知ってたらおじいさん©2ch.net
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82系特急・へいわ(大阪・広島)
153系急行・やましろ(東京・大阪) 1200V時代の京成(さすがに600V時代を知っていると御先祖様レベルか) >>130
84年まで走ってたから経堂以西在住なら30代後半で見てる可能性大 >>124
知っていたら「おじさん」と見間違えた。
おじいさんだったら、対岸を走っていた宇島鉄道。 阪和線堺市駅から分岐していた堺市北区新金岡町金岡団地付近にあった金岡米軍キャンプまでの引き込み線 片町線の津田から分岐していた帝国陸軍禁野火薬庫への引き込み線 んな事言ってたら沖縄の鉄道は全部だな(もちろん現行のモノレールの事でない)
戦前迄行くとそれこそ小田急(帝都電鉄)井の頭線とか南海山手線(阪和線)だとかきりなくなるので戦前対象外すべきでは >>141
ヤバい! 送信してしまった!
それを言うなら 国鉄千葉駅前駅も入れてさしあげないとですね 現在の阿倍野区役所の場所にあった大阪市営地下鉄谷町線阿倍野検車場 >>152
そこに踏切があって、車両出入りのさいは市交のおっさんが4〜5人がかりで
旗振りをしていた、出庫した電車は道路の東端(現在の歩道)を遠慮そうに走
り阿倍野バイパスの高架開始近辺(現在コジマ電気)のところからするすると
地下に潜っていったな・・・・当時の子供ごころに「あれは何だ!」と思った。 現在の子供たちにとっては不思議な事ではないが、地下鉄という物に乗ると
2〜3分置きに外の景色が交互に昼になったり夜になったりして驚いた驚愕
・感激感覚 不思議な乗り物だった。 大阪市交御堂筋線天王寺〜西田辺間は開通当初、掘割りになっていたが、
のちにトンネル化され、現在はトンネル上にあびこ筋が通っていること 現在、夜間に「赤い灯・青い灯」といわれる色つき照明や電灯はいたるところ
に有るが、昔はミナミの道頓堀やナンバ・梅田などの繁華街などへ出なければ
見ることができなかった。赤色の電灯は鉄道踏切・交通信号機・警察交番の前
などに有ったが、青色は殆どなく、田んぼの中の誘蛾灯くらいだった。確実に
見れるのは鉄道線路の信号機のところだったので、珍しかった。子供心に感激
なのでいつまでも眺めていた。(大阪版のカキコでスマソ・・・・)、 >>157
上記は大阪駅・三ノ宮駅のホーム上屋の照明が白熱灯・快速に使用の80系電
車の車内灯が白熱灯時代の話である。大阪市大病院や日赤病院も殆どが白熱灯
であったが(病院に関してはかなり遅くまであった)夜間になると非常に恐怖
感に襲われた。 >>157
1958年(昭和33年)以前そもそも意味違う おまえら、
ビデオテープって、ど〜してる?
DVD変換してる?
懐かしい映像とかもったいないじゃん???
で、こんなトコ見つけた!
★★http://pcassist-tachikawa.jp/dvddub.html
PCアシスト立川
古いビデオテープをさ、
持込でも郵送でも、DVDに焼きなおしてくれるw
デザイナーさんがいて、
『タイトル+タイトル画』も付けてくれるw
既成とオリジナルとあってさ、
1)絵心のあるヤツは自作の絵でもOK!
2)ガキんちょの絵だって、バッチリ
3)写真だって決まるぜ
おれ、近くだから、思い出のビデオテープと絵を持ち込んだ。
涙出るくらいカッチョええwww
PCアシスト立川〜〜〜〜〜〜おすすめだぜ!!
w ロングおじさんナレーションのマンガはじめて物語。
スポンサーCMで東急8500が出てくんのw 港行きの列車から航路に乗り換えて海外へ…
というのも今やご先祖様レベルだな 南海線のアナウンス。
「普通車難波行きです。住吉公園までの各駅と天下茶屋、新今宮に停車します。」 48年前の今日7月21日、アポロ11号の月面着陸の
テレビ中継を食い入るように見ていた。
夏休み初日だった
同時通訳の西山千さんが懐かしい。 >>166
その西山さんが「略語が多くてわかりません。」と難儀してた。
話は変わるが、その頃、大阪の地下鉄の駅で農作業のような格好をした切符売りのおばさん達を見かけた。
11枚綴りの回数券を大量に仕入れてばら売りしていた。
混み合う自販機を嫌って、けっこうな人が利用しているようだった。
万博を機に(だったと思う)切り離した回数券は無効となり、おばさん達は消えた。 402 【大吉】 ◆Dq0510MAKI @無断転載は禁止 2017/10/01(日) 17:59:20.36 ID:GwU/BbEx0
スーパー行ったら真っ黒の垢じみたくっさーーーーーーーーーーーーーいおじいさんが居て吐きそうになった
まだムカムカしてる
そいつがコロッケ4つ入りの袋を汚い指で色々な袋を開けたおしてた
O157だって店の責任が全てではないと思った
そういう人に限って飼わないくせにいちいち開けてんの
臭くて汚いのは死にそうになる ♫僕は特急の機関士で〜…
全くの余談だが、自治会の敬老会の出し物を任されて、藤山一郎を歌ったら、参加しているじーさんばーさんよりも年寄りに見られてしまった。 @花の東京のど真ん中〜 くるり回れば『山手線』〜
『山手線』を『やまてせん』と歌って違和感のない人。
A汽車の窓から『ハンケチ』振れば〜 牧場の乙女が花束投げる〜
A'汽車の窓からフンドシ振れば〜 田圃の婆ちゃん腰巻見せる〜
B儂が若い頃な、東海道線に『遭難電車』とかいう電車が走り出してな…
C東北線の特急がな、汽車から『ジーゼルカー』に変わってな、故障ばかり起こしていてな…
列車の名前、何と言ったかな…
確か『(故障)ばっかり』とか『がっかり』とか言っていたな…
D力道山とか、あの頃プロレスラーも汽車で移動しとったな…
リングのアナウンサーがテレビの宣伝(注.CM)で、「赤コーナー、三菱『モートル』〜!」ってやってたわな… 踏み切り番が遮断機を下ろして、列車が通過する間は旗を振っていた。 *ど〜こかに故郷の〜、香りを乗せて〜 … (井沢八郎「ああ上野駅」)
*汽車汽車ポッポポッポ、シュッポシュッポシュッポッポ、
『兵隊サン』ヲ乗セテ、シュッポシュッポシュッポッポ。
僕等モ手ニ手ニ日ノ丸ノ、小旗ヲ振リ振リ送リマショ。
万歳、万歳、万歳。
兵隊サン、兵隊サン、万万歳。(「兵隊サンノ汽車」)
*春のノ小川ハ サラサラ『流ル』… 大きなノッポの*****
おじいさんの*****
100年休まず使ってきた、ご自慢の*****さ〜。
おじいさんの産まれた朝に ブラ下がっていた〜
今はもう 使えない おじいさんの***** >>1
東京-名古屋の往復で「東海」も乗ったことあるし「なにわ」にも乗ったことある 宇都宮線の115系
幼いころはこの電車が標準でした。 >>178
「宇都宮線」ってどこにあるんじゃ?
…鉄道地図で宇都宮の辺りを見ておるが、出ておらんぞ。 >>171
最近出た桑田佳祐の新曲でも、山手線のことを「やまてせん」と歌ってた
彼は1956年生まれだが、その世代でも「やまてせん」というのかね? >>183
ま〜るい緑の山手線(→どっちで歌う? やまてせん or やまのてせん)
あとさ、「ふっしぎなふっしぎな池袋」→普通に「タンタンタヌキの金…(ry」が元歌だと強く思う人、もういい御歳かも…。 あれ昭和58年頃に『やまてせん♪』から『やまのてせん♪』に変わったんだよね。 >>179
東北本線の黒磯〜宝積寺〜宇都宮〜小山〜大宮〜上野間の愛称だよ。 >>186
いや、ワシ知らんぞ…いつの間に決まったのじゃ…?
…そう言えばばーさんよ、ワシ、まだ飯食っとらんのじゃが… 「平」駅から常磐線で上野行きの「汽車」に乗って、「常磐ハワイアンセンター」に行くのが楽しみじゃった。
そう言えば、「船橋ヘルスセンター」はどうなったのかのう…? 吹操から関西鉄道学園までの引き込み線にて
実際に運用されてるのを見たことがある御方。 奥多摩で
@水根貨物線を走る蒸気機関車による貨物列車を見たことがある
A奥多摩湖のロープウェイにも乗ったことがある >>54
万博開幕直後は北大阪急行で車掌の肉声英語アナウンスがあった。
「メイアイハブユアテンションプリーズ…」夏ごろにはもうやめていたが。
江坂から会場まで片道\70だったよ。 近鉄と京阪が相互乗り入れしていたころは、奈良から乗り換えなしで京阪三条へ行けた。 >>192
吹操から関西鉄道学園までの引き込み線にて
実際に運用されてるのを見たことがある御方。
片山町に土手を盛った2両分くらいのホームに
手書きの時刻表が貼ってあったな。
今も土手と線路は残っている。
>>196
近鉄と京阪が相互乗り入れしていたころは、
奈良から乗り換えなしで京阪三条へ行けた。
運行標識板は表が準急(赤色)、裏が普通(青色)だった。
ちなみに「三条」の表記は「三條」だった。 房総地区の普通電車はオールロングシートが基本だった >>202
電化前の気動車時代を知ってますがな
大網のスイッチバック懐かしい
子供の頃、親戚を訪ねに時々東金線に乗ったが、求名、福俵は夜になると真っ暗で不気味だったよ
銀色キハ35-900に乗りたかった
なぜか交換する列車に多く見られた
後年タラコ色になったのを川越線で乗った >>203
房総地区、気動車と聞くだけで、あの気動車特有のオイル臭さとエンジン音が蘇ってくる。
東金線…九十九里鉄道をご記憶か? >>204
残念ながら記憶に無い。
というか、知らなかった。
当時、東金駅の反対側に廃車体があったはずなんだが。
外房線の(当時は房総東線)蒸気は覚えているんだが、それよりキハ35-900に興味があった。
小学生だったし、その頃はステンレス車が珍しかった。
キハ35やC57などの形式もわからなかった。 >>203
房総半島路線が気動車時代に、
夏の海水浴シーズンに
両国からの臨時電車が、
千葉からは木更津方面に蒸機牽引で向かった記憶が。
新宿を朝に出る気動車準急が満員で
その混雑対策で。
電車と言うのが普通の通勤電車(スカ形?)で、
走行中に扉が開けっ放しだったような。
大昔だから電源車なんて設備は無かったから?
昭和44年頃の総武快速線の開業前に、
スカ形を使った快速タイプの列車が日中に数往復
津田沼〜中野を走っていたけど、
あれは何だったのだろうと、
今も不思議に思う。
夕方に中央線東京駅を出て
河口湖まで直通する列車と同じ編成だった。
(朝は早朝に河口湖を出て東京まで直通) >>206
鉄ファン誌に写真があった
蒸気牽引じゃなくてDD13重連、車両は80系だったか
機関車の次位にクハ16がつながってて、そこに簡易発電ユニットを積んで、低圧電源を供給してた
で、そのクハ16のドアが開きっぱなしだった 仙台から急行あさひ・月山(一日二本・朝と夕方に運転)に乗って、糠ノ目で下車。
糠ノ目からは山形交通の電車に乗り換え。俺が物心ついた頃には途中の高畠までしか行かず、その先の廃止区間はバスで。
母方の本家への行き方。 >>167
昭和50年代でも見掛けたけど俺の見間違いかな、淀屋橋駅では飛ぶ鳩のオモチャを売るおじさんもいてたな。 >>49
駿遠線の新藤枝駅の跡は東横インになってたが、従業員何も知らなかったな。 根岸線を磯子までの開通前は
桜大(おうだい) 線と命名される予定だった >>213
格下げ後ならよく覚えている
サロ110、キハ26-400ならね
キロハ25(キハ26−300)はさすがに見たことがない
両数少なかったし、地方に配属されてたし
夕方の上野駅で常磐線急行「ときわ・奥久慈」キハ58系に混じるキハ55、26を見るのが好きだった
水ミトにはキハ26-405、406の2両が居た
えんじ色のシートが懐かしい
他にはバス窓のキハ55-19、27など
なぜか55系は常磐線内では先頭に出ることは無かったようだ >>209
野良仕事風貌の切符売りのおばさんは市バス乗り場にも多少いたよ。昭和45年の万博にあわせて
排除されてしまった。切符3枚くれと言うと、親指を舌で舐めてつづりをめくってきぎって売っていた。
親からは、汚いから買うなと言われていたが・・・混んだバスの中で若い車掌から買うのが難しいの
で乗車前におばさんから買うほうが便利だったらしい。御堂筋線からは、旧型車両が颯爽と消えて
ステンレスの7000・8000に変わっていき、風情がなくなり面白くなくなった頃だった。 今は浅草の浅草寺に於いても鳩にやるための豆を売っていないとどこかのカキコで
見たが、昭和38年頃までは天王寺駅のホームの売店で鳩の豆を売っていた。
現在の12・13・14・15・16番乗り場は子ども連れの格好の遊び場だった。
国鉄のストライキのニュースで鳩だけが飛んでいて、他は静寂な風景を映した場面
が定番だった。現在は豆などをホームに蒔くと転倒の原因になるとうるさいだろうナ・ >>214
キハ26-405は座席のモケットを青色に張り替えていたな
(草臥れていたモケットを青色に張り替えただけで車内設備は従前のまま)
キハ26-406は張り替えていないので臙脂のままだったね >>217
ありがd
あれはキハ26-406だったのね
なにしろ昔の事なので記憶が曖昧に
まだ厨房の頃で知識も無かったし、まともな記録もしなかった
当時、撮り鉄連中はSL追っかけで忙しかったらしく、上野界隈はあまり人気は無かった
受験生の俺は遠出はできなかったので近場で鉄ちゃんするしかなかった
駅員さんや乗務員さんも親切だった youtubeに挙がっている動画「指導物語」 (C58蒸気の運転士を育成していくドラマ 昭和戦時
中に千葉機関区で撮影)に出演している俳優・女優の名を識別・言える人。
藤田進・原節子・丸山定夫など、最後は「出征兵士を送る歌」が流れて佐倉駅をオハ31等に
分乗した兵士達が出ていった。 C58同士の併走シーンがよく出てくる。・・・・・ 上記への追加、昭和16年 東宝映画配給 出演 汐見洋・龍崎一朗・北澤彪も
でて来る。最初は投炭練習台でのシーンから・・・ 原節子は皆さんご存知のとおり近年までご存命であった。龍崎一郎は「青い山脈」
で原と同じ学校の教師で共演。映画中の同乗機関助士役の北澤彪は「TV 特別
機動捜査隊」の刑事で出ていた。 藤田指導役機関士の丸山定夫は4年後の広島
公演巡業中に原爆死した。 これらが分れば正に「おじいさん」www 「いつでも日立、どこでも日立 今日も日立のマークといいっしょ〜」のTV
コマーシャルで東海道新幹線ひかり 0系がTV画面を横切り走行している場面。
上記の聖徳太子の千円札の裏面上部にも日立のマークが有ったのが不思議だった。
昭和35年製作の鉄道映画「大いなる旅路」三国連太郎主演でも出征兵士を乗せて
走行中に前方が崖崩れで列車走行不能になり、乗客兵士らに降りて線路を進んで
先へ向かってもらう、その際にも残った乗客が日の丸旗を振って「出征兵士を送
る歌=わが大君に召されたる、命栄えある朝ぼらけ、称えて送る一億の歓呼は高
く天を突く〜」と歌うのが印象的であった。 この映画は先ほどの「指導物語」で使用した客車 オハ31・ナハ22000等とはちがって
丸妻のきれいなオハ35ばかりだったナア・・・ 本来は映画・邦画スレ用だが、このスレ保守のため、また映画ネタカキコでスマソ・・・
映画「お茶漬の味」のだいぶ後の部分では木暮実千代がスイテ・マイテの後方座席に乗
っていて、列車が安倍川を渡り、風景に特徴ある鉄橋トラスが過ぎていく場面がある。
映画「秋日和」ではラストシーンで佐分利信が一等車のボーイを捕まえて電報を広島宛
に打ってくれ。と言うシーンの後、薄緑のナハフ10が折の東淀川橋梁を走り去る。
映画「麦秋」では鎌倉から原節子・笠智衆の親子がスカ線電車内で東京へ通勤する場面、
リベットだらけの車両から外の風景を撮影した場面が数分にわたり映写される。 上記228 スレの保守を兼ねて訂正します。
youtube内の小津安二郎映画「麦秋」は→「晩春」でした。 親子で鎌倉から東京へ出勤
する場面、10分20秒〜 モハ63+サハ48+進駐軍白帯車+諸々の編成で古臭い鉄橋
を渡り、リベットだらけの車体が左右へひどくローリングしながら走行する、車内天井は白
熱灯だ。 youtube 昭和12年作品 主演 佐野周二(関口宏の父) 「婚約三羽烏」では住んでいる
アパートの窓際に座り、外を眺めていると17メートルの旧国車(モハ50かな)が往来する
場面からスタートする。羨ましいところにあるアパートだァ・・・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています