乗ってみたかったという事ですかね? 20系あさかぜ末期の1970年くらいまで板付空港って呼ばれていたな
ちなみに朝鮮戦争は1950年から1953年の約3年間じゃないかな? 1972年(昭和47年)4月1日に、現福岡空港の大部分が米空軍から返還され、レディオ・コールサインもイタヅケからフクオカへ変更された
この日で板付空港から福岡空港になったと思う人が多いと思う 松本清張の点と線懐かしい
中学か高校の時に光文社カッパノベルズで読んで
のちに映画放映をTVでも見たけどあさかぜが
横須賀線に隠れる4分間のトリック >>481
隠れるんじゃなくて、隠れないんじゃなかったか? 4分だけ見渡せるという。 「(日中は)4分だけ見渡せる」が正しい
あと、この執筆から逃れるために松本清張が羽田から板付へ逃亡しようとしていたのを捕まえ、
「博多で渡す」との言質を得るものの、清張は福岡で「蒸発」できると考えていた
しかし、この連載をしていたのが(当時)交通公社だったことを忘れており、
東京から博多の交通公社へ直通電話をかけて、清張の「確保(一部では「逮捕」)」を依頼
こうして、板付にて清張は確保されたという 母親はまーだテレビもそげん普及しよらん昭和30年代半ばに福岡離れたき、ネイティブな筑豊弁と博多弁話しんしゃー。点と線のあさかぜはまだあさかぜが旧型客車ん頃の設定たいね。東京駅の横須賀線も流線型70系吊り掛けやね。
福岡あたりでは所謂国鉄の汽車とちごて、昭和30年前半では西鉄電車の近代化っぷりが印象的やね。 亀嵩駅の蕎麦の味も上々だったけど1983年に乗車した出雲1号の
食堂車(日本食堂米子営業所)で食べた「山菜おこわ」のセットで
ついてきた出雲蕎麦の2段せいろも美味かった 木次線の夜行列車といえば急行「ちどり」だな
急行だいせんが出雲市駅から大社線の大社駅まで
乗り入れてた時代でオロネ10に10系B寝台5両と
スロ54のグリーン車に旧客ハザ3両の10両編成
スユニ61とマニ36を連結していた >>491
お前何歳だよw
もうオチンチン自立しないだろ >>493
今年の3月末で定年退職を迎えた60歳でアソコは使えるぞ
前妻を亡くして今は再婚した20歳年下のワイフと週一で
夫婦生活も楽しんでいる
40歳の淫乱妻を満足させるのは大変でニンニクサプリや
マカや滋養強壮サプリで精力パワーアップしてるぞい 昔の夜行列車乗車レポート記事をググっていたら
自分が同じ日に乗った下り八甲田のレポートを
描いたブログを見つけた。
およそ25年前だが俺は文才能力0なので書きたい
とは思わないけど記録だけでも残せばよかった。
ここにURLを晒すのもブログ主に悪いから書かない
けどグーグルにて「急行八甲田 (惜別乗車)」で
検索すると一番上に表示される。 >>497
急行出雲は1956年11月19日から1972年3月14日、オロネ10連結は1961年7月から1972年3月15日まで
だったと思う。最初のロネ連結はマロネ41、スロネ30、マロネ29、ナハネ10、スロフ62など。
自分が始めてオロネ10に乗ったのは1975年1月で急行銀河1号だった。
当時の銀河1号には宇野行きの紀伊も併結して1〜8号車が銀河1号、9〜14号車が紀伊だった。 訂正
1972年3月15日まで→1972年3月14日まで
ナハネ10は書き損じ 自慢じゃないやん
覚えてる事実を羅列してるだけやん 寝台特急紀伊が思い出に残っている。名古屋まで出雲3号と併結。そして紀伊勝浦まで運転してたね。紀伊の最終列車の写真撮りに東京駅。それから紀伊の東京駅発車時をみずに横浜駅で写真撮って見送った。横浜駅も混んでたなあ。 紀伊の併結相手はいなばの印象が強い。浜松の58だったよな
あと名古屋でのDD51の特攻 >>505
確かにいなばのほうが印象あるね。
でも夜行列車といえばやはり上野発の列車だね。オール20系の寝台急行新星が走ってた。上野~仙台間。また同じオール20系で上野~秋田走って他寝台急行天の川も新幹線上野開業前日に見に行きました。 急行瀬戸2往復 1964.10.1〜下記前日まで(1968.10.1に1往復の「さぬき」を統合して2往復化)
↓
特急瀬戸1往復 1972.3.15〜(略)
ナハフ10/11・ナハ10/11は比較的11側が多かった
急行紀伊1往復 1968.10.1から運転開始〜下記前日まで
東京−湊町(当時)の「大和」(奈良まで短縮)、東京−鳥羽間の「伊勢」、東京−紀伊勝浦間の「那智」を統合
ナハフ10/11、オロネ10、オロ11、オハネ12、オハネ12、ナハフ10/11 紀伊勝浦発着
ナハフ10/11、オハネフ12 鳥羽発着
オハネフ12、スハネ16、ナハ10/11、ナハフ10/11 奈良発着
↓
急行紀伊1往復 1971.10.1〜下記前日まで
東京−奈良間を東京−王子間へ変更(奈良−王子間普通)。鳥羽発着のナハフ10/11をオハフ(オハフ45?)へ変更
↓
急行紀伊1往復 1972.3.15〜下記前日まで 東京−紀伊勝浦間のみ。東京−名古屋間は急行銀河1号(上下ともに)に併結
オハネフ12、オロネ10、スハネ16、オハネ12、オハネ12、オハネフ12
↓
特急紀伊1往復 1975.3.10〜1984.1.31 14系寝台モノクラス
東京−名古屋間併結相手
1978.10.1まで 特急いなば(東京−米子)
1978.10.2から 特急出雲3・2号(東京−出雲市) つくば万博開催期間中の夏休みには土浦~万博中央行の20系使用の臨時エキスポドリーム号乗車した。朝まで水戸方の土浦電留線で待機。7時頃土浦駅で停車。扉は開く。そして開場時間に合わせて万博中央駅まで走った。583系と交互運転だった。 >>505
寝台特急紀伊の併結相手は寝台特急いなばのイメージ強いね
紀伊は東京〜名古屋が浜松機関区のEF58で名古屋〜紀伊勝浦が
亀山のDD51だった。
当時はEF65Pが牽引する寝台列車群より、いなば・紀伊や銀河の
EF58牽引の方が個性があって大窓、原型小窓、Hゴム小窓の
様に個体差があるEF58が牽く寝台列車が好きだった。
1978年くらいから本格的にブルートレインの写真を撮影する
ようになったが当時は藤沢市内に住んでいたので上り第1群ブルトレは
トレは藤沢〜辻堂〜茅ヶ崎、第二群は根府川の白糸川橋梁で
よく撮影したけど1回だけお召予備の60号機が牽引するいなば・紀伊を
写した事がある・・・ガキだったので大船駅先端だけどw それと夜行列車ではないけれどやはりつくば博開催期間中、万博中央発大宮行の583系のエキスポライナーも一回だけ乗った。もちろん武蔵野線経由で。取手で停車。乗降可能。そこから大宮までノンストップ。やはり583系いいなと感じた。 >>511取手じゃなかった。間違えました。安孫子でした。 20系でやってたよ。80か81のPPでやってた
エキスポの客レは80の29号機と81の301と御召やったばかりの8181が狙い目
向日町の583も応援できてた。20系や青森の583は東大宮から送り込みがあったから
大宮発があったんだよな 583系のエキスポライナーやエキスポドリーム運行でお盆時期は足りなくなり大ムコへ応援要請もあった。
エキスポライナーは12系・14系・20系・583系・583系・キハ28やキハ58・401系・403系・415系など
多数の形式車両が筑波万博のために走り、見事だった。あと一般人は乗れないけどお召出場したEF81 81に
牽かれた宮内庁のジョイフルトレインことイロハニ編成(一号編成)こと御召列車が走ったのも昭和の良き思い出。 エキスポドリームは土浦発〜万博中央駅(現ひたちのうしく駅)行き寝台列車。
尾久客車区余剰の20系寝台を使い、EF80orEF81のPP運転と583系で運行。
つくば博では、ホテル等の施設整備が整わなかったらしく、寝台列車で土浦を
出て勝田や水戸の電留線に一晩中止めて、朝万博中央駅に戻る運用の列車で
乗車券込み¥3000、ある意味素泊まり状態。 エキスポドリーム(始発発車時9647レ) 7/16〜8/28 EF80+20系+EF80
583系使用の9647Mと同じダイヤ
カヤ21(たぶん)+ナハネ20×8+ナハネフ23 の10両
エキスポライナーの20系は
カヤ21+ナハネ20+ナハ21×8+ナハネフ23 の11両をEF81で牽引(ただし、最低1日だけEF80で牽引された日があり、写真も残っている)
http://exposition.main.jp/expo85/expoliner/index.html
http://exposition.main.jp/expo85/expoliner/pc20.jpg
運転開始時はナハネ20がナハ21の代わりに2両くらいつながっていたけど、"お約束"により尾久ナハ21を「すべて使って」置換 >宮内庁のジョイフルトレインことイロハニ編成(一号編成)こと御召列車
頭悪すぎ 当時国鉄本社から現場への通達である局報というのがあって国鉄本社まで行くと誰でも買えた。これを元に臨時列車の運転日時や編成形式を事前に知る事が出来た。つくば臨の通達見た時は何やら20系とかキハ58とか583系とか、国鉄車両見本市みたいな様相でなんじゃこら?と思った。 だが大学受験に集中せねばと自分は4月からさっぱり鉄から足洗ったんで写真を撮ることはなかった。毎日通学で常磐線に乗っていたが。
だが本当の秀才はそんなにキッパリ趣味を絶たなくとも多少抑える程度に調整してぼちぼち続行けて普通に受験を乗り切るものだ。頭の悪い自分にはそれが出来なかったが エキスポライナーやエキスポドリームのEF80牽引の20系はよく撮影した。
12系座席車や14系座席車もそうだけどキハ58・28・キロ28形12連も
当時としては珍しく撮影したけど特にEF81の29・35・39・44・45号機
を中心に好んで藤代〜佐貫、佐貫〜牛久などで早朝通過の客車ゆうづる
を含めて大学生時代に家の車を借りて効率よく撮影していた。
就職してからはローンで安い中古車を買って車移動の撮り鉄が趣味に
なって乗り鉄は暫し廃業だった。 >>520
国鉄の局報なら東鉄書店で購入できたけど毎回送られて来る達誌には直接趣味的には
関連のない架線起電停止や架線や線路の工事ばかりで自分が欲しい南局・北局と
三局共通のEF58限定運用やEF15の運用と詳細時刻が欲しかったので不要な達誌は
新聞ゴミに出していたけど国鉄内部文書なので問題あったかも? そう局報の内容の9割は運転情報とは関係ない情報だったね 。
ゴハチ目当てなんで北南3局購読なのも同じ。ED16EF15が立川にあった時は西も必要だったかも。
一応国鉄は国民の共有財産で1国民にも知る権利があるという建前で購読させてくれてたから、古新聞に出しても問題はなかったかもね。 >>526
三局共通は山貨を経由するEF58やEF15の限定運用と時刻を知る時が多かった。
たまに佐倉のDD51842が成田臨や内房・外房線で臨客牽引の情報が知りたかったけど
局報は仲間を作ってコピー折半で個人負担を減らし、高局や千葉局に静局の局報を
取ってる友達を美味しい情報を相互に交換しあって仲間を増やした。
こっちはEF58やEF15の情報が欲しいだけで臨回電とかはゴミ以下の情報だった
欲しいのは目指す機関車の運用番号「臨A○○○」から引っ張って今度は客車の
運用を調べて最後は時刻だけど運用変更にウヤ・トケや時変があるから顔が聞く
駅や現業機関経由でも調べて撮影していたよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています