昔の国鉄可部線 [無断転載禁止]©2ch.net
左端が上昇式になってて上半分がHゴム支持になってるクハ79326が
僕のお気に入り 逆に聞きたいが正面が落とし窓方式の
高速電車は過去に存在しましたか? 頭文字のCだけやたら大きい「可部City」のHM。 17m車時代はさすがに知らない
でも今以上にバラエティに富んでいたようで興味深い。 正面の窓もさることながら客用ドアも変化に富んでいたよ。 >>101
桟入り、桟無し、ゴム支持あり、支持無し、
ほかにあったかな
ガラスに「自動扉」というシールみたいなのがあったかも知れない(他社と混同してる可能性大) 半自動扉のシール
あと上八木、七軒茶屋駅で最後尾になったらドアが開かないと書かれたシールも懐かしい ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 貼り方がヘタで歪んで皺が寄ったりしてるもの、右(左)肩下がりになってしまってるもの、
いろいろあった 昔は手作業だったが、今は器具を使ってるのかな
本当にきれいに貼られている 可部線の踏切警報機って、昭和のいつ頃から電鐘や電鈴じゃなくなったんだろう 電車区間の思い出はあるがディーゼル区間は記憶さえない 営業中の三段峡駅の近くで天狗人形買った覚えがあるのだが、可部線に乗った記憶がない。 >>117
実在したサボ
1日1回しか使えないためか
1.5往復使えるよう工夫してた 広島や岡山などで見たこのテのサボ
どこに行くのかよく分からんミステリー列車 国鉄末期にはディーゼル車は全部広島まで乗り入れてたな。
電車は8割がた横川折り返し。
早朝の上りで一運用だけあったキハ40単行が本線を走る姿を一目見たかった。 >>118-119
北陸本線(長浜から交流だった頃)に475系使用の列車に
金沢→長浜
敦賀←┘
というのが有りました どこだったか忘れたが
踏切警報機の音がめちゃめちゃ変なところがあったな >>120
本線電化前の旧型国電は当然横川折り返しだったろうからその名残かもな 八木踏切の構造だけは昔のままだな
梅林方で踏切待ちしてる時に上り列車が侵入してきたら今でも恐怖を感じる 105系投入は福塩線や宇部・小野田線よりも後だったんだが227系は早かったな
本線、呉線との運用共通化も目的だろうが ところで当時横川からはどのように移動したのですか。 電車・汽車の時代からの流れで横川で乗り換えるのが普通だった
新幹線開通前は広島駅への流入が少なかった
横川電停は道路上にあったが、紙屋町、八丁堀経由で広島駅に行く系統があって、横川は今以上のターミナル駅だった >>133
まあ懐かしい
三枚目の右端にチラと写ってる鍼灸院に通ってたじいちゃんに付いて横川に行ってたのを思い出した >>133
この全面警戒色は後から塗られたと聞く
ウグイス色のみの画像はどこかに残ってるんだろうか 105系投入の時に途中から103系改造の4扉車が入ってきた時は卒倒しそうになったな
得体の知れない前面貫通車とか
昭和39年製造車とか
当時は福塩線や宇部・小野田線よりも劣る線区だったわけだ それまでの72系が4扉だったことと、当時4扉の新車は関東の路線に投入しがちだったことも関係してるんじゃね? 最近になって県立文書館で資料漁ったり買収国電の本買ったりしてる
戦前から昭和40年代までの写真とかあまり残ってないようだな・・・
非電化区間は皆無だし 全列車が広島駅乗り入れをするのはいつからでしたか。 >>144
経営努力、全くその通りだが、当時にそういう発想が無かったのはやるせない >>146
当時に現在の輸送密度を達成していれば
地方交通線ではなく幹線になっていた >>147 現在の輸送密度とは可部以南の数値であり、地方交通線の制度が設けられた当時の三段峡、横川間の輸送密度で考えないと。
経営努力しても可部より先は通勤圏内入らないだろうし、そこが足を引っ張るわけで、幹線になるのは難しかったのでは?呉線とはかなり事情が異なる。 そもそも40年位前のデータ基にした地方交通線と幹線の区分けについて、そろそろ抜本的見直しをすべきではないのか、という問題になってくる。ここの他にも札沼線とか。 美祢線みたいに「名ばかり幹線」に転落した路線もあるしな >>150 その名ばかり幹線の沿線自治体が反発するから、見直ししないんだろうけど。 自治体は廃止反対!以外には
何も対案出しません
被害者ヅラしますよ
一旦開業してしまったら、畳みようがない、それが鉄道業 可部以北がR191のルートだったら昭和末期にはどうなっていたか
現実には幕の内トンネルが絶対掘れないんだが 沿線自治体に存続のために金を出させるのはおかしいと思う 昔の話だが
安芸長束から放水路沿いに出ると車速が上がるのが不思議に思えてたよ
72系イコール鈍足だと思い込んでたから
放水路建設の時に付け替えてるから線形が良いか線路等級が高かったんだろう 72系はウグイスとオレンジの取り合わせがなんとも言えなかった
ならばいっそのこと茶色一色でも良かった 電車は横川止まりで
広島駅に出入りするのはほとんど気動車だけ 電車は横川に留置
気動車は芸備線と共通運用だったからかな >>161
色がどうというより、汚れが目立ってたのが残念 非電化区間だけで運転していた客車列車はどのようなやりくりだったのだろうか。 客車時代を知る人は既に鬼籍に入ってしまったので、確認しようがない。 気動車主体になってからも1往復だけ客車列車があったので。 >>167
可部―加計間に一往復だけ残ってたやつだな 可部駅に留置してるのを見た記憶がある
あと下祇園にマニか何か4両くらい側線に結構長い間放置してたな 可部線に荷物か貨物列車走ってたのを見た記憶があるけど、ELは何だったんだろう? 山奥のスキー場に持ってくとかでDE10に牽かれたEF65と20系客車数両が走ったことはある
当時露出ができたりフラッシュが付いたカメラ持って無かったから写真はない 北マトから転属したモハ72もあった。その後、同じく北マトの103系1000番代を改造した
105系も一時期広島で活躍した。双方が広島の地で松戸区時代の思い出を語り合ったはずだ。 京都鉄道博物館の図書館に鉄道事故の歴史みたいな簡易製本の本が置いてあって
それによると昭和18年に可部線梅林~上八木で正面衝突事故があったそうな 国鉄=掃除してない、のイメージ定着に一役買った72 72系が前面警戒色だったわりに
その後の車両は全然無警戒なペイントだな
特に広島末期色なんてやっつけ仕事もいいところ 昭和59年に横川駅で72系撮るのにギリギリ間に合ったが、カラーで撮っとけばよかった。
乗ることはなかったんだけど、乗ってたらどんな感じなんだろう?たまに夢に出るが、わりとどこにでもある平凡な景色? >>184
景色的には大田川を二度渡る橋梁
三滝−安芸長束間の川沿い風景
離合駅での停車時間の長さ
吊り掛け駆動独特の発進音
異様な揺れの激しさ ありがとう。google earthで仮想体験してみた。単線なんだね。本当はキハ20とかキハ30が似合いそうな地方の街中走る路線って感じだった。可部の大和重工のちょっとやばげな工場感?が目立つ。鋳物の街だったんだなあ。 美祢線は昭和期の石灰石輸送で幹線に分類されたけど今や貨物輸送全廃だもんな