懐かしの臨海鉄道©2ch.net
貨物営業主体であるがゆえに知名度はいま一つですが全国に散在する臨海鉄道の思い出スレです 国際埠頭→昭和電工のトラ70000
突き当たりに完全防護服の人が立って居て、背の高いダンプから 漂白剤漬けの乾燥桜海老 臭のするゴミを棄てる度に、物凄い勢いで水を撒いて居た。
※塩素化合物の取り扱い規制により輸送そのものが廃止 >>30
利用者が減る一方だったので、ちょうど岡山市内の道路混雑が深刻化してきたのに乗じて
朝に増発して通勤通学客の新規開拓を図ったことはあったらしい。
1980年前後。 >>6
側面に「K.R.T.」のロゴがあった
キハ10に赤色は似合ってなかったがこのロゴだけは洗練性を感じた >>26
ケイブンシャの私鉄全線大百科には全国の臨海鉄道が紹介されていた。
勿論、貨物専用線や貨物専業となっていた越後交通も紹介されていたよ 臨海鉄道のDLといえばなぜか青地に白帯という出で立ちが多いね >>39
なんか理由でもあるのかね。塗料がやすいとか。 >>33
岡山芳泉高校の開校前後だからもう少し前、1975年頃じゃないかな >>40 国鉄のものと区別しやすいようにするためでは? >>11
Wikipediaの磐梯急行電鉄の項目読むとその考え変わるかも 紀州鉄道は東京の不動産会社が
鉄道の冠を利用して信用力をアップさせるために
買収したそうだ。
つまり御坊の田舎の赤字路線でも
広告費代わりと考えれば安いものっていうことらしい。 今はホテルも兼業してるね>紀鉄
大阪駅からは少し離れてるが安いので関西へ出かけた時はよく利用してる >>43
あのあと鶴屋産業が買い取らなかったらバブルで吹っ飛んだんだろうな。臨港鉄道とは名ばかりで港の埠頭や市場まで直結してないし。 >>45
少しどころか電車で一駅(地下鉄中津)離れてるよ >>46
そうそう。
御坊“臨港”鉄道とはいいながら、港とは離れていたんだね
大分交通から来た湘南型DCが走ってた時代に記念乗車して紀伊御坊近くの売店で
店番してたおじいちゃんと喋った時、この鉄道の使命は臨港輸送ではなくて
国鉄駅と市街地とを結ぶためと聞いて、そういうことだったのかと得心したのを思い出した 地方に行くと駅の近くのお店でその鉄道に関する思いがけない話を聞けたりする
旅の楽しみのひとつ 御坊臨海の自社線が湯浅港まであったのを知らん連中がドヤ顔で語っていて草 >>48
臨港の「港」って表現は
今の人が連想する狭義の「海に面した漁港」じゃないよ。
阪和貨物線(竜華-杉本町)も別名で臨港線だったし、
似たようなところで「浜」ってのも
海の浜辺だけじゃない
堂島浜という地名にもあるように川辺のことも浜と称する。
言語学的な歴史経緯も知らなければズレた解釈になってしまう >>45
紀鉄ホテル 俺もよく泊まった
すぐ近くに「黄色い壁の白壁美容外科」があった
関西ではテレビCMで有名だったらしい 鉄道趣味的には岡山臨港が一番面白かったかな
逆に面白みに欠けたのがお隣の水島臨海 昔、門司港から外浜に行く臨港線。
セメントクリンカー輸送貨物列車がほとんどであった。
DD51に牽引された。
セメント会社は、三菱マテリアル、三井鉱山セメントです。
九州の玄関口、門司港の港町を走る貨物列車は風情があった。 >>56
でも結局岡山の方で印象に残るのは江若から買った流線形DCだけだろ
元夕張の湘南顔は影薄かったもん >>62
もちろん江若がスターだったが、
俺は岡南元町の車庫で昼寝していた
元常磐炭鉱のDC(→その後紀州鉄道だっけ?)も
渋くて好きだったな。 臨港線は、福岡市内にもあった。
福岡貨物ターミナル駅から、博多港、福岡港、福岡市場の貨物駅に行った。
那珂川橋梁は、福岡ボートレース場に行くバカが橋梁をツカツカ歩いた。 >>62
元々旅客輸送は付録みたいなものだったが
1980年前後に一度だけ大増発したことが
あったと記憶
これ以上深入りすると岡山臨港単独スレの
テリトリーを侵すからやめとく Wikipediaによれば昭和50年に
それまでの4往復を12往復に増やしたって。
なんとか経営を安定させたいがために
県や岡山市が躍起になってテコ入れ策を考えてたらしい
(岡山駅乗り入れ、施設整備費用助成など)
臨海鉄道はたとえ純民間資本で出発しても、
最終的に役所の関与ができてしまう宿命なのかな。。 >>66
そう、4往復みたいに申し訳程度に客扱いしてるのが臨海線じみてる
荒涼とした終着駅に降り立って待合室に貼られてるスカスカの発車時刻表を見ると
臨海線という実感が湧く 8時だよ全員集合を思い出した
一の宮はじめともども 鹿島臨海が国鉄キハ10のお下がりを使ってたころ、車内中吊りで求人広告が出てたのを覚えてる
ローカル線で中吊りは珍しかった
昭和54年の夏 列車は3〜4本/日しかなかった
乗り逃すと次の便は4時間後とか > 昭和54年の夏 列車は3〜4本/日しかなかった
> 乗り逃すと次の便は4時間後とか
あえて客が乗らない時間帯に列車を走らせて
利用度の低さをアピールして一刻も早く旅客営業撤退の根拠を作り上げたかった >>85
乗らないのは地元客な(というか人が住んでるか働いてる場所を走ってない)
でもマニアの間では知られた存在で、乗り鉄や撮り鉄目的で訪れる客はわずかにいた
売上にちょっとだけだが貢献してたと思う 国から旅客輸送を押し付けられたので
交換条件として赤字が出たら補填してもらえることになってた
てことは、営業を続けても良かったのに・・・
鹿島港南駅など今ならインスタ映えしそうw 貨物しか走らない路線に興味がわくものなのか
煽りじゃなくて、マジな質問 >>87 成田空港への燃料輸送列車の見返りとして、地元自治体からの要望で旅客営業が行われた。
83年6月に東京湾岸からの燃料パイプラインが稼働し貨物輸送が終了した後は、大洗鹿島線の開通と引き換えに、この区間の旅客営業を終了したというわけで。
燃料輸送列車走ってた頃は、鹿島港から成田空港まで過激派の妨害阻止のため、警察が沿線を警戒していたんではないかな。
大赤字覚悟で旅客営業しなかったら、鹿島町などの自治体や沿線住民が過激派からの嫌がらせを恐れて、燃料輸送列車に反対していただろうし。 できたばかりの京成スカイライナー、初代AE車を相互車両基地で焼き討ちしたからな。
燃料輸送列車にしても、AEの二の舞になるような悪夢を沿線住民は感じていたというわけで。
燃料パイプラインににしてもお仲間通じて建設反対運動、千葉県の土地収用委員会の委員を襲撃して同委員会の機能を停止させる
千葉同労と結託して山猫スト、あれやこれやとやってたわけ。 >>88
何十両ものコキが連結されて整然と且つしずしずと走り抜ける姿に痺れるのさ >>93
青のDD13がどうもしっくり来なくてねえ
撮影スポットにタキ&コキを手兵に引き連れて登場し
いざシャッターチャンス到来でもボタンを押せずに見送ったこと数知れず 大阪にも臨港線があった
地下鉄と同名の「大阪港」駅もあった 1995年頃から空のコキが目立つようになって景気の悪化を身近に感じた >>96
地下鉄の方も海遊館ができるまではいかにも辺境の駅みたいな趣きで全然冴えなかったのよ >>97
確かに景気の悪化で物流の総ロットが小さくなったのはそうだが
トラック輸送が飛躍的に効率化してコストが下がったために
ニーズを奪われた方が原因としては大きい いくら効率化と言ってもトラック輸送に適さない物、公道を通って運ぶことがマズイ物は最後まで鉄道輸送として残る >>101
県が臨海鉄道にしたかっただけで実質は南海の四国連絡経路に過ぎない 臨海鉄道の定義が必要だ。
ひょっとしたら、東京臨海高速鉄道が一番大きな企業かもしれないw 臨海鉄道だからって塩害対策必須というわけでもなさそうだな。
東京湾岸の臨海線よりも、冬の季節風で海水が飛沫となって叩きつける東北、北海道の海岸沿いを走る路線、例えば日高線、の方が塩害厳しいからか。 >>103
県の開発で造った港湾施設にフェリーターミナルがあるんだよな
しかも一度移転までしてるし、少なくとも最盛期には旅客輸送のみ機能していた >>90
その輸送のためにだけにタキ40000を造ったんだよな
※タキ43000が新造不可となったフレームレス禁止の保安基準改定に伴う措置
成田の暫定輸送終了後は中途半端な大きさが仇となったし
派生形式タキ38000は、衰退期ゆえにタキ35000ほど普及しなかった
こちらは尺の問題で運用の制約があったし 全長が異なるいくつかのグループに分かれる。
タキ38は少数派の、淘汰されゆく荷扱い設備のほうの最終形式になった。 >>103
とうの昔に鉄道貨物が下火になってるのに造ってしもうた
一度走り始めると途中で止められない公共事業の弱点がもろに表れとる
この問題で県が誰か責任取ったか? >>111
下火になったとしても利用する荷主はいたはず
完全に悪ではないのだよ
とかく昨今は善悪二元論が幅を利かせ過ぎている 全然知らなかったけど秋田臨海会社解散しちまうのか・・・ コロナでもうなにもかも終わりよ
ヒトもモノも動かない いや動かせないもの! 1990年8月に水島臨海を一往復
まだ乗り鉄などという言葉はなかったが夏休みだけあって
明らかにそれと分かる同業者が何人もいた
カメラを提げてる人はいなかった >>126
ここ臨海鉄道のスレな
臨港鉄道のスレじゃないぞ 水島臨海はみずりん、らしい
ならば、鹿島臨海はかりん?