【九軌】懐かしの西鉄2【九鉄】
>>126
西鉄は1000形って福岡市内線、北九州線、大牟田線初代特急車と
3つが重複しているのでややこしい。
これは福岡市内線の車両か。 そういや、600形も大牟田線に新旧がいて、北九州の路面電車にいたが
福岡市内線には居なかったので、混同は少ないのかw >>128
561形の601-603が北九州線と重複していた。
某誌の西鉄特集で601に「600形」のキャプションが付いていたw だから鉄道線は「系」、軌道線は「形」と使い分けていた 新しい 動画がアップされていましたね
本当に( ´∀` )かしますね
https://www.youtube.com/watch?v=g2ARDpiNAt4
この作成者
神戸電鉄のツボを良く理解してる。
神戸電鉄を知り尽くしていないと
こういう動画を作成するのは無理ですね
しかも菊水山には といまりません〜って
懐かしすぎます
間接 撮影アップがとても残念ですね
次も期待します!!!
正に!! これが 究極のジオラマ撮影ですね
この人 Nゲージのジオラマ撮影の神動画では?? 菊電車は大牟田線で10月に臨時列車運行されるが,菊水山? ここって
いつから「電車、バス」から
「バス、電車」になったんだろ? >>119
寸詰まりw
言い様だな。でも子供のころそんな風な言いぐさでコケにしてる友達がいたわ >>119,136
模型のBトレインショーティまではなくても、近い関係だろうなw
1000と20
でも、開業以来からの旧型車体の1型を、足回りそのまま車体更新するにあたって
1000形をモデルにしたらしいけどね、20形。
車体更新だけでなく、台車も新品のほとんど新車の奴も出現したけどね。 元博多市内線の熊本市電5014のピカピカの姿を見て涙目。 筑紫にて5000形トップナンバー5101Fの解体開始 >>135
前は並列くらいだったが
明らかな傾斜は大牟田線沿線が人口減った辺りかなぁ
2000年代辺りの
後福岡市西部とか人口増えたり宮地岳線縮小したりして >>136
揶揄のニュアンスは込められてないと思うが‥‥違うの?? 保存車を扱うサイトで見たが壱岐に保存されている福岡市内線500形は
屋根をFRPにしたもんだから張り上げ屋根みたいになってしまったな
あれじゃあまるで長崎の200形だ 600形の2連の異端児ク653だが,これよりも300形をつなげた方が,3扉車体だから釣り合うと思ったものだ。
やはり300形では重かったのだろうか? >>146-147
3連組んでたモ10形2両を宮地岳線に持っていって
余ったク156が、新製モ603と組んでク653になった
603に既存のク300と組ませ、余ったモ300とク156とした方が
見てくれはいいけど、制御機器とか色々改造する
手間が増えるだけだから、やらなかっただろうとしか。
300でも3扉は戦後製で新しかったし。
当時は同じ300形でも混結出来なかったりしてた。 8000「鬼籍に入りました。今後こちらのスレでお世話になります」 昭和30年代半ばまでの西鉄の車両政策はカオスな気がする。
100系を散発的に宮地岳線に島流ししたりする一方で 木造車鋼体化で150を増やしたり
かと思えば603の連結相手に生贄(恐らく 100系で残る仲間より長生きできない)にしたり
甘木線で何時までも200や気動車改造の60を延々と使ったり
旧600系の編成を解いたり・・・
5000や8000が無くなるけど、より古い600は、貝塚線(旧宮地岳線)で何時まで使うの?
足回りの大手他社中古購入とか厭わない会社だから今度は、他社中古の直接投入とかしそう? 貝塚線(旧宮地岳線)は当初600形を新製投入する予定だったんだよな。
それが20年以上経て中古車としてやってきて、50年近く経って全車両が600形に統一。
ある意味本望なんじゃないの?(適当) 甘木線は元々お荷物なうえに、出自が吸収した三井電気軌道なので、
まま子扱いで、車両投資する気がなかったのでは。 回顧じゃなけど、天神線と貝塚線って現業人事面での交流無いの?
両者に限らず 昔は軌道もブロック単位で独自の運転取り扱い(行先表示とか)があった
みたいだから 旧設立会社毎の習わしや風習 プライドみたいに根強く残っていたみたいだし 西鉄は無理矢理の戦時統合だからな。
福岡市内線でさえ、福博と博多電軌と別だったし、
九鉄と九軌なんて、あまりに遠方で無理がありすぎたし、
宮地岳線なんて、博多湾鉄道で本来香椎線と一体だったわけだから。
無茶苦茶な合併だよ。 >>155
戦時での思い付きでしかない大合併だったからな。
関東も同じ感じで「大東急」になったけど、さすがに無理があってすぐに
分割されたもんな。 155 戦時統合の副産物として、福岡県全域にわたる広大なバス路線網を持てるようになったのでは? それでバスの方が本業になったわけで。 >>152 それって昭和30年代後半〜40年代初頭に 狭軌版600系が造られる筈だったという事? >>158
そそ。
600形1次車は昭和37年、大牟田線に4両、宮地岳線に2両投入する計画が、
大牟田線の乗客数が伸びていたので6両とも大牟田線に投入し、
代わりに10形が宮地岳線に転属となった。 >>159 軌間が違うのに同じ600系ですか・・・凄
或る意味 当時の宮地岳線にはソコソコ需要があった?
現場サイドじゃスゴイ遺恨とか起こってそうですね。
1形を更新して20系を造るとき 甘木線近代化の為に入れるように少しだがテコ入れ
するとかそういう発想は何故、無かったのかな? >>160
新製車を作るとは言ってたが600形とは言ってない 実際両運の600もどきになったとは思うが。 >>160
100形を甘木線に持っていく話はあったにはあった 西鉄航空が本業か?
宮地岳線(湾鉄)、甘木線(三井電軌)、北九州線(九軌)なんて、継子扱いだよ。 北九州線まで傘下に収めたから、子会社として筑豊電鉄造って北九州と福岡を結ぶ路線を建設しようとしたわけだろ。計画は途中で挫折したが。 >>164
昭和50年代に発行されたコロタン文庫には
「そのうちバスだけの会社になるかもしれない」なんて書かれてたなぁ 西鉄がバス会社だと言われて本気で怒る奴がおったんかい >>168
スルースキルが低いやつはどこにでもおる 今となっては想像できないだろけど、戦前は筑豊のど真ん中、直方周辺は相当繁栄してたわけで、福岡からこの地域を経由して北九州に向かう旅客鉄道を建設しても採算が取れると考えられていたんだろうな。
湾鉄や九軌も福岡・北九州間ルートを構想してたのだから、この地域の私鉄を一本化して新線建設構想も統一させようとしたことは不合理ではない。 湾鉄の構想は大正期で、福間〜若宮〜宮田を抜ける構想で、早くに消滅したから、一本化も糞もないぞ。 狭軌版600系が造られて居たら 途中で木造車の鋼体化は、止めたのかな?
その場合 九州車輌は、仕事を失っていたのだろうか?それとも川車のライセンス?
で狭軌版600系製造の、おこぼれオーダー製造したのだろうか?
当時 系列の大分交通 別大線が連接車1001を 西鉄の軌道線1000形?連接車
を参考オマージュして東洋工機(確か西鉄のソレの製造に参入していない?)で造れてた
けど、狭軌なら1000形じゃなくて 北方支線の600形を参考にする方が妥当だと思う
のだが、何故故? >>167-168
大牟田線ですら複線化が頓挫して継子扱いとかたまったものじゃないな。
西鉄になって良いことなし。大東急みたいにさっさと解体されれば良かったのに。 大東急と違い西鉄が解体されたら、準大手に中小私鉄ばかりになっちまうわな。
北九州市内線は80年代までには全廃されてたのでは? バス転換がより早く進んだというわけだ。 宮地岳線が筑豊電鉄みたいに路面電車タイプの電車で運行してたりして >>175 福博電車(福岡市内線)への乗り入れを本格的に行うかどうかだな。福博との経営統合の可能性は高いと思う。ただ、宮地岳線の標準軌改軌が必要となる。
貝塚線だけ改軌して福岡市内線に事実上編入したことを考えると、宮地岳線の福岡市内乗り入れがかねてからの課題だったと思うんだなあ。中小同士の合併でそこまでの資金を捻出できたか? >>宮地岳線の福岡市内乗り入れがかねてからの課題
えっ?
旧湾鉄が新博多(千鳥橋)まで来ていたのを、福岡市内線に譲ったわけで、
課題も何も、既に来ていたのを短縮されたわけだが。 >>177 結果 福岡市内線として巻き添え廃止って理不尽じゃね?
東京でこんな事になったら苦情、避難轟々になった思う。
処で 貝塚ー千鳥橋 間の福岡市内線移管にともなう 運賃体系の変更とかは、
どうだったの? 市内線が距離制、ゾーン制、一律制いずれの場合でも
貝塚を跨ぐ場合とか厄介な事(実質値上げ)なったのでは?
定期券や回数券とか?も
北方支線の連接車は、330形だった(失礼) ?に思い古い本を引きずり出して調べ記憶
違いに気付く・・・俺も盲禄したものだ・・・ >>174
バス転換が早く進むとの根拠は?
路面電車が存続する可能性も多分にあったわけだが。
大牟田線にしても、九鉄時代のほうが国内鉄道史に残るようなことをやっていたんだしな。
準大手や中小ばかりの弱者連中に陥るってことはないでしょ。 >>179 北九州市が70年代以降、斜陽化してきていることを考えるべきなんでは?
八幡の高炉が止まったら、通勤客減少するでしょ。
九鉄時代と言ってるが、戦前と戦後とでは鉄道への依存度が大きく異なってくる。
戦前、画期的だったからといって、戦後もその勢いが継続する保障はない。 >>180−181
30万都市豊橋なんかでも存続してるのに何言ってんだ? >>161
西日本新聞に連載の大牟田線物語が1000登場〜貨物電車へ来たから、
そのうち取り上げられるんじゃね? >>180
>戦前と戦後とでは鉄道への依存度が大きく異なってくる
大牟田線に関して言えば戦後のほうが利用者を伸ばしているんだが。
会社としての鉄道への事業依存度を言ってるのなら、それはそれで西鉄なんかよりずっと事業依存度は高くなる。
>>182
九州内でも北九より都市規模の小さい熊本・鹿児島・長崎で存続しているしな。 北九州市内を横断する鹿児島本線がJR化後都市圏内交通として
それなりに使えるようになったのも一因かもしれない あと平行するバスを同じ会社がやってたのもあるよね
効率良くするために一本化したくなるよ >>186 仮に西鉄が解体され、福岡県内のバスが西鉄バスに統合されなかったとしても、各社がバス路線を拡張し鉄道の不採算区間をバス転換していったのではないかなあ。
北九州市は1965年から90年にかけて人口がほとんど変化していない。90年代以降は減少傾向。製鉄など市中心部の産業は停滞気味で、郊外からの通勤客も増えない。
北九州線は、寂れかけた中心部にJRと並行して走っており、JRになって鹿児島線の通勤輸送が改善されたことも影響した。
市の西方、宮島方面に市街地が拡大し、広電とJRが共存できた広島とは異なるんだな。 北九州市は財政厳しいから、路面電車の存続のための補助金出せる余裕はあまりなさそう。西鉄がバスなどの副業収益を回して、2000年まで何とか存続させてきたということかな。 拠点間(小倉と黒崎)の輸送はJRと被っているけど、中間地帯はJRと全く別のルートだったし。 >>189 戸畑の部分にしても、支線(戸畑線、枝光線)が並行していた。拠点に製鉄所のあった八幡も加えるべき。ここもJRの駅と至近距離。 昔は競合しない区間の近くに通勤需要がたくさんあったから
良かったんだろうけどね >>187
西鉄の場合大牟田線は黒字、バスは福岡市内も赤字でこのザマだ。
戦時統合で西鉄になったばかりに迷惑千万。 >>185
北九州市は、5市が合併した細長い市で、平野にある単一の市だったら
違っただろうな。
折尾から門司港まで、国鉄路線が完全に平行してたおかげというか
路線長はてしかも山が迫ってて
JR化後に完全に旅客輸送がスピードで負けた。
宮地岳線が負けたのと同じ感じ。 >>193 は修正中にレスしてしまった。
>>185
北九州市は、5市が合併した細長い市で、平野にある単一の市だったら
違っただろうな。
折尾から門司港まで、国鉄路線が完全に平行してたおかげというか
路線長は長かったけれど、山が迫ってて沿線が発展する余地が少なかったし、
JR化後に完全に旅客輸送がスピードで負けた。
宮地岳線が負けたのと同じ感じ。 >>194 山が迫っていて市街地が細長いというのなら、神戸も同様なんだが。
筑豊の石炭と、それを利用した製鉄業といった重工業に依存しすぎて、産業転換が進まなかったことが不振の原因。 >>195
神戸に路面電車なんぞ残っていないのに意味不明 >>196 引き合いに出している宮地岳線って路面電車なのか? 小倉に原爆が落ちてたら、小倉周辺は専用軌道化され、高速電車に脱皮してた…かも >>194
小倉と八幡の間は全然別ルートだし
並行していた区間も国鉄(JR)駅が近接地にあったわけではないし 宮地岳線、いつもは単行だが香椎花園や宮地嶽神社に沿線の小学校が遠足のときだけ
学校から連絡が行ったのか、トレーラー車を引っ張って走っていた。 実質西鉄(北九州線)の延伸新線である筑豊電鉄が別会社で開業その後も吸収されなかったのは何故に? 採算見込みの分からない新規事業は、別会社で始めるのは、よくあること。 筑豊の炭鉱が閉山前に別会社にして人件費安くあげる例がよくあったね 筑豊に限らず北海道でも、大手はいったん全員解雇して、新会社に再雇用してたな。
企業整理だな。
三菱とかはこうして撤退する。
麻生とかは地元なので、セメントに転換する。
転換できなければ、貝島みたいに廃業だ。 北九州市は製鉄だけでなく、造船も不振になってしまったからな。
戸畑と八幡への通勤客が減り、JRが通勤電車を増やせば北九州線は相当な打撃を被る。 九軌は市内電車というよりはインターアーバン的な性格だったよね。
4市の拠点間を結ぶ路線網であり、車両の電動機の出力もやや高めだったし。
京急や阪神のように併用軌道の解消や車両の大型化が進んでいれば違った展開になっていたかもしれない。 JR化から30年、しかし民営化直前には現状と変わらないダイヤになってたからな
普通列車が一時間に一本なんて信じられんだろうな・・・ 福岡市内線の廃止前までは、貝塚の工場で1067mmの宮地岳線も1435mm福岡市内線
も定期検査やっていたの? 1067mmと1435mmの線路が混在した当時の貝塚駅&
車庫、工場の構内配線図何処か載っている文献やサイト知りませんか? >>215
福岡市内線の車両は、宮地岳線の多々良工場で検査していた。
一部の改造や廃車は、二日市工場でやっていた模様。
大牟田本線を深夜走る、棒連結器で牽かれている市内線車両の写真を見たことがある。 >>217
軌道との平面交差があった薬院の南側、
大牟田線の上り線から分岐した謎の側線があったな >>185
その並行するJR・国鉄も1970年代と比べると北九州市内の利用客は落ちてるんだよね
西鉄が廃止されてその分増えていてもおかしくないのに
やはり北九州が衰退してるのが一番の要因だろうね 300形が急行で轟音立てながら走ってた記憶が辛うじて残る
1983年に引っ越して福岡を離れてしまって以来西鉄には乗れてない
天神の西日本書店で西鉄の本を買ってもらって毎日眺めてた ちょいと質問。
ライオンズが存在していた時代、大牟田線ではナイター臨の運転はなかった?
あと、平和台アクセスとしての市内線の増発とか。
宿敵南海では1964年までではあるがナイター臨時特急があったらしいが・・・
全然聞かないので気になりました。 >>223
福岡市内線に関しては平和台での試合に合わせて増発があったけど
質問する前に本とか雑誌で確認しなかった?
キャンブックスにすら載ってる内容だよ 雑餉隈自動車営業所の線路を挟んで向かい側には
何かちょっとした規模の車庫のようなものでもあったのでしょうか?
地形というか道路の形がそのように思えるのですが・・・
1975の写真ではすでに駐車場になっており
1956の写真でも怪しい感じですので相当昔の話ではないかとは思いますが >>225
昔の地図を見ても謎
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=33.547102&lng=130.46293200000002&zoom=16&dataset=fukuoka&age=2&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 >>226
情報ありがとうございます
どの時期の地図にもそれらしき表示はありませんね
雑餉隈営業所も隣接しているわけですし
何か意味があるのかもと思ったのですが・・・ 戦前の話になりますが、九鉄時代の昭和14年11月1日改定時刻表を見ますと、各停は雑餉隈折り返し列車が朝夕に多数設定されております。
一部春日原着発もありますが、数本です。
各停は、日中は二日市、久留米折り返しが基本です。
大牟田直通の各停は稀です。大牟田へは、准急(ママ)が約25分間隔で、急行は3往復です。
雑餉隈の空地は、電留線があったと推測されますが、どうでしょうか? 資料持ってるならここで質問するよりも専門家当たればいいのに >>228
情報ありがとうございます
雑餉隈折り返しとは驚きです
>>229
なるほどその線もありですかね
自分でも図書館なりで資料を探してみようと思います まぁでも西鉄に詳しい方はほとんど鬼籍に入られちゃったね(徳田は別w)
奈良崎さんとか 昔のピク増刊で、徳田の雑文が載っていて「西の恋人は西鉄です。鉄に名がつていないのが、おかしく思う方がいらっしゃるかもしれません。」
とか、お前の事を読者全員が知っているかのような厚かましいことを書いていたぞ。
別に、名鉄だけやっていろと言うような偏狭なセクショナリズムはないが、
増刊号で誌面を割くような内容ではなく、貴重でもない、ただただ、自分の思い出話だった。
最近の増刊での、自称ほのぼの鉄道ライター根本氏のぶらり乗り歩き旅のような、埋め草のような位置づけだったのかもしれん。
それこそ、奈良崎さん、谷口さんの思い出話とかだったら良いが。 奈良崎博保先生、谷口良忠先生、井尻慶輔先生、吉富実先生と連なる系譜か。
吉富先生以外は皆鬼籍に入られてしまったが。 >>233
落ち着けと言いたいところだけど、あいつの所業を見るとなw 西日本鉄道創立110周年記念誌『まちとともに、新たな時代へ』
ttp://www.nishitetsu.co.jp/110th_history/ >>234
えー井尻氏亡くなっていましたんや!
最近FBの更新無いなーと思っていたんやけど・・・ 600形の変化は興味深かった
デビュー当時はいかにもローカル私鉄然とした野暮ったい外観だったのが、
冷房化・方向幕取付けと前照灯位置移設・塗色変更・スカート取付け・下枠交差型パンタ採用等を経て車体自体は同じなのに別形式かと思う程洗練されたスタイルになった
なかでも626-627-677と630-680-631-681の編成は600形の最終完成形
特に先頭車両の626と681はスカート付きで前部にパンタが無く貫通幌も取り付けられなかったことで600形の中では最もスマートな外観だった コロタン文庫の600の解説文には
「2〜7両まで自由に編成が組めるのが特徴」とあったが
本当だろうか >>243
Mc+Mc+Tcの3連があったからできた 西鉄電車まつりで昔のとびうめのヘッドマーク出てたけどアレっていつ頃のもの? 大牟田線1000形、1300形には、号車番号と座席番号が付いていたけど、
実際に指定席として機能した実績はあったのでしょうか。 >>252
島原連絡船と合わせて雲仙号として運行した時に使ったとかいう話をどっかで読んだような
直接は知らない。 急行雲仙号は500形の写真を見たことがあるな。
1000形1次車登場は昭和32年だっけ?
雲仙号の廃止はいつだったのかな? >>231
自己レスですがまちBBSの雑餉隈スレにこんな書き込みがありました
> 746 名前: 名無しでよか? 投稿日: 2019/01/28(月) 23:46:36 ID:go+5SJ9w [ KD106133126146.au-net.ne.jp ]
> 雑餉隈生まれの父(60)から聞いた話しによれば、もともと雑餉隈駅はちょうど新駅ができる西鉄バスの営業所付近に建てる予定で、現在の大橋駅くらい大規模な駅にする計画だったらしい
> それを当時の住民が「急行やら停めたら街が寂れるけん他んとこに建てれ!」と大反対してあんな小規模な駅になったとか >>255
そういう口碑は大変貴重なんですが、社としてどのような判断をしたか、公文書の裏付けも取って欲しいですね。 >>257
私企業ですが、鉄道事業というのまず国の監督行政で許認可が筆よです。
それ以前に、地元で施設の工事方法の変更などで、県知事や自治体の許認可が必要です。
他に、根回しとして、地元の自治会などに挨拶回りをしたり、説明会を開いたい、議事録も残っていたりします。
私企業だからこそ、公文書の記録が残る可能性が高いです。
国鉄の場合など、公文書が残りません、管理局内での決裁文書で終わりますから、
表にでません。 急行を停めたら街が寂れるというロジックが分からん
むしろ駅の格が上がって活性化されるのでないか 急行停まるところ駅弁あり
駅弁あるところ新制大学あり >>225
博多駅への新線計画とは関係ありませんでしょうか。
そのあたりから分岐させるために敷地を用意していたとか。 >>262
西鉄福岡駅北改札口前で西鉄プラザが経営していた「ビッグカップ」で販売していたランチボックスは駅弁だと思う。
西鉄久留米駅上りホームで販売していたサンドリアの箱入りハンバーガーを駅弁というのはちょっと無理かw 透明パックに三角おにぎりが3つ、あと御新香が少々、が売ってた >>262
俺もバス弁しか知らんかったのだが、鉄友から>>264の話は聞いた 昨日NHKでタモリが太宰府天滿宮ロケ放映されていたが西鉄に何らか言及するかと期待したが何もなかった 駅に行ったわけではないからね
あくまでも神社が目的 そういえば貝塚線に香椎花園前という駅があるけど、昔あった遊園地にちなむ駅名らしいね。 >>272
廃園になっても駅名変えなかったわけだね 大牟田線の1000形電車には座席番号を示すプレートが貼られていたなぁ。
指定席として運用したことは一度でもあるの? >>269
ビッグカップの「ランチボックス」は盛りだくさんで栄養のバランスも良かったと思う。
フライドチキンが1本入っていて、それがとくに美味かった。
西鉄福岡駅北口改札前の「ビッグカップ」は、イートインは改札外。改札内は、持帰り専用の窓口があった。後者はモロ、駅弁のコンセプトよね。 やっぱ西鉄の特急と言えば、2000形でしょ、
2ドアに黄色いカラーリングが特急車の証。 完全同意
後継の8000には、どうも肩入れできなかった そうか?
あれほど眺望の良い鉄道車両はそうそうないよ >>277
検査の都合か何かでたまに5000系が特急に就く事があった
もっと昔、1000系の代わりに600系が特急になったこともあるのかな 普通に600が代走してたよ
45年ぐらいからは600の5~6連が徐々に増えていったイメージ。
1000形は4連固定が痛かった。一時は1300の中間車を組み込んで5連を4本作る話もあった。 1000系はオールMで4連が限界と言われていた
客が増えてもキャパを増やせない壁にぶつかったわけね 1300形の中間車は
1000形より新しかったし、
電動機のパワーもあった。
2000形登場後は、
それを1000形の6連化に使えば
急行用として最高最強やん、
と思っていたのに、冷房改造もせずに
1000形よりも早くさっさと廃車されたのが
勿体なかったね。 そういえば、昭和50年代前半までは
600形、700形は冷房改造可能だけど
1000形、1300形は技術的に不可能だ
といわれていたんだったね。
あれが運命を決めてしまったんだった。
後年1000形も改造可能となって
結局は冷房化されたけど、
時すでに遅し、だった。 1300形は先頭車が旧600形のまんまの木造だったからね、老朽化も厳しかったんだと思う
昔乗る時は先頭車ばっかり乗ってたけどね、中間車より乗り心地が良かったからw 半鋼製車ね。
だから、1000形の枕詞は「全金属製」だったw 1000形は格下げ改造せずに特急車のままで廃車されたほうが良かったな
余生を無駄に伸ばしただけのような希ガス 2000形が特急を担当するようになった頃は、
100形やら300形やらの旧性能車がまだウジャウジャいたころだから
貴重な新性能車である1000形を廃車するわけにはいかないもんね。
1000形が普通電車用に改造して生き残ったから
5000形の増備途中で旧性能車淘汰のタイミングが訪れ
普通電車のスピードアップ(運転曲線の変更)が実現したらしいし。
それに、あの頃は、冷房車はなるべく優等列車を担当させる方針だったからね。
なにしろ当時はまだ、頻繁にドアを開ける普通電車を冷房しても意味がないじゃないか、
という理屈がまかり通る時代だったからねぇ。
でももし、1000形の冷房改造が技術的に可能となる時期が
昭和51〜52年頃までに到来していたら、ガラッと話は変わっていたかもしれないね。 500系は名鉄パノラマカーのルーツだとか小田急SE車にも影響があったとか、
一部では評価が高いのに現場の評判が悪くて早くに廃車になって残念だな。
見直してほしい名車だと思うけどね。 現場での評判の悪さはどのような内容だったのですか。 >>293
横からだけど、ピクトリ74年4月西鉄特集で中の人が
「最も性能が劣り廃車の噂も」と書いてある >>294
292です。おそれいりました。
記憶と文献が結びつかない私と違い、
たちまち名回答を出す博識に脱帽です。 >>295
そんな大層なもんじゃないけど、500が好きで、当該の本もボロボロになるまで
読んだものですから。実は乗れたことが無く、連接の走行音を聞いてみたかった 500形の連節部車内側の写真とか、
クロスシート時代の座席の写真とか、
運転席の写真とか、見てみたいものです。
そういえば、昭和50年代初頭まで、
まだ大牟田線の電車(300形や更新前の100形あたり)の車内には
スタンションポールが残ってましたね。 二日市駅2番のりば
昔は福岡行きのりばとして普通に使われていたが
今は正月三ヶ日しか使われなくなってしまった >>287
1300形の先頭車は附随車なので静かでしたね。
また、600形から1300形へ組み替える際に台車も新調して空気ばね台車になっていました。
さらに、クロスシートのピッチが1800mmと、中間車の1500mmよりも300mmも広かったという点も極楽でした。 >>300
そうですが、それはフローリングと呼びましょうw
1号消毒液が黒っぽく染みてお洒落でしたよw オイルステイン仕上げのフローリングw
物は言いよう。 >>300
1983年夏に小郡から二日市まで乗れた
先頭車からの前面展望だけが興味あって床は見てなかったなあ
良い思い出 最晩年か
冷房化されず色は塗り替えられ端役のローカル輸送の余生
デザインはそのままで車体を更新する技術とかあればなあと >>299
600の先頭車に新調した台車を穿かせて1300にする際に、古い台車は捨てずに新調した全金属製車体に穿かせて300に組み込み326、327としたんだよね。
そして600の中間車も300に組み込んで324、325にしたんだよね。
そんなことするくらいなら、素直に1000をあと2編成増備して600はそのまま3両編成のままで使えばよかったのに。 初代600の台車って特徴あるね
一目見たら忘れられない 他社では見かけないスタイルだった
乗り心地はどうだったんだろうね 600時代は、324、325の大きくバウンドする乗り心地と甲高い電動機音から類推するのみ。
1300時代になってからは、モ1300は1000の後期車とほぼ同様。
ク1300は最高によかった。全般に静粛性に劣る西鉄の車両としては異例の静かさだったのもよく憶えている。 冬、車内の暖房が効いてくると、どこからかミシッとかピシッとかいう音が聞こえてくるのはご愛敬。 ク1300は最晩年に一度乗れただけだが
窓が天地方向に長かった印象がある
また乗務員扉の形が長方形ではなく、前面の傾斜の分だけ削り取られたような歪な形をしていたのも思い出に残る
もっと長生きしてほしかった 旧600形、313形が張りあげ屋根に縦長の窓が並ぶスタイルでしたね。
近畿車両風味? >>313
ク1300のあの乗務員扉は見るからにモロに木製だったのが味わい深かった。 200形の乗客用の扉も拡張改造されるまでは木製だったね。 >>313
モ1300が1000形より短命だったのが勿体なかったね。 >>307
ク651、ク652の台車を捨て、
ク1300形4両分の台車、主幹制御器、ブレーキを新製し、
モ326、モ327の車体を新製しているので
あまり節約になったような気がしませんね(苦笑)。
考えてみるとその後の326、327も短命でした。 新製したのに短命
ヨレが来てるのに使い続ける
基準がよく分からない