そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 7 [無断転載禁止]©2ch.net
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在日朝鮮人とは強制連行されて日本に来たと我々戦後生まれの日本人が騙されていた事 普通車の場合
特急列車の普通車指定席より
急行列車の普通車指定席のほうが高くなる場合が
わりとあったこと。 急行用に「自由席グリーン料金(本来より100円引)」なるものが設定されていた事。 >>104
100円引きの時代もあったが、
最終的には同額になったよね。
じゃあこんなのどうだ?
実は一部の特急列車にも自由席の1等車が連結されていたこともあったこと。 時刻表に「特急列車は、夜行の寝台専用列車を除いてすべてグリーン車を連結しています」
のような記載があった事。
今じゃ新幹線もグリーン車無が珍しくないんだから、正に隔世の感。 国鉄末期に「踊り子」が藤沢・茅ヶ崎・平塚に停まっていたこと >>112
「国鉄の毎日運転の特急列車は・・・」じゃなかったか?
14系客車あたりを使う臨時なら、グリーン車はなかったが。
「いしかり」登場と、「おき」の1往復モノクラス化とどっちがはやかったっけ? >>114
”定期列車は”、っていう趣旨の記載だったかどうかは定かでないが…。
「いしかり」は昭和50年㋆の登場で、
「おき」のキハ181系化(この時3往復中1往復がグリーン車廃止)は昭和51年10月の事だった。 そろそろみんなが忘れていそうなこと
「なはつき」
「富士ぶさ」 なはつきと彗つきってどっちが期間長かったんだろう。 事実と違う事言ったら「嘘つき」か…。
で、昔は折尾(黒崎)―原田間で筑豊本線経由の「あかつき」もあった事。 800系新幹線は山陽区間にも乗り入れる予定があった事
今年のダイヤ改正で小倉まで行くつばめが復活したが、車輌は当然N700系 >>118
さらにその前は「明星」1往復、
さらにさらにその前は「かもめ」の佐世保編成 「鹿児島本線(小倉方面)から筑豊本線に直通する列車は、
貨物線を経由するため折尾駅は通りません
(運賃は折尾駅経由のキロ数で計算します)」
みたいな記載が時刻表にあった事。 >>118
西村京太郎の推理小説トリックにつかわれてた記憶 「こまち」がE3系だった頃、15・16号車は当初自由席で後に指定席になったため、
この2両は他の普通車よりシートピッチが狭く、「お買い損」だった事。 在来線で
特急と普通列車が運行されて急行が運行されない区間の最初は、
東京〜錦糸町だったこと。後に直方〜原田、三原〜海田市(呉線)などが増える。 >>127
それに乗じて西武に乗っ取られそうになったこと。 >>125
グレードアップあずさでも
そういうのがあった記憶 >>130
それはむしろ逆。
「グレードアップあずさ」は基本的に指定席車のみが対象だったが、
改造された普通車のうち1両は基本的に自由席扱いだった(多客期は指定席)。
まあ、それより後、「いなほ(485系)」なんかでは、車両配置が滅茶苦茶になって、
指定席車がボロで自由席車がグレードアップ改造車、なんて例も見られたが…。 17年前、新幹線100系V編成の食堂車が営業を終え、
新幹線の食堂車が歴史の幕を下ろした事。 >>131上
いや、自由席で乗りドクがあった項目でしか語ってなかったから
オレ的にはそれで合ってる 阪神淡路大震災で山陽新幹線の高架橋が落下したこと
営業時間内の発生だったら大惨事になるところだった 特急「かいじ」は定期券と自由席特急券で乗車できましたが、
特急「あずさ」急行「アルプス」はダメでした。 当初、特急「しなの」の自由席は3両だった事。
今は、基本の6両の時のみならず、8・10両に増結されても自由席は2両。 >>136
「しなの」は最初から自由席あったのか? >>137
381系時代は当初は9両編成だった。そのためか自由席も3両あった。
JR化後は6両化し、自由席も2両になった。 >>138
最初からエル特急だったの?あるいは自由席があったの?
例えば「あずさ」は最初は全車指定席なんだが。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%AE_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
によれば、自由席設置は1973年10月で、「しなの(181系DC)」登場から5年後だった。
だから、「最初から自由席3両」と取れるような表現は不適切だった。失礼。 しなの登場後5年間は自由席がなかったこと
>>141より拝借 仙台地区で運用されてた417系の方向幕に大宮や池袋のコマがあったこと >>146あさひかがやき、ひかりきらめき
>>145いまでもフツーにありますがな。平成うまれのマニアもいますがな。
>>144
実際には白河の関を越えることはなく
松川までしか来ませんでしたな。 ED76-500番代は、北海道専用ながら50/60Hz両用だった事。 >>148
しかも九州のED76より1メートル車体が長かったこと。そして貫通扉もあった。
外観上は全く別形式に見えた。 >>131
上沼垂の485系に6両編成組が登場していなほ運用に本格的に入るようになったのが
実はかなり後のこと 「国鉄は地域に優しい鉄道に生まれ変わります」の出任せ。
ホントにそうなったんだったら、新幹線と引き換えに在来線切り捨てなんて事できるわけない。 自民党の出した新聞広告に「ローカル線もブルートレインもなくなりません、ご安心ください」なんて書いてあったんだよな。 30年間、旧態以前の如く同じ政策を維持する必要はない。 「国鉄最後の日」の馬鹿騒ぎ。
新幹線の中には、遅れたせいで日付跨いで運転された列車もあった。 昔は、北海道のローカル線に乗る旅程はわりと簡単に立てられたが、
東京近郊大回り乗車の旅程は、アバウトにしか立てられなかったが、
八峰出版が画期的な時刻表を出版してそうでもなくなったこと。
なお、この頃、同出版社の編集の人間は、各駅に行って、
各駅の発車時刻表があれば貰い、無ければ必死に書き写していた。 明後日「成人式」を迎える筈だった、越後湯沢―金沢間の「はくたか」。 スーパー雷鳥(サンダーバード)
ソニックにちりん
あとスーパーこまちという車両固有の列車名 >>50
その頃、新山口駅が小郡駅だったこと。
それらが終わる4年半くらい前まで、その隣の駅が新下関だったこと。 そのうち「列車内に物売りがやってきた事」なんて話になるのか…。 >>174
高崎線にモグリのアイスクリーム売りが出没してたこと 平和台球場のダイエーホークス戦ナイターの試合終了後に運転された「ホークスライナー」
西武鉄道のスタジアムエクスプレスと違う点はスタジアムエクスプレスは発車時間が決まっているが、ホークスライナーは原則として試合終了後40分後なので、時刻表には掲載されていなかった。 >>175
宇都宮線と呼ばれる前の東北線でも見かけた
当時、「東北線では115系の普通列車でも車内販売があるのか?」と驚いた 副都心線を東急車が初めて走ったのは2013年3月16日より前であるという事 >>179
東横直通開始前から東急車が西武池袋線・東武東上線を走ってたこと。 徳島県には国鉄〜JRの路線しかないという時代があった事。 東京駅の22・23番線は、以前12・13番線だった事。 特急「草津」などは登場時「新特急草津」などの列車名だったこと 在来線当時の東北上信越線の特急は、大宮より寧ろ宇都宮・高崎に多く停まってた事。
特に「ゴーサントー」改正では、大宮通過は残ったものの、宇都宮・高崎には全列車が停車するようになった。 特急の編成を6M4Tから6M3Tに短縮しなきゃいけなくなったって時に、
グリーン車を先頭にもっていってでも食堂車を連結しようとした時代があった事。 上りはくつるの宇都宮→上野間で指定席の立席特急券扱いがあったこと 国鉄がなくなったら「国電」は何と呼ぶのか、ってちょっとした騒ぎになった事。 >>189
その後釜の呼称「E電」もこのスレの対象に。 御殿場線・岩徳線は、東海道本線・山陽本線の一部だった事。 星占いの13番目の星座として“へび遣い座”が
一時期登場したこと
直ぐ廃れ元に戻って現在に至る 元さきがけの田中秀征が石橋湛山研究で質素かつ健全な生活に戻れと言うが
戻り様のない償還不能な借金でバブルな生活に浸り経済破綻の道をひた走る日本よ
破綻のきっかけが戦争(政権は借金責任回避に戦争起こせば○)か円信用破産かはわからないが、貧しい時代を嫌でも思い出す
再生はそこから始まる、人類が生存してるかは知らねー 青函連絡船・宇高連絡船は、最後の一年間、JR北海道・JR四国の運営だった。 或る作家から
「地元の人でもない限り知っている方が恥ずかしくなるくらい誰も知らない」
なんて揶揄された、国鉄の航路が存在した事。 201系900番代は、先頭車が中間車より200mm長かった事。
で、当初M車(モハ201)のパンタフラフは2基あった事。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています