夜行列車総合スレ★16
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日本の夜行列車も2019年2月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」・「ムーンライト信州」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★15@鉄道懐かし板)
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1527218739
上記同名スレ@鉄道総合板はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>227
新宿から夜行急行で黒部方面に行くなら急行アルプスでしょ?
南小谷行きか信濃森上行きか白馬行きだと思うよ
165系で一部の臨時が旧客(後に12系・14系)で運転されていた。
自分もルート周遊券「アルペンルート」を手に新宿駅のアルプスの
広場にあった臨時急行アルプスの自由席待合所に並んだよ。
当時の中央線夜行列車の自由席はホームに整列できなかったから。
中央線はトンネル断面が狭く、M'164は700番台が多かった 800番台だろ。168の●◆はよくみたけど、164のPS23はあまり見なかったな
夜行アルプス、飯田線の旧国乗るために真冬に乗ったら重装備のキスリングもった
登山客で大変なことになってた。暖房も全力で人いきれとも相まってかなり暑かった
覚えがある。自分も冬山やるんだけど、あの頃の装備でやるのは大変だったろうな
それ以前に山にとりつくまでが大変なんだから 立山アルペンルートは18きっぷで出かけるのがトクなのか
それとも、アルペン周遊券ででかけるのがトクなの
当時のおれは18きっぷの存在を知らなかつた。
まともにアルペンルート間を現金支払いしたら万単位になるから
周遊券のほうがトクだわな!! 上野からは急行よねやま、急行佐渡だな。
で、あさ7時過ぎに鶯谷駅を過ぎた大R区間で
急行に通勤電車から離合できたな
あれって、よねやま?か。 >>213
アルペンルートは青春18きっぷでは利用出来ない関西電力のトロッコや
ロープウェイに富山地鉄と黒部ダムへ行くバスの運賃は含まれてないから
ルート周遊券の方が確実に安い。今の時代は安いツアーが中心だけどね。
1990年のルート周遊券の価格(何れも都区内から大人で利用)
[503]アルペンルート・・・・\18,020
[504]宇奈月アルペンルート・・・\20,180
[505]黒部大観峰・・・・\14,520 18きっぷの存在を知らない僕は、
当時JTB(東京)に電話して都区内発の
アルペンルート周遊券を送ってもらっていた(1975年以降の通販はない時代)
そんでもって、その電話ではJTBのお嬢は俺には18きっぷの存在を一切教えてくれなかった。
っうか青春18きっぷは若者限定の切符と思い込んでいたからか(笑)。 そのころはJTBじゃないわな
日本交通公社だったわ 昔、北陸で金沢到着後、そのまま金サワまで乗られるサービスあったっけ? >>237
東金沢な
ただし、ドア開けたまんまでセキリュティに問題あって後に中止になったけどな 下り寝台特急「北陸」のチェックアウトサービスは出張で2回くらい使った
確か北陸に個室が連結されて開始されたが2年もせずに廃止されてしまった 寝台特急北陸は5両がソロでシングルデラックスが1両連結した
半分個室だったので繁忙期や多客期以外なら当日でも個室が
開いていたので出張でソロが使えるのが何よりの楽しみだった おかげで末期はスハネフ2両で済むくらいに減車されちゃった 急行 アルプス○○号って
新宿駅を23時50分過ぎとかに出発して
南小谷駅まで行くんだが松本駅かどっかで
編成を解結して短編成になるんだっけか?
で、信濃大町駅に夏場でも薄暗い早朝に到着して
バスで扇沢駅に着くころに明るくなるんだよね。
富山駅近くの銭湯で事件で思いだしたんで悪しからず。 >>243
昭和末期は23時55分は長野夜行。
定期アルプスは20分と45分。臨時がその間の30分頃と20分より前。そのあとの臨時はたいてい0時過ぎで客車、松本止まり。
多客期の甲府駅は、1時前の上り夜行から始まって3時過ぎの下り夜行まで、主にハイカーを乗せた夜行が次から次へとやってきて、そりゃ賑やかだったよ。 1977年から1978年(ゴーサントウ改正前)の下り中央線夜行列車
6413M アルプス 6号 新宿2230→信濃森上530(165系で運行)
8403M アルプス52号 新宿2300→松本410(165系で運行)
415M アルプス 7号 新宿2320→信濃森上600(165系で運行)
8405M アルプス53号 新宿2330→信濃森上619(165系で運行)
417M アルプス 8号 新宿2345→南小谷727(松本〜南小谷は普通2427M)
9431レ 臨時普通列車 新宿2350→岡谷501(旧型客車で運行)
441M 定期普通列車 新宿2355→長野9:43(115系で運行)
8411M たてしな52号 新宿0:20→上諏訪420(曖昧だけど多分165系)
8401レ アルプス54号 新宿0:30→松本605(旧型客車で運行)
因みに季節列車アルプスと定期アルプスは165系12両でサハシ165が
連結され、逆に編成中にモハ165が1両も組成されてなかったのが異種 誤・・・松本行き
正・・・長野行き
耄碌したくないわ。 1970年代後半の441M長野行きはアルプスの広場に並んで時間が来ると駅員が
ホームに誘導して知らないでホームに並んでいる奴らは強制排除されていたな
入線1時間以上も前にホームに並ぶアホがいるとホームの放送で所定の待合所
(アルプスの広場)へ並ぶように促していた
当時の441M新宿駅入線は21:46と早く、乗り込んで宴会が出来て長距離客を
優先した早期入線は嬉しかったけど当時は新宿〜高尾間の停車中はトイレが
閉錠してあって駅のトイレまで行くのが面倒だったけど今となってはそれも
いい思い出で懐かしいよ
当時は長野から新宿まで走る上りの442Mも設定されていたけど青春18ノビ
ノビきっぷが発売された1982年か翌年くらいに廃止されてしまったけど'70
年代後半に乗った事があるけど上りはいつも空いた(篠ノ井線内除く)。 >>244 78年夏、441Mで甲府まで行き、そこから南アルプス北岳の登山口までバス。
79年秋、この電車で大月、富士急の臨時で河口湖、そこからバスで吉田口五合目。
この頃は中央線夜行接続で登山口まで行くバスが各地で運行されていたが、今はもうないのか。乗ったことないが、松本電鉄も登山客運ぶ夜行接続臨時を運転していたんだっけ? >>249
割と最近まで「ムーンライト信州」に接続する松本電鉄の臨時列車があったような…
>>248
長時間停車でトイレ使えたら、出発後の線路がとんでもないことになっていそうだな。 >>246
JRでも新宿発長野行のあずさとかあっただろ
アルプスも上りだけ長野発新宿行の時代があったし >>248
上り442Mが廃止されたのは、1985年3月の改正。
同時に下り441Mも上諏訪行きに改められた。 >>249
今はマイカーで移動する時代なんだろうね、登山であっても 【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青砥6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青砥6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
D清水(東京都葛飾区青砥6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青砥6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青砥6−23−20) 昔は首都圏発の鈍行夜行列車が3本あって毎日自由席で長岡、長野、大垣まで
走っていたけど長岡行きは乗りたくなかったが信越線のEF58を写しに高校生の
時に何度か乗った 仕事帰宅列車で混雑して終点まで減光しなかったので
眠りつらい列車だった 1975年に就職で東京へ行き、
新人同士で東京郊外に住む(小平市)奴の家に全員で1泊して
中央線始発電車に乗り(武蔵小金井駅までは早朝なので徒歩移動)諏訪湖周辺へ
行ったのを思い出したが始発電車がどこ行きか思いだせん。 >>248
441M列車は走行する区間で役割が異なっていた。
(1) 高尾〜大月(甲府)間までの最終列車
(2) 小淵沢で小海線始発に接続するための時間調整の区間
(3) 小淵沢〜上諏訪までの始発列車
(4) 辰野〜塩尻までの始発列車
(5) 松本〜長野間 県都長野への接続列車
441Mは停車時間が長い駅が多かったのが特徴でした
大月144-51、甲府251-316、日野春350-445、小淵沢501-514、
茅野541-50、上諏訪557-646、松本802-17、羽尾(信)912-16。
昭和55年10月1日改正の列車ダイヤで4分以上停車する駅が
対象で羽尾信号場は運転停車。 木綿のハンカチーフの列車って九州ブルトレなのか銀河なのか 繁忙期の夜行急行や夜行鈍行の自由席はさながら奴隷船みたいな感じだったのか?
立ったまま寝たり新聞紙を床に敷いて雑魚寝とか結構多かっただろうな
真夜中に過酷な移動とか今じゃ考えられない >>259 デッキに洗面所で立ちっぱなしというのもいたよ。昭和40年代後半、品川特発やってた頃の津軽。
深夜になると水タンクが空になり、洗面所の水が出なくなる。 260続き
当時は、今ほど休みが分散していなかったからね。
お盆休みに年末年始、それからゴールデンウィークに民族大移動と称されるほどの混雑が集中する。
年末年始、5日〜1週間位の休みのうち、2日は夜行列車の移動でつぶれ、疲れを残しながら目的地到着。 >>257
昔は地方にコンビニなど無かったから深夜の長時間停車でも補給できると言えば自販機の飲み物くらいだが
上諏訪駅でのロング停車では6時からホームにあった露天風呂で温泉に使って6:40になるとホームの
立ち食い蕎麦屋に駅弁:杣人弁当が並んだけど学生時代は変えなくてありつける事になったのは社会人に
なってからだった。松本駅では立ち食い蕎麦では上位にランクしてた ‎イイダヤ軒の蕎麦スタンドでよく食べたよ。
若い頃は日野春駅での1時間近い停車の意味が分からなかった(普通その時間帯は寝てるからね)けど
けど数年後に鉄道ダイヤ情報誌の1時間ダイヤグラムで8401列車「臨時急行アルプス55号」の退避と判明した。 >>256
東京には行きたくていったわけでわなく
はがき1枚が届き、いついつまでに独身寮に荷物遅れの連絡きて
当時は宅配便や小口路線貨物がなかったので国鉄の駅まで荷物を持ち込んだ。
で、当時の採用決定通知は電報なのな・・・・昭和が懐かしい。 某コリー犬のブリーダーのブログに
そのブリーダーが子供の頃の昭和50年代チッキ扱いで送られてきたコリーの子犬を袋井駅に取りに行ったと書いてあったな。 >>265
映画ハチ公物語によれば大館駅から荷物便として渋谷駅まで運ばれた 忠犬ハチの生誕は‎1923年11月10日なので急行「津軽」の前身である。
夜行急行702列車(青森〜上野)に連結した荷物車(マニ?)で
上野駅まで来てそこからトラックで渋谷駅に運ばれたか当時は渋谷駅
に荷物列車の取り扱いがあったのかは不明だ。 >>267
山手線がどうしてできたのか考えたことある?
少し調べるか考えてみたらわかるだろうに。 >>245
中央線でこんなに夜行列車必要だったの? >>270
定期は急行二本と普通一本だから
そんなにびっくりするほどの本数じゃない >>267
荷物室・郵便室・三等室に区分されているデハユニなら直に渋谷駅で荷扱いできる 中央線夜行急行は定期よりも臨時のほうが多かったんじゃないか
アルペンルートや登山客で混雑していた
それと、春・秋の尾瀬への登山・散策で上越線の夜行急行も
多かったな。
昭和の早朝3時過ぎの沼田駅前広場は尾瀬方面へ行くバスを待っている
お客で大都会なみの混雑で凄かったな。もちろん急行電車車内も潰されるような
大混雑であったな。 >>275
そんな時代があったことを思うと、帰省も娯楽も大きく変わったってことか
新幹線に乗れれば、今じゃ帰省も数時間で終わるってのがなぁ
本当に「夜行列車?何それ」な時代が迫ってるんだよね 夜行急行と夜行鈍行が両方走ってた線区あった
どっちも自由席だが急行の方が空いててゆったりしてた上に冷房があった
夜行鈍行だと殆ど旧型客車であり冷房なし おれも帰省先が仙台だったが、
急行銀河だっけか?仙台〜上野
存在を知ったのも最近なんだな
俺って帰省はなんでしていたのか
勿論そのころは高速夜行バスは東北急行のみで利用はしなかつた
俺ってなにで帰省していたのか40年前のことが思いだけな
ひとつだけ覚えてるのは仙台からの常磐線経由の臨時急行(ブルーの客車)で
俺の貸し切りっう状態で上野に着いたのを覚えている。
そのころはホーム階段で駅員が乗車券・特急券・急行券をチェックしていた頃だった
着駅でのチェックはキセル防止策(都内利用の定期券でキセルやる奴がいたから)。 中島みゆきの歌詞によく出てきた夜汽車のフレーズも使えなくなったな >>275
中央線・臨時夜行急行はスキー客が多い1月から3月初旬が一番多かった。
当時は夜行バスが少なくてあってもスキーツアー用の団体バスだったので
上越線共々スキーシーズンは臨時夜行列車の本数が本当に多かった。
>>277
夜行急行と夜行鈍行の両方が走ってた線区は意外とあった。
北から夜行急行「狩勝」と鈍行夜行「からまつ」、夜行急行「すずらん」と
鈍行夜行「41レ・46レ」、中部エリアは夜行急行「きのくに」と鈍行夜行「南紀(はやたま)」。
夜行急行「だいせん」と鈍行夜行「山陰」、四国は夜行急行「うわじま」と
鈍行夜行「731D・762D」、中央線は夜行急行「アルプス」と鈍行夜行「441M・442M」。
両者の区間がやや違うけど東海道だと夜行急行「銀河」と鈍行夜行「347M・344M」に
上越夜行だと夜行急行「佐渡」と鈍行夜行「733M」。
>>278
>仙台からの常磐線経由の臨時急行(ブルーの客車)
仙台〜上野間の座席夜行急行と言えば急行「あずま」や「まつしま」が有名だけど
急行「ときわ」の臨時列車だと思いますが1978年10月ダイヤ改正の時刻表には
該当列車はありませんでした。 >>280
>仙台からの常磐線経由の臨時急行(ブルーの客車)
12系客車の青森からの臨時十和田だろう。
または十和田2号かもしれない。仙台から有効時間帯だったし、1979年に12系化されている。
>>278
「銀河」と同様の全車寝台列車も「新星」という名であった。
但しこちらは東北本線経由。 常磐線経由の臨時急行は
仙台始発で上野行き 昼前後の出発だったような記憶
あまりの客のいなさにビックリしたわ
だから検札にも来ないし運転停車も多かった記憶で
いわき駅以南でもお客は乗り込んでこなかった。
車両を田端(尾久)に戻すために運転されてんじゃないかな(定かでないが) >>282
夜行列車ではなく、日中の客車臨時急行なら
急行いわき・急行ときわの臨時だと思われ 昭和53年10月の時刻表には、上野に夕方に着く臨時「十和田」が載っていた。それのことじゃないか。
シーズンに2, 3日しか運転されていなかった。 すみませんが、
人の話しを聞いてくださいませんか。
仙台駅始発の常磐線回りの臨時急行なんです。
だから、まさかの話しなんですが俺が乗った車両には
俺しかいなかったんです。おれも帰省で東京(埼玉住みだったが)へ戻るために
のったからその当時は夏休みっう定義が企業にはなかったので普通に盆休みなんで
お盆後半(終盤)の日だったような。 >>287
せめて始発駅・仙台の大まかな発車時刻でも書いてもらえれば分かりやすい
朝方、昼前、昼過ぎ、午後でもいいのだが? 夜行列車のスレだから夜行かと思えば、違うこといいだしてるし
ただのボケ老人だろ。このお爺ちゃんの記憶違い
おまえが人の話を聞けって話 >>287
仙台駅始発って何でわかった?
あと何年のこと? 昼前後に仙台駅発
夕方(8月)の明るいうちに上野駅着
で、客車は新しそうな12系だったと思う。 >>290
乗った本人が書いてるから
昭和51年から54年でこのへんは曖昧 >>292
>乗った本人が書いてるから
だからその根拠は何だよ?
乗った年さえ曖昧でよくそんなことが言えるよな
車輌の詳細とかその列車に決めた詳細とか
覚えていることを書いとくれ
みんな該当列車がないので困ってるんだよ
常磐線って単線区間がネックになって日頃から余裕のないダイヤだから昼行の臨時って思ったより少ないし
あっても貴重な筋だから足の長いのが主流だったんよ 話しっうのは、逆の発想で解決するときもある
お盆時期(帰り)で東北線のダイヤは定期・臨時で空きがない
で、時刻表に載っている臨時列車なら幾何かの予約客が乗っているはずで
ダイヤ的にすいている日中の常磐線てなものも。当時の国鉄としては
採算度外視し車両を尾久へ返却することだけを考えて回送ではちょっと勿体ない
思考回路が動きだし、じゃ突発の常磐線回り臨時急行っなわけで運転したのかも(完全妄想100%). >>291
それ夜行列車ではないし、ブルートレインでもない
つまりスレチだから、的確なスレであるこっちで聞け
臨時列車[急行]懐かしの51号[特急]を語るスレ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1288894852/ 何故に唐突にブルートレイン?
12系をブルートレインと称するインチキイベントツアーならあったがw >>297
爺さんどうでも良いところに文句言うなよw 40年前だと常磐線・上野〜仙台間に普通列車の旧型客車が走っていたから
12系の臨時急行が走っても珍しくはないけどここは夜行列車のスレなの
だから聞くスレを間違えているんだよ。 1975年前後に青森駅をAM0時20分に発車して上野駅まで
向かった臨時夜行急行の列車名が分かる方ご教示ください
因みに15分前に0:05発の上野駅行き急行八甲田は発車してる 2019年GW 夜行列車が運転運転される区間と期間
東武,DL「大樹」による臨時夜行列車“ありがとう平成・こんにちは令和号”を運転
2019年4月30日〜2019年5月1日、南栗橋駅—鬼怒川温泉駅
新大阪〜串本間 夜行列車
2019年4月30日〜5月1日、 新大阪駅ー串本駅 14系座席車や289系電車を使ったクルーズトレインなんてある訳ないだろ
ただの団体ツアー列車をクルーズトレインに決め込むなんて気持ち悪いわ >>303
八甲田か十和田の臨時だろう。
福島・黒磯経由か、常磐線経由か分かれば明白。 >>303
昭和49年8月改正だと青森0:20発は急行十和田5号だと思う。
当時の急行十和田は5往復あって臨時十和田は53〜号を名乗ってた。
当時の青森駅上り急行十和田の発車時刻は・・・
十和田 1号 16:30
十和田 2号 18:50
十和田53号 19:35
十和田 3号 19:50
十和田 4号 21:35
十和田54号 22:15
十和田 5号 00:20 >>309
それって昼行で51号と52号があったんじゃないの? だいたい情熱や関心が高いほど夜行では寝にくいものだよな。大学時代九州で過ごして博多からあさかぜ乗って関門トンネルが81 400でギンギラギンの300とかEF30とかじゃなくて。その先青とクリームのロクロクのあーまた本州に戻ってしまたなあああかったるい寝るかーって熟睡。
しばらく眠って静寂の中の停車にちと目が覚めて ここはどこかいな?こっそりとカーテンの外を覗くが駅名の看板がなくて、あちこち探すけど分からずまいっかーあー眠いってまた熟睡。こりゃー家でうだうだ寝てるのと同じ位寝られるならホント寝台料金払ったかいがあるわいなど思いつつ。 朝になって名古屋とか静岡とか走ってる気配はあるもののまだ眠い。
横浜?まだ30分ある また一眠り川崎の気配 まだ15分はある一眠り品川の気配 まだ5分ある一眠り。
新橋そろそろ起きねばやばかねー あ有楽町これはさすがに起きねばああ眠い二三時間遅れてくれればよかったのに。
でパパパパーと適当に着替えて東京駅に降り立つ。到着後数分ベッドにいても誰も怒らんのねーあーよく寝た寝たなどと思いつつ。国鉄民営化鉄から足洗った者の数年後の姿であった。 >>310
1976年4・5月の時刻表に急行「十和田51号」の時刻が書いてあるけど青森発は午後だった >>248
餘部橋梁からみやびが墜落したニュースを聞いたのがアルプスの広場で並んでる時だったな。 >>316
昭和61(1986)年12月28日13時24分に起きた事故だったけど
俺が知ったのは翌日の朝で寝台特急はやぶさの車内販売から
求めた新聞の一面にボロボロになった14系座席車が描かれていた。
最初見たときは「みやび」とは思わなかったけど活字を拾うと
お座敷列車みやびだと判明。
東京駅ではやぶさに乗り込む前にキヨスク売店でも寄れば夕刊で
気が付いたかも知れないが勤務先から直接急いで東京駅へ行くと
買物する時間もなくて夕飯は食堂車で飲み物は車内販売で買えば
いいと思っていたから知るのが翌日になったのだと思われ。
因みに餘部橋梁でなくて余部橋梁だよ 駅名は餘部が正しい。 思い出補正とはまだまだ当時は鉄分が多いという事だったのかねえ。
真っ赤に塗られたEF81 400が確か下関博多通しで運転されるの見て今後
どんどん合理化が進んでいって、銀色の関門用機関車とかマニアックな
琴線に触れるものが無くなっていくんだろうなというつまらなさがあったね
だがそれとて今になってみれば枝葉の事であった訳だが。
1番おおきいのは個人的に大学受験で鉄から足洗ったという事なんだが、
今言えるのはそんな足洗った洗わないなんておおげさに考えずボチボチやってればいいじゃないかという事。当時から30年40年続けてるそういう人も多くて
寧ろ尊敬する。
その後は免許取って車運転するようになって通学にもスクーター使うようになりさらに鉄分漂白w 上に余部の話題出てるけど山陰通って車で九州くため
余部のユースホステルに泊まったりしたなあ。 >>317
当時学生で、京都から山陰方面に帰省するとき、山陰線経由にするか
山陽伯備経由で、「金がないから鈍行で帰ろ」と同級生と話して
山陽経由で帰った。
米子に着いたら、大騒ぎになっていた。
あのまま山陰線経由だったら帰れなかったかもと考えると、運不運は
わからないものだと思うね。 >>318
>真っ赤に塗られたEF81 400が確か下関博多通しで運転されるの見て
真っ赤に塗られたEF81は一部の0番台と100番台のみ
EF81 400番台は真っ赤でなくてローズピンク色だよ 81に100番台なんかないし、大分の400番台は赤2号だったから 普通、〜番台って言ったら番台区分だろ
区分ないのにいちいち100番台っていう必要は無い
まぁ100越えたら100番台なんだけどよ。小学生だろ、そんなこというの >>322
番号区分としての100番台は存在しない。 ツララ切付きの奴をそう思ってるのかもしれんが
ダスキンとか見たらこれ違うとか言いそうだな EF81の番台は0番台(基本番台)、300番台、450番台、500番台のみだよ 1〜38 初期型
39〜99 中期型
100〜139 後期型
140〜152 最終型
ロット別にざっと分けるとこんな感じ?
65PFと同じく製造期間長いから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています