懐かしの東武鉄道について語ろうパート5
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>>912
78を全部5000にする計画だったんじゃないの?
だとすると共存するのは一時だけだからなあ >>907
車体ブレーキと台車ブレーキが混在すると併結できないの? >>913 5000改造車登場時の鉄道ファンの記述には、年間改造両数は数両?
(具体的な数は忘れた。)で板張り電車が無くなるのは気の遠くなるほど先のハナシ
と記述があった。クーラーを積まなかったこと、台車等更新アップデートが無く
7800を8000に車体乗せ換えただけのシロモノと散々な批評。・・・だから
一応は全車改造を考慮していたのでは?只 改造内容については、結構迷いが
あったのでは?事実5 次の改造は5050系で仕様変更。 7300が車体更新されなかった理由について、台枠や台車が2度目の
更新に耐えられなかったんだろうか?公式に何か言われた事はあるんかね? >>917
単にこの会社のしきたりだと思うけどね。
当時の鉄ファン誌の寄稿記事に
「全数の8000系置き換えは時期尚早」
「一度更新した7300は廃車することに」
「すべてが置き換わるのは遠い将来のことである」
とあったのはよくおぼえている。
“公式”といっても、あらゆる内情を企業があからさまにはしないしなあ。 >>917 7300系って もしかして台枠も旧品(63流用)?
ダトしたら 流石に使わないでしょ。
なんせ 戦後まもない粗乱製造 使用鋼材もソレなりカト・・・?
7860は、何故 商慣行(その後50000まで発注事例 無し)に反して日立で造ったの?
他社が手一杯で造れない分を引き受けたとか?
一社単独製造で全鋼製 仕様が微妙に違うのも気になる。 70年代末という国鉄でさえ旧型国電の淘汰を進めていた時代に
63形由来の機器を再々利用するという発想は無かったのではないか。
でも最初の更新の時に全金属で更新していたら90年代までは使っていただろうな >>920 足回りは63形より古くても全金属車体だった、西武411のその後とは対照的だな。 920氏、 73は全金属製?、と思ったが床板は木だった、けど
もしかして屋根も木だったとか?78の車体は全金属とは、言わない?
もし一足飛びに昭和38 39年頃に8000系のボディ乗せてれば90年代まで
使ってたろうね。 >>922
73,78は7860系以外屋根も木製だよ、7860系は車内に木材を使ってるから全金属車とは呼ばない。 さんきゅー そうか、鋼製車体ではあるが全金属ではないという
ことだね。あまり考えたことなかったよ。
初期の7800系ならともかく30年代半ばにつくった7800系は
国鉄63型の全金属車そのままコピーさせてもらってたらもう少し
寿命は長かっただろうね。 足立区民からすると千代田線に乗り入れて来る洗練された小田急車両や
東急車両見て、やっぱり俺らアダチだよなあ 山の手には敵わん、と
諦めさせつついつか頑張って出世して山の手市民になってやると奮起
させるのに野暮ったい板張りの7800 7300は充分であった。大体根津嘉一郎
翁にしてコレクションの博物館を青山渋谷あたりに造る事からして、
足立墨田界隈を下町の平民と見下しているんではないか、と拗ねたく
もなるが、それはそれで青鼻たらした足立区の貧民な子供でも、両親に
日光や鬼怒川に遊びに連れて行ってもらえるように乗車券だけで乗れる
速達の快速を走らせてくれるなど暖かい配慮もしてくれるにであった。 丁度今頃、白い息吐きながら浅草浅草寺の初詣で、仲見世通りを歩いて
お清めの水で手を洗い、頭が良くなるようにとお香の煙を頭にかけ、
それから押し合いへしあいしながら本堂でお参りをし、賽銭を投げ、
一通り初詣を済ませて、清々しい気持ちで浅草駅に引き上げて、
きついカーブに始発で入線している8000系や7800系など、黄色い
シートに黄色い壁で照明までも暖かい黄色に見え、冷えた体を
シート下からの暖気とともに暖めてくれるのだ。特に7800系などは
その古めかしい内装と板張りの床からの微妙な油の匂いが、
大げさにいえば永遠の昭和を感じさせたものだった。
恐らくは洗練された山の手の方の車両はむしろ無機質で気負って
忙しなく、こんな空気は味わえないのではないかと、それはそれで
東武沿線民である事の幸福を感じるのであった。 >>919
相鉄じゃないから73系はすべての車両が車体新製している
だから、コスト削減の観点でも半鋼製でその大部分が津覇製
73更新時に旧車体は、西新井のだるま数体※を除いて廃棄
※1983年秋ごろまでは、ほぼ完全な旧車体があったとか・・・
http://blog-imgs-90.fc2.com/k/a/e/kaede150421/8310.jpg
http://blog-imgs-51.fc2.com/k/a/e/kaede150421/311-13.jp RMのトワイライトゾーンにも出てたな
変な場所にドアが増設されていた >>928
後ろのマンション元住民。
物置と思われるコイツとドアだけで組み立てられたような同色の小屋おそらく浴室を覚えている。
工場に風呂があるなんて、と思っていたが素材系製造業ではよくあることを知ったのは転出後のこと。
いまや跡形もないわけで、懐かしい限り。 西新井工場は守衛さんお願いするとわりと簡単に中を見学させてくれたし、
色々話も聞かせてくれた。EDの貨物が小菅の坂登れなくて立ち往生したあと
だったんだけど、その原因などもいやがる風でなく普通に答えてくれた。
上に7860の日立の話題が出てるけど、会社としては大まかな仕様を決めて
数社に分けて発注する事で各社競作して良いものを作ってくれるんで
そうしてるっていうお話で、当時高校生の俺は感心すること仕切り。
良い社会科見学になった。 多分見学は日曜で工場はほとんど動いて
ない感じだった。平日は車輌の出入りがあるから断られたかも。
守衛さんは多分工場内の職場の人が当番でされてたんでないかな、
工場内の事精通されてたし。
今の春日部とか館林工場とかどうなんだろう?
件の7300の廃車体だけど俺が行った時は1両しか気が付かなかったけど
他にもあったのかな。カメラを持ってなかったのか、外部の人間としては
見ちゃいけないもの見た気がして写真に撮らなかったのか、ネガは残ってないはず。代わりに外側の一般道から覗くように撮ったネガは持ってる。 >>928
この色は、今、東武亀戸線でリバイバルカラーとして走っている。 >>931
福利厚生施設にこんなお化け屋敷みたいなものを長らく使ってたのかぁ。
そらぁ戦前型国電並みでも『これはお客様用ですから(キリッ』のスタンスが続いちゃうわけだ。 >>934
良くも悪くも東武は貧乏だったからね
初代根津が社長に就くまでは赤字で倒産寸前だったような会社
根津体制になってから徹底した経費削減策をずっと取ってきたから節約思考が物凄く強い >>934 時間軸を少し測り間違えていない?
80年代(昭和55年〜58)初頭〜中頃は未だ戦前型の旧型だって第一線で活躍していたし、
63そのものは、皆無でも73の古いのは未だ現役。
山陽だって同じく元63の700の旧車体を倉庫で活用。
ちなみに戦災応急復旧車で一番最後まで営業稼働したのは庄内交通のモハ5(元京王)
路線廃止の昭和50年まで稼働。 >>931
最後の写真、右側の窓の大きなプレスドアは貫通路のもの? 戦前型・・・他社の電車なっ。 東急はソコソコ内装は手入れていたけど、名鉄は其れこそビンテージ? >>935 戦前の小田急、西武に統合される前の武蔵野鉄道にしても、貧乏つうか会社が倒産しかねない状況だったわな。東武は近鉄や名鉄と同様、多くのローカル線抱えてるから、国鉄のように旧型車をローカル線に転用しやすかったってわけで 東武の津覇車輌とか京成の大栄車輌とか子会社かと思うんだけど資本関係ないんだよね。公務員の天下りと同じように東武や京成みたいな大企業はどんどん子会社増やして中年以降の正社員を出向転籍させるのが人事のやり方。大学新卒で
入社しても定年までいれるのはほんの一握りでほとんどのおじさんは関連会社
に追いやられ、役員の肩書きだけもらって給料低く抑えられたまま定年まで
つとめて上がり。 本人はまだいいんだけど出向を受け入れた方の会社の社員は
いくら頑張っても出向社員に要職占められたままなんでやる気も出ない。
京成が大栄車輌にそれやろうと資本関係受け入れて役員派遣させろとしたが
プロパー精神で会社がもってる大栄車輌としては受け入れがたかったらしくて
結果的に京成から切られたらしい。その点津覇車輌はうまくやったのか、しれとも東武が無理強いしなかったのか。 >>940
ボロ買いの根津なんて言われてたぐらいだからねえ 都交や営団と手塚の関係もそんな感じかな?
車両メーカー以外にも、車両清掃や鉄道部品、用品、特殊工具作成、資材調達とかで
零細企業との継続取引がある 有限会社の場合 天下りとかではなく、人間
(オーナー社長)対人間(鉄道会社、事業団体の担当者)の関係で定年後に雇ってもらう
ケースもあるよ。 無論 この場合 被雇用側の在任中の業者対応姿勢、人望がモノを云
うが・・・ 津覇と大栄の類似点として
汽車の下請けをしていたという過去があり
取引先の大手私鉄などから資本参加をしない
津覇は大栄と違い、鉄道以外の分野(重機、土木など)があること
鋼製部材の加工が得意で、東武以外の取引先※が数多くある
※特に三菱重工の関連会社(現在、資本関係の無いものを含む)
重機ではキャタピラーと関係が深い
・建機(クレーン・ショベルなど)の部材(ブレード、アーム、アタッチメントなど)
http://www.tsuha.co.jp/pdf/machine.pdf
・大型クレーン車のフレーム
・防衛装備品(後方用装備:シェルター、1トントレーラー)
http://www.tsuha.co.jp/others/frame.html
土木(構造物)関係は
大型ドーム施設の屋根を多数手掛けている
スキーリフトの鉄柱や、高速道路の標識塔とか
http://www.tsuha.co.jp/others/build.html
立体駐車機
http://www.tsuha.co.jp/others/other.html
キャタピラーや三菱自工のディーラー看板など
http://www.tsuha.co.jp/others/setup.html 63系の廃車体は工場安全衛生なんちゃらがうるさくなった今だと許され
ないんだろうなあ。下請けさん側と一体化した安全衛生の責任持た
されるから、発注側が色々干渉してくるらしい。それこそ冷蔵庫の中まで。
窮屈ではあるよね。
もっとも津覇車輌がわも廃車体を廃棄物というのではなくて歴史的資料
として塗装とメンテナンスしてきてくれてれば後で価値が出たのにと
悔やまれる。あと終戦後満州から引き揚げてきた技術者達が食うために
津覇車輌や大栄車輌に入って、東武や京成に仕事を請うてたらしいけど、
そうすると戦後の住宅難からの電車住宅というのも連想される。
鉄道側も割と廃車体の提供には好意的だったらしい。7300更新は
昭和30年代末だからまだまだそうした記憶が新しかった頃だよね。
電車住宅ではないけど昭和50年代バブル前まで木造の粗末な住宅が
あちこち残っていて、たしか玉の井のあたりだったか電車の中から
家の軒先がよく見えた。洗濯物が干してあった。そういう方が東武
らしくて好きだなあ この63、もう少し後まで残っていれば東武博物館に、丸々1両は無理でもカットボディだけでも保存されたかも知れないな 津覇車輌の人にしてみれば戦時設計で粗製濫造された63の車体など
ボコボコでここダメあそこダメでなんの価値もなかったのかもなあ。
それ位7300の造りはしっかりしていたよ。国鉄可部線の63など
よく東武7800 7300の終わりと同じ80年代まで持ったものだと思う。
7300は昭和21年 ××製造 昭和3x年津覇車輌改造 って銘板つけてた
よね。今でも津覇車輌って名前見ると今でもワクワクする。 >>949 子供の頃 判り易い会社名だと思った。(オトナの社会でも稚拙なくらい単純と云うか)
カテツ交通工業(華鉄・・・中国の華中鉄道復員関係者で起業)は、津覇?大栄?どっちの
かの後身だったような・・・。 >>950
間違いなく後者(大栄)の方(カテツの後身が大栄とされている)
津覇の創立(1932)は、華中鉄道が設立(1938)する前だから
1932年2月合資会社津覇製作所、設立
(東京府南葛飾郡砂町※ 現:東京都江東区南砂)
※汽車製造東京支店(1931年開設)の敷地内(借地)
この借地は1967年に汽車から津覇に譲渡
南砂工場閉鎖後も大部分を保有
http://www.tsuha.co.jp/company/history.html
1952年7月大栄工業、設立(東京都江東区大島) 吊掛け式だのカルダンだの知らない幼稚園時に、初めて伊勢崎線のナナサンかナナハチに乗った。
その時は木でできたボロい電車だから、うるさくて恐い音が出るものだと思い込んだ。
それから6〜7年後に、面白がって浅草に行くようになるとは想像もつかなかったな。
モニターに【各停 幸手】とあればほぼボロが当たって、牛みたいなモーター音とレールをキンキン鳴らして入線するのにワクワクしたものだ。
時には18時頃の【通勤快速 東武宇都宮】にも乗ったりして、各停とはうって変わり脱線しそうな走りも味わった。
春日部で野田線に乗り換えると、まあまあキレイな室内なのになんてトロい走りなのかとじれったくなった記憶がある。
下回りがずっと古いのはまだ知らなかったし。 まあ吊り掛け音は牛だよな。床が木ならば木製電車かと思っても
仕方ない。
ウォーンの牛音、速度出てからさらにノッチ入れた時の悲鳴の
ようなモーター音、まこれは北千住春日部間27分で走破しない
通勤快速運用に入ってしまった7800へのムチへの悲鳴みたいな
もんだ。併せて特にまだ暑い夏の夕方よりによって非冷房の
快速7800にうっかり準急だと思って乗ってしまった帰りのサラリーマン
客の心の叫び。ああ1日今日も疲れた早く家に帰りたいのに
我が家の脇を力行して走り去らねばならない絶望感。しばし
サヨナラ我が家 ワタシは用もない春日部に行ってきます。
激しく揺れる車内の吊革を握りしめ、額の汗拭うハンカチ、
ドナドナされるそれこそ牛の気持ち。
野田線3000系はなまじっか8000系みたいな車体だから8000系の
ような走りを期待してしまう。武骨な茶色いボディのままだったら
逆にこのボロい電車よく走るなと感心したであろう 鶴瀬のサークル本購入
男衾の火薬工場の機関車が払い下げられたって書いてあるけど
東武と同じレール幅機関車ならどこで使うんだよ?ってことになるので
鉢形に払い下げられた機関車はレール幅610oくらいのトロッコ機関車で
鉢形駅から荒川への砂利採取軌道に使われたのではと予想する >>953
レスサンクスでござんす。
その後習い事で野田線は頻繁に乗ったけど、今思い出しても3000系列はとにかく力不足を感じたね。
モーターは73&78の牛音と振動より静かなんだけど、東岩槻や春日部の坂をやっと越えてる感が強かった。
ウォォォ〜ンと鳴り続け、ピークでフッと静かになると下回りからゴロゴロした響きが際立ってくる。
中間運転台を覗いてたら、どちらでも60キロがやっとだったなあ。
帰り道はたまに8000系が当たったけど、夏場は涼しいし乗り心地はいいし同じ運賃はひどいとさえ思ったものでww
長じてバイクやクルマに乗り始めたら、しばらく鉄道趣味から遠ざかってしまったな。
野田線3000系の終焉がいつかすらその時は知らない。 1985年頃、
1度だけ鬼怒川線で7800系らしき電車を見かけたんだけど、
何用だったんだろう。
5700系は、団体専用とかで見たことあったけど、
あっちは完全に通勤用じゃんか。 団体専用でも林間学校では7800や8000が使われてた >>957
85年っていうと78末期だね。
東上では既に越生線と森林以北でしか見られなかった。 >>958
さしずめ路線バス車を貸切使用するようなものか。
でも油ギトギトな床なんかにリュックや食べ物入りの荷物を置きたくないよな。 >>957
夕方の下り通勤快速の送り込み回送を臨時に仕立てた運用があったみたいよ
それが鬼怒川からの回送かどうかは知らんが、
どっかのサイトで鬼怒川線内を走る78の画像見たことある 連レス申し訳ない
85年頃で思い出したけど、春日部駅の1番ホームに旅客が自由に利用できる情報端末が設置されてたけど、
これって他の駅にもあったのかな? >>962
なんかATMみたいな形のやつでオンラインで繋がっててやたら時間かかるやつかw
モニターに東武の色々な情報が表示できて紙に印刷出来たような
一部の駅に設置されてたね
高坂の改札前にもあった記憶がある >>959
越生での78ラストランは見に行きました 957 伊勢崎線筋では確か84年3月が7800、7300の定期運用最後だったと思う。
ただ85年に入ってからか定かでないが1度草臥れた7800が走るのを見た。
多分西新井の津覇車輌への更新入場の回送だったかと。 その津覇車輌だけど西新井工場の中の国鉄63型の廃車体は何に使われてたのか?
なんか更新工事で朝から晩まで作業して廃車体の中で寝泊まりしてたようにも
見える。戦後満州から引き揚げて電車住宅に住んでた経験とかありそうだ。 西新井工場の赤い63車体って昭和46,7,8年頃本線から見えた?
幼児の俺は上りで西新井出るといつも西新井工場の中に何の
車輌がいるか必死で見てたんだけど、見慣れない赤い車体を
見て不思議に思った記憶が微かに蘇った。
その頃だと更新10年経つか経たないかだからまだ赤がそこそこ
鮮やかでも不思議ではない。 鶴瀬のサークルの書き込み見て男衾駅付近を見たら砂利採取軌道らしきものを見つけた
鉢形は知ってたけど、ここにもあったのかと驚いた 男衾のはつい近年までホームが残ってたから結構知られてる 廃線サイトみると男衾の貨物ホームは弾薬庫線と説明してるの見るけど、国土地理院の航空写真見ると違う気がする
作ったけど使わなかったって感じ 本土決戦に備えた弾薬庫か。
陸軍の児玉飛行場に加えて海軍部隊も移り始めてたそうだしな。 あのエリアだと例えば県立小川高校にも軍が駐屯してたって言うし。
その高校の裏にある「富士山(ふじやま)」に防空監視所。
さらにその山いったいには物資備蓄用の横穴が多数掘られていた。
都心から離れたあの一帯はそういうのに都合よかったのかな。 >>976
すまん、鉄道と無関係だった。読み飛ばしてください、ごめんなさい。 >>970
梅島のホームを出るとすぐあたりにあったんじゃなかったか?
準急乗ってる方が見えやすかった 男衾のホームは東武の標準規格の貨物ホームだから、特に軍用線とは関係はないと思われると回答きた。>鶴瀬サークル >>954
その事も突っ込んだけど、資料明示で否定されたw
付近の砂利線は馬引きトロッコや人力トロッコで運用されていたと。
蒸気機関車を運用するなら、運転要員、整備要員、給水給炭設備が必要になり、それが当時準備できるのか?
さらに昭和26年の資料にも、付近で機関車を運用していた形跡がないとのこと。 動物公園の工事でモハ7329健在が話題になってる
朽ち果てていると思ってたけど見た目は状態良さそう
>>980
機関車といっても加藤のようなDLをイメージしてた
SLは最初から頭になかった
荒川からの砂利運搬は坂を登るから、最初は馬や人力かもしれないけど、
1960年の航空写真に写ってる「何両か繋がったトロッコ」では機関車じゃなければキツそう いやいや、車体7329はサビ汁の跡だらけで銚子電鉄の再生される前の801くらい酷い状態だよ
気になるのは車体を囲う様に鉄板が敷かれてる事だなあ
これは不整地に重機や大型車両が入る予兆だわ 壊れる前に武蔵小金井にある江戸東京博物館のたてもの園に欲しいなー。
都電7500形オリジナル車はあるし、昭和の街並みに合うと思うわ。 >>982
別画像見たら屋根が抜け落ちる寸前だったorz 6000系→6050系の更新は、ザクがガンダムに変わったくらいの衝撃。 京急デハ230形は解体寸前の所で京急が復元というラッキーな展開だったが
7329はそのまま解体されちまうのかなあ
花上さんは吊り掛け電車がお好きじゃないみたいだから… 鉄板の配置は
クレーンとトレーラー入れて外へ運び出しそうな感じだな >>990
手前のフェンスはあるしトレーラーや重機2台なんか入らないよ。
これは破壊(解体とは言いたくない)準備できまりだわ。
写真で初めて気付いたが、このモハはグロベンでなく両用ベンチの異端車だったんだな。 車体を囲ってた目隠し代わりの金属塀が撤去されて
周囲の木は枝が剪定されてる。
加えて地面に敷かれた鉄板、やはり解体なんだろうなあ。 せっかく復元したトク500も何のためらいもなく解体してしまったし、
東武って古いものに無頓着な所があるよな。
ときわ台の北口駅舎の解体はショックだった。 リバティ500系で、汽車会社が川重に合併されて以来、約50年ぶりに東武に川重製車両が登場(川重としては初)。
70000系は、東武史上初の近畿車輌製。
最近盛んだった日立はどこへ行った(日立も40年以上ブランクがあった)?
特に日比谷線は、メトロ、東武とも日立製があったのに(設計の共通化も容易にできた)、予想外の近車製。 >>996
日立はイギリスの高速鉄道に力を入れる為に、鉄道部門を分社化してない?
その社長が日本人じゃないとか。そのお家騒動の間に、川重と近畿に取られたとか。
隣の西武も、川重が川崎車輛の時代以来はじめて電車を受注してるんだよね。
南海でも、帝国車両の時代を経て東急だけに発注してたのに、初めて近畿車両が受注した。
これは、東急車輛がJRに買収されるお家騒動があって、その間に川重と近畿に取られた、と言う話。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1384日 19時間 35分 56秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。