153系・165系・キハ58など急行型車両を語ろう 12
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>>245
アルコンは2エンジンに無理矢理4DQ付けたのあったが機器室に入れてた
床下に全部収めたのはキハ8500が唯一だがラジエーターが床上にある 沿線に大した観光名所もない路線で、鉄道テーマパーク化で経営再建できると考えた甘さがあったのでは?
前社長の大法螺に乗せられて失敗したということでしょ。
目先の国民性なんちゃら言っているオタが毎週、大挙して乗りに行けば経営再建に貢献するのだろうが、そんなことしないから。 >>257
訂正
キハ8500→キハ8200
車体が少し長く幅が少し小さい こういうの(>>258)が
まさに目先のことしか考えられないタイプといえるな
沿線にたいした観光名所もないw >>260 養老の滝は小湊鉄道の方が便利、東京からアクアライン経由で車で行く方法もあるが。温泉も高い山もない。海水浴場もない。
この辺り、ゴルフ場が結構あるが、皆、車で行く。 >>261
当たり。大多喜城くらいじゃ名所とは・・本多忠勝を大河に の看板も虚しい
ゴルフも車、伊勢海老料理食いたきゃ大原港から太東崎−東浪見−一宮と
ドライブに最適という場所。 その辺は鳥塚氏も認めるところ
このフレーズを考えたんだから。 現在絶賛剥がし中
快速無くなる前に乗ってきた。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org579141.jpg >>261
養老の滝は岐阜県ですよ
千葉は養老渓谷
まぁ、どうでもいいけど そもそも>>260は目先のことしか考えないとか言ってるけどさ
単にヲタ的に面白くない事態だから文句言ってるだけだろ?
前社長に長い目で見た経営ビジョンがあったとも思えないんだよね キハ58系と169系の急行で
冷房車と非冷房車が混結編成があったけど、
どういう差別化していたのか気になる。 >>266
キハ58系に関しては、確か指定席/自由席で冷房/非冷房ってことなかったっけ?
165系とかは知らん。 >>267
冷房車つないでいても専用電源(エンジンやMG)の有無も重要。
床下に余裕があったクハ・サハ・サロやキハ(キロ)28に積んでいたので
そういった車両が編成にないと無用の長物となってしまう。
だから編成によって決まってしまう。 全車冷房まではいろいろあったよ
指定席が非冷房で、自由席が冷房とか、ふつーに 40年ちょい前、お盆の少し前親父の実家の福島に行ったとき、
往路は旧型客車の臨時鈍行、復路がキハ58系の急行(列車名失念)だった。
いつもは家族で車で行っていたのだけど、この年だけは唯一の例外で、
親父がガキ鉄(8歳だったか)のオレのためにわざわざ選んだらしい。
旧型客車は当然非冷房だったけど、そこそこ空席があったせいか、
窓から入る風がとても気持ちよかった。
キハ58系は冷房車だった(はず)が、Uターン混雑が始まっていたので、
着席できず(なんとなく座らせてもらった記憶はある)、
とにかく疲れて暑苦しかったという記憶しかない。
旧型客車、キハ58系(非改造)、どちらも唯一の乗車体験だった。
黒磯での機関車交換とかもあって、行きは天国だったが、
帰りは文字通り地獄だった。
その数年後、キハ55系に乗車する機会があって、
その醸しだすサウンドで、165系の車内と共に脳内のキハ58系を補完したよw 混んでる急行より時間掛かっても鈍行ってのはわかる。
70年代-80年代初めはそんな時代だったな。
鈍行が空いてるから青春のびのび18きっぷが出来たわけだし。 >>203
国鉄時代の電車 (新幹線以外) はほとんど、仕業検査周期が1200キロ以内に抑えられていたから、 (田町出庫〜) 東京〜博多 (南福岡) あたりが規定上の限界だった。
日本海縦貫の特急「白鳥」 (大阪〜青森) を超える長距離電車列車が設定されなかったのは、居住性うんぬんよりも、むしろこのため。
ちなみに、旧国の仕業検査周期はさらに短くなって、70・80形が800キロ以内、それ以外はほとんどが600キロ以内。 >>271
1980年頃なら、2エンジンのキハ58主体で組まれた「おが」などに、非冷房車や電源供給がないクーラーつき冷房不可能車がしばしば混じっていた。
キハ58などに冷改後も扇風機を残したものが多かったのは、こうした急勾配路線で電源供給が難しいことを見越していたのかも知れない。 103系で冷房・非冷房の混合編成あったっけ
あれは冷房車ばかり殺到するわ >>274
もっと後まで、「奥只見」とか、非冷が入っていましたね。
小出地区とか内陸なんで夏は結構暑いんだが。 子供の頃、急行アルプスの冷房故障車に乗った記憶がある
勿論、ガラガラで途中駅から乗ってきた客も即座に別車両へ逃げていった
途中で冷房が直って、車掌と一緒に開いていた窓を閉め廻った 冷房故障は特急やグリーン車だと料金払い戻しだが急行はそうでもなかったな
末端で普通列車になる列車では普通列車区間では冷房の電源を落としてたのがあった 特急の冷房故障は窓開かないから地獄だからなぁ。
指定持ってて自由に移って立たされても半額しか
払い戻ししてくれなかったんじゃないかな。 初期の頃は1等車→グリーン車も非冷房だったが今だと冷房故障は約款上サービスが成立せず料金払い戻しだろうな
グリーン車が2両あって1両が故障して残る1両に乗客が移って座れたら払い戻しなし 九州ブルトレでよりによって夏休みの繁忙期で満席の列車で一両だけ冷房がダウンして
故障車の乗客を他の車に逃がす事もできず途中駅で氷柱を積んだりしたって事もあった。 >>283
子供ん時、初期の新幹線こだまで経験あるわ 583系はくつるで、朝、開けっ放しのトイレ窓から吹き込んだ雪で大変なことになったっけ。
24系25型富士で、朝、タンクの水が空になっていたこともあった。
どちらも乗った車両でおきたんだけど、
特に前者はよりによってモハネ582のパン下中段をわざわざ選んだのに、
そのすぐ脇で隙間風の嵐・・・
まぁ、どれもいい思い出ではあるんだけどw 583系ってデッキも雪だらけになっていたっけ?
降雪地域で折り戸は不向き >>288
同じ折戸の24系「あけぼの」は、隙間から吹き込んでいて、デッキ部分が少しだけ雪まみれになっていたのは見たことがある とうほぐ運用の583系は、降雪期、特に大雪や吹雪時にデッキが雪祭りになるのが日常茶飯事だよ
トンキン方面からはくつる、ゆうづる、はつかり、みちのく、津軽に乗ってきた雪見慣れないガキなんざいれば、喜んで雪玉作って遊ぶのも定番だな でも、バスみたいだけどねw
キハ65も折戸だったけど、あの頃の流行りだったのかな? 引戸は戸袋いるから。キハ181や65はそれが台車に干渉するから折戸
バスみたいってのはその通りでバスの前扉みたいなもん
クハ451の話はいらんからな。ヲタはすぐ話があっちゃこっちゃいく
客車は折戸の方が工作が安いから。ナハ10の話もいらんから 変わりどころでは、クロ157が折戸だったな。
しかも唯一の4枚折戸だった。
見てくれは153系なのになぜ157系なのかよくわからんのう。 >>296
牽引車を157系にしたから、157系に編入しただけでしょ >>296
クモハ711-901とクハ711-901が同じドアだろ >>296
GMのキット作ったよ
あれかっこよかったな >>296
クモハ157に貫通つければ153-500の顔になるんだけど、それが出来るのが1年後なんだよね
クロは貫通にしたかったから153-0をそのまま使ったんだろうけど、クモハ157は最初から貫通
つけとけばよかったんだよな。それならもう少し使い勝手よかったろうに >>300
貫通路とか貫通扉を貫通と略すとわかりにくいよ >>291
きたぐにではそういう光景なかった
北陸と東北じゃ雪質違うからかな? >>296
クモヤ791-1もか
>>293
クハじゃないだろ 165系時代の松本〜名古屋のロングランってどんな感じだったんだろう 急行赤倉がキハ58系から165系電車化されたのは昭和57年11月15日で廃止が昭和60年3月14日だから
物凄く短い期間なのよね >>306
>>305は普通列車で運用していたときのことを言ってたのでは?それよりもながい急行赤倉の存在を知らないのかもしれない… >>307
キハ58系時代、165系時代どちらも実際にフル乗車したかったなぁ…
松本に住んでいた頃、新潟に単身赴任していた親父が赤倉の区間短縮後の急行南越後に乗って行き来していたけど、小6ながら南越後の3両編成は見てて淋しかったな。
一人前にワクワクしたのは長モトの165系と逆にクモハが塩尻寄り(松本駅基準)にあったこと… >>310
新潟に住んでるときに家族で名古屋まで北陸線経由で行ったが…なにか >>309
