短期間しか使われなかった鉄道施設 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
名鉄三河線寺津高架橋
完成から5年後に廃線になった 大隅線
全線開業から15年で廃止
需要予測ミスったとしか思えない >>108
1888年碓氷馬車鉄道開通から、1997年北陸新幹線高崎 - 長野間開通までの109年が短期間? 複線化区間のことじゃないかね<碓氷峠
本州横断の物流幹線であった時代ということにすると、磐越西線の全通でその地位を失った訳だからさらに短い。
碓氷峠を通る貨車は長野県内を目的地とする物に限る、的な通達が出た時点で信越本線は本州横断ルートからは外された訳ですよ。いつ出たか知らんが中央本線は全通時からそういう扱いの筈。
ま、目に見えない事情まで汲み取るスレではないけどね。 >>109
桜島港まで線路が延びてればねぇ。
人の流れと全く違う方向に線路作ったんだからどうしようもない 国鉄根北線
開通した時には沿線はすでに超過疎地帯になっていて、並行するバスに客を奪われ、
開通から13年で廃止 東横線・日吉〜綱島の高架(海側)
相鉄直通工事に伴い一部防音壁を取り壊し >>113
過疎だったんやない
そもそもあまり開拓されなかった >>112 桜島噴火の影響をもろに受けることになる。噴石や火山灰に悩まされる。
道路ならともかく、鹿児島へのフェリー乗り場まで鉄道路線を敷くのは難しい。 特急「むつ」の岩木山とりんごが描かれたイラストマーク
同特急は利用率低迷だったことや、秋田〜青森間では後続の寝台特急「日本海」と
運転時刻が30分近く接近していたこともあり、「たざわ」に統合されるかたちで廃止された >>117
E751系の中間車は「むつ」の呪いかwww キハ181系化された特急「まつかぜ」の絵入りヘッドマーク
昭和61年11月改正で「まつかぜ」は廃止されたため、昭和60年3月改正から
山陰地区のキハ181系各特急にも取り付けられるようになった絵入ヘッドマークのなかで、
「まつかぜ」の絵入マークは1年半しか使用されなかった >>119
583系ひばりの絵入マークは数週間しか使われなかった。 寝台特急「紀伊」の牽引機DF50に取り付けられていた円形ヘッドマーク
那智の滝が描かれたものと、はまゆうが描かれたものと2種類あったが、
いつのころからか取り付けられなくなり、亀山〜紀伊勝浦間での「紀伊」牽引機、
DF50は昭和55年にDD51に置き換えられ、廃止までヘッドマークは取り付けられなかった 寝台特急「あかつき」、「明星」の複合型円形ヘッドマーク
昭和61年11月改正で「あかつき」と併結運転されていた「明星」が廃止されるまで2年間だけ使用された 国鉄(鉄道省)の「前進標識灯」。前進時に緑色(だったらしい)のランプが
点灯していたらしい。昭和5年頃に1年ほど使用されただけだった。 竜華機関区の旧型電機置き換えのために沼津、高崎第二機関区から竜華に転入したEF60
特急「くろしお」増発のために全国各地から日根野電車区に寄せ集められた485系
両者とも1年半しか使用されず、昭和61年11月改正で竜華機関区、同操車場、阪和線、紀勢線の貨物列車、
客車列車全廃と共にEF60は全機廃車
485系は新設の特急「北近畿」用や九州地区に転出して、日根野電車区を去った >>125
それがありだったら福知山線、山陰線京都口の381系もだな。 >>125>>126
末期のSLなんて数ヵ月しか使わなかったやつばかりだぞ。 DD54-35号機
変速機などの致命的な故障が原因で修理不能となり、落成から4年10ヶ月で廃車 中央線の三鷹から出ていた武蔵野競技場への支線
8年で廃止になってるが、本来の目的では一度も機能したことはなかったようだ キハ81型「はつかり」や151系「こだま」の各車両の連結部に取り付けられていた外幌
在来線ではあまり空気抵抗の効果がなく、早期に撤去された 山陰本線きりはまビーチ駅
夏季の海水浴シーズンのみ営業の仮設ホームによる臨時駅だったが、
2年間営業されただけで廃止 新八代駅の旧リレーつばめホーム
新幹線の副本線に改造できる構造であるが保守用線路になってしまってる >>137
保守用線路になってるなら今でも使ってるんちゃうの? 河内長野駅の南海、近鉄連絡線
戦時中、南海が近鉄に合併されていたときは軍需などの関係で、
近鉄長野線と南海高野線は一時的に河内長野駅構内でレールが結ばれていた 山陽新幹線岡山の車止め
横浜市営地下鉄舞岡の車止め
開通後、すぐに延長 半蔵門線だと青山一丁目の渡り線
駅の躯体の中に強引に設置したからホームが8両分までしか設置できなかった 二子玉にもホームの中にポイントが設置されてたね
駅構内扱いだがごく短い単線部分もあった 国鉄紀勢本線和歌山〜和歌山市間電化時に、和歌山市駅構内の南海電鉄本線との
渡り線にも張られた架線
いつのころか撤去されて、渡り線は非電化に戻った 京急の野比と津久井浜の行先方向幕
写真でも観たことないんだが、終点だった時期がある以上、方向幕があったんだろう 野比行きや津久井浜行きの幕出してる写真ハナイノな? それ俺見た事無いんだわ
会社に置いてある地図がそれっぽいんだがね >>140
同様の例で下高井戸駅の京王線と東急世田谷線の連絡線。旅客車の直通は
なかったが、貨車が直通していたことがあったらしい。
また、今津駅の阪急今津線と阪神本線の連絡線は、軍需利用を見込んで線路
を繋いだものの、この連絡線が使用されたのは阪急今津線電車の暴走事故の
1回のみだった。 軍需ぐんじゅと便利に使われているけど、乱用だな。
ほとんど無関係なものが目立つ。
軍って過大評価され過ぎ。 新今宮駅南海高野線1番ホームのカーブ部分から難波寄り
モニターテレビもあったが見通しが悪く、昭和49年に子供が電車のドアに挟まれて引きずられ、
片足切断の事故が発生し、その後、同ホームは車掌からの見通しをよくするために南に50メートルまっすぐに延伸されて、
カーブ部分から難波よりはほとんど使用されなくなった。 >>158
国営化したら沿線の工場から非難轟々だった鶴見線… >>109
奇跡的に現存してたら、今頃観光特急列車「さくらじま」(仮)が走っていたかもなw 降灰対応で真っ赤っかだろうな
全ての学校が室内プールと聞いて驚嘆… >>162
スレチだが、
普通乗用車でも寒冷地仕様のごとく、
桜島仕様というのがあるらしい。 市場の狭さを考えるとありえんなw
桜島では習慣としてウォッシャー液を使わないというのがある。
灰の中にガラスより硬い成分が混じっているお陰で、そんなもの使ってワイパーで拭こうものなら同心円状の傷が彫り込まれてしまう。
ではどうやっているかというと、布地を細かく切ったもので拭き落としている。これも雑巾のように再利用すると車を傷つけるので、できる限り使い捨て。
めんどくさくて小さな箒ではたいてから運転しちまう人が多い。 >>168 狭い海峡一つ隔てた鹿児島市内では、降灰の被害はそれほどでもないのか?
1985年頃は市内にも相当な量の灰が降っていたそうだが。鹿児島市電の500形、600形、よくぞ今までもってきたものだと思う。 南海・泉北高速の「泉ヶ丘」「栂・美木多」の行先板および方向幕 >>170
灰の量が全く違う。
鹿児島市内はまだ噴煙を斜め下から見てる感じがするが、島内だと真上にある。
全般に、鹿児島市内とは臨戦態勢のレベルが違う感じがする。 >>38
東急東横線の新宿延伸予定地だったんだよね>京王新宿 原宿駅を高架で越えて青山に向かうはずだった小田急は代々木八幡で東急の予定線とクロスする予定だった。
山手線の内側に入るなと言われて、急遽、ほぼ直角に曲がって東急の予定線を利用して新宿へ。
小田急全区間を見ても、代々木八幡駅のカーブが不自然過ぎるw 寝台特急さくら、はやぶさのヘッドマークの寿命は短かったですね。 中央本線や羽越本線て、電化しておきながら10年そこらであちこち別線造って廃棄してるんだよな。
架線柱がズラズラ遺されてるのを見ると、なんてムダな投資しやがってと憤慨したものだ。 >>180 電化が10年遅れてたら、バスや自家用車にもっと客取られてたよ。 >>181
鉄道の改良が10年サイクルと決まってるわけじゃないからその仮定は無意味です。
もっと早く新線に代わった区間もあるから。
謂わば「新築移転が決まってるのに、古い店舗に大枚はたいてリニューアル」を国鉄は1960年代後半からあちこちでやったってことよ。
『鉄道廃線跡を歩く』には鹿児島本線のどこかで電化後2年で経路移設したのも載ってた。
電気設備ってのはそんなに捨て金できるものかね? 例えば羽越本線勝木・舟屋間。海岸寄りの旧線がトンネル改良を伴わずに手っ取り早く電化できるから、トンネルによる新線に切り替わるまで先に電化したわけでしょ。
仮に、同新線ができる1982年まで、この区間の周辺、村上・鶴岡間を非電化のまま、交流電化は鶴岡・秋田間としたら電化の効果は非常に少なくなる。
ガスタービン特急車が実現してたら、非電化のままにしておくという選択肢もあったのかもしれないが、実現しなかった。
羽越本線電化が至上課題となってたわけだろ、トンネル新線工事に時間がかかるから、それまでの間、暫定的に旧線を電化しておくことは必ずしも不合理な投資ではない それに交流電化だと直流に比べ電線を太くしなくて済む。
たった数キロの区間に交流電化のための架線設備を設けるコストって、同程度の距離のトンネル工事に比べたら非常に少なくて済むのでは?
単線のままであれば用地買収も不要だし。 >>186
それは未成線の範疇では?前の職場の近くに遺構があったが、
ここまで作っておきながら勿体無いと思った。もし実現していれば
東京方面からの貨物列車は稲沢で折り返すこと無く名古屋貨物ターミ
ナルに入れたし、名古屋駅の東海道線ホームにも余裕ができたろう。
貨物輸送が減少しても旅客線化して名古屋市南部の交通改善にも
活用できた可能性があったのに残念。 線形改良は少しずつ進めていっても問題ないけど
電化は一気にやらないと効果ないからね。 阿南駅の先代駅舎。確か1990年ごろに改装されたが、2002年に取り壊されて仮駅舎に移り、2003年に現在の橋上駅舎になった。 八戸線の湊駅への貨物支線
高架化後数年もしない内に貨物全廃
分断された高架橋が哀れをさそう >>184
山形県側の温海辺りには複線トンネル完成してスラブも敷ける状態にしたのに結局古い線でいいやで
使わずにほったらかしもある。
新潟県側には駅の目の前に新しいトンネル出来てて使わずほったらかしもある。
意外だが羽越線は単線区間以外の上り線の車窓が長いトンネルばっかしでほぼ期待出来ない。
2000m越すトンネルが2つ 1500mオーバーも多数ある。
しかも鶴岡の2つ先からいきなり1駅毎に長いトンネル連発もある。 だれもかかないからかくけど、
品川駅が高輪口から港南口まで行けるようになった時、
まだ新幹線が高架だったので、その高架を避けるように下り階段と昇り階段で
港南口に向かっていた。その階段。
新幹線品川駅開業に伴いレールが地上に移り、
まっすぐな通路ができて階段は廃止された。 >>188
全体最適のために部分的に後回しって考え方は理解できるよ。
だけど鉄道施設って新しく造れば全部新調するでしょ。
片側分だけ旧線の器材を移設なんてしないし、さらには撤去費用が必ず掛かる。
短期間でそんなお役所的な捨て金ばかり出してりゃ、国鉄が傾いたのも道理ですわな。
今のJRは駅という“お店”すら自力で作らないのにさ。 >>193
だったら部分だけでなく全体でも不適だった実例を挙げろよ。
いくら部分的に不適だったとしても、それだけじゃ唯のいちゃもんでしかないよ。 赤坂見附〜永田町のラッチ外を通る連絡通路
(半蔵門線の永田町駅開業時点では別改札でラッチ外連絡通路だった)
半蔵門線が半蔵門まで延伸された時点で、ラッチ内通路へと改修された。 >>81
13年間とういう数字だけみたら、確かに短命だったんだな。
感覚的にはもっと長かった印象がある
>>159
昭和49年に事故があったが、その後8連、さらに10連が
運行されるようになって後方ホーム自体は使われるようになったね。
ただし長編成も、モニターテレビは使用されずこれは短命
>>171
泉ヶ丘はまだ存命。
栂・美木多は短命だった。昭和52年以降の車両からは省かれ
それ以前の車両も、泉北区急登場時に空コマ化。
今は和泉中央が入っている。 湊町→JR難波駅の地上時代の駅舎ってまだ出てないね。
1989年12月29日に旧駅舎から移転、1994年9月4日の改称を経て
1996年3月22日に地下化、6年余りの命。
開幕が迫っていた「花の万博」の会場内で使われた駅舎(現在は若狭本郷駅で使用)
にも似た三角屋根がアクセントの駅舎だった。
あまり仮設っぽい雰囲気もなかったが。 阪急洛西口駅地上ホーム
7年しか使われてなかった上に高架化を見越して鉄骨組みの簡素なホームや上下線別改札とかコストケチってた >>197
仮設っぽくなかったのは
道路整備の都合による駅舎移転で
その補償費用で作れたせいじゃないかと推測してみる。 東鷲宮の貨物駅
81年の貨物駅開業の後に旅客営業も開始したが貨物ターミナルはわずか5年で廃止
去年それまで束の工臨だった新幹線のレール輸送がJR貨物に切り替わって再び貨物営業再開になった 阪急上新庄駅仮設駅。
カントのきついところによく停車させたと感心する。 神戸駅の0番だか1番ホームは?
94年にあそこから現サンダバに乗ったっけ。 >>204
平日朝の上り快速(新快速と同じ列車線経由)が何本か使ってる。 >>192
そもそも、港南口に出るための地下道も閉鎖されたしな。
遺構は業務で使ってるみたいだけど。
京急蒲田の立体化仮線。
貧乏くさい京急にしては贅沢な使い方。 今だけある竹ノ塚駅地下道と、あと少しで完成する地下改札も高架が完成するまでの命だな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています