昔の関東鉄道を語る [無断転載禁止]©2ch.net
茨城県に路線を持つ関東鉄道(常総線・竜ヶ崎線)の昔を語るスレ そういえば関鉄はかつて筑波線や鉾田線も持っていたことを知らない世代の人も
少なくないのだろう >>2
リアルに語れる人となると確実に後期高齢者? この会社ほどオタクが「タラレバ」で語りたがるところは他にないよ
「もし常総線沿線に磁気観測所が無ければ・・」 >>10 同意 こんな事をレスするためにワザワザ訪れた奴はクズだな。
>>5 ソレは懐かしくないから・・・
で水海道のターンテーブルは何時埋めたの? >>2 >>8
ネットで探しても往時の写真の一枚さえヒットしない
当たるのは個人サイトの廃線跡探訪ばかり
年齢を気にする前に、ほとんど利用されてなくて乗車経験のある人がいない!? >>13
ブレーキが効かないって、想像しただけでゾッとするよ
故障が発覚してから衝突までの間に、
一両目の乗客はみんな後部車両に避難できたのだろうか >>17
ラッシュ時間帯だから到底無理。
死者1名で済んだのが奇跡だと当時云われた(けが人250人出したが)
特に当時はつくばエクスプレスなど無く、常総線沿線民にとっては他に選択肢が無かった。
(当日の夕方には運転再開していたと思う。今じゃとても無理だ) 大事故だからメディアが挙って取り上げたのは分かるが
ニュースワイド番組などで門外漢のコメンテーターどもが
頓珍漢な批判してたのには本当に腹が立った
忘れられないのは、関鉄は金がないから電車を走らせることができず
古いジーゼルカーしか使えなくてブレーキ故障も見つけられなかった等と言い放った元有名キャスター
当時にネットがあれば速効で非難されただろうがお咎め無し 続き
テレビでしゃべるならこの線が電化できない事情くらい調べとけと思った >>19
視聴率のためならなんでもありだからどうしようもない 利根川渡って取手に来ただけで関鉄の旧型車見ると
すごく旅気分が味わえた。
最寄駅から乗車時間20分なのに。 >>23
取手駅構内の広告にある電話番号もそうだな。
029ってなってて「あ、松戸や柏とはやはり違う。」と思った。 元小田急のDCに外吊り扉を引っ付けたやつがこども心に萌えた
もともと付いてた内蔵型扉と、動きのスピードが違ったよね 銀嶺号・芙蓉号だな
いつもキクハかキサハをお供に従えてたというがあまり印象にない
しかし加速時の騒音は大型ダンプかトラクターそのもので
バリバリバリ!とでも表現しようか、とてつもなく喧しかった 小田急では10年あまり使ったたけで放出
でも関鉄でもそんなに長生きしなかったな >>27
走っている姿を見たかった
関鉄でも見たことがない >>27
関鉄一の力持ちなのでキクハ一両引っ張るなんた朝飯前だったようだ
大した勾配もないし、低燃費で走れる点では他の中小よりもお得だね >>19
取手事故は信楽線事故の翌年。
これだからローカル線は危ないみたいな
誤ったバイアスがかかってたんだろう 騰波ノ江の表記が書物によって違いがあって「戸波ノ江」になってるものがあった 下館側はどの駅も寂しかったね
Evaluation: Good! 80年代初め、筑波科学博の輸送ルートとして、常総線水海道辺りからつくばセンターへの新線プランが地元地方紙に載っていた。
土浦、荒川沖、ないし牛久からの新交通プランと同様、地元自治体や商工会で検討、要望していたプランの一つに過ぎないものだったけど。 >>36 でも、関東鉄道(筑波線なども持っていた時代も含めて)は、譲受車両の種類多すぎなかったか?
新車購入より安くつくのは当然だが、形式多すぎて保守に手間がかかるのでは?
とはいえ、資金不足でキハ900は少数導入に終わったからなあ。小湊鉄道とは対照的だ。 中学の頃、つくば博会場に延伸して、ついでに水海道以南を電化して都心から国鉄が乗り入れてくる、
なんて妄想全開してたなあ
暗い青春時代だった 常総線沿線の老人は、戦前の記憶からか
ディーゼル車でも「ガソリンカー」って呼んでたな。 >>45>>46
オレは科学万博の時よりも前、寺原まで複線化されたときに電化妄想してたわ
それというのも、複線用地の脇に電柱らしきポールが立ち並び始めたためだが、
実は隣接する民有地とを仕切るただのフェンスだったというオチw
それにしても背の高い柱だった
今の西取手駅の少し南のあたりかな 水海道から東京駅直通のバスが便利だったのに廃止されてたんだな
水海道もう住んでないからいいけど >>49
今の西取手付近といえば
つくば博の少し前までは
何もない荒野だったのにな
想像つかん てゆうか関鉄の玄関口取手駅がうらぶれた田舎駅だったのにさあ >>50
48だけどさんくす。
うちの婆ちゃんは特急しもだてを覚えてたな。
車内てお茶のサービスがあったって。
>>54
いわゆる駅前食堂がぽつんとあって
そこで親父と他人丼食べたのを記憶してる。 >>59
いや、結局しもだて号用の車で新造は打ち止め、
以後は中古車オンリーになる
やはり資金的に厳しかったのだろう 60年代後半になると北海道の炭鉱私鉄から多量に廃車が出て、
中古市場が急に充実し始めたのも背景にある ここと茨城交通が競って買い漁ってたところかな
まあ非電化私鉄が元々少ないのも理由だがね 関鉄はともかく、茨城県内のバスも、昔からやたらハイレベルだった。
茨交、日立電鉄とも、バス窓の年代ですら、わざわざ上窓が開く仕様だった。
西部警察で爆破したバスも日立電鉄仕様だったし。 バス窓は、上窓が下窓(上昇式)の戸袋(窓だから窓袋か?)の役目を果たしてるから
基本的に固定窓と思ってたが、開くタイプもあったのか >>64
でも寒冷地仕様だから側窓が小さくてなんか圧迫感あったよ
ただ、さすがに固定窓は改造されてた 筑波線に居たやつは固定のままじゃなかったっけ?
記憶違いかも 関鉄でクーラーが付いたのは88年から。
それでも全国的に早い方だ 60年代に新造されたDCは、どことなく小田急の初期の新性能車、
たとえば2400系などに似てると思いませんか? >>63
でも買ってから結構あちらこちらを弄くり回してたはず
それなりに経費を掛けてたはず
中にはボディーを丸ごと載せ変えたのもあったよね
それでも新車よりは安上がりということか 常総線の連結部分に幌が付いたのはいつ頃かな?
以前は剥き出しのステップだけなので車両間移動が怖かった。 >>76
それマジで??
貫通扉を締切にして車両間移動を出来なくしてるものだと思ってた >>74
確かに!
後に小田急のディーゼルカーが移籍してきたし、何か縁を感じますね 既出だがデハ1600を譲り受けてキクハに変身させたよな >>78
昔は客用扉だって手動式で開けっ放しで普通に走っていたくらいだから
客の車外転落などはそんなに危険視されてなかったのだろう 日本最初のDC特急
国鉄キハ81系はつかりよりも三年早い 幌無し貫通路の件だけど、アレは職員(車掌の検札)移動用だった筈だよ。
・・・本来 旅客が使用できない?・・・鉄道ガイド本「探検鉄道」にそういう記述があった。
ちなみに後に幌が付いた理由は、取手駅車止め衝突事故で脱出(旅客の他車移動を可能にする為) 取手事故以前は乗客が車両間を移動することは禁止だったの? >>75
国鉄のキハ17のお古を譲り受け、
ボディを取っ払って両開きドア3ヶ所の
通勤形に変身させたのは凄かった
一見、都市近郊を走る通勤電車と見紛うような出で立ちであった 新登場の時は何となく嬉しかった
常総線もついに通勤車が走るようになった!、ってね。 貫通路が通行禁止だったのは、昔は珍しくなかった
地下鉄の銀座丸ノ内とか
今は湘南モノレールぐらい?
いっさか線は走行中通るなと書いてあった >>90 車体新造だからカネは掛かるが、余裕の工作工程
それ以前の小田急から来た751の引き戸での扉増設や東横流れのキハ42201改め651、初のトルコン新造車だった
42002と国鉄払い下げキハ42004だったキハ42001の顔面移設連結化工事、その後の3扉化とか
外板が薄い筈の気動車の切った貼った等のニセ新車導入前の改造は神レベル! >>91
その気持ち分かるよ
俺の地元のローカル線でも、両開3扉の車両が転入したときには興奮したものだ。 増設扉はどうせならバスの如く折戸にして欲しかった
特急形はともかく一般形では貴重と思う 折り戸は蝶番が傷みやすいので頻繁に開閉する一般用には不向き >>96
同感
その後国鉄キハ35がやって来たから希少価値無くなったけど。 子供の頃、物珍しさからドアを手で触れようとしたら親に物凄い怒られたのを覚えてる
確かに挟み込まれる危険はあっただろうな 子どもは興味あるものには何でも手を出す
親としては些か過敏にならざるを得ない いまの取手駅では駅ビルに頭突っ込んだ形で停車してるもんな
事故被害者へのあてつけにしか思えない