【九軌】懐かしの西鉄2【九鉄】
>>193 は修正中にレスしてしまった。
>>185
北九州市は、5市が合併した細長い市で、平野にある単一の市だったら
違っただろうな。
折尾から門司港まで、国鉄路線が完全に平行してたおかげというか
路線長は長かったけれど、山が迫ってて沿線が発展する余地が少なかったし、
JR化後に完全に旅客輸送がスピードで負けた。
宮地岳線が負けたのと同じ感じ。 >>194 山が迫っていて市街地が細長いというのなら、神戸も同様なんだが。
筑豊の石炭と、それを利用した製鉄業といった重工業に依存しすぎて、産業転換が進まなかったことが不振の原因。 >>195
神戸に路面電車なんぞ残っていないのに意味不明 >>196 引き合いに出している宮地岳線って路面電車なのか? 小倉に原爆が落ちてたら、小倉周辺は専用軌道化され、高速電車に脱皮してた…かも >>194
小倉と八幡の間は全然別ルートだし
並行していた区間も国鉄(JR)駅が近接地にあったわけではないし 宮地岳線、いつもは単行だが香椎花園や宮地嶽神社に沿線の小学校が遠足のときだけ
学校から連絡が行ったのか、トレーラー車を引っ張って走っていた。 実質西鉄(北九州線)の延伸新線である筑豊電鉄が別会社で開業その後も吸収されなかったのは何故に? 採算見込みの分からない新規事業は、別会社で始めるのは、よくあること。 筑豊の炭鉱が閉山前に別会社にして人件費安くあげる例がよくあったね 筑豊に限らず北海道でも、大手はいったん全員解雇して、新会社に再雇用してたな。
企業整理だな。
三菱とかはこうして撤退する。
麻生とかは地元なので、セメントに転換する。
転換できなければ、貝島みたいに廃業だ。 北九州市は製鉄だけでなく、造船も不振になってしまったからな。
戸畑と八幡への通勤客が減り、JRが通勤電車を増やせば北九州線は相当な打撃を被る。 九軌は市内電車というよりはインターアーバン的な性格だったよね。
4市の拠点間を結ぶ路線網であり、車両の電動機の出力もやや高めだったし。
京急や阪神のように併用軌道の解消や車両の大型化が進んでいれば違った展開になっていたかもしれない。 JR化から30年、しかし民営化直前には現状と変わらないダイヤになってたからな
普通列車が一時間に一本なんて信じられんだろうな・・・ 福岡市内線の廃止前までは、貝塚の工場で1067mmの宮地岳線も1435mm福岡市内線
も定期検査やっていたの? 1067mmと1435mmの線路が混在した当時の貝塚駅&
車庫、工場の構内配線図何処か載っている文献やサイト知りませんか? >>215
福岡市内線の車両は、宮地岳線の多々良工場で検査していた。
一部の改造や廃車は、二日市工場でやっていた模様。
大牟田本線を深夜走る、棒連結器で牽かれている市内線車両の写真を見たことがある。 >>217
軌道との平面交差があった薬院の南側、
大牟田線の上り線から分岐した謎の側線があったな >>185
その並行するJR・国鉄も1970年代と比べると北九州市内の利用客は落ちてるんだよね
西鉄が廃止されてその分増えていてもおかしくないのに
やはり北九州が衰退してるのが一番の要因だろうね 300形が急行で轟音立てながら走ってた記憶が辛うじて残る
1983年に引っ越して福岡を離れてしまって以来西鉄には乗れてない
天神の西日本書店で西鉄の本を買ってもらって毎日眺めてた ちょいと質問。
ライオンズが存在していた時代、大牟田線ではナイター臨の運転はなかった?
あと、平和台アクセスとしての市内線の増発とか。
宿敵南海では1964年までではあるがナイター臨時特急があったらしいが・・・
全然聞かないので気になりました。 >>223
福岡市内線に関しては平和台での試合に合わせて増発があったけど
質問する前に本とか雑誌で確認しなかった?
キャンブックスにすら載ってる内容だよ 雑餉隈自動車営業所の線路を挟んで向かい側には
何かちょっとした規模の車庫のようなものでもあったのでしょうか?
地形というか道路の形がそのように思えるのですが・・・
1975の写真ではすでに駐車場になっており
1956の写真でも怪しい感じですので相当昔の話ではないかとは思いますが >>225
昔の地図を見ても謎
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=33.547102&lng=130.46293200000002&zoom=16&dataset=fukuoka&age=2&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 >>226
情報ありがとうございます
どの時期の地図にもそれらしき表示はありませんね
雑餉隈営業所も隣接しているわけですし
何か意味があるのかもと思ったのですが・・・ 戦前の話になりますが、九鉄時代の昭和14年11月1日改定時刻表を見ますと、各停は雑餉隈折り返し列車が朝夕に多数設定されております。
一部春日原着発もありますが、数本です。
各停は、日中は二日市、久留米折り返しが基本です。
大牟田直通の各停は稀です。大牟田へは、准急(ママ)が約25分間隔で、急行は3往復です。
雑餉隈の空地は、電留線があったと推測されますが、どうでしょうか? 資料持ってるならここで質問するよりも専門家当たればいいのに >>228
情報ありがとうございます
雑餉隈折り返しとは驚きです
>>229
なるほどその線もありですかね
自分でも図書館なりで資料を探してみようと思います まぁでも西鉄に詳しい方はほとんど鬼籍に入られちゃったね(徳田は別w)
奈良崎さんとか 昔のピク増刊で、徳田の雑文が載っていて「西の恋人は西鉄です。鉄に名がつていないのが、おかしく思う方がいらっしゃるかもしれません。」
とか、お前の事を読者全員が知っているかのような厚かましいことを書いていたぞ。
別に、名鉄だけやっていろと言うような偏狭なセクショナリズムはないが、
増刊号で誌面を割くような内容ではなく、貴重でもない、ただただ、自分の思い出話だった。
最近の増刊での、自称ほのぼの鉄道ライター根本氏のぶらり乗り歩き旅のような、埋め草のような位置づけだったのかもしれん。
それこそ、奈良崎さん、谷口さんの思い出話とかだったら良いが。 奈良崎博保先生、谷口良忠先生、井尻慶輔先生、吉富実先生と連なる系譜か。
吉富先生以外は皆鬼籍に入られてしまったが。 >>233
落ち着けと言いたいところだけど、あいつの所業を見るとなw 西日本鉄道創立110周年記念誌『まちとともに、新たな時代へ』
ttp://www.nishitetsu.co.jp/110th_history/ >>234
えー井尻氏亡くなっていましたんや!
最近FBの更新無いなーと思っていたんやけど・・・ 600形の変化は興味深かった
デビュー当時はいかにもローカル私鉄然とした野暮ったい外観だったのが、
冷房化・方向幕取付けと前照灯位置移設・塗色変更・スカート取付け・下枠交差型パンタ採用等を経て車体自体は同じなのに別形式かと思う程洗練されたスタイルになった
なかでも626-627-677と630-680-631-681の編成は600形の最終完成形
特に先頭車両の626と681はスカート付きで前部にパンタが無く貫通幌も取り付けられなかったことで600形の中では最もスマートな外観だった コロタン文庫の600の解説文には
「2〜7両まで自由に編成が組めるのが特徴」とあったが
本当だろうか >>243
Mc+Mc+Tcの3連があったからできた 西鉄電車まつりで昔のとびうめのヘッドマーク出てたけどアレっていつ頃のもの? 大牟田線1000形、1300形には、号車番号と座席番号が付いていたけど、
実際に指定席として機能した実績はあったのでしょうか。 >>252
島原連絡船と合わせて雲仙号として運行した時に使ったとかいう話をどっかで読んだような
直接は知らない。 急行雲仙号は500形の写真を見たことがあるな。
1000形1次車登場は昭和32年だっけ?
雲仙号の廃止はいつだったのかな? >>231
自己レスですがまちBBSの雑餉隈スレにこんな書き込みがありました
> 746 名前: 名無しでよか? 投稿日: 2019/01/28(月) 23:46:36 ID:go+5SJ9w [ KD106133126146.au-net.ne.jp ]
> 雑餉隈生まれの父(60)から聞いた話しによれば、もともと雑餉隈駅はちょうど新駅ができる西鉄バスの営業所付近に建てる予定で、現在の大橋駅くらい大規模な駅にする計画だったらしい
> それを当時の住民が「急行やら停めたら街が寂れるけん他んとこに建てれ!」と大反対してあんな小規模な駅になったとか >>255
そういう口碑は大変貴重なんですが、社としてどのような判断をしたか、公文書の裏付けも取って欲しいですね。 >>257
私企業ですが、鉄道事業というのまず国の監督行政で許認可が筆よです。
それ以前に、地元で施設の工事方法の変更などで、県知事や自治体の許認可が必要です。
他に、根回しとして、地元の自治会などに挨拶回りをしたり、説明会を開いたい、議事録も残っていたりします。
私企業だからこそ、公文書の記録が残る可能性が高いです。
国鉄の場合など、公文書が残りません、管理局内での決裁文書で終わりますから、
表にでません。 急行を停めたら街が寂れるというロジックが分からん
むしろ駅の格が上がって活性化されるのでないか 急行停まるところ駅弁あり
駅弁あるところ新制大学あり >>225
博多駅への新線計画とは関係ありませんでしょうか。
そのあたりから分岐させるために敷地を用意していたとか。 >>262
西鉄福岡駅北改札口前で西鉄プラザが経営していた「ビッグカップ」で販売していたランチボックスは駅弁だと思う。
西鉄久留米駅上りホームで販売していたサンドリアの箱入りハンバーガーを駅弁というのはちょっと無理かw 透明パックに三角おにぎりが3つ、あと御新香が少々、が売ってた >>262
俺もバス弁しか知らんかったのだが、鉄友から>>264の話は聞いた 昨日NHKでタモリが太宰府天滿宮ロケ放映されていたが西鉄に何らか言及するかと期待したが何もなかった 駅に行ったわけではないからね
あくまでも神社が目的 そういえば貝塚線に香椎花園前という駅があるけど、昔あった遊園地にちなむ駅名らしいね。 >>272
廃園になっても駅名変えなかったわけだね 大牟田線の1000形電車には座席番号を示すプレートが貼られていたなぁ。
指定席として運用したことは一度でもあるの? >>269
ビッグカップの「ランチボックス」は盛りだくさんで栄養のバランスも良かったと思う。
フライドチキンが1本入っていて、それがとくに美味かった。
西鉄福岡駅北口改札前の「ビッグカップ」は、イートインは改札外。改札内は、持帰り専用の窓口があった。後者はモロ、駅弁のコンセプトよね。 やっぱ西鉄の特急と言えば、2000形でしょ、
2ドアに黄色いカラーリングが特急車の証。 完全同意
後継の8000には、どうも肩入れできなかった そうか?
あれほど眺望の良い鉄道車両はそうそうないよ >>277
検査の都合か何かでたまに5000系が特急に就く事があった
もっと昔、1000系の代わりに600系が特急になったこともあるのかな 普通に600が代走してたよ
45年ぐらいからは600の5~6連が徐々に増えていったイメージ。
1000形は4連固定が痛かった。一時は1300の中間車を組み込んで5連を4本作る話もあった。 1000系はオールMで4連が限界と言われていた
客が増えてもキャパを増やせない壁にぶつかったわけね 1300形の中間車は
1000形より新しかったし、
電動機のパワーもあった。
2000形登場後は、
それを1000形の6連化に使えば
急行用として最高最強やん、
と思っていたのに、冷房改造もせずに
1000形よりも早くさっさと廃車されたのが
勿体なかったね。 そういえば、昭和50年代前半までは
600形、700形は冷房改造可能だけど
1000形、1300形は技術的に不可能だ
といわれていたんだったね。
あれが運命を決めてしまったんだった。
後年1000形も改造可能となって
結局は冷房化されたけど、
時すでに遅し、だった。 1300形は先頭車が旧600形のまんまの木造だったからね、老朽化も厳しかったんだと思う
昔乗る時は先頭車ばっかり乗ってたけどね、中間車より乗り心地が良かったからw 半鋼製車ね。
だから、1000形の枕詞は「全金属製」だったw 1000形は格下げ改造せずに特急車のままで廃車されたほうが良かったな
余生を無駄に伸ばしただけのような希ガス 2000形が特急を担当するようになった頃は、
100形やら300形やらの旧性能車がまだウジャウジャいたころだから
貴重な新性能車である1000形を廃車するわけにはいかないもんね。
1000形が普通電車用に改造して生き残ったから
5000形の増備途中で旧性能車淘汰のタイミングが訪れ
普通電車のスピードアップ(運転曲線の変更)が実現したらしいし。
それに、あの頃は、冷房車はなるべく優等列車を担当させる方針だったからね。
なにしろ当時はまだ、頻繁にドアを開ける普通電車を冷房しても意味がないじゃないか、
という理屈がまかり通る時代だったからねぇ。
でももし、1000形の冷房改造が技術的に可能となる時期が
昭和51〜52年頃までに到来していたら、ガラッと話は変わっていたかもしれないね。 500系は名鉄パノラマカーのルーツだとか小田急SE車にも影響があったとか、
一部では評価が高いのに現場の評判が悪くて早くに廃車になって残念だな。
見直してほしい名車だと思うけどね。 現場での評判の悪さはどのような内容だったのですか。 >>293
横からだけど、ピクトリ74年4月西鉄特集で中の人が
「最も性能が劣り廃車の噂も」と書いてある >>294
292です。おそれいりました。
記憶と文献が結びつかない私と違い、
たちまち名回答を出す博識に脱帽です。 >>295
そんな大層なもんじゃないけど、500が好きで、当該の本もボロボロになるまで
読んだものですから。実は乗れたことが無く、連接の走行音を聞いてみたかった 500形の連節部車内側の写真とか、
クロスシート時代の座席の写真とか、
運転席の写真とか、見てみたいものです。
そういえば、昭和50年代初頭まで、
まだ大牟田線の電車(300形や更新前の100形あたり)の車内には
スタンションポールが残ってましたね。 二日市駅2番のりば
昔は福岡行きのりばとして普通に使われていたが
今は正月三ヶ日しか使われなくなってしまった >>287
1300形の先頭車は附随車なので静かでしたね。
また、600形から1300形へ組み替える際に台車も新調して空気ばね台車になっていました。
さらに、クロスシートのピッチが1800mmと、中間車の1500mmよりも300mmも広かったという点も極楽でした。 >>300
そうですが、それはフローリングと呼びましょうw
1号消毒液が黒っぽく染みてお洒落でしたよw オイルステイン仕上げのフローリングw
物は言いよう。 >>300
1983年夏に小郡から二日市まで乗れた
先頭車からの前面展望だけが興味あって床は見てなかったなあ
良い思い出 最晩年か
冷房化されず色は塗り替えられ端役のローカル輸送の余生
デザインはそのままで車体を更新する技術とかあればなあと >>299
600の先頭車に新調した台車を穿かせて1300にする際に、古い台車は捨てずに新調した全金属製車体に穿かせて300に組み込み326、327としたんだよね。
そして600の中間車も300に組み込んで324、325にしたんだよね。
そんなことするくらいなら、素直に1000をあと2編成増備して600はそのまま3両編成のままで使えばよかったのに。 初代600の台車って特徴あるね
一目見たら忘れられない 他社では見かけないスタイルだった
乗り心地はどうだったんだろうね 600時代は、324、325の大きくバウンドする乗り心地と甲高い電動機音から類推するのみ。
1300時代になってからは、モ1300は1000の後期車とほぼ同様。
ク1300は最高によかった。全般に静粛性に劣る西鉄の車両としては異例の静かさだったのもよく憶えている。 冬、車内の暖房が効いてくると、どこからかミシッとかピシッとかいう音が聞こえてくるのはご愛敬。 ク1300は最晩年に一度乗れただけだが
窓が天地方向に長かった印象がある
また乗務員扉の形が長方形ではなく、前面の傾斜の分だけ削り取られたような歪な形をしていたのも思い出に残る
もっと長生きしてほしかった 旧600形、313形が張りあげ屋根に縦長の窓が並ぶスタイルでしたね。
近畿車両風味? >>313
ク1300のあの乗務員扉は見るからにモロに木製だったのが味わい深かった。 200形の乗客用の扉も拡張改造されるまでは木製だったね。 >>313
モ1300が1000形より短命だったのが勿体なかったね。 >>307
ク651、ク652の台車を捨て、
ク1300形4両分の台車、主幹制御器、ブレーキを新製し、
モ326、モ327の車体を新製しているので
あまり節約になったような気がしませんね(苦笑)。
考えてみるとその後の326、327も短命でした。