房総を駆け抜けた183系2【ウイングエクスプレス】
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当たり前のように毎日房総を走っていた183系を懐かしもう >>39
あやめは既に日中はほぼ壊滅してるが、しおさいの方はバスが銚子まで下道区間が長くて遅いから、
そこまで大ダメージ食らってない。
さざなみには新車投入してもあっという間に落ちぶれた一方、後回しにされたしおさいが逆に生き残れた。 成田空港関係は,始発駅は東京駅だけでなく,郊外各駅からくるわけだから
時間2本あっていいだろう。ああいう列車はいわば広告塔としての役割が大きいから,
乗車率だけで考えるのはよくないと思う。
「あやめ」はもともと4往復だったけど,鹿島神宮は別にして空港以外の
成田山あたりへの需要というのは初詣シーズンでもないとないんだろうなあ。
上りは朝1本,下りは夜1本というのは,昔は日中含めて数本走っていた田舎への
路線バスの成れの果てみたいな感がするね。
高速バスの場合,ビジネス「帰り」には使えるが,「行き」は時間が読めないのが
ネックだとは思うのだが・・・ >>41
東京から出る方は意外とスムーズで、時間通りか早いくらいよ>バス
なので下道の区間が短い佐原・鹿島あたりはバスでもかなり時間が読める。
これが勝浦、鴨川、旭、銚子あたりだと、高速降りてからが遠いので、時間が読めなくなってくる。
勝浦まで線路強化が済んでる「わかしお」なんか、
間もなくお古になるE351でも貰ってくれば良いんじゃ無いかと思うくらいだけど。
あと、「すいごう」とこれの成れの果ての1往復もたまには思い出してあげてください… >>42追加。
首都高中央環状線の北側〜西側が出来たせいで、箱崎が劇的に混まなくなったので、
最近は東京へ入ってくるバスも、ある程度時間が読めるようになってるよ。
「しおさい」なんか、本当はこうなる前にちゃんとテコ入れすべきだったんじゃないかと思うけど。
唯一やったのは183系の老朽取替えだけだもんなぁ。 特急はもとより、鉄道もない神栖は寂れていくはずだったのに >>44
使えない,やる気ない旅客列車が通ったことも忘れないであげてください。 俺みたいにトイレ近いのが怖くてバス乗れないって利用者いないのかな。 >>46
自分が乗ったことがあるのは「かしま号」だけだが,
東関道高速バスは,トイレ設置車が多い。
但し,貸切応援の臨時便は…。 「183系は、頻回に停車するんだから、従来の特急型と同じ性能じゃなくて、
最高速度は抑えても、高加減速性能の車両にすべきだった」
って評する向きもあるようだが、どんなものだったんだろうか…。 >>48
房総向け専用車としてならその考えでもよかったが、実際のところ直流区間の汎用車として考えられた車両だし、
あずさとか181系と同じ列車の運用に就くこともあったから、性能的には同じくらいにせざるを得なかっただろうな。 6M3Tもあればそんなに加速悪くないし負荷も少ないでしょ。 ホームライナー千葉でお世話になった、それも189になりダサカコイイE257になり。
国鉄特急の天井内装、メラミンをネジで止めるシンプルな開放感が好きだった。 >>48
どういう理想があってもいいけど
その当時の国鉄の懐事情を考えてあげようね。 秋葉原のホームでは晩年においても美しかったなぁ…。
特別急行を名乗るに恥じないオーラがみなぎっていた。 わかしおに乗るたびに、急行外房と速度も停車駅も変わらないボッタクリ特急としか思えなかったけど、たまに同じマリの183系のあずさに乗ると、山岳路線をものともせず力走する姿に興奮したのを覚えている。 「あずさ」に転用する時は、5号車以外の号車札を全て入れ替えなきゃいけなかった。
8両分32箇所だから、何人かで手分けしてやったとしても、一仕事だっただろう。
しかも、平素の5・6号車(「あずさ」としては5・4号車)に関して、「自由席」から「指定席」に表示替えする必要もあった。 >>55
違うよ。@号車の号車札の裏はH号車、A号車の裏G号車…。
裏返しにするだけだよ。 >>40
さざなみが落ちぶれたのは何年か前に突然平日日中のさえんざなみを全廃したことだよ
千葉支社は旅客減を理由に全廃したけども、あれで一気に高速バスに流れたもんな
また183系8連だったのが2004年12月ダイヤ改正でE257系5連になって木更津からでは自由席は
混むようになったのも原因かな? さえんざなみって何かと思ったらw
それはさておき、たしかに空気輸送だった感は否めないが、
今は日中に走ってないのかー。
かつてのL特急が日中走ってないってのは寂しいモンだなぁ。
どちらかといえば さざなみ わかしお よりも地味だった印象の
しおさいが未だに健在なだけに。 竹岡であとから来る特急待避する普通があったくらいだったのにな〜
今日中の普通は青堀から先は閑古鳥が多い 竹岡って1人だけ仲間はずれみたいに1本も停車しなかったな。
那古船形もそうだが・・・。
そしてなぜか「君津市」なのに君津も停車しなかった。 君津に停まらなかったのは、木更津と連続停車になるのを忌避したせい(1985・3・14改正で一部が停車に)…?
ちょっと想定し難いけど、そんな気もしなくはない。
或いは、何らかの政治的な力が作用してたとか。 >>61 千葉以南の主要都市、木更津に隣接しているのと、近くに海水浴場等の観光地がないから通過していたということなんでは?君津って製鉄所しかないだろ。
最近になって道路事情がよくなり、この辺の観光地に鉄道で移動する客が減った(マザー牧場を初め、中途半端な観光地ばかりで飽きられたということもあるのかもしれないが)から、通勤やビジネスの客を見込んで君津に停めるようになったのでは?
マザー牧場の入口、佐貫町の凋落とは裏腹かもね。 >>62>>63
だいたいそういう理由だとは思うけど,
この区間の連続特急停車駅なんてむしろ珍しくない。
というのも,木更津〜館山間では,君津,竹岡,那古船形以外全部特急停車駅。
確か昭和50年3月改正時にこの区間に快速列車があって,この快速が通過して
特急が停車する駅が3駅あった。青堀とあと2駅は忘れたが,
普通列車が停車して特急が通過する奇異な駅として当時は有名だった。
他同種の駅は,新大阪,神戸,西明石,三島だけだった。
新大阪,神戸,西明石は新快速が通過。
三島は上り344M(大垣夜行)が通過。 君津は急行すら通過だった気がする。
確かに駅前に何にもなかったが・・・ 君津は、大規模な町村合併で市になったわけだから、中心市街地の規模は大したことない。
もちろん、市になるための中心市街地要件は満たしているが。
市原や富津にしても同様。広域町村合併が早くから行われていたのが、千葉と埼玉の違いだな。 >>64
>快速が通過して特急が停車する駅が3駅あった。青堀とあと2駅は忘れたが
佐貫町と保田だね。 70年代であっても、内房の海水浴場に接した駅なんて、夏以外は利用客が非常に少なかったと思うのだが。
それでも、通年、特急を停めていたということんんだろうか? >>68
そうだよ。
結局のところ,ドングリの背比べみたいに駅が並んでいるから,
どれか1つに停車させると他にも停車させざるをえない。
昭和50年3月10日改正時点での「さざなみ」停車駅。
東京,錦糸町,千葉,木更津,青堀,大貫,佐貫町,上総湊,浜金谷,保田,安房勝山,
岩井,富浦,館山,(千倉)。
自分の脳内の話で恐縮だが,
全国主要各線の8割方の駅名は順番に頭に浮かぶのであるが,
木更津〜館山間が怪しくなるのはこの特急停車駅のせいだと思う。
駅名覚えの理想としては,郡山,福島のような大駅があって,
本宮,二本松,松川のような中駅があって,その間に1〜3駅程度に
小駅がある状態だが,内房のこの区間は「中駅」だらけで順番が
頭に入らない。
余談だけど,毎日各駅停車に乗っている路線は,
意識しなくても順番を含めて駅名が頭に入るというのは鉄道マニアに限らず
非鉄一般人にも当てはまるとか。 木更津、館山間で浜金谷だけ停車の特急があったし、時刻表の文字が太字で書いてあっただろ >>69
>余談だけど,毎日各駅停車に乗っている路線は,
俺もこのスレにいるから鉄オタではある訳だけれど、
八街から神田まで電車通学していたときは、
総武各停の中野辺りまでそらで言えたわw
東は八日市場辺りまで言えた。
覚え方はたしかにキミと一緒。 >>70
なまじ,自分の記憶の引き出しの中で「馴染みのある駅」が続くと,
却って覚えられないもんだよ。
ある一時「努力」しても,半年ほっとくとあやふやになる。
試験前の3日間だけ努力しておいて記憶を保つパターンだなあ。
馴染みの度合をABCとすると,AとAの間に10駅くらい
その10駅のうちBが2〜3駅均等というのが理想的だな。
飯田線は豊橋か辰野から順番ならば全部思い出せる。
ただし,いきなり上市場なんていわれるとえーと南半分のほうだけど
水窪のあたり・・・うーん水窪より北だと山奥になるから違うから
えーとえーと・・・となってしまうが。 60・3・14改正で、「あやめ」「すいごう」は佐原以東各停になったが、
「しおさい」は全区間特急で残った。
この辺りは矢張り、「本線」経由の列車の貫録だったのか、と思える。 今日は車が使えなかったから、しおさいで出勤したぜー(。A 。) 183系がホームライナーで使われてた時は、6両で足りたんだろうか。
時期によってはその両数になったけど。 36年前の今日、宮脇俊三氏は「最長片道切符の旅」で「さざなみ10号」に乗った。
当時は、氏は余り有名じゃなかったような気がするけど、
誰かがそれ(あの「国鉄全線完乗者」だ!)と気付いたりしたんだろうか…? >>76
いちいち気づかないよ。
まだそれほど有名でもない。 クハ183-0の運転台側のデッキは狭かった(805mm)。
乗降は結構大変じゃなかっただろうか…。 >>78
はい、春場所に両国で下車しようとした力士がデッキで身体が抜けなくなり、窒息寸前でレスキュー隊が出動しました
からね…。
結局、前面貫通扉を開けてそこから下車してましたよ。まさか183系の前面貫通扉がこんな時に役立つとは思いません
でしたよ。 >>79
入れたところから出れなくなったのか?
それとも車内でいろいろ食べ過ぎたのか? >>81
ですから両国始発、終着の優等列車はいつでも力士が乗降できますように乗降扉の幅ややデッキが広い
急行型ばかりだったでしょ?
“論より証拠”いや、かつての相撲界では“前面貫通扉より153系”と言われたくらいです。 多くの力士が両国まで電車で移動するものだから、モーターに負荷がかかり総武線沿線で変電所のヒューズが何度も飛んだからな。
両国発着の153系はオールMだったなあ・・ かつての房総急行にキハ35も使われた本当の理由がわかるような気がしないか? となると183系の場合、ドアの数増やすより、片側1ドアでいいから幅広げた方がよかったのか…? 房総地区の113系にクモユニ74が併結されていたのも、海水浴に行く力士の移動にも使えるからだ。
183系も、2mの両開きドア1個にすることが真剣に検討されていたからな・・ >>85
ドアの数が多くて幅も広いNEX車が最適ってことかな。ゴルフバッグも置けるし。 >>82
バカも休み休みいえよ。
両国がターミナル駅としての全盛時代は,相撲は蔵前だよ。 栃錦の時代に両国国技館ができたと聞いたぞ
だから昭和30年代前半か >>90
お前ナンだな?
最近見ないと思ったら意外なところでカムバックか クハ183-0に関してはもう1つ、運転助士席側にあった小窓が戸袋窓だったのが特徴的だったと思える。
特急型車両に戸袋窓、というのは、当時は他に例がなかった筈だから。 クハ183-5にかいじで何回かお世話になった、狭いドアに注意しとくべきだった。
今なら車椅子対応で幅広ドアなんだろう。 狭いと言っても、いくら何でも乗降扉の700mmを下回っちゃいないでしょw
乗れるんだから通れるべょw
力士ネタでだれかつっこんでくれるかと思ってたけどな。
そう言やぁ、583系のデッキもTc前位寄りのデッキみたく狭いはずだよ、たしか。
コイツは1ドアで終着の上野では大荷物持った乗客がステップの段差に注意しながら全員がおりるから大変だいね。 >>94
その583を改造した715に世話になった時期があったが,
冬場は扉から隙間雪。ステップの先は凍っていることもあって危険だった。 それやこれやの事情からか、クハ183-1000(1500)では、運転台側のデッキが1075mmに広がった。
必然的に定員は、0番代より減少したが(58→56;1500番代は54)。 183系がブルーリボン賞受賞した時、何かイベントみたいな事は催されたんだろうか…?
今更ながらの愚問だが。 そういえば、そのような映像画像を
見た記憶はないな 国鉄って授賞記念てあんまやんなかったんじゃね?
友の会の試乗会もどうなん?やってんのかなぁ? 183系がブルーリボン賞なんて取っていたんだ
びっくり 「普通車の簡リク化>>>>食堂車無・片側2ドア」
っていう裁定だったんだろうな。
まぁ、同じ年の他の新車にどんなのがあったか、なんて事にも左右されるだろうけど。 183(189)系の非貫通クハの全長は何でクハ481-300以降の非貫通クハと同じ21250mmにしなかったんだろうか?
貫通0番台はクハ481-200と同じく21000mmで一緒だったが。 >>103
1972年製の特急車って国鉄183系電車と京成初代AE型電車しか無いのよね
成田が予定通り開業してたらどうなってたか分からない 京成初代AEが74年にブルーリボン賞。次点は381系。
381系があと1年早く登場していたら、こちらの方が73年のブルーリボン賞取っていたかもしれない
その点では183系はラッキーだったのかも。 いやいや、AEの運用開始が20日くらい先で75年受賞だったらよかったんだよ。
どうせ75年のブルーリボン賞は該当車なかったんだから。
そうすれば全てめでたし、めでたし! でも、183の翌年に381と、同じ国鉄で外見が似たような車両が2年連続で賞取るということはないだろう。
71年登場の京阪3000にしても、ブルーリボンもローレルも取っていない。偶々、タイミングが悪かったからか。
先代の特急車、京阪1900の発展型で、あまり変わり映えがしないと評価されたこともあるのだろうけど。 京阪3000系は何もなしだが阪急6300系や西鉄2000系は賞もらってるぞ
まあ投票する人間がヲタだけで、普通の感性持ち合わせてない人みたいだし
そんな集団の選んだ賞など何の値打ちもないと思うが 阪神なんか賞なんて知らんわと言わんばかりな雰囲気。 そうした意味では、183系の登場は、正に絶妙のタイミングだったわけか…。 クハ183とクハ481-200の運転室の構造って一緒っすよね?
昔の鉄道ジャーナルでクハ481-200から運転士が3人降りてきた写真があったけど、どうやって乗ってたんすかねw >>112
運転席部分は狭いけど、貫通通路という広い空間がある クハ183同士が向かい合わせになった、っていう事は流石になかっただろうな…。
貫通路の使用も、基本的には、
Tc+M'+M+M'+M+Tc+M'+M+Tc (G無9両編成)
なんていう形態だったから。 電気釜で貫通型って結局使用機会が非常に少なかったのと隙間風が吹くとかで乗務員に不評で広まらなかったな
国鉄末期に381系や485系で先頭車化改造したのは電気釜で幌剥き出しの簡易貫通型になってて特急マークが平面だった >>117
非貫通しかないの189系だけだから広まったと言えば広まっただろ クハ481-200で自動解結装備が4両いたでしょ、にも拘わらずそれが普及しない時点で貫通形は失敗よw
クハ183-0も地下区間の非常口としての機能を要求されていたならば、あれほど大袈裟なものでなく、シンプルで非常口と
しての要件を十分に満たすものを新設計して装備すればよかったんだよな。 >>119
単に設計変更が間に合わなかっただけだろ。というか、設計変更の成果が非貫通電気釜なわけで。
その頃に183-0が増備されてたらそんな車両も出たかもしれないが。 後で出たオランダ国鉄の電気釜も結局ドア閉鎖とかしてたな。 前にも話題が出たけど、もし幕張の183系が上越線に駆り出されたのが冬だったら、運転士からは文句が出たんだろうか…?
尤も、「いなほ」の先頭車にも貫通型がいたとは思われるが(少なくとも、485-1000の登場前は)。 >>123
それを言ったら165系や115系だって同じだよ。
165系なんて貫通扉の隙間に新聞紙詰めてたり、ガムテープでふさいでたよ。
貫通扉は車内側に回り込む構造だから高速になればなるほど風圧で隙間が広がっちゃうしな。
貫通扉の隙間のゴムパッキングがイカれてなきゃ寒くないんじゃん?
着雪して凍れば逆に隙間風が入らなかったりしてなw 冬しか上越線の仕事(=新雪)してなかったと思う?夏はそよかぜだったし。
57.11前の「とき」の代走の話? >>124
銚子電鉄だったか貫通扉を溶接して開かなくした事業者があったな
485系や583系でも貫通型の貫通扉を塞いだのある 新京成800は扉を完全に溶接しちゃってたな
晩年まで残ってた車両はデザインが間抜けになるから飾りの枠をつけてたけど
長距離走るわけでもないのによっぽど酷かったのか E217系は初期型は貫通扉が開いたが後期型から非貫通に変更されてパッと見分からないが開かなくなった 真正面から、また遠くから見たらわからないが、ホームでクハ183-0を見ると、貫通扉カバーが平滑でなくボコボコしていて
前面にこまかい虫の死骸がたくさん付いているのがある意味カッコよかった。
ボコボコは工作上やむを得ないことであるにせよ、特急運転のために闘っているみたいな?
スマートで流麗な車体を汚してまで乗客のために頑張ってるみたいな?
豪快なタイヤフラット音を響かせて、機関車の様にAW-2なんか鳴らされでもしたらツッコミどころ満載の房総の183系ではあるが
ツッコミどころなんて一気にぶっ飛んでしまうくらいだ。
派手な私鉄の特急が遊園地の乗り物くらい思えてしまうくらいの特急としての貫禄やスピリットを感じたけどな。 「しおさい」と「あやめ」の併結、とかいう発想はなかったんだろうな…。
クハの貫通路使うために併結、じゃ、本末転倒もいいとこだけど。 クハ183の貫通扉は6+3で有意義に活用できただけでも装備した甲斐があったというもんだ。
その他、この手の貫通扉を装備した車両は、そのほとんどが一生、処女のままで生涯を終えたものばかりだ。
貫通扉と言えば、カニ24-100番台の貫通扉の存在はまことにもって意味不明だ。 6+3運用を開始するに当たって、6両編成の先頭車は、
幌の追加装備したんだっけ。
9両編成は装備除外だったそうだけど。
カニ24-100ってどういう理由で付けたんだろう。
オハネフ25-100や200の治具を流用したのかねぇ。
逆に103系1000番台の105系改造車の非常扉ってよく
あんな上手い具合に幌が付くもんだなと。 >>134
>「しおさい」と「あやめ」の併結、とかいう発想はなかったんだろうな…。
設計時点では、485-200と同様併結運転を考慮してたんだけど、運転計画でそれが白紙になったんだよ。
>>136
>幌の追加装備したんだっけ。
追加装備じゃなくて整備。長年使ってなかったのを使用に耐えられるようにしたの。
てか、この手の話もループするなあ。 カニ24-100の貫通扉は、給電方向がそれまでの荷物室側だけじゃなくて電源室側への両方向に変更になったから、
通常運用ではまずないだろうけど何かしらの都合で逆向きに連結された時の為に設置したんじゃないかと。
じゃあ幌は?だけど、通常での連結を想定してはいないから、あくまでも非常時用ということで省略したのでは。 >>137
ttp://red.ap.teacup.com/marutetsu/352.html
それが、183系は幌は常時装着じゃなかったみたいなんだよね。
昭和52年ごろに品川駅でスライドドアを開放の画像見ると付いていないっぽい。
ttp://videolike.org/view/yt=bdw2aCP%7CRSr
で、ほぼ同じ?構造の485系-200で幌を収納した動画見ると、幌は結構目立つ
ように見えるんだが。
設計はともかく、非常用として幌は後日装備だったんじゃないの? もし東京駅が地下じゃなかったら、クハ183はいきなり非貫通型だった…!?
まさかって気もするが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています