知ってたらおじいさん©2ch.net
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敗戦後朝鮮進駐軍が女子供しかいない家庭に押し入り強姦、金品略奪をしていたこと 東京市電運転士連続殺傷事件
直江津駅リンチ殺人事件 車掌さん電報を打ちたいんですけど・・・
??デンポーってなんですか?? 京阪本線に野田橋駅があり、同駅は片町と改称後、京橋駅と統合
また、当時は天満橋〜野田橋〜京橋間は併用軌道だったこと 和食堂車(料理のメニューは和食のみ)
洋食堂車(料理のメニューは洋食のみ)
戦前の東京〜九州間直通特急列車に連結されていたシャワー室付きの客車 >>33
中央西線でサロ85に普通車扱いで乗れてたな
カバーはなかったけど ♪ジリリーンビーリビリポーッポ けいはーんとっきゅー けいはーんとっきゅー 遺族・障害年金は非課税なんじゃよ
最近原則老齢+残りを遺族年金支給にしたのは政府の徴税強化策じゃな 何、終戦、負けただと?
皇国ニッポンが負ける訳ねえ 北大阪急行電鉄会場線と同線内に設置されていた仮設の千里中央駅 上野発東北、高崎、上越、信越、北陸、東海道本線経由川西池田行き普通列車 坂本九さんが事故に遭ったんだって
常磐線の土浦駅で
間一髪助かったそうよ 作曲家宮城道雄が大阪行き下り急行「銀河」のデッキから車外に転落死 奈良線のキハ35系 28 58系
105系 113系 ローカル線の駅の時刻表にあった「ガソリン車」の文字 洋光台行きの京浜東北線
二子新地前行きの田園都市線
高島町行きの東横線 動橋停車の特急・急行列車
作見(現在の加賀温泉)駅 >>64
オイオイ、オレを「おじいさん」呼ばわりするなよ。
ガキの頃京浜東北線の洋光台行に乗るしか
我が家にはこれなかったわけだが。 >>71>>64
根岸線磯子開業前、横浜・桜木町間は東海道本線の一部だった事。 子安が特急停車駅だったこと。
今となっては急行通過が信じられないとか言っているおじいさんの話も聞いてみたいね。 廃線前にひっそり廃駅になった江若鉄道(臨)競輪場前駅 国鉄バス紀南線(尾鷲駅〜矢ノ川峠〜紀伊木本駅(現:熊野市)と
矢ノ川峠ロープウェイ 御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)が印南迄延ばす計画があったこと 戦時中、軍需などの関係から、河内長野駅では南海高野線と近鉄長野線のレールが一時的につながっていたこと 帝都線の代田二丁目(現・新代田)と小田急線の世田谷中原(現・世田谷代田)の間にあった連絡線 現・京急の横浜〜浦賀間を「湘南電車」と呼んでいた頃 京急なら、日常的に蒲田や川崎に、京浜とつけるパターンもあるな。
ただこれだと50代くらいでも多いからなぁ。 40になったばかりだが、京急を普段使わないのでいまだに京浜〜って言うことがある。
普段路線名を言うことはあっても、会社を意識した会話をするときはいまだに営団って言うことがある。
ジジィです。 銀座線の2両目だけ車内灯の消える車両が連結されていた 玉電の停留所、もしくは西武新宿線の都内の駅で下車し、
そこから徒歩で野球場へ行ってプロ野球の試合を観戦… おじいさんというより、ご先祖様レベルのものもあるな。
円電 大阪市営地下鉄中央線は開業当初は6000形1両編成の単行運転だった >>104
そう考えると今のこだまめっちゃ止まる
昔の急行並み >>109
特急なんて失礼な!
急行ことぶきです! 岡山市沖にあった磐梯急行電鉄の工場
>>94
良い子のために戦うぞ♪
「どおくまん」の漫画のキャラがアトムの主題歌歌う時は
なぜか必ず実写版だった。 箱根登山鉄道の車両が「チキ○○形」と呼ばれていた頃 超特急「燕」専用水槽車ミキ20と
補機の走行中切り離し 可部線の前身、広浜鉄道モハ90、モハ91、モハニ92 鹿児島中央駅はどこにあいもすか?
武なら知ってあいもす >>74
紀勢本線全通前、亀山・多気は参宮線の一部だった。 東海道新幹線開業前、東京(羽田)・名古屋線は東京・大阪線に次ぐ
ドル箱路線だった。 小田急の赤い荷物電車
40代以上のおっさんなら目撃してるかも 82系特急・へいわ(大阪・広島)
153系急行・やましろ(東京・大阪) 1200V時代の京成(さすがに600V時代を知っていると御先祖様レベルか) >>130
84年まで走ってたから経堂以西在住なら30代後半で見てる可能性大 >>124
知っていたら「おじさん」と見間違えた。
おじいさんだったら、対岸を走っていた宇島鉄道。 阪和線堺市駅から分岐していた堺市北区新金岡町金岡団地付近にあった金岡米軍キャンプまでの引き込み線 片町線の津田から分岐していた帝国陸軍禁野火薬庫への引き込み線 んな事言ってたら沖縄の鉄道は全部だな(もちろん現行のモノレールの事でない)
戦前迄行くとそれこそ小田急(帝都電鉄)井の頭線とか南海山手線(阪和線)だとかきりなくなるので戦前対象外すべきでは >>141
ヤバい! 送信してしまった!
それを言うなら 国鉄千葉駅前駅も入れてさしあげないとですね 現在の阿倍野区役所の場所にあった大阪市営地下鉄谷町線阿倍野検車場 >>152
そこに踏切があって、車両出入りのさいは市交のおっさんが4〜5人がかりで
旗振りをしていた、出庫した電車は道路の東端(現在の歩道)を遠慮そうに走
り阿倍野バイパスの高架開始近辺(現在コジマ電気)のところからするすると
地下に潜っていったな・・・・当時の子供ごころに「あれは何だ!」と思った。 現在の子供たちにとっては不思議な事ではないが、地下鉄という物に乗ると
2〜3分置きに外の景色が交互に昼になったり夜になったりして驚いた驚愕
・感激感覚 不思議な乗り物だった。 大阪市交御堂筋線天王寺〜西田辺間は開通当初、掘割りになっていたが、
のちにトンネル化され、現在はトンネル上にあびこ筋が通っていること 現在、夜間に「赤い灯・青い灯」といわれる色つき照明や電灯はいたるところ
に有るが、昔はミナミの道頓堀やナンバ・梅田などの繁華街などへ出なければ
見ることができなかった。赤色の電灯は鉄道踏切・交通信号機・警察交番の前
などに有ったが、青色は殆どなく、田んぼの中の誘蛾灯くらいだった。確実に
見れるのは鉄道線路の信号機のところだったので、珍しかった。子供心に感激
なのでいつまでも眺めていた。(大阪版のカキコでスマソ・・・・)、 >>157
上記は大阪駅・三ノ宮駅のホーム上屋の照明が白熱灯・快速に使用の80系電
車の車内灯が白熱灯時代の話である。大阪市大病院や日赤病院も殆どが白熱灯
であったが(病院に関してはかなり遅くまであった)夜間になると非常に恐怖
感に襲われた。 >>157
1958年(昭和33年)以前そもそも意味違う おまえら、
ビデオテープって、ど〜してる?
DVD変換してる?
懐かしい映像とかもったいないじゃん???
で、こんなトコ見つけた!
★★http://pcassist-tachikawa.jp/dvddub.html
PCアシスト立川
古いビデオテープをさ、
持込でも郵送でも、DVDに焼きなおしてくれるw
デザイナーさんがいて、
『タイトル+タイトル画』も付けてくれるw
既成とオリジナルとあってさ、
1)絵心のあるヤツは自作の絵でもOK!
2)ガキんちょの絵だって、バッチリ
3)写真だって決まるぜ
おれ、近くだから、思い出のビデオテープと絵を持ち込んだ。
涙出るくらいカッチョええwww
PCアシスト立川〜〜〜〜〜〜おすすめだぜ!!
w ロングおじさんナレーションのマンガはじめて物語。
スポンサーCMで東急8500が出てくんのw 港行きの列車から航路に乗り換えて海外へ…
というのも今やご先祖様レベルだな 南海線のアナウンス。
「普通車難波行きです。住吉公園までの各駅と天下茶屋、新今宮に停車します。」 48年前の今日7月21日、アポロ11号の月面着陸の
テレビ中継を食い入るように見ていた。
夏休み初日だった
同時通訳の西山千さんが懐かしい。 >>166
その西山さんが「略語が多くてわかりません。」と難儀してた。
話は変わるが、その頃、大阪の地下鉄の駅で農作業のような格好をした切符売りのおばさん達を見かけた。
11枚綴りの回数券を大量に仕入れてばら売りしていた。
混み合う自販機を嫌って、けっこうな人が利用しているようだった。
万博を機に(だったと思う)切り離した回数券は無効となり、おばさん達は消えた。 402 【大吉】 ◆Dq0510MAKI @無断転載は禁止 2017/10/01(日) 17:59:20.36 ID:GwU/BbEx0
スーパー行ったら真っ黒の垢じみたくっさーーーーーーーーーーーーーいおじいさんが居て吐きそうになった
まだムカムカしてる
そいつがコロッケ4つ入りの袋を汚い指で色々な袋を開けたおしてた
O157だって店の責任が全てではないと思った
そういう人に限って飼わないくせにいちいち開けてんの
臭くて汚いのは死にそうになる ♫僕は特急の機関士で〜…
全くの余談だが、自治会の敬老会の出し物を任されて、藤山一郎を歌ったら、参加しているじーさんばーさんよりも年寄りに見られてしまった。 @花の東京のど真ん中〜 くるり回れば『山手線』〜
『山手線』を『やまてせん』と歌って違和感のない人。
A汽車の窓から『ハンケチ』振れば〜 牧場の乙女が花束投げる〜
A'汽車の窓からフンドシ振れば〜 田圃の婆ちゃん腰巻見せる〜
B儂が若い頃な、東海道線に『遭難電車』とかいう電車が走り出してな…
C東北線の特急がな、汽車から『ジーゼルカー』に変わってな、故障ばかり起こしていてな…
列車の名前、何と言ったかな…
確か『(故障)ばっかり』とか『がっかり』とか言っていたな…
D力道山とか、あの頃プロレスラーも汽車で移動しとったな…
リングのアナウンサーがテレビの宣伝(注.CM)で、「赤コーナー、三菱『モートル』〜!」ってやってたわな… 踏み切り番が遮断機を下ろして、列車が通過する間は旗を振っていた。 *ど〜こかに故郷の〜、香りを乗せて〜 … (井沢八郎「ああ上野駅」)
*汽車汽車ポッポポッポ、シュッポシュッポシュッポッポ、
『兵隊サン』ヲ乗セテ、シュッポシュッポシュッポッポ。
僕等モ手ニ手ニ日ノ丸ノ、小旗ヲ振リ振リ送リマショ。
万歳、万歳、万歳。
兵隊サン、兵隊サン、万万歳。(「兵隊サンノ汽車」)
*春のノ小川ハ サラサラ『流ル』… 大きなノッポの*****
おじいさんの*****
100年休まず使ってきた、ご自慢の*****さ〜。
おじいさんの産まれた朝に ブラ下がっていた〜
今はもう 使えない おじいさんの***** >>1
東京-名古屋の往復で「東海」も乗ったことあるし「なにわ」にも乗ったことある 宇都宮線の115系
幼いころはこの電車が標準でした。 >>178
「宇都宮線」ってどこにあるんじゃ?
…鉄道地図で宇都宮の辺りを見ておるが、出ておらんぞ。 >>171
最近出た桑田佳祐の新曲でも、山手線のことを「やまてせん」と歌ってた
彼は1956年生まれだが、その世代でも「やまてせん」というのかね? >>183
ま〜るい緑の山手線(→どっちで歌う? やまてせん or やまのてせん)
あとさ、「ふっしぎなふっしぎな池袋」→普通に「タンタンタヌキの金…(ry」が元歌だと強く思う人、もういい御歳かも…。 あれ昭和58年頃に『やまてせん♪』から『やまのてせん♪』に変わったんだよね。 >>179
東北本線の黒磯〜宝積寺〜宇都宮〜小山〜大宮〜上野間の愛称だよ。 >>186
いや、ワシ知らんぞ…いつの間に決まったのじゃ…?
…そう言えばばーさんよ、ワシ、まだ飯食っとらんのじゃが… 「平」駅から常磐線で上野行きの「汽車」に乗って、「常磐ハワイアンセンター」に行くのが楽しみじゃった。
そう言えば、「船橋ヘルスセンター」はどうなったのかのう…? 吹操から関西鉄道学園までの引き込み線にて
実際に運用されてるのを見たことがある御方。 奥多摩で
@水根貨物線を走る蒸気機関車による貨物列車を見たことがある
A奥多摩湖のロープウェイにも乗ったことがある >>54
万博開幕直後は北大阪急行で車掌の肉声英語アナウンスがあった。
「メイアイハブユアテンションプリーズ…」夏ごろにはもうやめていたが。
江坂から会場まで片道\70だったよ。 近鉄と京阪が相互乗り入れしていたころは、奈良から乗り換えなしで京阪三条へ行けた。 >>192
吹操から関西鉄道学園までの引き込み線にて
実際に運用されてるのを見たことがある御方。
片山町に土手を盛った2両分くらいのホームに
手書きの時刻表が貼ってあったな。
今も土手と線路は残っている。
>>196
近鉄と京阪が相互乗り入れしていたころは、
奈良から乗り換えなしで京阪三条へ行けた。
運行標識板は表が準急(赤色)、裏が普通(青色)だった。
ちなみに「三条」の表記は「三條」だった。 房総地区の普通電車はオールロングシートが基本だった >>202
電化前の気動車時代を知ってますがな
大網のスイッチバック懐かしい
子供の頃、親戚を訪ねに時々東金線に乗ったが、求名、福俵は夜になると真っ暗で不気味だったよ
銀色キハ35-900に乗りたかった
なぜか交換する列車に多く見られた
後年タラコ色になったのを川越線で乗った >>203
房総地区、気動車と聞くだけで、あの気動車特有のオイル臭さとエンジン音が蘇ってくる。
東金線…九十九里鉄道をご記憶か? >>204
残念ながら記憶に無い。
というか、知らなかった。
当時、東金駅の反対側に廃車体があったはずなんだが。
外房線の(当時は房総東線)蒸気は覚えているんだが、それよりキハ35-900に興味があった。
小学生だったし、その頃はステンレス車が珍しかった。
キハ35やC57などの形式もわからなかった。 >>203
房総半島路線が気動車時代に、
夏の海水浴シーズンに
両国からの臨時電車が、
千葉からは木更津方面に蒸機牽引で向かった記憶が。
新宿を朝に出る気動車準急が満員で
その混雑対策で。
電車と言うのが普通の通勤電車(スカ形?)で、
走行中に扉が開けっ放しだったような。
大昔だから電源車なんて設備は無かったから?
昭和44年頃の総武快速線の開業前に、
スカ形を使った快速タイプの列車が日中に数往復
津田沼〜中野を走っていたけど、
あれは何だったのだろうと、
今も不思議に思う。
夕方に中央線東京駅を出て
河口湖まで直通する列車と同じ編成だった。
(朝は早朝に河口湖を出て東京まで直通) >>206
鉄ファン誌に写真があった
蒸気牽引じゃなくてDD13重連、車両は80系だったか
機関車の次位にクハ16がつながってて、そこに簡易発電ユニットを積んで、低圧電源を供給してた
で、そのクハ16のドアが開きっぱなしだった 仙台から急行あさひ・月山(一日二本・朝と夕方に運転)に乗って、糠ノ目で下車。
糠ノ目からは山形交通の電車に乗り換え。俺が物心ついた頃には途中の高畠までしか行かず、その先の廃止区間はバスで。
母方の本家への行き方。 >>167
昭和50年代でも見掛けたけど俺の見間違いかな、淀屋橋駅では飛ぶ鳩のオモチャを売るおじさんもいてたな。 >>49
駿遠線の新藤枝駅の跡は東横インになってたが、従業員何も知らなかったな。 根岸線を磯子までの開通前は
桜大(おうだい) 線と命名される予定だった >>213
格下げ後ならよく覚えている
サロ110、キハ26-400ならね
キロハ25(キハ26−300)はさすがに見たことがない
両数少なかったし、地方に配属されてたし
夕方の上野駅で常磐線急行「ときわ・奥久慈」キハ58系に混じるキハ55、26を見るのが好きだった
水ミトにはキハ26-405、406の2両が居た
えんじ色のシートが懐かしい
他にはバス窓のキハ55-19、27など
なぜか55系は常磐線内では先頭に出ることは無かったようだ >>209
野良仕事風貌の切符売りのおばさんは市バス乗り場にも多少いたよ。昭和45年の万博にあわせて
排除されてしまった。切符3枚くれと言うと、親指を舌で舐めてつづりをめくってきぎって売っていた。
親からは、汚いから買うなと言われていたが・・・混んだバスの中で若い車掌から買うのが難しいの
で乗車前におばさんから買うほうが便利だったらしい。御堂筋線からは、旧型車両が颯爽と消えて
ステンレスの7000・8000に変わっていき、風情がなくなり面白くなくなった頃だった。 今は浅草の浅草寺に於いても鳩にやるための豆を売っていないとどこかのカキコで
見たが、昭和38年頃までは天王寺駅のホームの売店で鳩の豆を売っていた。
現在の12・13・14・15・16番乗り場は子ども連れの格好の遊び場だった。
国鉄のストライキのニュースで鳩だけが飛んでいて、他は静寂な風景を映した場面
が定番だった。現在は豆などをホームに蒔くと転倒の原因になるとうるさいだろうナ・ >>214
キハ26-405は座席のモケットを青色に張り替えていたな
(草臥れていたモケットを青色に張り替えただけで車内設備は従前のまま)
キハ26-406は張り替えていないので臙脂のままだったね >>217
ありがd
あれはキハ26-406だったのね
なにしろ昔の事なので記憶が曖昧に
まだ厨房の頃で知識も無かったし、まともな記録もしなかった
当時、撮り鉄連中はSL追っかけで忙しかったらしく、上野界隈はあまり人気は無かった
受験生の俺は遠出はできなかったので近場で鉄ちゃんするしかなかった
駅員さんや乗務員さんも親切だった youtubeに挙がっている動画「指導物語」 (C58蒸気の運転士を育成していくドラマ 昭和戦時
中に千葉機関区で撮影)に出演している俳優・女優の名を識別・言える人。
藤田進・原節子・丸山定夫など、最後は「出征兵士を送る歌」が流れて佐倉駅をオハ31等に
分乗した兵士達が出ていった。 C58同士の併走シーンがよく出てくる。・・・・・ 上記への追加、昭和16年 東宝映画配給 出演 汐見洋・龍崎一朗・北澤彪も
でて来る。最初は投炭練習台でのシーンから・・・ 原節子は皆さんご存知のとおり近年までご存命であった。龍崎一郎は「青い山脈」
で原と同じ学校の教師で共演。映画中の同乗機関助士役の北澤彪は「TV 特別
機動捜査隊」の刑事で出ていた。 藤田指導役機関士の丸山定夫は4年後の広島
公演巡業中に原爆死した。 これらが分れば正に「おじいさん」www 「いつでも日立、どこでも日立 今日も日立のマークといいっしょ〜」のTV
コマーシャルで東海道新幹線ひかり 0系がTV画面を横切り走行している場面。
上記の聖徳太子の千円札の裏面上部にも日立のマークが有ったのが不思議だった。
昭和35年製作の鉄道映画「大いなる旅路」三国連太郎主演でも出征兵士を乗せて
走行中に前方が崖崩れで列車走行不能になり、乗客兵士らに降りて線路を進んで
先へ向かってもらう、その際にも残った乗客が日の丸旗を振って「出征兵士を送
る歌=わが大君に召されたる、命栄えある朝ぼらけ、称えて送る一億の歓呼は高
く天を突く〜」と歌うのが印象的であった。 この映画は先ほどの「指導物語」で使用した客車 オハ31・ナハ22000等とはちがって
丸妻のきれいなオハ35ばかりだったナア・・・ 本来は映画・邦画スレ用だが、このスレ保守のため、また映画ネタカキコでスマソ・・・
映画「お茶漬の味」のだいぶ後の部分では木暮実千代がスイテ・マイテの後方座席に乗
っていて、列車が安倍川を渡り、風景に特徴ある鉄橋トラスが過ぎていく場面がある。
映画「秋日和」ではラストシーンで佐分利信が一等車のボーイを捕まえて電報を広島宛
に打ってくれ。と言うシーンの後、薄緑のナハフ10が折の東淀川橋梁を走り去る。
映画「麦秋」では鎌倉から原節子・笠智衆の親子がスカ線電車内で東京へ通勤する場面、
リベットだらけの車両から外の風景を撮影した場面が数分にわたり映写される。 上記228 スレの保守を兼ねて訂正します。
youtube内の小津安二郎映画「麦秋」は→「晩春」でした。 親子で鎌倉から東京へ出勤
する場面、10分20秒〜 モハ63+サハ48+進駐軍白帯車+諸々の編成で古臭い鉄橋
を渡り、リベットだらけの車体が左右へひどくローリングしながら走行する、車内天井は白
熱灯だ。 youtube 昭和12年作品 主演 佐野周二(関口宏の父) 「婚約三羽烏」では住んでいる
アパートの窓際に座り、外を眺めていると17メートルの旧国車(モハ50かな)が往来する
場面からスタートする。羨ましいところにあるアパートだァ・・・・・ 先年廃線になった三江線が三江北線、南線だった頃に乗った事がある。
寝台急行「出雲」に乗った事がある。
82系の「まつかぜ」に乗った事がある。
急行「夕月」に乗った事がある。
581系「月光」に乗った事がある。
在来151系の「こだま」に乗った事がある。
20系の「はやぶさ」「富士」に乗った事がある。 スレ保守のため、また映画ネタスマソ。
昭和13年頃の旧国編成が少し出てくる。正式名「蛍の光」 高杉早苗・桑野通子・高峰三枝子
始まって24分頃に 通学帰りの高杉早苗18歳(香川照之の祖母)を待ち構えた夏川大ニ郎が
線路傍の公園で求婚する、その背景を17メートル旧国・木造車混結W屋根等が通過する。
のんびりした戦前の東京だ。教師役の桑野通子は桑野みゆきの実母であった。
youtubeでは「蛍の光」ではなく、old long since 1938 で検索しないと出てこない。 山手線の茶色の電車に乗った・・・・・・・・・・・・・・・曾お爺さん
〃 黄色の電車に乗った・・・・・・・・・・・・・・後期お爺さん
〃 緑(うぐいす)色の電車に乗った・・・・・・・・前期お爺さん
〃 運転台にステンレス線が入った緑色の電車に乗った・・おっさん 運転台の速度計指針が
無い・・・(運転士が線路の継ぎ目音と勘で計る。)・・・・・祖祖父
有るが、針が簡易な安物の電流電圧計みたいに左右へ振れる・・・祖父
有るが、丸い盤で空気圧計と同じで針がチッチッチッと小刻みに上がっていく・・父
有るが、丸い盤で空気圧計と同じで針が滑らかに上がっていく・・当人
表示がデジタルで具体的速度が数理で示される・・・子
表示がデジタルで上記と同じで盤全面がカラフル・・・孫
233のまねではないが、これでどうでしょう? >>233
黄色の山手線、よく覚えていますとも!
当時は「やまてせん」と言った
京浜東北線は茶色だった
もちろん、孫いますよ 山手線、中央線etc.とは言わずに、込みで国電、中には省電(省電力ではない、鉄道省の
電車の意)と言っていた人もいたが、省電の人々は既に昇天した。 昭和36年 現在の大阪環状線が完全にぐるぐる回りの運転になったが、それでも皆
癖が抜けずに万博の頃までは城東線、城東線と呼んでいたナ・・・・・城東線の鶴橋
とか寺田町とか、 キハ58+キハ28、2両だけ。
1両は冷房付きの指定席でかなり隙気味、1両は満員暖房車。
50年くらい前の山口線の話。
何ちゅう急行だったけな? 冷房準備工事とかいうのやった山手線の103系が暖かいまま暫く走っていた。 キハ82の初めの頃は、2台組のAU12のキノコが2つだけだった。
冷房能力が不足だったようで、増備には1台入った小キノコが付いた。
初期型には半欠けキノコに1台入れて足していた。 城東線をカキコして思い出したので書きます。昔、大阪万博の頃までは食品屋、
八百屋に「城東パン」という味パンを並べていた。袋や箱に大阪城が書いてあ
り、神戸屋や山崎パンよりも大手だったが吸収合併され消滅し。吸収した会社
も倒産したという。もっと昔、学制改革まで大阪城東大学もあった、大阪城東
商業高校→大学→大阪商大へと名称が変わった。パンは現代のようにバラエテ
ィーに富んでない時代だったので、美味しい方だった。 続き、懐かしくなって調べたら城東パンの工場は八尾市にあった、のちに西湖堂
パンに吸収されたが、その西湖堂も倒産したとのこと。
なんだか城東線、湖西線のような名だナア・・・ 昭和50年代前半まで大阪環状線鶴橋駅北東側に「省線ホテル」という木造2階建ての
安物ホテルがあり夜間は赤ネオンで「省線ホテル」と一筆書きの電気が点いていた。
パンも「国鉄パン」とか「省線パン」と名づけて販売すればヨタが珍しがって買って、ある
程度売れるかもしれない・・・・ 場合によればモハ40や42の形作りでも良い・・・ また、余計なことを思い出した、JR西日本の子会社が阿倍野に作った「ファースト
キャビンステーション あべの荘」が2017年10月28日(土)にオープン。であった。
省線ホテルもモハ42やオハ35の内装で簡易ホテルを作り格安料金で夜行列車
感覚を味わおう。として事業開始すればよい、アムザ1000のカプセルホテルよ
りも人気が出るだろうナ・・・・ 何よりも朝まで寝苦しいのがまた良いのだ・・・ 飯田線湯谷温泉駅の駅舎2階部分は、鳳来寺鉄道の経営する「湯谷ホテル」という旅館だったこと >>167
>>215
宇井無愁の随筆「ケチのすすめ」にその話が出てきたな<切符売りのおばさん
何でも
「四十年の歴史を持つ大阪独特の商売で、7枚売って5円儲かる
千円稼ぐには千四百枚売らねばならない零細この上ない商売
大阪では誰の会葬でも「遠路御苦労さま」と山菓子(香典返し)を渡すのが礼儀であり
それがたいてい市電や地下鉄の回数券だった」
だそうな
その回数券を金券ショップが買い取り、切符売りのおばさんが売ってたのだろう
また
「オバハンは無愛想な窓口より親切で、自動販売機より手早い
客の手もとを見て、間髪を入れずつり銭を出し、「まいどおおけに」と頭を下げてくれる。
このサービス精神によって、オバハンの営業が成り立っているのである。」
とのこと
へぇ〜と思いながらその本を読んでいたが
実際にそういうおばさんたちがいて、切符を買った人たちがいるんですね
そしてもう見ることの無い光景なわけだ
やっぱり鉄道はタイムマシーンだな >>247
そうだった。もんぺをはいていたら田舎の田植え、稲刈りの風貌そのものだった。
田舎と違ったのはもんぺのような柄物ではなかったことだけだ。市バス用は5円
の小券(緑色)が横に3列縦に7列で21片を1枚にまとめた100円分にミシン目
が入っていた。それを親指を舌でペロッと舐めてちぎって売る。何とすばやく上
手に売る。親は汚いから買うなと言う。懐かしい景色だった。その後はワンマン
カーになってもバスの自動券売機で売っていた。その後は赤色の10円券片になり
売っていた。たぶんバス用は女の車掌が車内で扱っていたのと同一のものだった。 >>247
その頃は金券ショップなどは殆どなく、不思議なルート、或いは正規に窓口で大量購入
して売っていたと思われます。言えば現在の年賀ハガキと同じで、当局としては正規の
料金で購入してくれるオバハンは何ら違法な購入者ではなく、一般の良いお客さんでした。
偽物を売っていたのではなく本物でしたから・・・ ただ国際的になろうとした大阪には見た
目が苦しいので排除されたのでしょう。 たとえばあべの橋発のバスが1台来るとする、バス乗り場に40人待っていたとする。
オバハンは待ち列の中ほどまで来て売り出す。20人位がオバハンから買ってていた
ような状況でした。 オバハン儲かったね。現在で言う年齢風貌65歳くらいが多かっ
た。昔の人は現代よりも老けて見えたので50歳位以降が多かったかな。 春を売っ
ているのではないので、オマワリさんの取り締まり対象でもなかった。 当時のツーマンカー時代の女車掌の役割は、乗降時の折戸開閉、次の停留所案内
切符の売払い、のほかに阿倍野橋〜平野方面行きだと阿倍野橋出てすぐに近鉄電
車の踏切を渡るのでそのときには扉を開けて降りて踏切を先に歩いて左右確認して
バスが渡ってからまた乗る。平野まで近鉄南大阪線踏切2回、南海平野線1回の3
回行っていた、結構多忙だった。したがって事前に切符を買っていてくれた方が助か
っていたと思う。 倉吉駅が上井駅だった頃、28-58の急行で交換待ちしていると181系がやって来た。
いろいろあって、結局181系に乗れたのは形式消滅の数年前だったw
DML30HSがヒューンって言ってた。 >>247
回数券についてはこちらを参考に
検索://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/ブログ-エントリー-930.html
上のブログ エントリーは半角英文字 往時の志布志駅を知っている。
もっと凄いのは、故大隅線がまだ古江線だった頃を知っている。
更に凄いのは、鹿屋で特攻出撃寸前だった。 >>237
当時の大阪駅の城東・西成線のホームは0番線と呼んでたこと 昔、城東線時代、データイムは大阪行きが天満で発車を待っていて、島式の向かい側の
ホームに天王寺行きが到着すれば、発車していたような記憶が・・・ 朝夕は電車が出て
行くまで大阪駅の手前で待っていたような・・・・
寺田町→天王寺でも同じことのような記憶がかすかにある。それと鶴橋や他の駅の外れ
に平行ポイントが幾つかあった記憶が微かにある。話変わって今思えば停車して客扉開
閉のたびに不思議なつっかい棒のような物が上へ行ったり下へ行ったりが不思議だった。
戸袋窓から見えたその光景は片開き扉のドアエンジンとの連携棒であるのは幼児には理
解できず、不思議な光景だった。 まだ大阪に地下鉄が御堂筋線しかなかった頃、(当時の幼児には地下鉄と言う物が
理解できず、)かなり前から遠くより大きなゴーッという音が聞こえてきて、いざ乗って
みると車窓の外が2〜3分おきに昼になったり夜になったり、全く不思議だった。感動
した。今の子供はそんな感動は無いだろうナ・・・・ 上記の続きカキコ
もう少し大きくなったとき、客用扉の所で立って乗っていたら、扉のところに楕円形の
赤いプラ板に「人指し指を伸ばした絵が」描いて貼ってあり怖かった。ガラス戸の向こ
う側の壁面には縦3列になった不思議な長い物が上へ行ったり下へ行ったりとした。
親に「あれは何だ、と聞くと電話線だ」と言われた。なんで電話線があそこにあるのか
全く理解の外だった。電話線は電力せんと一緒で地面より高い高いところにあるもの
と思っていた・・・・・ 大阪市営地下鉄中央線・谷町線で2両編成の7000形、8000形(のちに30系に編入)が運用されていたこと >>257
幼少の頃、夜に大阪駅〜天王寺まで城東線に乗ったが、京橋〜森ノ宮間の西側車窓に
青白く光った大阪城が大きく映えて見えていた。城公園内の樹木は自分と同じ幼少で
背が低くてよく見えて、青白いのが不気味でとても怖かった。昼に乗った時は怖くなく、
三段窓の電車の車窓風景が未だ目に浮かぶ。今は樹木も大きくなって城は全く見えない。 続き、なぜか不思議なのは、鶴橋駅停車時には乗ってくる乗客は男女問わず、下駄を
カラコロ言わせた下駄履きが多かった。夏季には男の腹巻にステテコ姿も多く見られた。
所謂、未だ「下駄電」だった。
高校生になり通学で鶴橋を利用するようになったが、女子生徒では胸の下まで丈が長
いスカート、(チョゴリ)が多かったが今は全く見られない。 環状線大阪行きが桜ノ宮を出るとすぐに大川の鉄橋を渡るが、西側には古く赤錆びた
断面の小さな鉄橋トラスが残っていた。見た目は子供心にもあまりにも小さく、あんな
所を汽車、車両がくぐっていたのかと、実に謎いっぱいだった。 昭和40年代に阪神ジェットカーも臨時準急で使用されたこと 大阪駅にこだわりのある人が居るようなので、マイナス1番線。 東京がE電なら、大阪はW電かな?
J電にした方が流行ったかもなあ。
50年後、高輪ゲートウェイ駅を知っていたらおじいさんとか言われてたりして。
ほんと、ネーミングセンスねえ連中だ。 だいたい、ゲートウェーなのかゲイトウェーなのかゲートウェイなのかゲイトウェイなのか、
当分ももめるぞ。 >>267
たしかに・・・ 書くのならJR側はそのように決めたと主張するが、現場の泣き屋や
車掌の案内、発音によっては相当もめると思う。自動音声も他におかしいのが多い
し・・・ 「ドア閉まります」も「ダァ 閉まります」のような者も居るし。苦情の嵐を浴び
てしまい、もっと良い駅名にしとけばよかったとJRが反省する日もそこまで来ている
ナwww 昼間の通勤電車は車内蛍光灯が消灯されている
夏場に窓開け協力願いの車内放送 とは言え、安易に駅名変えると高輪ゲッタウェイと言われかねない、とかw >>271
オイルショックの頃でなくても、昔の電車・客車は昼間は車内灯は消灯していた。
山間部を走るローカルでも同じだ、長いトンネル通過の際にはわざわざ点灯・消灯
していた。 通勤電車はエアコンが無い頃は換気のために窓開けを奨励していた
丁度、今頃の時期からだったな。 >>272
頑固さのあまり、カタカナ名に固執するからいけないのだ。「高輪・下駄上井」にすれば
問題は大きく進展する。駒川中野・野江内代・関目高殿・千林大宮・太子橋今市など
長くても愛用されているのは幾らでもある。「尼崎センタープール前」も車掌によっては
「プール前 プール前」と言っている。 カタカナに拘ると「野辺地」を「のへず・のへず」
というようにもなりかねない。 強行派も反対派も全部漢字「下駄上井」で妥協だ!! 九州特急と言ってもJRQの特急ではない。
かつての、九州行きの一群の寝台特急、殊に520mm3段のことである。
夏ならまだ陽のある頃に東京駅を発って、翌朝どころか昼を回ったり、24時間以上かかっ
たり。
同じ列車の上りと、ひと旅で2度すれ違うのである。
夜のうちに移動して翌朝目的地に到着するという、本来の意味での夜行をなしていたのは
せいぜい「あさかぜ」くらいだった。
ステンの専用機EF30に牽かれて関門海底トンネルを抜け、九州の赤い交流機に付け替えて
走り始めると、間もなく電車に道を譲る。
交換ではない、追い抜かせるのである。
最早特急とは名ばかり・・?
寝台特急も、明けて寝台を畳むと通常の自由席特急になる名目なのだが、幸か不幸か、特急
料金を払ってまで、わざわざ地元電車に抜かされる長椅子に乗る変態はそう多くはなかった。 >>274 車内用電源のバッテリー容量が小さかったのか、白熱灯しかなかったから電気食ったのか? 車軸発電機を回すと機関車に負担がかかった ← 思いつきの嘘 >>277
それはバッテリー容量の問題ではないと思う。日本人が昔から培ってきた節約の心、
と思う。知らぬ間に世の中が贅沢に慣れてきてしまったという証にすぎない。
貴台ご提起の問題点からならば、容量が小さいため、夜間走行時も原則消したまま
で、必要時において点灯させていた筈である。(優等車両の減灯は除外) >>278
あなたはとてもユーモラスで面白い人だなァ・・・・・・ 自転車での夜行電車ごっこを
思い出した。 車内電源用の発電機やバッテリーが劣化しやすかったのかもしれないな。
あるいは発電機の能力不足でバッテリーの充電に時間がかかるため、節約して使っていたとか。 >>281
貴方のバッテリー容量の心配の問題においては客車の場合では当て嵌まるかも知れ
ないが、客車でも普通走行中は車軸発電機からの電気供給が主であった。その証拠
として夜間に駅へ停車した途端に、車内灯が僅かに明るくなっていた。(自動的にバッ
テリーからの電源に切り替わった、走行し出すと車内灯は暗くなり、走行速度が上がる
につれて明るくなっていった) 電車の場合は常に架線からの電気を低圧化して供給す
るので、バッテリー容量は気にしない。 これは変電所へ掛かる負担の問題になる。 「昼行灯」(ひるあんどん)を嫌う文化
昼は窓を開けて部屋に光を入れなさいと奨励され、そのように育った世代
電気代の節減を強制されて辟易した時代を経験(電力会社社員が文字通り土足で乗り込んできて強制消灯させられる) 昼は電灯なんか消すのが当たり前、そこにごちゃごちゃ説明など要らない
そういう社会観念が常識として支配していた時代だから。
外から採光すれば済むのに、目の前のランプの灯油がみるみる減っていけば誰にも視覚的に無駄なのが分かるだろう。
車両のバッテリーの充電が乏しくて・・・も理由としては確かにあるが、
この文化を踏まえてのバッテリー容量であったのだろうとも言える。 電気の話は別として、昔はどこの家も昼間は(例外に夜早い時間帯)も家の裏戸は
開けた広げたままで、雨戸を閉めて回るまで開けっ放しだった。蚊や蝿が入って来
ても。戦前〜昭和30年代の映画を見ていても良く分る。 小津安二郎映画「秋刀魚
の味」を見ていても父親(笠智衆)と嫁入り娘(岩下志麻)が結婚式場へ向かうとき
でも2階の部屋の外戸は閉めずに開けっ放しで出て行ったシーンには驚いた。 昭和40年代前半まで、今では信じられない車窓風景があったなあ。
山陽本線を走ってると、山田洋次の映画そのまんま、台船傾けてザザーっと石を落とす光景
が実際にあったし、古くなった船を海上で燃やして処分なんてことを、本当にやってたから
なあ。 >>286
オレも山陽線・呉線の海風景が好きでよく乗りに行った。広島宮島ミニ・山口秋芳洞
ミニ周遊券で、ある日呉線に乗っていて、線路際のトンネルの前付近に墓地があって、
その横の古臭い1m高さの囲いから炎・煙がでていた。あの囲いはウチの田舎の墓
地傍にもあって、町営の火葬場が出来るまでは、親族が1昼夜掛かりで焼いていた
というから唱和52年頃も、まだ焼いている最中だったのかも知れない・・・・ 今から31年前の1月7日は昭和天皇ご崩御の日であった。早朝のニュース速報
でその旨を知ったが、以前から計画していたので、JRの駅で奈良・大和路フリ
ー切符を買って、奈良へ行った。東大寺ではずっと読経が流れ、商店街では早く
も半旗・弔旗が掲げられていた。夕方出発駅に着いたら、みどりの窓口に「当分
の間、フリー切符は発売しません」と掲示されていた。家に着いたら「平成おじ
さん」が額縁を右に抱えたニュースをしていた。JRも崩御への体制対応遅く、
オレも不謹慎だったナ、日頃から危篤・危篤のニュース続きで、実に昭和が終わ
った実感がなかったのもあった。 先ほどの投稿で、31年前→30年前に訂正。
仕事へ銀行へ行くたびに、窓口や壁に「早く陛下のご病状が良くなられますように
お祈りいたします。」というミニスローガンが貼ってあった。前年のクリスマスの頃
からだったと思う。クリスマスツリーにも七夕の短冊のように書いてぶら下げてあっ
た。だから日常的に感覚が麻痺していたと思う。 ディーゼルカーの排気管が客室の真ん中にあって、床に点検扉があった。
いわゆるバス窓の10系は、子供の目にも古びて見えた。
キハ23のが出たときはカッコいいと思った。 キハ28/58も、初期の運転台は曲面ガラスではなかった。 クリームに赤線のキハ55にギリギリ乗った覚えがある。 >>297
オレの中学卒業旅行は大阪発の155系「きぼう」だった。さすが、153系と違って
台車はDT21だった。バネが硬く乗り心地は良くなく、疲れた。「相手がガキ共だと
思って安物の台車を・・」と思った。 小声の一通りの一般乗車向けの車内放送・
主要駅到着前の乗換え案内が流れていたが、重複して「○○中学校の生徒さん〜
〜」という別の声の放送が大きな声で流れていて不思議だった。 >>292
そんなのは平成生まれでも知ってる奴はいくらでもいるぞ >>299
そんな中にキハ23が現れたときの感動は平成生まれにゃ分らん 40を倍にしても80だからまだ人生半分のつもり。
50を倍にするとまず無理そうだから、もう自分の知っている長さは無いと気づく。
60になるとほぼ先代は片付いてるし、次は俺と思う。
その60くらい前の国鉄を覚えてるやつはおじいさん。 日本で初めてエンジンを2台装備したキハ50形気動車。ただし、全長が22mもあった。 ラジオ放送
「朕深く、世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと
欲し、茲に忠良なる汝臣民に告ぐ、朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対しその共同
宣言を受諾する旨、通告せしめたり。」を全文暗唱できる人。昭和20年8月15日その日
以降、次第に復員列車、買出し列車が走りだした。・・・・・運賃は無料だったのかな? 同じく、上記の4年前 16年12月8日の放送
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申しあげます。大本営陸海軍部12月8日
午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、アメリカ・イギリス軍と交戦状態にい出り。再び
繰り返します。帝国陸海軍は〜〜」を暗唱できる人。
それを切っ掛けととして、優等列車削減やダイヤ削減が積極的になっていった。・・・ 上記の短い4年間なしの間にモハ43改造のモハ64(クモハ31の改称前)やD52戦時
型、凸型EF13の製造、モハ63の製造など色々手間がかけて行われた。凄い人力エネ
ルギーを注いだのだなァ・・・・・と思う。 次の替え歌を歌える人。
「金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、朝日は上がって45銭、鵬翼連ねて90銭。
今こそ来たぞこの値上げ、紀元は2600年、ああ一億の民は泣く」 ならば俺はこの歌だ。 (高峰三枝子 湖畔の宿 の替え歌)
「昨日生まれた蜂の子が豚に踏まれて名誉の戦死、蜂の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、蜂の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死、豚の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、豚の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた蛸の子が弾に当って名誉の戦死、蛸の遺骨は何時帰る、
骨が無いから帰れない、蛸の母さん淋しかろ」 >>307 >>308
の替え歌をTV東京10チャンネルの懐かしの歌声(コロムビア トップ・ライト司会)で
音羽ゆりかご会(小学生)のメンバーが歌っていたのをよく覚えている。
同番組では別の日に「僕は特急の機関士で」というのボニージャックスが歌っていた。
あの子供らも今は還暦を過ぎた頃だナ・・・・・・ >>312 東京12チャンネルとNETを混同してないか? >>310
310をカキコした者です。 「東京12チャンネル」の間違いでした、済みません。 >>310
TV 懐かしの歌声で灰田勝彦が「新雪」の歌 紫煙る新雪の峰振り仰ぐこの心、と
歌っていたが、それが主題歌の昭和17年製作の映画は阪急電車六甲駅北側にある
高羽小学校を舞台としたもので、始まりのシーンは当時の六甲駅に810型2連が
到着して、月丘夢路が下車、歩いて「蓑輪先生」と言って水島道太郎を捕まえるところ
からだった。 続き、「箕輪」は「蓑和田」の間違いでした。映画フィルムが古くあちらこちらで場面
省略されているが、最も見たかった「月丘夢路が阪神電車に乗車して遠目に六甲
の山々を眺めているシーン」が本来は出て来る筈がその巻が消失されてしまった
らしい。当時の六甲山は知る人ぞ知る。所謂禿げ山だったらしいが・・・・
当時は尋常小学校の教員の正式名称を「訓導」といった。始まり場面の出演者名
に 訓導 蓑和田 水島道太郎と出てくる。 >>247
>>249
地下鉄の切符売りのおばさんと同じ頃に姿を消したもの。
無秩序に林立する線路沿いの広告看板。
親の転勤で東京から大阪に向かう夜行寝台の車中で朝どよめきが起きた。窓の外を見ると、山の斜面がびっしり看板でうめくされていた。各々が少しでも目立つことを意図しているのか、向きがてんでばらばらだった。
京都を過ぎたあたりだったと思うが正確な場所は覚えていない。
その後その区間を乗車する機会はなかった。
万博終了後に久々に乗ったその区間の車窓からあの看板を捜したが見つからなかった。
「線路沿いの見苦しい広告看板を何とかしろ。もうすぐ万博だというのに恥ずかしい。」みたいな意見が新聞投書欄に載ったのを見たことはあるが、万博を機に撤去されたのかは不明。
余談。
万博の期間、親戚が大挙してやって来た。
学校の授業が終わってから祖父母を万博会場に案内したなんてこともあった。 スレ維持のため、令和開始でカキコ・・・鉄とはスレチでスマソ
下記の勅語を絵巻物にして解りやすくした物を見た人。かって人権啓発研修で
資料館に展示してあってユニークで欲しかったが、数年後また行った時には無
かった
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして淡路
島を作っている図) 宏遠󠄁ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ(子供たち3人が座敷で父・母に正座してお辞儀している)
億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテ
ヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(学校での授業風景) 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友に・・
一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ(戦地で鉄砲を持って突撃の図)・・・・・・ 上記なぜか文字化けしてしまった。・・・・・
朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして (雲の上から
2人の神様がしずくを垂らして淡路 島を作っている図)宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。 >>322・>>323
大阪から京都へ行く途中の田んぼ風景の中に15m位の横看板で「明治のチョコレート」
盾看板というか三角屋根の板製の塔で「テレビはナショナル」とかいろいろあったが、
思えば沿線宅地化でその頃から見なくなったな・・・ 加古川以西付近には「テレビは
ナショナル」「なるほど良い酒 忠勇」があった。 昭和50年新幹線博多開業で乗った
ときは、船場の「根来」「ボタンのミツヅミ」などが切りとおしに立てられていたナ・・・・・ 続き、新幹線新神戸にいたるまでの間に上記の横看板のほか、船場の「フレーバー
伊賀正」もあった。
万国博は大阪在住の同級生は学校行事で1回きりか、良くいっても家族で1回の2回
きりが殆どだったが、田舎の人は我が家へ泊まりっきりで7日も連続で行っていた。
そのころから、田舎の人は「都会の人に遅れまい」と変な妄想に取り憑つかれて、
新婚旅行も卒業旅行も外国行きが圧倒的だったが、実際は大阪人の同級生はそんな
ことをしたのは少数だった。田舎の家の造りが豪華になったのもそのころだった。 1970年の万博会場で思い出すのは、丁度今頃の暑い時期に行くと、方々の広場、
通路で生ごみ臭い匂いが強烈だったことだ、匂いを嗅いだだけでしんどく、頭痛が
した。 女の下手糞な運転で大型のゴルフカートのような車が走っていた。(現在の
女のように上手な運転ではなかった)跳ねられないように・当られないように気を遣
ってヒヤヒヤの会場内移動だった。あの女達も今では70過ぎの「老女」だなァ・・・
113系のスカ色を投入して万博号・エキスポ号を走らせて茨木停車が始まった。
湘南色を見馴れた目には113系のスカ色は斬新だった。 今ではコンビニでもスーパーも普通に付いて来るプラスチック製のフォーク
万博の頃出始めたんだと思うが、なんともはや、フニャフニャで往生したね 大阪市営地下鉄本町駅は中央線開業当初、中央線は一面一線ホームで阿波座〜本町間は単線運転、
御堂筋線ホームとは改札外連絡、朝潮橋駅付近に港検車場と大阪市電港車庫があった。 >>329
万博で思い出すこと。
当時、南海沿線に住んでいた。
普段連絡切符(定期券を除く)を扱っていない駅でも万博会場までの直通切符を買えたこと。
あの切符がなかったら御堂筋線の自販機は大変なことになっていたであろう。
冷房車(7000系)が登場したこと。
(戦前に南海が日本初の冷房電車を導入したことは後で知った。)
万博会場内のモノレールの車内アナウンス。
「次は日本庭園。降りようかどうか迷っている方、ためらわずに降りて下さい。」
無料なのでだらだら乗っているのが問題みたいな記事を見たような気がするが、記憶曖昧。 昔の場面描写法 特に映画などで
大阪へ来た・・・ 大阪城天守閣をアップ・通天閣をアップ(シンボルだった)
どこかへ用事で旅行、場所の移動・・・・ボーッと言うSLの牽く客車列車の走行場面
之を無言場面で暫く映す。特に「大阪へいった、○○へ来た」とナレーションしない。
何故だか昔も今もトイレへ大用便・小用便で入って出てくる場面は描写しないなァ・・・ 2時間ドラマだと、
国内線の飛行機が飛び上がる、あるいは降りて来る。
降りて来る時は「金 沢」ってテロップがでる。
今なら、E7走らせて「金 沢 駅 Kanazawa st.」を撮る。
いきなり七尾あたりのタイアップ旅館、ホテルの場合もある。 2004年というと、もう15年も前か。
東北太平洋沿岸の諸都市も健在だったんだな。
「決定版 列島縦断 最長片道切符の旅」 近鉄大阪線から信貴線に直通する上本町−信貴山口の準急があったこと。
さらにひいじいちゃんの世代だと高安山−信貴山門にも電車が走ってたのも知ってるだろうな。 東北山線でSLが牽く旧客車走っていたころ&気動車が走っていたころおれは生きていた。
鉄道が走らなくなってから
代替輸送で国鉄バスが松島〜仙台まで走るようになった。
昭和30年代後半の話しね。 大船駅山側にあった単軌鉄道遺跡の上に
トリコロールカラーの欠陥走行物体が動いていた時代
当局に指導される直前、知らずに乗ってしまった 他にも有ったかも知れないが、オレが覚えているのは、かって大阪駅とその北側に
あった(現在のヨドバシカメラ)大鉄局建物の間の広い道路上(横断歩道上とその西
側20m位)に互い違いにかみ合わせて凸凹型の茶色い鋼鉄製物体が一条に埋め
込まれていた上をを皆多くの人が意味も知らずに踏んで歩いていた。その鋼鉄体の
正体は知る人ぞ知る。それはかっての横川〜軽井沢間でED42が噛みあわせてい
たラックレールだった。 軽井沢と言えば、日本三大外国人避暑地は
軽井沢と野尻湖
で、もうひとつはわいの生家のある
宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜高山なのです。
明治の時代から土地が(当時の価格で6万で)999年貸出されてんだよ。
で、日本三大と言うわりには一番無名の避暑地なんです。
仙台湾に面した太平洋を一望できる綺麗な(風光明媚)ところで
東北の湘南とも言われています。
おい、おまいら綺麗なお姉さんの〇〇姿を見るなら、絶対この夏は
海水浴に来いよ(昔は外国人と地元民の遊泳場所がロープで入れなくて
日本人侵入禁止」じゃったが、このごろはそれもなくなった。
被災地応援の為にも来てけさいん。 準急東海に乗った。
親が先頭車輌に連れて行ってくれた。
前面展望状態だった。
運転手が「XX進行(記憶曖昧)」と指差し確認をしていた。
格好良かったなあ。
ところどころに建設中の線路が見えた。
新幹線だと親が教えてくれた。 上記の新幹線のお話で思い出した。新幹線開通前に毎日毎日ニュースTV解説番組
でこの度できる新しい鉄道とはどんなものか、と詳しく説明をしていた。線路の実物を
置いて従来の物より1回り大きい60sだとか、軌間が広い1435mmだとか、他の時事
ニュースは何も理解不能で頭に残らずとも、この件だけは幼児であったにも拘わらず
鮮明に覚えている。あとは吉伸ちゃん誘拐事件だけ・・・ 東海形と聞いて、
91が浮かぶのはお爺さん
153が浮かぶのはお爺さんの可能性大
185が浮かぶのは後期おっさん >>310
>>313-314
>>317
>>321
「題名のない音楽会」は当初、東京12チャンネルで放映していた 上記のカキコで思い出した。鉄道・列車が出てくる映画主題歌。続きを歌えれば正に
にあなたは年金受給の老人。いずれも映画ではオハ35・オハ61が出てくる。
「白い夜霧の灯りに濡れて、別れ切ないプラッとホーム、ベルが鳴るベルが鳴る」
「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心、またの遭う日を」
「何も言わずにこのままそっと、汽車に乗ろうと思ったものを、駅の喫茶の公衆電話」
「惚れて惚れて、惚れて居ながら行く俺に旅を急かせるベルの音、つらいホームに」
3段窓の茶色いモハ72が出てくる。
「あなたを待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気に掛かる、ああビルの畔の」 ALLIED FORCES CAR
U.S.ARMY SECTION
イエローボール
復興整備車、復興整備電車 前にもカキコした113系の「万博号」「エキスポ号」に加えて、波動輸送用オハ12系に
よる「ノーキョウ列車」が多数運転された。ツアーの募集主体となった農協が旅行業
の免許を取得していたのだろうか? >>355
の続き、都はるみ 好きになった人 (映画 さよなら列車)
「さようなら さようなら 元気でいてね 好きな2人はいつでも逢える たとえ別れて」 いや〜びっくりした
30分でまた満タン感になったので
膀胱がおじいさんになったのかと思ったら
ほんとにほぼ満タンだった
腎臓大丈夫かな? 普通の百貨店のおもちゃ売り場の鉄道模型コーナーで売られていた3線式Oゲージ
模型、3線Oゲージ・KTMのHO・メリクリンHOが並行してショーケースで陳列して
あった。Oゲージ基本セット(EB電機+トランス+12本組円形レール)で4000円位
だった。Nゲージは未だなかった。 メルクリンの線路付き道床がハイカラに見えた。 千歳線 苗穂〜東札幌 直流1500V電化(定山渓鉄道所属車乗入用設備) 仙山線の電化区間
・陸前落合〜熊ヶ根 交流 20kV 50c/s
・作並〜山寺 直流 1500V 旧国鉄指宿線に乗った
旧国鉄古江線に乗った
旧国鉄日之影線に乗った
細島線(日豊本線支線)に乗った >>372
知ってたら、というかなかなかマニアックな駅ですね。。。 旧国鉄三江北線に乗った
現役の豊後森機関庫を知っている
備後落合駅前の旅館に泊まったことがある >>372
>>374
その前身は、新津田沼(2代) 飯田線豊川駅の旧駅舎の3階の演劇場で映画や落語、漫才を見たり、同駅舎2階のデパートで買い物した。
湯谷温泉駅駅舎2階に併設されていた旅館に泊まった。 >>377
それ、おじさん世代でも実体験あるでしょ! >>371
利府支線のまえの東北本線山線を知っています。
昭和35年頃だったと記憶してますが、利府丘陵の現在の三陸道春日パーキングあたりは
SLが足掻き足掻き登っていたんです。よってその地点は低速走行になってましたので乗客が
飛び乗ったり降りたりできたんです。のちにディーゼル列車になってからはそのような光景は
見られなくなりました。そして山線は廃止になり松島から仙台まで国鉄バス(青バス)が走り、春日から
塩釜までは宮城バス(赤バス)が走りだしました。 鹿児島本線小倉駅はかつては西小倉駅付近にあり、博多駅の位置も開業当初は現在の場所ではなかった 横黒線、橋場線、生保内線を知っている
黒沢尻駅、尻内駅、北福岡駅を知っている 昭和37年に 弁天町にオープンした交通科学館(後 科学博物館へ改称)へいった。
大きなパノラマの大レイアウトが朝になり昼になり夕方になり夜になったが、模型列車
が脱線、停止ばかりしていた。それよりも子ども心に驚いたのは、架線を張って集電
走行する模型だった。 後日、阿倍野の近鉄百貨店の特設会場でメルクリンの列車
が架線集電で走行して、驚き、魅入っていた。帰宅して親に「架線走行の模型が欲し
い」と連日駄々をこねた。 >>386
386をカキコしたものです。それから33年の月日が流れて、ある日日本橋の模型店
ぽちで宇都宮のマルエス模型が廃業したのか、在庫処分を買い取ってきたのか、
メルクリンの車・線路M式が大量にあった。線路定価1本500円が100円(新品)
架線柱が10本で500円・左右ポイントが1組1500円 之は逃すまいと連日通い
詰め、大量に「大人買い」した。架線だけがなかったので、阪急百で30cm500円
で定価買いして組み立て走行させた。 昼間でも架線とパンタが擦れると小さな
青白い火花が散る。非情に愉快だったが、家が狭くなり走行させていない・・・・ 昔は電車と言えば直流に直流モーター、交流の場合はわざわざ直流に整流してから直流
モーターであった。
一方、代表的な照明であった蛍光灯は交流でないと点灯出来なかった。
それが今や、電車と言えば交流誘導モーターにVVVF、照明の主流となったLEDランプは
直流で、損失の大部分は整流回路の放熱である。
サイリスタチョッパはおじさん?おじいさん? むかし、ラジオを聞いていたらビックニュースが飛び込んできました。
その内容は、仙台市にJR東日本の本社機能ができるという信じられない
ビックりなニュース(瞬間的)でしたが、なんのことはなく時間差で内容が詳らかになった。
仙台市にJR東日本の地域本社を置くっう話しだったんだ。
いまや爺になってしまった若者はガックシしたよ(笑)。 なぜに、蛍光灯には安定器っうすばらしいむだな部品が付いているの
むかしのはなしだけど、いまは電子回路に置き換わっているけどもね。 JNRのNが取れて、もう30年以上なんだな。
山手の貨物線をデッキ付きの機関車が走ったり、新宿駅に181系がたむろしていた頃が、
ついこないだのような気がするのに。 一見、小型の蛍光灯だと思いきや、実は白熱灯・・・・・関西の私鉄でよく使われていた「管球」 >>393
おれもあの管球がすきだった。一番最後を覚えているのは、阪神国道路面電車の物だ。
明るくなく、暗くなくとても趣があった。透明管で愉しかった。言ってしまえば夜店などで
使われていたクリヤ電球60ワットの細長い形のようなものだったナ・・・・・・ >>394
続いてカキコでスマソ、スレチだが「好きだった」で思い出した。鶴田浩二の歌「好きだった」
〜好きだった 好きだった 嘘じゃなかった 好きだった。そんな一言あのときに 言えば良か
った。 ボデーにすがって泣きじゃくる。天井の明かりをぬくもりを 忘れられずにいるのなら〜
>>393 のカキコに感謝! 良く鮮明に乗車状況を思い出しました。43年前を。ありがとう。 >>393
関西で最後まで菅球使ったのは叡電デナ21だっけ? 「北はアムール 南は熱河 東やポクらの 西満州里 築く絆はおいらの鉄路
明日のスパイク どこへ打つ」 南満州鉄道愛唱歌 続き 「明日の塒か 嘆くな女房 蒙古風吹く 砂漠の果てで 枕並べて枕木抱いて
嬉し仲間と月を見る」
「月は無くともレバーは光る 黒い炭さえ真っ赤に燃える 熱い想いをレールに
乗せて 飛ばしゃ荒野は荒吹雪」 満州映画「迎春花」 主演 李香蘭 木暮実千代 で終わりの場面 1:06分頃から
大連駅に特急あじあが到着、車内で2名やり取りする風景が出てくる、当時 木暮は
23歳(今の子と違い偉い老けてるナァ・・・・ youtubeで出てくる貴重な場面。 >>393-394
両口管球って言うらしいね
>>397
同時期に嵐電のモボ121やク201も引退 要するにこういうの?
レトロな建築物に使用されている照明器具で使っているランプで
タングステン電球っうのがある。
たしか、日本では東京大田区の某ランプ屋さんが作っている。 ネットでくぐると「両口管球」でよく似た物がいっぱい出てきた。何本か買って家の中に
取り付けて愉しもうと思ったが、1本4500〜5500円位する。アキラメロン、だなァ・・・ >>404
原理的にはそんな感じで、用途に応じ管内面の処理が違う
・クリア :透明ガラスでフィラメントが見える
・フロスト:白色のシリカを塗布、光の透過・拡散させて眩しさを軽減
・半光 :上記クリアの内面半分に反射鏡
関西の電車でよく使われていたのは、どう見てもフロスト
https://twitter.com/mobo105/status/1096740826078601216/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>406
現実的には、直管蛍光灯で3波長形電球色の代用かな?
両口管球で一番長いのは305mmだから、蛍光ランプだとFL10の330mmが近いね
ただし、太さがだいぶ違って管径は両口32mm、FL10 25.5mm
器具はトラフ形を並べればそれらしくなるし
ランプはNECのライフルックHGX(FL10EX-L-X)だと電球色の発色いいよ >>408
その5000系も、ほとんどが東西線に転属。1981年の出来事。
同じ営団ネタだと、方南町支線(Mb)は最初、旧東京高速鉄道の100形で運用されていた。 営団地下鉄千代田線6000系の試作車は、最初、東西線で走行試験が行われた 西鹿児島駅(現 鹿児島中央)に壁画のようなものが有ったような気がするんですが、ご記憶の方いらっしゃいませんか? 山陽本線181系特急「しおじ」「うずしお」などに連結されていたパーラーカー改造車クロハ181の
グリーン個室を利用したが、室内はかなり傷んでいた。 >>410
5039F〜5048Fまでだね
5連×2の10連5本があった
固定化されてて中間代用車は先頭に出ることはなかった
のちに一本だけ7+3に組み替えられ、3連は北綾瀬支線共用となるが、いくらもしないうちに東西線へ >>347
豚双六の大越基の出身地やね。
小学生が臨海学校で大挙して来るなら行きたいねえ(笑) 大阪市営地下鉄谷町線東梅田〜谷町四丁目間開業当初、7000形・8000形(のち30系に編入)が投入されたが、程なくして、御堂筋線から転属してきた50系に置き換えられ、7000形・8000形は谷町線から撤退した。 昔は怖かったドアステッカー。
小田急のとか。
でも逆も存在した。
「ドアを手で開けてください」ステッカー。
20系客車に貼ってあった。
旧形国電にもあったらしい。
旧形客車はどうかな?
「ドアを手で」の書体が年季入った感じ 冬場を除いて、旧客のドアがまともに閉まっていた覚えがない。
手すりを掴んでぶら下がりゴッコやってたくらいだから。 阪神電鉄で関西汽船連絡特急「うずしお」が運転されていた。 >>420
キロ80 幅が無く背が高い。 キハ58 幅が広いが平べったい。それだけだ. それよりも、製造当初からのスハ32系の床下水タンクは中央(通路下)ではなく、片側に
寄っており(座席下)、カバーも大きく非常に存在感があった。 関西地方の話でスマソが・・・ 未だ福知山線にDD51+旧客が走っていた頃、
梅田地下街の丸い柱のあちこちに色々な壁新聞が貼ってあったが、それと共に
「我々の仕事・電車の運転は非常に危険で怖い思いの連続だ!!使用者側は
何とか対処しろ!! 阪神電鉄労働組合」と貼ってあった。確かに梅田を出て
からも至る所に地平部分、見通しの悪いカーブや踏切が多く残っていた。
自転車で街路の曲がり角を減速せずに向こう見ずで、阪神電車運転士ごっこ
をよくやって雰囲気・スリルを堪能していたナァ・・・・・ 続いて阪神電車の話だが、未だ梅田〜姫路の直通特急が無く、梅田〜高速神戸・須磨
浦公園間特急(西宮・芦屋・御影・三宮・元町だけの停車)は西宮に到着するやいなや、
ホーム外の職員用小踏切・通路を通ってオバチャンが小カゴにおしぼりを入れて持参
して運転士に手渡す。運転士は主に顔をぬぐってからオバチャンに返してから再出発
していた。本当に風情が有ってよき時代だった。喫茶店・スナックでおしぼりを受け取っ
て阪神特急の運転士気分を味わっていた。・・・・・・ いつからか無くなった。 阪神電鉄に2両編成のステンレスカーのジェットカーが在籍していた 大阪環状線の西側区間では、大阪臨港線直通のD51牽引の貨物列車が走っていて、
天王寺駅関西線ホームを通過するD51牽引の百済行貨物列車。
D51は無煙化により、DD13やDD51に置き換えられた。 >>429
貨物列車ではないが、下記のブログ・ページにて下段の方で天王寺駅進入のC58客レ
が画像で入っている、一度ごらんあれ。小学生の頃、昼間のTVで見た
→ 「これは凄い鉄映画!(当たりや大将の鉄シーン)」 >>270
関西の一部私鉄では今でも昼間に車内蛍光灯は消灯している。 >>401
の言う様に知っていたら故人 かも知れない、が次の動画「東京の女性」S14作品
原節子・江波和子(江波杏子の母)主演 (3/3の終わり部分 26;00分位〜)
(昭和初期 車のセールスウーマンの原節子が思いを寄せる同僚を妹、江波に取ら
れてしまい。新婚旅行に旅立つ2人を見送るという話)
多分上野発の急行 EF56+W屋根スハ32連を車で追いかけて併走する原節子。
未だ当時19歳というのにしっかりしてる。街の様子も現代とあまり変わらないナア・・・ ゴメン。{東京の女性」 3/3の26;00分〜は 23:00分〜 でした。 >>400 で述べた「迎春花」(インチュホワ)中の李香蘭も木暮と同じ23歳。
「東京の女性」の江波和子も19歳。(27歳で夭折) 今のAKBの子らと
と違って落ち着いて居るナァ・・・・・ 阪和線、新快速が速かったのは言うまでもないが、快速も引けを取らない俊足ぶり。
堺市、鳳、和泉府中、熊取、和泉砂川、5駅停車で53分。
南海もなんば〜和歌山市特急は新今宮、堺、岸和田で54分。1001系自由席(料金不要)に座って
爆走を楽しめたいい時代。 阪神・JR・阪急線が併走する西宮・芦屋・神戸市内の車窓からは緑の青々とした
六甲の連山の風景が目を癒してくれるが、昔は殆どの部分が禿山だった。
昭和13年7月の阪神大風雨災害の原因ともなり、植林に尽力しだした。 食パンの改造電車が不具合を連続的に起こし
ダイヤに大きな影響をきたしたので、JR東日本では
東北線仙台地区・福島地区に701系を新造導入しました。 兵庫県の明延鉱山にあった鉱山専用鉄道は、鉱山関係者以外は運賃1円で乗車できたことがあった あくまでも知ってたらおじいさん(乗ってたらではなく)
日満連絡線 熱河丸 うすりい丸 鴨緑丸 など 東京発門司行の列車と連携だった
が一部は神戸の東灘(操)から貨物線経由で第1突堤へ到着 船に乗り換え出来た。
勿論、門司からでも船に乗り換え可能だった。 >>340
昭和43年まで停車していたのか。知らなかった。
南海沿線に住んでいたが、高野線はあまり乗ったことがなかったので。
南海線の男里川転落事故なら覚えている。
事故後、家族でみさき公園に行ったときのこと。羽倉崎車庫に事故車輌が係留されいるのを目撃した。あちこちからひそひそ話が聞こえてきた。傷だらけでボコボコになった先頭車輌が今でも記憶に残っている。 知っていたら お爺さん ではなく、超高齢おぢさん。
駅内の公衆トイレ(大用)便器で「インド式」の物。丸直径80cm、深さ15cm位で内に
普通レンガ大の足載せ用踏み台が有るだけ。排便中に水を流すとダイナミックに渦巻
きながら中心の穴に吸い込まれていく。白の陶器製ではなく、黒のFRP製だった。
それはそれは豪快で自分も流れて行きそうだった。大阪駅・岡山駅でS53年頃にて
お世話になった。 >>450
関西の話でスマソ。オレの持っているS3年発行の大大阪市街図では大阪駅が
右から「於ほさか」 京橋「きゃうはし」 西九条「にしくぜう」 となって居る。他は
現在と同じだ。 山本富士子・佐田啓二主演の映画(S30年代作品)では
内容が戦前の設定で京都駅の柱取付の駅名標が「きゃうと」となっていた。
昔は「今日」を「けふ」と書き、「京」を「きゃう」と書いた違いが分からん・・・・! 下十条が「しもじふでう」だから二条はおそらく「にでう」
王子は「わうじ」 福知山駅から河守まで北丹鉄道という経営難の非電化ローカル私鉄が走っていた >>434
その頃は東急田園都市線から来た
列車の終端が永田町駅で
ホームを線路方向に真ん中で仕切って
片方の線路だけで折り返し。
(青山一丁目が終点の列車が多かったような)
単線区間は青山一丁目〜永田町だったっけ? 昔の鉄ピク誌に誰かが掲載していた記事。
鴨長明の方丈記「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」 これは鉄チャン流に
解せば、車体のデザインが同じ事の繰り返しをしているという事。元の特急用スハ32は狭窓
の連続だったが、オハ35系→広窓に、スハ44系→狭窓に モハ151系→広窓 新幹線0系
→広窓、後期0系→狭窓 100系→広窓 300系→狭窓 他に昭和初期のモハ52の流線
車体や張上げ屋根をも例に挙げていたナ・・・・・ >>457 懐かしく思い出したので「方丈記」をクグッた。
(続き)よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 (中略) 人の住まひは、世々を経て
尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。人も多かれ
ど、(中略) 朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。
「流行と言うのは常に変化している。新しいデザインと思った物が昔流行しただけだ
った」 電車も客車も木製に返り、機関車も蒸気時代が再来するかも知れない・・・・ >>456・457
確かに456・457のいう通りだと思う。国鉄キハ43000型や流線型C55もモハ52同様
当時の波に乗った形で張上げ屋根だった。 戦中・後の食パン電車から長らく続いた
屋根形状も221系から張上げ屋根にした。S54年登場の京阪神新快速117系の塗色も
結局はモハ52流電の焼き直しだった。戦前・後の電車1M1T方式もMMユニットにな
ったのがまた1M方式だ。 電車のサロではサロ75・85の広窓がサロ153で狭くなり
また152で広くなっていたなァ・・・・ 大阪環状線も昨日の201系引退でオール3扉車運用になり、戦前のモハ41・クハ55の
再登場だ、ラッシュ時にこんな物に乗る日が来るとは夢にも思わなかった。(ホームドア
設置起因もあるが)山手線や京阪の5扉に始まり→各線区6扉へ進むと思っていた。
現在環状線に乗る時、オレはモハ41やモハ51セミクロスを彷彿しながら乗っている。 上記の続き、
他人のツイを流用でスマソが、オレはこのツイが大好きだ。環状線に乗っていると玉造駅
から工場帰りの学徒動員生や薄茶色の軍服兵士が乗り込んでくる錯覚に襲われる。
(pic.twitter.com/ThHkgP0fR6) 藤田加奈子 2018/9 分
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>462の最下段 は無視してください。システムが勝手に書きました。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
下から2段目( )内のアドから画像が出ます。 2018/9/12の分
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 天王寺駅のホーム売店で鳩用の餌豆を買って蒔いて、バタバタと鳩が遠くから集まってきた。
現在の11番12・13番は西端が行き止まりだった。 南海難波駅のホームはかつて、現在のホームのある階より1つ下の階にあった。
阪急梅田駅は、かつて現在の阪急百貨店梅田店の所にあった。
京阪守口市駅前の京阪百貨店は、京阪電鉄守口工場跡地に作られた。 他にもあったらスマソ。オレの知っているのは、南海天下茶屋駅地平ホーム時代だけだ。
一番西側ホーム難波行きホーム北端の地下道階段付近に「羽車ソース」という大きな
宣伝看板が貼ってあった。そのマークも旧南海の社章と非常によく似ていた。もしかして
南海系列の会社かと思っていた。 さっきクグッて調べたが、和歌山市内に工場があり
株式会社「ハグルマ」として現存し、マークも昔と変わらずだ・・・・・ 車に羽はえてるあのマークって
動いてる実物あったらなにげに
怖い気がする、顔のないお化けみたいで 南海バスのバス停にも羽車マークが大きく書いてあったな。
ちなみに、あのマークは英語ではウィングド・ウィールと言うらしいな。 >>467
何故あんな奇妙なマーク・社章を考案したのかと思う。あんな重たい物に羽を付けた
がるのか理解できない。「ハグルマ 封筒」なる物も出てきた。かって「ヨコハマタイヤ」
でタイヤの内に人面が書いてあるのも気色悪い。とのカキコもあったが、羽車印は更
に気色悪く、昔のオカマを見ているようだ。まだ「歯車」に羽を付けた方がましだ・・・・ >>469
南海が創業当初、ドイツのある農園から輸入した客車の窓のカーテンに車輪に羽の生えてる絵が書いてあって、南海はその絵の車輪の向きを変えて初代社章として採用した。 >>466
ハグルマソースのマークは南海の社章が元ネタ。
ソース会社の社長が南海の社長と懇意にしていて、自社で売り出すソースのマークを相談した時に、「じゃぁ、うちのマーク使えばええ」という事になった。
その際に羽車の車を鉄道の車輪から大八車の車輪に変えてソースのマークとして採用したそうだ。
>>469
車輪に羽が生えて「飛ぶように速い」という意匠なんだが。 スレ違ですが、仙石線に下馬駅がありますよね・・・おじいさん
そこで、爺さん知っていたら教えてください。
仙台市営バスの塩釜車庫(昭和の時代に廃止になりました=原因は国鉄仙石線の増便・スピードUP)
が廃止時には塩釜市新浜町にありましたが、その前は下馬付近にあったと言う話しを聞きますが現在70歳前後の
人に聞いても分からないという話しが大多数なんで、実際に下馬付近にあった場所を知っている爺さん婆さんがいたならば
現在(現状)のどの地点だったか教えてください。 仙台でなくてスマンが引き続き南海バスの話、和歌山市内も昭和50年まで南海直営、
前年の昭和49年まで車掌が乗務する青とベージュ、緑の旧々?南海バス色が走ってた。
バス車庫は市電の車庫のちょっと北側(カーブの手前)にありましたな。
また紀和駅にも発着場があった。昭和46年以前、国体道路ができていないころは手平から宮前駅、田尻と
あぜ道を抜けて海南へ走ってました。ピンポイントな話ですまぬw 日田彦山線二又トンネル爆発事故の時、トンネルから噴出する炎の勢いとトンネル内に収納されていた弾薬爆発時の爆音
この時の爆音は人間の聴覚を越えるもの凄い音で、福岡や別府まで聞こえた。 大阪の話でスマソ。昔大阪駅の学生班してたツレが、お婆さんにマジで怒られた話。
「兄ちゃん、神戸行くにはどの電車に乗ったらええのか?」 兄「あの5・6番から出る
ブルーの電車ですよ(103系のこと) 婆「兄ちゃん、嘘ついたらあかん! あれは
汽車や! ワシは電車で神戸いきたいんや!」 兄「だから5・6番の・・・・・」 結局
どうやら婆は国鉄は皆、汽車で、婆の電車は阪神・阪急が電車と称したそうな・・・・・ 今になって考えるとその「婆」は大正中期生まれの娘さんだった。中年に差し掛かる
頃は、長崎・広島・糸崎・宇野行きの普通列車はスハ32連で姫路行きは新車投入の
80系300で、神戸行き普通はクロハ69入りの51系・72系の電車になっていたが、
自身の子供には国鉄路線を走る物は皆、「電車」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 上記の文章の間違いを訂正します。↓
国鉄路線を走る物は皆、「汽車だ」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 連続して「婆」の話でスマソ。少し鉄の話とはズレるが・・・
上記の年代の頃は、60歳過ぎの女性が交通事故の被害者になり怪我・死亡した場合、
新聞・TVニュースでは63歳の「老女」が車に撥ねられ大怪我をしました。と表示された
男性の場合は「老男」とは表示されなかった。やはり女は「老女」。これでいいのだ。 上記を見て思った。現在でも「伊藤蘭」「風吹ジュン」を老女と表現して、彼女ら乗る
旅行の取材でJR路線車両を「汽車」と発言させれば面白いで・・・・・ きょう、20歳の女子が
麻丘めぐみの
♪わたしのわたしの彼は左きき♪ 知りませんって言ってました。 ピンクレディーのペッパー警部 (S51年)も知らない人が多いかも知れない。
現在と違って当時の警部とは大分偉い人の階級だった。そんな人が町を警邏
するとは到底思えない。寧ろ「ペッパー巡査長」にすべきであったなあ・・・・
曲・歌詞の内容は曽根史郎の「若いおまわりさん」に通じるものがある。
「もしもしベンチで囁くお二人さん、早くお帰り夜が更ける、野暮な説教するんじゃ
ないが・・・」 ← コレ知っていたら曾おじいさん。 SE車、151系、20系、長野2000系「辺り」と同世代。
みんな展示物になってしまった。 俺も、初恋の彼女も転勤族。
俺が越した後、彼女も越して、越しちゃう距離も半端ないから、小学生のガキにはどうしようもなかったな。
新幹線もまだ東海道だけの頃。 12、3年前って何してたっけな?
あ、豊後森のビジネスホテルから、種子島から打ち上がったロケットを、偶然目にして
デジカメの1眼レフで写してた。 40年前の京浜東北線
7+3か6+4かは定かでないが
なんで10両直編成でなかったの
3とか4は将来の転属を見据えた
国鉄のまさかの将来展望だったのか? >>498
南浦和は10両すっぽり入線できるから(あと、東十条も)
その問題は神奈川県内の電留線の話しなの。 なつがさい太郎兄ちゃんと東京から帯広に
ちはるに合いにいくんだって
昭和30年代は東京から帯広まで何日かかったんですか
爺ちゃん教えてください。 茶色い8両時代の京浜東北線は編成中短い17m車?が連結されてた、夏は扇風機のない車両があるのでホームから車内を覗いて扇風機付を確認して乗ったものじゃ 窓は3段式で真ん中が固定、上段が下げ、下段を上げる構造で、たてつけが悪く斜めに止まって動かない窓もあった その3段窓の車、冬季は上・中・下段の隙間から寒風がスースーと入り込み、座席下には
電暖が入っていても、寒い寒い車だった。しかしワシはその煩い泣き叫ぶようなモーター
音が、始動時には体全身に響くようなビリビリ振動、制動時にはゴーッと長い響きに酔い
知れて、わざわざM車を選んで乗っていたのう、懐かしいのう。 「お電話1本でお買い物。簡単で便利なテレホンショッピング。」「メモと鉛筆のご用意を
どうぞ!」 と言いながら、かっての黒電話の薄緑色版機のダイヤル部分に人間の顔が
描いてあり、横から左右の両手が出ていたTVコマーシャル。 多分これは「皆様の上新電機」といっていた頃のジョーシンのCMだったと思う。 毎日平日 午後7時前に5分程度でTV放送していた「ものしり大学・提供はキリンビール。」
その他、下記のTVのCM
白木みのるが主演していた「下呂、下呂、下呂温泉の山形屋でございます。どうですこの
素晴らしい大浴場・・・皆様お揃いで下呂温泉の山形屋へ」
「有馬温泉でのお泊りは楽しさいっぱいの向陽閣で、 有馬兵衛の向陽閣へ〜」
「親子三代、結婚家具は加古屋に決めました」・「リビング、リビングプラザ、カッコヤ」
「ゆったりくつろぐ貴方のイス宝塚温泉、ホテル水明館」「あなたのもう一つのイス、桜橋
バロン、どちらも貴方の取って置きのイスです」 懐かしの国鉄色485系特急電車は、なぜ9両編成が主力でったんですか? >>504
MT比を2:1にしないと板谷峠を自力で登れなかったから JR東海道線山科駅の高架下の歩行者用の通路が駅改札内の通路で、今でも奇跡的に残ってる「京都、大阪、神戸方面」の表記を見て、現在は埋められている階段を登ってホームに上がってた時代 知ってたらおじさんってまた変なおじさんが現れたのかと思ったわ。 錦糸町駅北口のアルカキットなどがある場所に、天沼工場という鉄道車両メーカーがあったこと 153系急行が両国駅から発車してその、153系急行に山口百恵が乗ってたこと。
https://youtu.be/vlsi01dAT9U 名古屋駅は開業当初、「名護屋」という駅名で、翌年、「名古屋」と改称されたこと >>515
45分15秒以降だね
いい日旅立ちだったのかな? 国鉄の最低運賃10円
子ども5円。
東中野からお茶の水まで5円だったよ。昭和30年 駅のホームから線路へ向けて放尿しても誰からも咎められない。
>>507 のように車内で乳房を出して授乳しても奇異な目で見られない
女の裸体は劇場での踊りや、女郎屋で一種の「芸術」的な目で眺めて
楽しむもの。美人を視姦したり、大衆食堂の姉ちゃんの尻を撫でても
セクハラとは言われない。即ち「男一人に、女はトラック3杯の値」だっ
たが常識。 たんツボ
あったよね 白いつぼが駅のようしょようしょに マジ
知っていればおじさん
じゃなくて
おじいさん
だわ
ついていけない >>524
昔々からあった着物姿、赤襦袢のオネエチャン・オバハンが「春」を売っていたお店。 新宿駅で左翼が暴動を起こし、電車や駅構内の施設が破壊された新宿騒乱 >>533
久宝寺停車はキハ35、2両の湊町〜柏原行きで、他は殆どが通過していた。 D51+スハ43系+オハフ13の柳生号・伊賀号シリーズの後に、期間を限定で
日曜日朝に笠置?行きだったか、自転車同伴可能のキハ35の4連の「サイクリ
ング号」が運転された際は、今後はどの線区にも日中、自転車同伴で乗車でき
るようになって行くんだ!と喜んだものだった・・・・・ >>534
奈良行き普通は加美、久宝寺、志紀通過がデフォルトだったね 新今宮駅は、開業当初、南海側に駅は無く、関西線の列車は新今宮駅を通過していた。
南海新今宮駅が設置されて乗換駅となったのは、開業から2年後のこと 小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結 新今宮の話で思い出したんじゃ・・・ 今のホテル経営不況の中、駅の北側に
星野リゾートが大きなホテルを建てておるが、そこは昔、中山太陽堂という有
名な化粧品の工場が有ってのう、「クラブ歯磨」「クラブ化粧品」を作って
おった。昔の映画「朱と緑」の場面で大阪駅に到着するSL列車に乗ってきた
高杉早苗(香川照之の祖母、えろう別嬪じゃ)を高峰三枝子が出迎える場面
が出てきて、それからホーム地下通路を通って改札へ向かうが、壁面に一筆
書きの電飾ネオンサイン「クラブ歯磨」と云うのが飾ってあったのう・・・
それから高杉早苗は大阪駅前からハイヤーに乗って「新大阪ホテル」へ投宿
した。翌日に上原謙(加山雄三の父)が訪ねてきたんじゃ。勿論そのホテル
は今の新幹線の新大阪ではなく、中之島の大阪市役所の5分ほど北西側に聳え
立つ大きな立派なホテルじゃった・・・話が長ごうなってスマンかった・・・ 上記の画面は動画 Shu to midori shu no maki 48分頃から見れる。
とても懐かしいのう・・・・ 大大阪のええ時代じゃった 上原謙、懐かしいですなあ。息子の加山雄三が80超えているんですからねえ。 南海本線の住吉公園行き各駅停車(今宮戎・萩ノ茶屋にも停車) 次の質問に正解できる人は高齢者
@ 実在したのはどれ?
ア 鷲羽山トンネルを通る「鷲羽」
イ 本四備讃線を通る「備讃ライナー」
ウ 板東中学校に通う「板東英二」
A 日本の国鉄でかつて存在したのはどっち?
ア ラックレール区間
イ サードレール区間
ウ ラックレール区間とサードレール区間 山陽電車爆破事件
近鉄奈良線電車爆破事件
横須賀線電車爆破事件
近鉄上本町駅コインロッカー爆破事件 >>543
やべえ。
石田純一やら堺正章やら北大路欣也やら関口宏やらの親父にみんな覚えがある・・ >>549 >>543
佐野周二, 戦前の映画「婚約三羽烏」に上原謙・佐分利信と共演、佐野のアパー
トのベランダから17メートル省電2連・4連が往来するのをぼんやり眺めている。
羨ましいアパートだなァ・・・ 同じく佐野、上原、田中絹代、映画「新道」で
17メートル省電、山手線車内か?が出てくる。他には「蛍の光」夏川大二郎が高
等学女卒業間際の高杉早苗を口説いていると17メートル車(モハ34か?)に
木造電車が挟まれた3連が背景を通過する。各車間の貫通幌は無い!
他には桑野通子(桑野みゆきの母)北見礼子(林与一の母)等の顔が頭をよぎる
危ない危ない。オレも真に老人だ! 佐野周二 一度、大塚のボンカレーのTV CMに起用されていたが、後に松山容子
になった、佐野周二の出演の方が美味しそうだった。 また映画の話で悪いが・・・ 小津安二郎監督作品「晩春」では北鎌倉在住の父娘が揃って
東京方面へ通勤している場面が数分間出てくる。笠智衆・原節子がスカ線のサハ57に乗
って居るが、車窓外の風景が暫く描写されている。車体の揺れ、ローリングが激しい。また
架線柱が複線線路の間に1本立って左右の架線を吊っている何とも古臭い場面が出る。
監督 小津も60歳で逝去したがその画像は現在の85歳相当に見える・・・・ >>548
青大将 の言葉で思い出し、客車特急つばめ・はとに乗車していた「つばめガール
・はとガール」のお姉さんたちの写真を見ると当時の嫁入り前の女性は何故こんな
に太く、老けて見えていたのか,実におばちゃんだ!と不思議で謎だ。昭和42年
の半年間TVドラマ「いつでも君は」は20系客車の食堂車のスタッフの恋愛を描写し
た作品であったが、長沢純・高橋紀子・寺田農 等はそんな老けてなかった。同年
の映画「喜劇 急行列車」の食堂車スタッフ 大原麗子はとてもきれいだった。佐
久間良子はあれで28歳 専務車掌 渥美清の妻役、楠トシエは実齢33歳だ。 オレは例の森元総理の要職ではないから、当時の25歳過ぎの女は女性ではなく、オバチャンとして発言したい。ウチの近所に口うるさい同級生の女が住んでいて何かと
口出ししてきてウザイ。精神的に病んできているので、今度口出ししてきたら、「昔は女は60過ぎたら、交通事故に遭って負傷しても『老女、轢き逃げさる』と新聞に
載ったものだ! もっと自重せえ」と言ってやるつもりで居る・・・・ 横レスだが
被害者の女性
加害者の女
この違いは何だ? 「女」という表現、民法の規定第七百三十二条 配偶者のある者は、重ねて
婚姻をすることができない。 第七百三十三条 女は、前婚の解消又は取消
しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
「女性」という表現、もう昭和14年の伏水修監督の作品で「東京の女性」
というタイトルで原節子・江波和子(江波杏子の母)立松晃出演で、自動
車のセールスウーマンが先輩、立松の取り合いをする。原節子が19歳と
も思えぬ落ち着いた演技で仕事に励んでいる。当時流行りだした「職業婦
人」の嚆矢だ。終わりの場面は新婚旅行へ旅立つ2人を原が車で併走する。
EF51+W屋根客車の編成が出てくる。もう昭和の始めから女・女性が混用
されていたな。 前556へのレスになっていなくて申し訳ない・・・・ 昔、常磐線の快速が柏駅を通過していた。ホーム自体なかった。
また、野田市からキッコウマンの貨物列車が柏から常磐線に乗り入れていた。
現在まで貨物列車が残っていれば、快速の柏停車は実現しなかったはずだ。
貨物列車が廃止になったおかげで、敷地が生まれ、快速停車が可能になったわけだ。 映画スレへ行け、と言われかねないが保守のためスマソ。
昭和初期の「ダットサン 小型車」が出てくるS12の90分物映画「女医 絹代先生」
27分位より当時28歳だった田中絹代がオープンカー ダットサンを運転している。
その走行効果音をどこから拾ってきたのかは不明だが、とても軽快で良い音を出し
ている。 「鉄」分は3分位に東京青バスから田中絹代が降りた場所の背景に省線
の複々線を木造車を挟んだ3連が出るだけだが・・・ 車のコンパクトな愛嬌と音に
とても聞き惚れた。始めのクレジットに、協力日産自動車東京販売と出る。 身延線の線路は現在のルートで富士駅に入っていたのではなく、
東京方から富士駅に入っていた 阪和線の下り電車が天王寺を発車し、右に大きくカーブし関西線をオーバークロスした
後、R25号線を大きく立派な鉄橋を渡るが、そこには元々大阪市電が平野方面へ延長
される計画があったこと。でなければ大正末期に阪和電鉄建設計画時に於いて、あんな
壮大な橋を掛けるようなことはしない。 戦前〜昭和30年台の80系電車最終製造時までの、電車M車・客車・貨車の
車軸は線路幅の広軌への改軌に備えて、長軸が使用されていたが、改軌は
幻に終った。それが顕著に見れるのは70系・80系のTR48台車だ。台車外
枠と車輪との間には不自然なほどの空間・隙間がある。 上記の「電車M車」は T車の誤りでした。すみません。 奥羽本線福島〜米沢間は直流電化されていて、板谷峠を通過する
キハ181系特急つばさなどの列車補機がEF64だった >>564
板谷峠の交流化が1968年、181系気動車の投入は1970年ではEF64と181系気動車との
接点自体が存在し得ないよ 仙台〜秋田間を北上線経由で結んでいたキハ181系特急「あおば」
共通運用だった「つばさ」の電車化により、急行「きたかみ」に格下げされて廃止 日本初の二階建て電車、近鉄の初代ビスタカー・新幹線100系は実乗したことはあるが、
あと創生期の大阪市電の二階建ては博物館展示の物を・北欧のブラックプールの市電
も二階建て(こればNHKの番組で) しかし下記の物は全く知らなくて、驚愕した。
https://twitter.com/i/status/1380065643366584320
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>567 >>569
日没後は番小屋に吊るした長い棒の先に付いた白熱電球のカンテラを振っていた。
家の玄関灯に丁度良いと思うので、あのカンテラが欲しい。ヤフオクで探しても、
なかなか出て来ない。「鉄道標識灯」でクグれば、ポイント用標識灯ばかりだ・・・・・ >>539
>小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結
実際に4000+1800に乗っていました
4000のモーター音がうるさいほど大きかったです
朝の急行は8両、夏は冷房の関係で5000系主体の準急を選ぶ人もいましたね 加山雄三の父殿が活躍してるの
知ってるってことは、このスレ50代どころか100才とか平気でいそうだな。 つい最近の事だったかと思うんじゃがのう・・・国鉄の各駅・ホームに大きなポスター
「discover japann」とか「夫婦の年齢合計で100歳以上ならば大幅割引」(上原謙・高
峰三枝子)のポスターが貼ってあったのは・・・・ 佐野周二・佐分利信は写真さえ早
うに見かけなくなっておったんじゃが・・・ 上原謙は「男性かつら」のTVCMにも出て
おったのう・・・ 因みにオレはその頃、大学生か社会人3年生位じゃった。 思い出してクグッタら「フルムーン夫婦グリーンパス 夫婦合計で88歳以上で同一
行程で適用、入籍の如何は問わず」1981年発売じゃったのう・・・・ >>573
え!その当時大学生ってことは
90才前後ってこと? >>575
何しろ昔の「鉄チャン」は古いもの)女は除く)なら何でも好きでのう。古い映画・
音楽、ナツメロ、軍歌・・・ ワシは今夏から厚生年金を受給する歳なんじゃ・・・・ >>576
特養に勤めている彼女はなんと軍歌を知っている。
先日右翼の宣伝カーが軍歌を流しながら走っていたら、「この歌知っている」
入所している90歳くらいのおじいちゃんがCDで聞いているので覚えてしまったとか。 >>577
その右翼の車の走行も殆ど見かけなくなってしまったなァ・・・静かで良いが。或る
サイトに「人間は14歳位に聞いた音楽が一生心の中に残る」とあった。俺の中学の
頃はコロムビアトップライト司会の「懐かしの歌声」・大久保怜の「帰ってきた歌謡曲」
をよく見ていたので、また旧国電車のMT30・MT40の音と共に今でも心の底に残っ
ている。 >>577さんへ 578をカキコした者だが、彼女に聞いといて欲しい。各軍歌の歌いだし。
@「花も蕾の若桜、五尺の命引っ下げて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の本分ぞ」
A「丘にはためくあの日の丸を、仰ぎ眺めるわれ等の瞳、いつかあふるる感謝の涙」
B「主は召されてみ国の勇士、わたしや銃後の花嫁御寮、主の形見の可愛い青馬に」
彼女、ご存知かな? これを聞いていれば相当の爺さんだ・・「鉄」の話でスマソかった。 また映画の話で悪いのう。満鉄のあじあ号が最後に出てきて木暮実千代と李香蘭が
しばし客車の中で「どちらが大連に残るか」と話をするが、発車時刻が迫り、結局は李
香蘭が降りて見送る。大連駅入線はパシナの牽くあじあ号だが車内はどう見ても違う
ように思うが車内は大きく広い。映画の最初のシーンは李香蘭がアイスホッケーをし
ている。異国情緒たっぷりの映画だ。 S18年満映製作「迎春花」インチュホワ 折角のこのスレ保持の為にもう少しカキコするがスマソ・・ワシは古い物が好き
で満州の小国旗を持っておるが、旗日(祝日)に「日の丸」と共に表玄関に掲げ
たいと思うが近所の人がどう思うか・・気になって実行できん。ついでに「あじあ
号」写真を拡大コピーして貼ろうかのう・・ ついでに「君も行かう、北支の新天地
へ、満蒙の開拓に」も・・・・ このtubeで見れる「迎春花」の主人公 李香蘭は22歳 木暮実千代は23歳だ
とてもしっかり大人びているというか、老けているのう・・・今のAKBの娘
らとはえらい違いじゃ・・・ 満州の小旗じゃが、俗に言う五色旗で黄色の基本色に左上部4分の1に上から
赤・青・白・黒が配色されておる。知る人は知るが、知らぬ人は新興宗教(池田
犬○先生)の三色旗の熱狂信者と誤解されるのが怖くてのう・・・躊躇するんじゃ。 かっての阪神電車特急は梅田を出ると、西宮までノンストップだった。
その次の停車は阪神芦屋だ。尼崎のややこしい線路配置をそんなに
スピードを落とさずに通過していた..。西宮に着くと、運転士を目掛けて
10m程はなれた番小屋のようなところから手篭を下げたおばちゃんが
幅50cm位の電車目前の踏み切りを渡り、ホームに上がって乗務員扉
の窓越しに布おしぼりを渡して、それで運転士は顔と首周りを拭いて、
返してから、再度運転に励んでいた。その風景はとても面白かった。
いつ頃から始まったのだろう・・・・・
.
、 その頃の阪神梅田駅の乗り場案内看板は「特急電車・特急・急行電車・急行
普通電車・普通」ではなく「特急車・急行車・普通車」と表示されていた。慣れぬ
目には奇異だった。 もうその最後の頃は野田〜淀川〜姫島〜千船〜杭瀬〜大物〜尼崎〜出屋敷
〜プール前〜武庫川間は高架になっていた。大阪市営地下鉄御堂筋線運転の
真っ暗い中、たまに白熱電球が点灯しているだけの見通しが悪い中に加えて、
動物園前を出て、大国町直前の90度急カーブや難波・梅田進入のカーブ運転
の方が恐怖で気を遣う、トンネル内への無断侵入者を轢く危険が高いのに・・・
大交労組は何も要求に挙げなかったのかな・・・と思った。 >>579
ラインで聞いてみました。
残念ながら全部知らないそうです。その方がよく聞くのは
@エンジンの音ゴウゴウと
Aさらばラバウルよ
B朝だ夜明けだうしおのいぶき
Cここはお国の何百里
Dどこまで続くぬかるみぞ
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く
などだそうです。 >>587 さん
どうも有り難うございました。いい彼女ですね。そこまで覚えて居られるとは・・・・
貴方もそこまでご記入下さりたいした方です。敬服!!
その爺さんは当時としてはごく普通の方ですね。私が記した歌はあまり一般的では
無い歌で、CDにもあまり入っておりません。爺さんの程度(失礼!)が知りたかった
のです。忙しいのに申しわけなかったです。 >>587さん
歌の題名です・・・・
@エンジンの音ゴウゴウと (加藤戦闘隊)
Aさらばラバウルよ (ラバウル小唄)
B朝だ夜明けだうしおのいぶき (月月火水木金金)
Cここはお国の何百里 (戦友)
Dどこまで続くぬかるみぞ 続き 雨降り続く鉄兜)題名忘却
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く (麦と兵隊)
などだそうです。 >>590 さんへ どうも有り難う。度忘れしました。
歌詞が軍歌の中では最短の歌でしたね。 現在開催が揉めに揉めている東京五輪だがこんな歌を思いだした。
「は〜 あの日ローマで眺めた月が、今日は都の空照らす。5年経ったら又逢いましょ
と、固い約束夢じゃ無い。ちょいとそら夢じゃ無い。オリンピックの顔と顔〜」
その頃オレは子供だったのでその意味が皆目分らなかった。 しかし良く分かったの
は今のTVが毎日毎日新型コロナについて解説しているように、こんな番組をやって
いた。 司会者「今度できる新型特急はどんなのですか?」 解説者「今までの
軌道幅よりも更に広くて、レールも1mあたり60kgと大きいのです」とスタジオ画面
に車輪と線路を置いて説明していた。これは子供心に拘らず非常に理解できていた
のが今になってとても不思議・・・・・・ 592に続く、スマソ。
あの頃は幼いながらに出場選手の名前、顔をよく覚えたなァ・・・・
アベベ、君原、円谷、重量挙げの三宅兄弟(三宅宏美の父) バレーボールの
大松監督等々・・・ 特に三宅が出ていた場面は今でも昨日のように目に浮ぶ。 ところが不思議なことにあれ依頼色々な冬季のオリンピックの際にさえ
500円等の記念硬貨を発行していたが、現在はその雰囲気さえも微塵も
ない。電車ボデーの半分ずつを色違いに塗り分けていた昭和15年当時
のようなことをしろとは言わないが・・・ 本当にやる気が有るのか? そうだな。記念切手の発行のPRも全く見かけないな。年賀状さえ使用の
3ヶ月前から予約取りをしてるのにな。オリンピックほんまにする気あ
るんかいな。 木製窓、特に3段窓の車窓の外に見える北千住のおばけ煙突群、大阪城等
他の乗客の迷惑を考えなければ、好きな場所の窓をどこでも開けられた。 阪神電鉄の西九条〜三宮間で運転されていた「西大阪特急」 関東の方には申し訳ないが、153系新快速の姫路駅到着前の乗換え案内。
「ご乗車お疲れ様でした、間もなく終着姫路です。乗換えのご案内を申し上げ
ます。山陽線普通電車の岡山行きは5番のりば、赤穂線周りの岡山行きは
6番のりば、姫新線普通列車の津山行きは西1番のりば、播但線普通列車
和田山行きは東1番のりばへお回り下さい。新幹線は橋を渡って新幹線の
りば、次の東京行き上りひかり○○○号は・・・・」 新快速はすべて姫路止め、
姫路には東1・2番 西1番。2番があった。懐かしい・・・・・ 姫路駅には、播但線の支線の飾磨港線が発着していた西7番線もあった >>599
昔の新快速は停車駅も少なくて快適だったね。
下りの姫路行きの西明石通過も懐かしい。 新快速153系は1両毎にトイレ・洗面所があり、とても豪華だった。京都方面から電
車が大阪に到着しても乗客が半数以上入れ替わり、どこにでも好きな所に座れた。
2人でワンボックスを占領できたことも多々あった。座席の転換をしないので目前
に他人が座っても、間隔を確保できたのでゆったりしていた。 車内の化粧板は薄
紫・ラベンダー色で、上品な気分を味わえた。 昭和55年の春に新快速用に新造された117系の留置展示会(大阪駅1番線)が行
われた。車内は茶色木目のデコラ化粧板で、窓はぶ厚かった。こんなのに置き換
えるのかと思うと非常に淋しかった。 後日置き換えて実運行に入り乗ってみると
モーター音がワーンワーンと煩かった。 >>603
新幹線停車駅は2つ(京都、姫路)しか止まらなかった時代ですね また関西限定の話をカキコでスマソが・・・よく通学に利用したのが、大阪8;30分発の
福知山線普通列車篠山口行きで尼崎に8;39分に着く、その横を大阪8;32分初の西
明石行き旧国が同時到着するので、それに乗り換えて神戸市内の学校へ行っていた。
ガラベンが残るクモハ51010に乗っていて気が付いたのが、旧国は窓枠を手を離し
ても一気に下に落ちてしまわないように、枠の左右に見えぬように隠して板巻きのバネ
が貼りつけてあり、窓間の柱上部で巻いて固定してあった。また枠の内側に真鍮製の
丸コロも付いていた。本当に昔の電車は凝った造りをしていたのだなァ・・・・ 昔、テレビのCMで、岩下志麻出演のオッペン化粧品のキャッチコピーで『海岸通り
のぶどう色』とよく流れていた。あれは本当は欧州スペイン、ポルトガル辺りのイメ
ージで作られたそうだが、『鉄』のオレはいつも須磨海岸沿い付近を走行している
73・72系の7連が目に浮んでいた。 昭和51年、京都〜大阪間で運転されたC571牽引による京阪100年号
撮り鉄が東海道本線の線路内に入り込むなどして、沿線には多くの見物人が集まっていた
その上り列車が線路内に入り込んでいた男児と接触して、男児は死亡。
牽引機のC571は高槻で電気機関車に付け替えられ、列車は京都まで運転された。 S47年の秋 京都〜姫路間に運行されたC62+12系客車の「白鷺号」は何事も
なく無事に終わったのにね。 12系で思い出したが、紀勢線の臨時急行きのくに
51号の客車の所属標記を見て驚いた「盛モカ」とあった、はるばる盛岡から借り
て運行していた。 あと100円引き特急「しおじ51号」12系使用も懐かしい。 >>600
飾磨港行のりました
キハ47の2両、ガラガラというわけではなく、思ったより人が乗っていて少しびっくり
本当に駅のはずれという感じでした
飾磨港駅は、思ったより立派な駅だった記憶です >>612
その昔は客船の乗り継ぎとかもあったんですかね。 >>612 姫路駅 旧西7番『本当に駅のはずれという感じでした 』
H18年3月の高架切替前に地平の姫路駅へのお別れ撮り鉄に行ってきた。
旧西7番線は本当に寂しい西の外れで、3両が停まればいっぱいで、高さ
もまるで路面電車の停留場のようでした。 また、姫路駅で思い出した。 映画の話でスマソ・・・ 松竹映画「女の園」 現在
はtubeで見れないが・・田村高広・高峰秀子・岸恵子主演で最後のシーンは高峰
秀子がお城の天守閣の窓からハンカチを振り、田村がC59の牽く客レの最後尾
車から手を振って別れを惜しんでいる。その車両がオハフ33丸妻だったり、オハ
フ61だったりとごろごろ変わるのがケッタイだ。現在のような高い建物もなく、市
川橋梁を渡る列車からは、天守閣で振るハンカチが良く見えていた。
駅前の大手前通りが未舗装だった。 飾磨港線は新日鐵絡みの貨物有きだったからね
C11重連で1000トンけん引していた程だったから >>616 そうだったね。広畑には大きな工場があったね。山陽電車の網干付近には
昔、製塩のための(稲藁を逆さに吊るしたところに塩水を垂らし、乾かして作る)塩田
が広がっていたのを覚えている。 子供の頃、親戚へ連れて行かれる時に、姫路駅前から龍野まで神姫バスに乗った
が、現在の大手前通りを通らずに、1本東にある暗いアーケードのある御幸通りを
ゆるゆる通って国道2号へ出ていたのを覚えている。当時はバスも小型の(犬バス)
だったので可能だったのだろう。 その後覚えているのは「ヒガシマル醤油」のTVの
CMでで山陽本線を走る黒い貨物列車が出てくるのを楽しみにしていた。 特に、日曜日の昼に放送されていた大久保怜司会による「素人名人会」
の際は必ずこのCMが流れていた。しかし何故醤油の工場は「本竜野」
近くに有るのに、CMでは『山陽本線、龍野の〜云々』と言いながら、貨
物列車が出ていたのだろう・・・・・不思議だった。 学生の頃、ディスコで踊るのが流行し、同学年の者が大挙して行っていたが、
俺は「あんな所に行くよりは、姫路〜岡山間90分の80系電車のMT40
の唸り音、起動・制動時のビリビリ・ゴーッ音を楽しむ方が何十倍も面白い
のに!!」と思い、一度もディスコへは行かなかった。特に断面の狭い船坂
トンネルを通過するときは車内が台風の暴風状態と共に駅間の長い上郡〜三
石のノッチ力行連続は最高だった。小遣いを貯めては大阪から度々乗りに行
っていた。「小説 雪国の文中でトンネルを抜けるとそこは雪国だった」の
如く、姫路を抜けるとそこは別世界だった」のだ。 或るとき、それで岡山に到着した。その車両がホームから去ったあと駅の放送が
「間もなく快速広島行が入線到着します」と流れた。多分153系だろうと思って
いたら。クハ86の全面3枚窓他6連だった。ぜひともこれに乗って行きたかったが、
財布の中身と時間(夕方)の問題が絡んだので、後ろ髪引かれる思いで、下りの
姫路行きに乗って帰ってきた。 >>620
鉄ヲタがディスコやクラブに行くなんて昔も今も考えられないね。 >>622
丁度その頃「トップレス喫茶」が流行り出していた。後輩が間違って入店
してしまった。「デート喫茶」も然りだった。俺ら3人のした話は終始
『鉄話』だった。高い代金、コーヒー1杯1000円・デート喫茶9000円は罰と
して後輩に支払わせた。デート喫茶の汚いネエチャン3人は呆れていた・・・ 国鉄宇品線
晩年は通勤定期券・通学定期券所持客しか乗車できず、時刻表にも宇品線は掲載されなくなっていた 昔、広島旅行をした時、宇品線のホームを探そうと到着前に車窓を見ていたら、
知らぬ間に主に下り優等車発着に使う1番ホームに着いてしまった。余程気を
付けて置かないと目に入らないホームだったのには驚いた。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2018/03/10(土) 01:38:18.94 ID:FZiA9sdL
駅弁が最初に売られたのは明治18年7月16日、おにぎり2つにタクアン2きれで5銭・・・
駅弁での幕の内は明治22年に姫路駅からで、そこから色んな駅で各名産品を使った駅弁が次々と誕生したってこないだEテレの趣味どきっ!お弁当大百科でやってたな
駅弁ならでわの各地のバラエティは確かに楽しいもんね >>626
姫路駅のラーメン風そばはいつからですか? >>627
姫路一回しか行った事ねえからわがんね
学生時代の友人に姫路の人いていろいろ案内してもらって楽しかったな >>627
現在のまねき軒の駅そばは何時からかわからない。俺の幼児時代は固い思い陶器の
大衆食堂のような器に入っていたのを食った覚えがある。今のように美味しくなかった。
現在のようにプラ製の器に入って美味しくなったのはS40年代と思う。あの味は何杯
食っても美味しい。まるで麻薬でも入っているのかと・・・それに引き換え福知山駅に
あった鬼そばは値段が鬼のように高価で、美味しくなかった。 福知山の駅そばは偉そうに「鬼そば」とメニューに書いてあったが、出て
きたのはそこらへんの素そばで、おまけに40年前で400円だった。正に
値段から して正に『鬼そば』だった。そこへいくと姫路のそばは280円で何度
も食いたくなる不思議なそばだった。容器を持って車内で食っても怒ら
れない。ウチにもそのプラ容器が2ツある。10年程前だったか、どこ
さメーカーが「姫路の駅そば」と銘うってカップラーメン的な物を出
したので食ってみたがあんなに美味くはなかった・・・・
やはり姫路1番と3番の間にある中通過線をEF60+黒貨物が通過す
る音を聞きながら食べるのが最高だったナァ・・・・・・ 清水港線の清水駅も、相当の駅外れにありました
知っている通勤客(実際は通学客)は、迷わないんだろうけど 今から丁度4年前のこの時期に戦前のタカラジェンヌ・女優の月丘夢路さんが
逝去された。阪急電車の六甲北側にある高羽小学校と生徒が舞台となる映画
「新雪」、歌でも灰田勝彦の「新雪」(紫けむる新雪の峰ふり仰ぐこの心〜)
映画は当時の六甲駅に2両の820型が着き、主役の月丘の他に、水島道太郎
=教師(当時は訓導と称した)が下車するところから始まる。オレはこの歌が
大好きだ。本来映画中では月丘夢路が阪神電車に乗り、車窓から六甲連山を眺
めているシーンがあったはずだが、ソ連で見つかった原版にはそれが欠落して
いた。阪神の小型車と乗客の月丘夢路、見たかったナァ・、
153系新快速の内装の薄紫・ラベンダー色と車窓から少し離れた武庫川橋梁
から見えた六甲連山のイメージがよく調和していた >>636
突っ込みどころ満載だわな
まずこの映画「新雪」は1942年製作でその時代に800や810なんぞがいる筈もなし
そもそも阪急に820型なんてのは存在しない >>637
スマヌ、スマヌ今DVDで確認したら900型だった。ウロ覚えはイカンね。 >>639 暖房車「スヌ」「マヌ」
中学の頃、関西線の竜華に留めてあったこの類の車に無断で乗ってみたら、なんと
B6機関車ような車輪無しボデー前半分が入っていた。非常に驚いたが、何が何だ
か理解できなかった・・・ 泉北高速鉄道は、開業当初は泉ヶ丘が終点だったが、当時は泉北ニュータウンは
まだ造成中で、団地も幹線道路も何もなく、深井駅周辺は田園地帯、
電車は何もないところを走っていた。 千葉の北総線もそんな感じだったね
開業当初の小室駅の地の果て感 >>641 済みませんが一寸お尋ねさせて頂きたいですが、30年程前には
難波〜新今宮まで乗ったときは、「この電車は泉北ニュータウン方面
光明池行き準急です」とアナウンスを行っていましたが、現在でも「ニ
ュータウン」と言う語は使用しているのでしょうか??
私は「難波〜天下茶屋経由〜天王寺」の定期券と「新今宮〜美章園」の
定期券を買って通勤しておりました。まだ定期券は手書き・スタンプ・
運賃計算は算盤の時代で南海1521型にはお世話になりました。 東北や北陸の大雪が原因で、関西発九州ブルトレが運休した事。 644 様 早速にどうも有り難うございました。南海に乗らなくなって随分
久しいので知りませんでした。ヤンタンもやり変えたし、高齢者が多くなり
坂道も障がいになりだしたし、果たしてニュータウンなのかな?と思って
おりました。 厚くお礼いたします。 いえいえ。お役に立てたのでしたら何よりです。
多摩ニュータウンもまだニュータウンですし、「新開地」や「〇〇新田」のように
何かあって改名するまで延々とニュータウンなのではないかと思います。 車内にテレビ付きの特急車両を登場させたのは、京阪電鉄ではなく、
京成電鉄で特急「開運号」にテレビ付き車両が連結されていた >>599 スレ保守のため
姫路駅到着関係の車内放送で申し訳ないが、80系各停上り電車で15時半頃だったか、
『次は終着姫路、姫路でございます。5番のりばに着きます、乗換えのご案内を致します、
神戸、大阪方面へおいでのお客様、新快速は運転を終了しております。快速電車をご利
用ください。明石まで各駅停車、明石から快速になります大垣i行きは降りられましたホー
ム反対側、4番のりばから、〜云々〜』 昔は3時を過ぎると新快速は無かった・・・・ 姫路〜大阪間は新快速なら1時間15分のところが、113系快速になると1時間45分
かかった。時間だけでなく、車両の台車、揺れも悪くなる。この差の疲れは大きかった。
広島・岡山から上りで大阪へ帰るなら、時間を考えて行動しなければならなかった。 また山陽線ネタでスマソが、昭和48年頃、遵法闘争華やかなりし頃、元々、
三ノ宮・元町・神戸・兵庫付近は快速でもゆるゆると走っていたが、よく途中
で立ち止まってしまっていた。(俗に、窓から手や顔を出してはいけませんと
注意書きが有ったが) オレは113系の窓から手を伸ばして架線柱を触った
り叩いたりして喜んでいた。現在ではそんなことは不可能だ。
大阪駅でダイヤが乱れたとき5番・6番ホームにに姫路方面快速が並んで
停車した時、駅の鳴き屋同士が放送で公に喧嘩していた。(どちらを先に発
車させるかと) 結局は5分を置かず出発した。 >>649
> 昔は3時を過ぎると新快速は無かった・・・・
嘘
153系時代の上り新快速は姫路15時45分発大阪17時02分着がラスト 子供の頃、奈良のドリームランドへ連れていってもらった。奈良〜油坂
を歩いていたら車高の高い、車輪、床下機器丸見えの大きな長い車両が
通り過ぎていった。見慣れていないので巻き込まれそうで非常に怖かっ
た。京阪京津線は短いし、名鉄電車は知らなかったし・・・丁度、阪堺
電車の姫松〜帝塚山4丁目位の雰囲気の場所だった。 阪和線の区間快速は、かつては、直行という電車だった 153系電車の客室窓枠はアルミサッシであったが、実はこのアルミ枠の内部には
少し細い同型の木枠が詰まっていた。強いて言えば木枠の窓を分厚い固いアルミ
ホイルを巻いていたような構造である。その証拠に昭和57年に広島地区で廃車に
なったものを徳庵にある近畿車輛の空き地で解体していたのを上下枠一式拾って
きてみて驚いた。どうりで走行中にガタピシとあまりうるさくなかったと思った。 同解体場所には色々なパーツ等が転がっていた。トイレ内の三角コーナー汚物
入れやデッキにあった大きな(下関駅とかいた)アルミのゴミ箱、東海型ベンチレ
ーター等々。 下から実物を見ていると小さいが、落ちているのを持ってみると以
外に大きく重たい、汚いので持ち帰りはやめておいた、 阪和線の新快速なら、乗ったことがある
停車駅は鳳だけだった頃です 東京神田須田町 万世橋駅前に 広瀬中佐の銅像があったと祖父から聞いた。 >>659
轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波荒ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
杉野は何処 杉野はいずや
偉大な軍人さんもいたんだね >>660
よく覚えて居られ間すね。敬服!! しかし、杉野兵曹長は生きて居られたそうですね。 映画「大空の決戦へ」 (若鷲の歌)のシーンの中で原節子が弟を見舞いに
きた海軍兵士たちに「私も須田町であなた方の行進を応援していたのよ」と
言っている場面に 広瀬中佐の像が立っている 「鉄」の話でなくスマソ・・・ 映画「大空の決戦へ」に於ける配役 少年飛行7兵の指導役=高田稔
高田稔は当時の人気女優、入江たか子と実際に高原療養所(結核病院)
で「月よりの使者」のロケを行った。同じく 山本富士子も菅原謙二と
高原療養所で、同題の映画ロケ。 「江ノ島エレジー」でも 江ノ島海岸の
結核療養所で久我よし子が看護婦役を演じている。空気感染の可能性が
大きいのに拘らず、当時は何の予防服も着ずに患者に接していた。
海岸沿いにパラソルを立てて、患者に寄り沿って本を読んであげていた。
江ノ島療養所は現在のサーフィンの格好場となっているところに幾つか
存在した。その名残りは他の診療科の病院として残っている。実の江ノ電
沿線だ。現在世界中で大騒ぎしている病気への扱いとはえらい違いだ・・・ アニメ映画「風立ちぬ」でも舞台は結核療養所だなァ・・・
上記の各カキコ中、誤打ち込みが有るのは本当にスマソ・・・ 南満州鉄道 特急あじあ(大連〜ハルピン)はイメージ的には画像に良く出て
くる「パシナ」が全区間を牽引したことになっているが、新京(満州国の首都)
以北は「パシロ」が牽引していた。路盤が弱かったため。俺は超老人だ・・・ 昭和40年代 153系電車の車両が不足したので、客車のスハ43をサハ153へ
改造する構想があった。しかし重いだろうなあ・・ 昭和52年だったか、オレが大学3年の或る日、東海道線 甲子園口〜立花間の
武庫川橋梁を渡り終えた外側線走行中の上りコンテナ貨物が脱線、転覆した、
もう少しで、後続していた内側線を走行中の新快速153系が巻き添えになると
ころだった。オレはまだ学校内に居てこれから帰宅しようとしていて、青くなっ
た。 >>663 S29年映画「月よりの使者」の高原療養所は最寄り駅は中央線
富士見駅であるが、S26年作品「高原の駅よさようなら」でもラストシ
ーンに(元)信越線の信濃追分駅が出てきて、当所で恋仲になった水島道
太郎と高原療養所の看護婦、香川京子19歳のお別れが出てくる。この療養
所の看護婦・医師もマスクをしていない。最後はD50の牽くオハ31・
61・後尾車はオハフ33だ。tubeで全編が見れる。 高田稔・入江たか
子出演作品はS9年の物である。 歌 「しばし別れの夜汽車の窓よ」 高原の駅よさようなら・小畑実
「汽車の窓からハンカチ振れば」高原列車は行く・岡本敦郎
「何も言わずにこのままそっと汽車に乗ろうと思ったものを
駅の喫茶の公衆電話」 お別れ公衆電話・松山恵子
「白い夜霧の灯りに濡れて、別れ切ないプラットホーム」
赤いランプの終列車・春日八郎
「惚れて惚れて惚れて居ながら行く俺に旅を急かせるベルの音」
哀愁列車・三橋美智也
「暗いシートに肩寄せおうて、結ぶ仮寝は切ないものよ」
泪の夜汽車・真木不二夫
「汽車の窓から手を握り送ってくれた人よりもホームの影で」
ズンドコ節・海軍小唄 香椎線は香椎を境に二分されておるが、そのうち「うみ」のほうに向かう区間を海の中道線と称している。
と書けば、今でこそ何の問題もないが、昭和60年以前だと少々問題があった。
というのは、昔は国鉄に勝田線というローカル線があって、その線の途中に「うみ」駅が存在したから。
勝田線廃止後は、勝田線うみ駅の駅舎は解体され、跡地は広場になっていると聞く。 皆さんの書き込みを見ているとご年配の方が多い様で
「往時渺茫として全て夢に似たり」名言を思い出す。 >>671 誠に仰るそのとおり「往時渺茫として全て夢に似たり」カキコした
全てがまるで昨年のことのように思えます。歳がいけば時間が過ぎるのが
恐ろしい程早い。153系新快速に乗っていたのもつい最近、地上の姫路駅へ
お別れに行ったのもつい最近。 今日このごろ調理レンジでチンを2分間に
設定して回しても、昔の10秒位に感じて、本当に夢を見ていたのかと思え
る程です。 山陽線の少し大きな駅へ侵入前にEF58や60が多数並んで
いたのも騙されていたのかと思います。 >>671 >>672
671氏 672氏の仰るとおりで、話を変えて悪いですが、以前職場の若い子が『藤子
不二夫のドラえもんの話はのび太が大怪我をして意識不明になり病院のICUに居
る際に見ている夢の話だそうだ』と言っていました。オレも長い長い眠りの中で夢を
見ていたのかなと思う時がある。80系電車・153系新快速・EF58なんか始めから
この世には存在しなかったんじゃないか?・・・・・と。 >>673
さすがにそこまでは、自分は遡れないです
上野発の普通列車(電車)がどこ行きかで、年代が分かるかも
青森行はさすがに同じく記憶にないです
自分は、一ノ関行ですね、どのくらい遠いんだろうってガキの頃に思いました
そのあと、仙台行、までは客車
原ノ町行の415系は、比較的最近までありました
いまでは高萩行?黒磯行? だいぶ短くなりました オレの自身の経験カキコでスマソ。オレは主に本線の旧型電車・客車の乗り鉄の
他に、音撮り鉄をしていた。当時は単三電池4個を要する小型カセットも出だして
それを大阪日本橋で買ったのは良かったが、電池は今と違い、1個40円程して
いた。勿論当時は100円ショップも無かったし、生徒・学生の身には高価だった。
ので、電車始点〜終点までオール区間を撮るのは電池寿命・カセット時間制約
の理由で、スイッチをON・OFFばかりしていた。今思えば節約をせずに、全区間
ON状態にして置けばよかったと思う。おまけに携帯小型録音機器はモノラル
しか無かった。 続き、それでも旧客オハ35丸妻系のTR23のジョイント音は素晴らしい。木の樽を
叩いた様な軽いコンコンと言う音。呉線のモハ80のDT16板バネの歯切れの良い
音。モハ153の静かな台車音とMT46のヒューッと言う音が撮れて(偶にはだが)
いたのは今となっては貴重で嬉しい。しかし153は走り出してみないと分らない。
偶にタイヤフラットを伴う場合も多々あった。 >>592 をカキコした者だが、
「今のTVが毎日毎日新型コロナについて解説しているように、こんな番組をやって
いた。 司会者「今度できる新型特急はどんなのですか?」 解説者「今までの
軌道幅よりも更に広くて、レールも1mあたり60kgと大きいのです」とスタジオ画面
に車輪と線路を置いて説明していた。」 子供心に良く理解できていた。
しかし、あと追加で『レールも継ぎ目が無く、ロングレールですので、音が静かです』
いつだったか初めて新幹線0系に乗って騙された。と思った(未だ音撮り鉄はしてい
なかったが) 普通の電車と同じで、ジョイント音がしたではないか、「嘘つき!」と
真に思った。ただ面白かったのは高速域になるとガシャッガシャッの連続音だった。 夜間のある時、オハ35の未更新だったかスハ42だったか、各停の旧型客車
に乗った。車内は白熱灯。駅で完全停車する度に少し明るくなる。走行し出す
と照度が半分位に落ち、速度に合わせて次第に照度が上がる。不思議だった。
単に停車時は蓄電池から電機供給を受けていただけだった・・・ 白熱灯、いいですね
旧型客車、旧型電車、ともにあの光が懐かしい
最後に乗ったのは、オハニ36かな、福知山→浜坂、1986年の夏です >>680 初めて新幹線に乗ろうとした時、運行規則上なのか何か知らないが、
ホーム入線の際に、一旦停まりそうなスピードまで落とし、そのままスル
スルとホーム先頭まで走ってから停車し、客扱いしていた。時間が掛かり
新幹線はこんな物かとイライラした。 >>682
白熱灯、あの薄暗い雰囲気が好きなので、大阪日本橋で家の玄関に付ける門灯
(乳白色ガラス製の丸い物)を買ってきて、室内の蛍光灯の横に天井からぶら下
げて、就寝前は『客レの夜行だ』と山陰線オハ35の走行音を鳴らして喜んでいた。 >>682 オハニ36 昭和52年の夏、学校クラブの合宿の帰りに、四国の宿毛→
九州の佐伯行きフェリーに乗った。それから急行「日南」が来たので最後尾の白熱
灯オハニ36に1ボックス占領して、そんな車誰も乗らないだろうと思っていて、横
になり熟睡してしまった。ふと目が開いたら、終点から先は各停列車になったのか
男子・女子高校生が満員で立っていて寝顔を見られてたのだった。恥ずかしい・・・ >>686
山口県 宇部線の宇部新川は元々宇部駅で、今の宇部駅は西宇部だった。 昭和52年頃、宇部・小野田線に乗りに行って、宇部新川を中心として街を
歩いた。驚いたのは至るところの電信柱のお腹に「宇部じまん」と金属の
腹巻風の広告が貼ってあった。「宇部じまん」あれは何だったんだろう?
何か食べ物に違いない。「磯自慢」は知っていたが・・・
昭和57年頃にはそれらがすべて「利休さん」になっていたのは驚いた。、 旧型国電がいた頃は、本山支線も含めて人が乗っていた
朝の宇部新川はもちろん、琴芝や東新川もにぎわっていた
といってもラッシュの規模は小さいんですが
宇部新川では、九州行や長門市行もあり、結構需要があるのかって思っていました 宇部新川駅の駅舎内のほぼ三分の一位のスペースは「サボテン市」かと
思うくらいサボテンがてんZ 展示してあった時期もあったなァ・・・ 琴芝・東新川までも良く歩きKました。
大きな幅の道の割にはすいていて、自動車学校のような感じでした。途中
可愛いトラス鉄橋も架かっていて、琴芝の傍の川には鯉が泳いでいました。 琴芝駅の南側ですね、行きました
旧型国電やオレンジの105系が写っています
ただ鯉が泳いでいたとは…、気が付きませんでした >>692
琴芝付近は宇部の官庁街というのは知っていましたが、山口大学医学部が
あるのは、最近GOOGLE MAPで知りました。私の通った大学同学年の女学生
に琴芝から来てた人が居ました。卒業後はどうやら宇部興産に就職したよ
うです。その後学校の図書館でOB名簿を見たら、湯田温泉へ嫁いだよう
です。今は女将でもしてるのかなァ・・・ 1年生のときに彼女から「あ
んた、宇部、宇部てどこに有るのか知らんやろ」言われたので、セメント
で有名だ。山陽線の駅名 「小郡 嘉川 本由良 厚東 宇部 小野田
厚狭 埴生」と言ってやったら驚いていました。 >>693
それは驚かれますが、マニアを怪しまれますからご注意かも
宇部興産の材料を扱っていて、その技術者と営業の人と話をしたとき、
宇部新川という言葉を発したら、山口の方ですかと言われました
あと、宇部出身の先輩がいて、早期退職の時に実家に戻るときに実家が宇部と言っていたので、
新川ですかと聞いたら同じように、山口に親戚でもいますかって言われました
琴芝や居能、小野田、などの駅名を言ったらもっと驚かれると思いましたが、控えましたね
一般には、宇部は知られているかもしれませんが宇部新川はそう簡単には出てこないようです そうなんですか、それは知りませんでした。昔、うちの修理に来た大工・左官
屋さんは宇部セメント・小野田セメントを使っていたので、宇部は知っていま
した。やはり新川は『鉄』の世界の物なのでしょうか。上嘉川 深溝 岩倉
周防佐山は知らない人が多いけど・・・ 宇部常盤公園 宇部大菊人形など
は153系快速の吊り広告で見て知りました。あと徳山・山陽オート(レース)
宮島ボートの吊り広告もありましたね。大菊人形は大阪枚方パークだけと思
っていましたので・・・ 良くTUBEで見るのですが「宇部銀天街 等」はえらい
寂れましたね。 大阪にさえ、(阪神 阪急 大鉄 南海 等を除き)電車があまり走って居なかっ
た頃から宇部電気鉄道があって、意外に発達していたのには学生時代から驚
いていました。城東線もマッチ箱の汽車、阪和電鉄も未完成・・・・ >>695
ちょっと脱線しますが、一般の方の地理感覚は、ここの皆さんの想像する以上に知らないようです
想像を絶するくらい地理感覚がない人も珍しくないです
695さんは、大阪かそれより西の岡山や広島の方でしょうか?間違っていたら申し訳ございません
自分は東京ですが、宇部の位置を周りの人に聞いてわかるひとは感覚で10%いるかどうか
それ以前に、岡山と広島、東京に近いのはどっち?といって考え込む人が多い
正解の人でも、鳥取と島根、東京に近いのはどっち?といって正解は50%以下
正解のひとは西の方で、次に、秋田と山形、東京に近いのはどっち?といって考え込みます
本当は、米子は何県?大竹は何県?福山は何県?と聞こうとしたのですが、そこまではまずいかないですね
聞けたのは、広島出身の人だけでした
ただ、自分は沖縄だけはつい最近まで何を言われても全くわからなかったです、本島以外の島の位置もよくわからない
社会人になって33年目に初めて那覇に二人で行きました、という状態
沖縄の地名を言われて、一般の方の気持ちというかレベルがよくわかりました
脱線して申し訳ございません >>697 様 ご丁寧に有り難うございました。学生を卒業してから色々な人と
話をしていたら貴台が仰るのと同じような感覚の人が多いのには私の方が驚
きました。私の学校は神戸市東灘区で 私と彼女が受験したのは山陽新幹線
開業直前でした。従って彼女は数少ない寝台列車で受験に来たと思います。
丁度、森繁久弥がTVで、開業と停車駅のPRをしていたころです。現在でこそ
交通網が発達して皆が色々な所に出かけるようになり、場所的知識は広まっ
ておりますが・・以前カキコした京阪神153系新快速も6連だったにも拘らず
どこでも好きな所に座れ、1ボックスを占領できた当時と、225系10連でも乗
り切れない現在とでは・偉い違いますものね。 私は昔から鉄チャン友が多く、
それと同じように一般の方にも話をして居る癖がありましたもので・・・
全く同感です。 有り難うございます。もう歳をとりました西村知美ちゃんのよう
な可愛い子が宇部付近には多く散見できていたのは驚きました。当時の大阪
の女子高校生とはえらい違いでした。 現在は逆転してますね。 長文失礼・・・ 小津安ニ郎監督作品 「早春」 池部良・淡島千景 では東京から山陽線三石へ転勤を
命ぜられ二人揃って宿の窓を開けて、SL客レが大きな三石のカーブを通過して行くのを
眺めながら言った言葉「随分と遠い所へ飛ばされてきたものだわね。早く東京へ戻りたい
わね・・・・」
また、同監督作品「晩春」 原節子・杉村春子 では行き遅れの原がようやく結婚が決まっ
たのは良いのだが、相手が東京の会社から秋田へ転勤を命ぜられる。母親の杉村が原
節子に「随分と遠いところへいくんだわね。秋田は寒い所だよ。体に気をつけてね」と言う
シーンがある。 当時でも当地の方々が観たら地方への差別だ!と怒るのに、と思うし、
交通の便利な現在では考えられない。新幹線を使えばどうにでもなるのに・・・・ >>699
当時地方への差別だなどと怒ったりしましたかね
地方在住者こそ東京への地理的心理的距離感を実感していた時代でしょうし
今ほど差別差別と喚き立てるような世相ではなかったと記憶していますが。
また、交通機関の発達も場所によりますね。
例えば秋田で言えば新幹線停車駅に程近い場所の在住者とそこから遠く外れた地域の人間とでは雲泥の差ですし。 入学した大学に交通経済学のゼミがあったので、受講した。始めに教授が言った。
『諸君、大阪〜東京間をどう表現するか? ある人は556.4km、 ある人は新幹線
ひかり号で3時間10分、ある人は、運賃で13,000円掛かる場所、と言うでしょうし』
見せてくれた教科書の地図には日本列島を時間的距離で表現した図があった。
妙にものすごく歪んでいた。まるで子供のプラ板工作でプラ板をオーブンレンジで
暖めたらグニャリと曲がったよりも、歪んでいた。それまで見た事の無い地型図
だった。交通機関の発達に依って、遠いけれども近い、近いけれども遠いが生じる。
(最近で言えば、国内の温泉地を採るよりも安い航空機パックツアーのようなものだ) >日本列島を時間的距離で表現した図
いびつな形になるのは分かりますね
でも、貧乏学生の自分は、使えるのは周遊券で追加料金がない普通と急行の自由席限定
この時間的距離は、飛行機や新幹線の時間的距離とは別になります
普通電車で、東京−門司が24時間、上野−函館が同じく24時間
長野、松本、越後湯沢、郡山、いわきって、全然近くない
(18きっぷいまだに使っている方ならわかると思いますが)
人によりゆがみ方が異なるようです >>701の続き、(知っていたおじいさん)のスレ趣旨からは脱線するが・・
多くの産業による生産物は有形財物と無形財物に大別される、交通輸送は
無形財物(移動サービス)である。移動サービスは予めの需要に対して、
予めの生産をして貯めて置くことが出来ない。極端に例えば、4月の新小学
1年生用のランドセル生産は平素から生産してストックが可能だが、それが
全く出来ない。朝のラッシュアワーに備えて予め、多くの車両をすでに走ら
せてしまっておくことは全く意味が無い。業者による生産と消費者である乗
客による消費が(場所的移動を伴いながら)同時に行われる。従って『瞬時
財・即時財』と称される)
また交通輸送サービスはタクシー等の注文生産方式と(電車・路線バスのよ
うに予め、生産される時刻と行き先を決められているのを乗客が選択して購
入、消費する)既生産方式に大別される。 長文の脱線スマソ・・・・ 昭和56年7月にEF5861+14系ハザで運転されたリバイバル列車「栄光の特急つばめ」を東海道本線東京駅 - 大阪駅間で食堂車も営業し学習院大学の女子大生が旅客係「つばめガール」に当時の制服そのままに扮して乗務した。それに乗ったまでは良かったが、その中で、色々な軽レクリェーションや、昔はこんな歌が流行っていたと藤山一郎の「丘を越えて」「青い山脈」等々を車内放送で流して騒がしかった。
もっとゆっくりと旅情に浸りたかった。新社会人2年生だった・・・・ その時の女子大生も、今や年金がもらえる年のお婆さんなんだなあ・・・ >>703の追加的カキコ ゴメン・・・
多くの有形財は殆んどが生産地と消費地が離れているのが常である。
(お酒・ビール・食品)また 生産する時と消費する時もまた然りだ。
ところが輸送サービスは1秒たりともその誤差があってはならない。
消費地・生産地がほぼ同一地なのは極端に言えば、姫路駅まねき軒の
駅そばである。これも注文生産方式であるが、生産→消費に到るまで
数分程度の誤差は普通であるが、有形物とは言え、交通輸送サービス
に限りなく近い。 他の有形財の生産業に要する人的要素。要員度を
交通輸送サービス業の(運転士・車掌等)の要員度)と同一視しその
有効性・能力・コストで持って企業業績の比較を語ってはならない。 >>706
初めて食べたとき姫路駅まねき軒のそばはインパクトがあった。
ラーメン?そば??
沖縄そばを初めて食べたときの
うどん?ラーメン??のときと同じ感じがした。 >>708 姫路駅のソバ あれは本当に美味い。何回食っても飽きない、し安い。
どこの食堂にも無い。まるで麻薬的な物が入っているのか、禁断症状が
でる。 まねき食品が通販で売っているそうだ・・・ だけど家で食っても
駅の放送や電車の出入りが無いから寂しいナ・・・・・ 昭和42年頃 近鉄賢島線(鳥羽〜賢島)は単線で最長2両のおもちゃのよう
な腰の低い電車、内1両はモニ(客荷合造車)が1時間を掛けて走行していた。
賢島から乗ったオレは親に何度も愚痴った「俺の自転車の方が早い」と。
当時、賢島駅は小高い山腹の少し高台にあり、駅ホームは単線で、駅へ行くに
は、どこかによくある神社境内へ上がっていくような20段位の石段を上がってい
た。それに引き換え、同区間の道路は片道2車線の立派なもので、大型バスが
何本も走っていた。それでも交通需要が多いので、白タクがたむろしていた。 関東の人には悪いが・・・ 現在、阪神電車 武庫川団地前〜武庫川に乗車
している時に、54年前のこの情景が蘇る。団地前1ホームのみ使用・速度・
単線・途中交換駅・・・・車両は最新新ではあるが・・・ 山陽線好きのオレの話を、スマソ。
今の新下関は昔は長門一ノ宮と言う名だった。S57年に快速用下りの153系に乗って
音鉄をしていたら、「この列車、45分遅れて居ります。大変ご迷惑をお掛けしております」
と言い、新下関では乗客が大勢で、乗せきれず積み残しが出ていた。1時間に1本しか
下りが無かった。残った人等はあと1時間待ったのだろうか・・・・
同時期に、広島発下り153系快速は『宮島口までは各駅停車、宮島口からは快速になり
ます』というのと『小郡までは快速、小郡から先は快速になります』と言うのがあった。
また、奇妙な車内放送では、『柳井まで帰られます○○さん、居られましたら、車掌室
までお出で願います』というのがあった。あれは何の暗号だろう? 今もって不思議だ・・ 先ほどのカキコ、誤り・・・『小郡から先は快速になります』→ 『小郡から先は各駅に
停まります』 >>627
テレビの妄想トレイン見てたら
姫路駅の立ち食いが銀河の運行に合わせて23時までだったのが24時頃までになったとか
ほんとに拉麺みたいな蕎麦なんだな >>714
ラーメンというよりも黄色い細うどんに近いかなあ・・
1杯の量も多からず、少なからず食べやすい、少ないと思えば安いので、
もう1杯食っても高くないのが良い
ところで皆ご衆知の通り姫路市営モノレールは短命に終わったが、丁度
同じ頃に姫路駅ビル(上は姫路駅デパートと称した)の屋上に子供向け
のモノレールがあってグルグル回っていたのがホーム駅そば売り場から
良く見えて、見上げていたのを覚えている。 >>715
天ぷらそば、きつねそばが400円だった
セルフネギもいい感じだった 駅そばも10年以上食べてないが、
最後に食べたのが仙台駅改札近くのそば店だったが
以前から感じていたが、生麺(そば)ではなく
食感は乾麵だったわ。 関西住のオレに印象的だったのはやはり関東は出汁が甘く、濃いことだった。
特に信濃大町で旧国乗車の折り返し間食べた蕎麦は白い太いネギ入れ放題で、
珍しいので蕎麦を食って残った出汁に、白ネギを山盛りいっぱい入れて3杯食
った。金銭的に元が取れたし、また浅草の蕎麦も同じく同様にして食べ、非常
に美味かった。 ここの皆に悪いんじゃがのう。 『知っていたらお婆さん』のカキコもして
貰えんかのう。特に別スレを建てる程のことも無いと思うんじゃが・・・
爺さんは知らんでも婆さんは知っている事も有ろうかとも思うてのう・・・ 昭和53年頃の夜の上野駅を見ていたら、
” 北星号の振替券をお持ちの方ははくつる号にご乗車ください ”
このホームでのアナウンスはなんでですか? オレの親父から聞いていたのを思い出したんでカキコ。オレが幼児の頃は
非常に混んだ客車・電車に乗っていたら『そんなに押さないで!子供が死
にますぅー』という声が挙がって居たそうだ。子供を出汁にするとはナァ
・・ 己が嫁ハンとええ事を何回もして仰山造るんが原因なんじゃが・・ 皆さんゴメン、スレ保守のためのカキコです・・・。
交通運賃・料金に対する交通需要(空間的移動)の弾力性についてです。
例えばある地点間 A地点〜B地点まで1本の鉄道しか存在しないと仮定します。
他の競争的路線(乗り合いバス)も全く無い事とします。その区間を利用する目的
が、買い物・レジャー参加・通勤・通学・婚礼、葬儀等の親戚付き合い等、人により
色々な理由がありますが、例えば始めは、その運賃が1000円だったとします。
それが鉄道会社の都合で2倍の2000円になりました。多分、買い物目的の乗客は
3割減、レジャー目的ならば8割減になろうか思いますが、では会社への通勤者、
学校を辞めて通学を断念する人は殆ど居ないでしょう。 前者の場合の(運賃変化
に対する)交通需要は「弾力的」であると言い、後者の場合の交通需要は「非弾力
的」「であると言います。このように1本の列車には多種多様の目的を持った乗客が
乗り合わせています。尚、特にレジャー・観光目的の場合は行き先の天気状況に依
っても大きく変化してきます。
乱筆乱文多謝・・・・ >>719
ツイッギーが来日し、いち早くミニスカートをはいた女今では今ではお婆さん。
鬼籍に入ってしまった方も多いだろう。 >>723 様 ワシは >>719をカキコした者じゃが、早速有り難う。男のワシには
「ツイッギー」とは何者か知らなかったが、そんな物を日本で流行らせる嚆矢
であったとは・・・ やはり男は女共のファッションには疎いものじゃのう・・・
ワシが知っていたのは白い割烹着を着て『大日本國防婦人会と』いう襷をか
けて『兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ』を合言葉に集団で街中を歩き、
「前線の兵隊さんに送るんじゃ、皆さん『千人針』にご協力願います」と頼ん
でいた格好じゃ・・・・・ 「大日本國防婦人会設立」と「ツイッギーの来日」、双方には35年の月日が流れている。
感無量ですな。 久し振りにこのスレに来たが、何か 701からは始まり 722までたまに小難しい
ウザイ長い文をだらだらとカキコしている奴がいるんだが、うっとしい。誰も文句
を言わ無いのかな。 >>727
お前がつまんない事を言って、貴重な話が聞けなくなったら、どう、責任とる
つもりよ。
小難しいとかあたま足りない奴はすっこんでろよ。
お前がつまんないこと言ってるより、遙かにこのスレタイに合ってるがな。 爺ィのふりしたガキが知ったかしてるだけだから構わんよ つまらんもんはつまらんでいい
ただ、ならば自分で話題をふるくらいはした方がいいな また関東の人には悪いが、宇部線の話を出そう。初めて乗った時は既に全面半分下部
に黄色の警戒色が入っていた。当時は異様に思ったが車両が残っているだけでも良しと
した。宇部駅発のクモハ51のボックスに陣取ってウキウキして」ると「お客さん、あちらの
列車の方が早く着きますよ」という声がした。車掌がわざわざキハ17系の新川行きを教
えてくれたのは良いが、「私は電車に乗って行きたいいんだ」というと怪訝な顔をされた。
僅かに7分違いの発車だった。 別の日には新川発長門市行きのキハ17連にも乗った。 また別の日には、長門市発小倉行きのキハ17連に乗り、(関門トンネルの中はどう
なって居るのか見るために)下関から乗り、運転台背後に張り付いた。下関発車後、
暫く少し高い築堤、ガードを走ったには驚いた。トンネルに入り、左へ曲がりながら
下へ次第にノッチoffで異様な加速で降りていった。上から海水?水しぶきが大量に
降りかかっていた。上り勾配に入り、ギア入りのまま加速していたが、中々加速でき
ない。大きく右にカーブして走ると出口の光が点と見えた。それでも速度45キロ位だ。
段々勾配がきつくなり途中でマスコンをカチャリと直結に切り替えていたが段々速度
は堕ちる一方だ・・・ 実に苦しい走行で出口を出た頃は15キロ位だった。途中で停
まってしまうと心配した。やはり421電車は違うと痛感した・・・・ 昭和52年の夏休み・・ 先ほどのカキコの内で表現方法に誤りが有りました。謹んでお詫び致します
と共に次に訂正致します。 ↓
『上り勾配に入り、直結のまま加速していたが、中々加速できない。(中略)
それでも速度45キロ位だ。段々勾配がきつくなり途中でマスコンをカチャリ
とトルコン入りに切り替えた。』 >>726
ツイッギーの来日したときにまだ大日本國防婦人会が存在していたら、「下履きの見えそうなスカートでけしからん」
ってことで即刻モンペに履き替えさせていたと思う。
でも案外婦人会のおばちゃん達が、「すでに時代は変わったのだ」と率先垂範してミニスカートを履いたかもしれない。 特急や急行でもない、街中を走る普通列車でも
車内販売はあった
よく言われる非公認の氷菓屋等でなく
沿線の弁当屋の名前が入ったカートが巡回していた 国鉄8日間ストで、総武線、常磐線がストップ
そのため、ラッシュ時の京成電鉄の駅が大混乱、京成電車はすし詰めとなり、
電車の窓ガラスが割れるほどの大混雑だった。 関門トンネル・キハ17をカキコして懐かしくなったので、調べた。
総延長3,614mの内、半分から1000分の25勾配の連続であった。
これでは出口付近で時速15kmに下がって、這い上がるのも無理は
ないと思った。あと、別の日の早朝に小倉発長門市行きの各停客レ
に乗った。先頭はDD51の牽引であるが、オハ35戦後折妻車に
乗ったまでは良いが、魚行商のオバサンが降りた後なのか、非常に
生臭くて難儀した。車内天井灯は白熱灯を撤去して六角形の板を付
けて直管蛍光灯を2本付けた変わりダネ車だった。夏だったので窓
を開けっ放しだったのでDD51の煙と漏れた海水の直撃を食らった。 上記のトンネル勾配、下り方面について訂正。1,000分の20でした。上り
方面は1,000分の22でした。スマソ。 南海の難波駅で、南海電鉄和歌山軌道線の新和歌浦や海南駅前までの切符が
買えた。 >>738
東海道・山陽線の広島・宇野行き普通客レでも、立派な食堂車装束の
オネエチャンがワゴンを押して、弁当・ミカン・ジュースを売って来
た。幼児のオレがスハ32車内でフクレ面で座っている写真がある。
何故だと親に聞くと、アイスクリームを買って貰えなかったので怒っ
ていたのだそうだ・・・(大阪〜須磨 乗車時) 大人になってから
は153系新快速でもたまにワゴンを押してオネエチャン来たので驚
いた・・・さすがに環状線内では来なかった。153の車内車端山側
クロスシートの1ボックスを撤去しコカコーラの自販機が載っていた
のがあったには驚いた。 学生時代の或る日、旭屋書店で鉄ファンを立ち読みしようとして目次を見て
いたら『陽と陰の出会うところ』とあったので、一瞬、男女共に両股の下にあ
るツボ・陰部が頭の中をよぎった。当該ページを開くと、山陰線・山陽線「幡
生」駅の西側で山陰線が山陽線の上り線をアンダークロスしている場所を
撮っただけに過ぎない写真だった・・・ 5階建ての公営団地も写っていて、
安倍晴明の陰陽道等のオカルティックを彷彿させる場所でもなかった。 上記のカキコの訂正です。場所は「幡生駅」の東側 3線区間でした、失礼。 >>737
今の時代に大日本国防婦人会が存在したら、女性は全員モンペでヘジャブ着用だったかもしれない。 >>744
行ってみると思いのほか地味な駅でした。 >>743
田舎者の自分が初めて153系の新快速に乗ったときのことは鮮明に覚えている。
フレッシュな塗色、急行型、特別料金がいらない、どれも新鮮だった。
同じく阪急、京阪の特急に乗ったときも感激した。特別料金がいらないし、
京阪の特急にはテレビがついている車両のあることも驚きだった。
画像が時々乱れるのはお愛嬌だったけど。 そんなニックネーム付けた人々もそろそろ鬼籍に入る世代かな? むかし、東武7800系をお化け電車と呼んでいる女子高生達がいた。
吊りかけ音からなのか、古めかしい内装からそう呼んだのか定かではないが
彼女たちもご存命なら還暦を超えている。 >>7
年配のおばちゃん達からミニスカートが流行したら、おばちゃん達の履く物として
ミニスカートの流行は年配女性に限られたかもしれない。 最近座席に正座して座るおばあちゃんを見なくなった。なぜだろうか? >>750
初めての10系がオレンジだったからね。
イエロー(カナリア)だったらなんと呼ばれただろうか? 115系遜色急行「かいじ」「なすの」
165系と違って、近郊型電車のボックスシートで急行料金や指定席料金を
徴収するには問題もあった そういえば115系には席番付いてる車両があったな。 >>754
コロナの影響で外出するお年寄りが激減したため 上野発高崎・上越・信越・北陸・東海道本線経由川西池田行普通列車 >>774
煙突の出口に付いているプロペラ(?)で火の粉を煙室内に叩き落して沿線火災を防ぐ。
「C56 160」に付いていたような気が・・・
クルクルパーの名称がついた理由は鉄ピクで見た。 昭和20年代に東京~広島間で運転されていた急行「ひばり」 寝台特急「あかつき」は設定当初、新大阪~西鹿児島・長崎間の運転だった 街頭テレビ。
庶民はテレビを外で見た。
お金持ちは家のテレビを見た。 傷痍軍人の乞食
ぼろの軍服着て上野や新橋のガード下や地下道でアコーディオン弾いたり義足で這いつくばってた
しかし本当の元軍人よりも格好だけの偽せもの朝鮮人が多かった 靴磨きが上野や新橋のガード下に集まって商売していた。 72系電車の側面にネジ止めされていた「山手」「京浜東北」のホーロー板 |::: \
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>''" ̄`ヽ ノ :::/
''´ ::::/ 東海道線のトイレに入って下を見たら穴が開いてて線路が見えた。 山手線が8両編成(例え103系でも)時代に乗ったことのある方。 >>818
親に渋谷に連れて行ってもらったときに、乗りたいって何度言ってもダメ
今度ね、また次でいいじゃない、って言っているうちに、本当に廃止になってしまった
一度も乗れず、後悔でいっぱい
>>817
たまに親と乗った南武線から見えたような
これも一度のる機会無しでした
>>814
これは、宮ノ平に行く小学の遠足で乗りましたね
一番後ろの1両は青梅で切られて、そこに乗っていたGrは大変でした
>>808
山手線は最初黄色と覚えてたらしく、緑が来ると、黄色じゃないの?って言っていたことを、
後で親から聞きました
ガキの頃は、親の行動力に依存大、としか言いようがないです はい、冥土も近くなったことを実感する今日この頃です。 >>822
冥土に持って行く土産話にリニアの話したいですなあ とりあえず、2回目の東京オリンピックの話は持って行けるので良かった。 宝町駅(都営浅草線)近くにあった「喫茶01」。現在テッパクにあるドイツ01形SLの動輪は、元々ここに展示されていた。 昔ホテルに泊まるとき、カラーテレビ完備って書いてあるとわくわくしたもんだ。
カラーの文字が三原色になっているところもあった。 >>844
昭和40年代後半でもあったなw
小学生だったが覚えているよw 神戸電鉄湊川駅は、神戸高速鉄道乗り入れまでは現在とは別の場所にあった >>853
>能勢電鉄妙見線鶯の森~鼓滝間は併用軌道だった
ウソこくでなかれ、矢問の猪名川橋梁はどうなってたんだ
併用軌道があったのは鼓滝・多田間の旧国道173号東側だ 中華民国(国府・台湾)=国連加盟国、常任理事国
中華人民共和国(中共)=国連非加盟国 漁業無線ラジオ放送
毎晩、各船から入電する情報を
ラジオ放送(極超短波)で放送していた。
漁模様・操業位置・入港予定etc
昭和の時代には、塩釜港所属漁船情報を放送していたが
現在は、いわき市小名浜にある福島県漁業無線局が放送をしている。 受話器を上げて 0100111 とプッシュすると関数電卓の代わりになる
料金は30秒10円 >>867
トウショウボーイとグリーングラスも知っとるぞ >>867 >>872
レース中に骨折した競走馬と何かで聞いたことがある。 赤いシリーズはまだおっさん
と言いたいが赤い激流水谷豊アラ古希だから多分違うなw
ザガードマンなら死にかけ? >>875
「赤いシリーズ」と「ザ・ガードマン」はどちらも「宇津井健」が出演してたな。 >>879
TBS系で放送の白黒のオバケのQ太郎宇宙少年ソランウルトラQだとかもそのカテゴリーだな 戦時中、近鉄に合併されていた南海電鉄が国鉄からC58や8620などの蒸気機関車を
借り入れて、モーターを除外した電車を客車代用にした蒸気機関車牽引の列車が
南海本線で運転されていたこと オープンリールデッキを肩にかけて、手には集音用マイクを持ってSLの音を録音する >>884
> オープンリールデッキ使ってTV音声録音するなら相当だな
TVも多分モノクロなんだろう
YouTube複数Uploadされてる 朝に納豆売りが天秤棒担いで売りにくる
升での量り売り 竹や〜♪竿竹〜♪をスピーカーに流しながら住宅街に軽トラで現れてた竿竹屋 >>902
そして、名鉄名古屋本線との連絡線があって、豊川稲荷駅まで乗り入れていたこと。 穴の無い5円玉。今のより2回り位大きい50円玉(初期は穴なし、後期は穴あり) >>905
その50円玉はニッケル製で、磁石に付いた 一種類の切符だけしか売ってない券売機
お金を入れてハンドルを操作すると日付が印字されて出てくる
私鉄のターミナル駅では、これが何台(1区間用〜N区間用)も並んでたが、
小さな駅では1区用と2区用、それとターミナル行用くらいが置いてあった はやぶさのヘッドマーク付きの回送
(スユニ50・スニ44・オユ10・旧客) カートレインとかいうサービスが昭和後期に存在してたな自分の車を貨車へ積みドライバーは前側の客車に乗るスタイルだった >>904
昭和47年ごろまで北海道では普通でしたよ。 >>913
日豊線C57現役当時の南九州も板垣退助の100円札天国だったね 100円札は、九州ではかなり遅くまで使われていたらしい
自分はガキの頃に、お釣りに50円札が混じって、親に「これ何なの?」といった記憶がある
さすがに、そのころでは50円札は珍しくめったになかったそうだ(自分はこれ一回だけの記憶)
そのころに、山手線が黄色から緑になって、同じく親に「山手線の緑って何なの?」といったらしい
半世紀以上前の記憶です 大阪市営地下鉄が全線1区制だったこと
出口改札には駅員はおらず、使用済みの切符を集札箱に放り込んで出場していた 御堂筋線が初めて開通するとき、牛が車両を搬入したこと。 紀勢本線全線開通前、新宮~紀伊勝浦間でバッファーとリンク式連結器を装備した
C11が新宮鉄道時代の客車や貨車を牽引していたこと >>920
おじいちゃん。大丈夫ですか?
もうすでに既出ですよ。
呆けちゃったの? >>921
ほんまや。それもワシが書き込んだものや。
耄碌してきた証拠やなあ。 上野〜東京間の新幹線のトンネル工事中、真上の道路が陥没して車が落下した事。 ミャンマーのかつての名称=ビルマ
英語だとBurma(ブルマと発音する) (実験放送で)
エフエム東海(東海大学)が始まった。 まず、ラジオを2台ご用意ください。まず、左側に1台置き、文化放送にお合わせください。次に右側にもう1台を置き、ニッポン放送にお合わせください。 アポロというロケットが月まで行ったこと。
月には餅をつくウサギはいなかったことが実証された。 連続人形劇 ネコジャラ市の11人
一日一本6時5分発ネコジャラ行きのズダボロ列車しかない!
日に1本しか汽車が来ないんだぜ〜 世界を見ると週に2〜3本というところがあるそうですが。 >>945
アポロは宇宙船の名前でロケット部分はサターンVという名前であること >>946
ゲバゲバ30分の短縮版もあった。
>>947
なつかしい!でも、帰りの汽車は無かったのかなぁ・・・ お昼はベルトクイズQ&Qとお昼のワイドショーの行方不明者TV公開捜査 世界の料理ショーの司会者がよく使うお馴染みのセリフ「おいスティーブ」 TBS系列で放送されていた大映TVドラマ赤いシリーズだろう
赤い迷路赤い疑惑赤い運命、赤い衝撃、赤い激流赤い絆、赤い激突赤い嵐赤い魂と死線 銀河鉄道999 アニメが始まる以前にNHKラジオ放送で番組があった事。 青と白の縦縞の綿トランクス。前閉じタイプ、1本通しゴム、ゴム取り替え可能。3枚組1000円。
スーパーの紳士下着コーナーのメイン商品
柄は青白以外にも赤白やら、黄緑と白やらバリエーションあり。 働くおじさん〜働くおじさん〜こーんにちは〜♪ このスレッドは1000を超えました。
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