しかも南越後とか「取り敢えず列車名つけてみました」レベルの愛称だしね。 >>311
マジレス車しかありえなくなっただろう
5往復しかないしらゆき以外はそもそも金沢上越妙高の接続も恐ろしく悪いし、サンダーバードは湖西線でなく米原迂回30分遅れがもはや当たり前になってるし鉄ヲタ以外そんなギャンブルはしないw >>320
>>309だけどホント変な名称だと思ったわ。後年、南越後と同じ区間で赤倉に再変更したけど…
ついでに訂正。松本駅基準で塩尻側にクモハが来るのは長モト編成で、新ニイ(→新カヌ)編成は長野側やね。頭では理解してたけど逆に書いてたわ…歳だね。 A編成とK編成、あるいはM編成の混結編成もあった赤倉
A編成の方が早く潰して最後はK編成と増結はM編成だったような気がした。 時刻表で確認したら165系赤倉とべにばなは全車自由席だった 急行能登路の一部が415系で運転してましたが
475系は入線できなかったのでしょうか?? >>325
急行能登路には起用されなかったが、朝ラッシュ時の輸送力列車としては入線してた >>309
南越後は、増結で3×2の日が結構あったと思う。
座席数が倍だからとくに鈍行区間(長野〜松本間)で重宝されていた。 軽井沢から長野まで普通列車になってしまう急行信州
平岡とか西上田とか小さい駅にも停まってたんだ? >>328
平岡→平原か。
機関車の付け替えで、横川のようなマイナーな駅も特急・急行全停だったな。 >>325
七尾線電化でリニューアルした車両を投入したから
で、そのまま使い続けてめでたく50年選手誕生 >>328
朝の上京、夜の帰郷な
小駅からも利用者があったってこと
各地にあったよ 関口知宏の列島縦断12000キロの旅の再放送していたけど、
放送当時は日豊本線にまだ475系走っていたんだなと。 475系といえば、急行列車の有ったころに
北陸の車と九州車が同時にいたことはあるのでしょうか。
名古屋とか大阪駅。 常磐線の夜ノ森でも途中駅して、民家にお邪魔していた。 >>328
平原、西上田は169系のラストランの急行運転のときに停車した
名実ともに急行停車実績駅となった >>335
時刻表1967年3月号によると大阪駅9時発501M第1立山が金サワ車で富山へ
201M第1つくしが門ミフ車で博多へ、同一時刻にそれぞれ東西へ発車。 >>336
夜ノ森っていまだに警戒区域のあそこか8年も経っていまだに入れないから貴重
>>338
確かにキモハゲ散らかしたおっさんとかジジイがいきなりそんなことをしたら、そりゃ警戒されるのが当然だろういや、110番に即通報されるのが当然だろうw
いわゆる観光地でも今は無理だろうなw >>337
マイナー駅なら宗谷線佐久とか、いろいろある。 >>331
信州の場合急行と普通最終を一本の列車で兼用しただけだろ 始発普通との兼用も各地にあったな。
高松〜八幡浜〜宇和島とか。 出雲市〜大社
奈良〜王寺
寝台車付き普通
王寺〜東京はドリーム号で復活しとる 1984年だったかな?
仙台から高萩へ行く時に乗った『ときわ』が急行としては原ノ町発上野行で
仙台〜原ノ町は普通だった。 壁際の座席はデッキ仕切り扉が狭くならないようサイズが若干小さく窓側に肘掛けが無いという欠陥があるよな
113系2000番台もボックスシートは壁際だけ小さい >>348
壁際と言うよりデッキと客室との仕切り部分だよね。 乗客のすみ分けでは
・普通列車で居住性を求める→指定席やグリーン車自由席
・速度を求めるが上位居住性は不要→急行列車
・速度+居住性を求める→特別急行列車
2番目が無くなってしまった。 普通のGが使える人は限られています
でも人口比率だと30%越えるのかも >>351 >速度を求めるが上位居住性は不要
新快速など特別料金不要の快速列車って、そのニーズにかなってるんですが。 >>351 >速度を求めるが上位居住性は不要
急行の存在が中途半端になった理由は、北陸本線で急行電車快速や普通電車が、共通運用をするようになったからでは?事実快速満員急行ガラガラだったしで、急行廃止の代わりに快速電車も廃止と、いわば暴挙の様なものに出てそれ以来、急行型車両は普通に使われる様になる。 >>350
12系も同様のはず。
ただし、12系はシートピッチが急行型電車よりさらに拡大。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています