懐かしの東武鉄道について語ろうパート5
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DRC時代の特急は一部をのぞいて浅草→下今市までノンストップ
特急と快速には設備以上に大きな差があった
日光線の優等がダメになったのは停車駅を増やしすぎたから >>341
いやいや「停車駅が増えたから乗るのはやめましょう」と言うことではないでしょう。
それともカリスマ性を失ったと言うことでしょうか? 外国人観光客向けの日光のツアー、昔は東武特急で日光まで行って
現地では観光バスで巡るパターンだったんだけど、今は都内から
バスで直接運んじゃう。
団体さんがいなくなったことでその分の客を沿線民に求めた結果が
停車駅だらけの今の惨状になったのかと >>339
求人広告に容姿端麗な方とかけた時代ですね 昔の東上線池袋駅の番線表示が国鉄線からの続番だったのを知っているのは
40代のおっさん世代?(30代後半でギリかな?) >>344 名鉄と同様、大都市から観光地まで中途半端に近く、高速道路があまり混雑しないから。
JRの房総特急も同様。小田急があれだけ有料特急運転できるのは、東名高速道路の渋滞が多いから。 小田急の有料特急って急行の混雑を避けて優雅にお買い物ってイメージだけどなあ。 >>346
埼京線のホームが出来て番号ずらした時だろ?
30年前だからそんなもんじゃね? 小田急は座席の稼働率を上げるためでしょ、だって平日昼間の特急が一時間に三本なんて
供給過剰だもん。 なぜ電機の運転士と電車の運転士はすれ違いの時に互いに敬礼をしなかったのだろうか…。
敬礼天国の東武にしては自分の中では未だに謎だ…。 >>351 電機は機関士 機関士は、運転士より連結解放、推進、入替とかありタイトな起動、制動操作を要求されるので
格上(職階的にも)そういうコトも理由なのでは?
または、職場(所属区)の違い 職階が上なので助役待遇?とか(非組合員だったとか?) でもね、昔三十年くらい前 東武でバイトしていた鉄学出の同僚が、東武の助役は、現業兵卒職員から糞扱いだったと・・
つまり敬われていなかかった。
例 そいつが、助役にお茶を入れて出そうとしたら 「バカじゃねー あんなクズに!」と・・・
そいつは、西武※でバイトしたこともあり、共に国鉄的な要素を持ちながら就労に関しては対照的だと呆れていた。
※西武は、労務対策は徹底していたが、意外にも合理化では酷く遅れている面もあった。
自動化札は確か昭和の末まで皆無 各駅殆ど(池袋、新宿線 各駅は、多摩川線や国分寺線の小駅は流石に・・? )駅長が居て
駅長室には堤康次郎の肖像写真が、小学校の校長室の歴代校長の写真の如く・・・
でその前で毎朝敬礼して朝礼・・・
西武は電機機関士は運転士より職階が上で運転士を経験しないとなれなかった。(但し SLとバッテリー機関車時代の山口線の担当地位は知らん!) 20年位前地元の古本屋で買った1976年夏頃の鉄道ジャーナルで
大手私鉄の特集が組まれてその中に関東大手私鉄のターミナルを
紹介した物もあった。東武の浅草駅を紹介する文面に
「(東武の)ストは回避されたためしが無く、通勤者地獄、
労働者天国の感あり!」と言う批判的な物があった。 でもまあ、長期ストを打ったり、電車に落書きしたり出来ない所が国鉄と違って民間企業の限界を感じるわな。 >>356
通勤車の政治クリーム色は、組合のスローガン落書き対策だったって本当?
白で書いても目立たないし。 しかし東武の二色塗り時代からしてアジ電なんて走ってたっけ?
記憶にないんだよな…。
1700や1800は暗黙の了解でスローガンの書き込みはしないにしろ、6000は書き込み対象にはなるよね?
けど6000は塗り替えしてないし…。
自分もセイジクリームはアジ電対策と思っていたけど、最近は都市伝説なんじゃね?とか思ったりする。 二色塗り分けが面倒だから、という会社上層部の判断によるものだったそうだが。
だから、相鉄のように塗装比較テストや社内アンケートを行わなかった。
塗装作業する組合員にとっても、その方がよかったのかもね。
この頃、名鉄も一般車含めて赤一色の塗装に変更しているし。少し遅れて西武も2000系から黄色一色に。 DRCのリフレッシュ工事は、最初はサロンルームを存置して行っていたんだな。
電話室が再設置型で、ドアが窓付きになっているのが更新車の証拠。
http://livedoor.blogimg.jp/tozaken5367/imgs/6/0/6084cfde.jpg さすがに国鉄と違って民間企業だからアジ電なんかやったら上が黙ってないだろう。 >>361
ジュークボックステラナツカシス(/_;) DRCと言えばジュークボックス付きのサロンルーム。
これが無きゃDRCとは言えん。そんな訳で俺は2004年
マイクロエースのNゲージでDRCに更新後の1700系と
引退直前の1720系が出た時迷わず1700系の方を買った。 >>364
ジュークボックスも的確に再現されてた? >>365
>>361の写真にある様な形のジュークボックスも再現されていた。 わたらせ渓谷の神戸の列車のレストラン清流がちゃんとDRCの色になってた DRCに乗った時は感動したな
近鉄ビスタカーに比肩するくらいのハイレベルなインテリア >>369 平成初期に全区間禁煙になったんじゃなかったっけ?
それ以前は車内の禁煙プレートが所属先毎に違っていた。 なつかしどころではない大昔のことではあるが、戦前の日光軌道の電動貨車の履歴がわけわからん
和久田康雄さんの本に出てるテト20と戦後もいたテト30は同じ車なんだろうか?
製造年がカブる・・・改番?車体更新でもしたか??
それぞれ6両と9両という両数の不一致は無認可か???はて????
ちょっとした考古学並みにナゾは深い・・・ 今日のブラタモリ
横断歩道の先に日光軌道の架線柱があったのにスルーだった タモリは、廃線跡興味ないのかね?(ちなみに中川礼二は興味ナシとのこと)
それとも純粋に無知? タモリには、東上線を馬鹿にした過去の歴史があるから、東武関連の話題はあえてスルーかも 福岡の時は廃線跡に反応してたような。
日光軌道線の電柱、俺は気づかなかった… >>360 日立製の7800グループ中の異端車7860系が新車時色見本やっているじゃん。
昭和30年代半ばから東武は通勤車の塗装に迷走していたのだろう・・・
政治クリーム一色は、やはり際限なく増加しそうな車両数を危惧し定期入場工程を鑑み決断したのでは? 丁度、オイルショックもあったから塗料代も高騰したんだろうね
それに塗装作業は既に外注化していたから
組合は関係なかったんだろう。
削れるところから削ったってこと。 30年代に何種類もの塗装試験やって採用された赤系塗装が、地下鉄乗り入れの2000系からベージュの二色塗装に切り替えられていったわけで、塗装こだわってもあまり意味がないという雰囲気が社内にも蔓延していたんでは?
あの塗装試験何だったんだと。フライング東上の塗装も、あの試験塗装の中にあったっけ? 福岡は鉄がメインの回だったからな。
今回は脱線しちゃまずいから、タモリもあえて反応しなかったか、
した部分をカットしたか。 2080系は関東の大手私鉄最悪の黒歴史車両と言っても過言ではないな。
迷列車で行こうシリーズは2080系のためにあるようなコーナー。 準急Aの思い出ってなんかある?
東急大井町線の各停みたいに準急Aと準急Bで種別の色分ければいいのにと思った >>381
ただ駅に停まらないってだけで、まったりまったり走ってたなぁ >>380
それを言ったら母体の2000系自体が(以下袋叩きが予想される為、略)
南千住→三ノ輪の急降下を鋸ブレーキを駆使された日には………
音鉄的には感動的な車両だったろう。 >>381
羽生から初めて最後尾に乗った時は結構感動したよ。78は走りは悪くないんだなと。
羽生までの秩鉄が100系の手動加速車だったから高性能に思えたんだろう。
あと西新井お経アナウンスの停車駅案内。 >>380
あの一連の動画群自体が失敗作というか鉄道趣味に汚点
著作権侵害上等だし作者の大半が厨房だから思い込みや間違い大杉漣 伊勢崎線のA準急と言えばよく客専が検札に乗ってきたなぁ、
伊勢崎線のA準急は列車番号が300番台で、格上感があった。
あと78更新後は8000より5050が来る確率が高かった希ガス。
A準急慣れしちゃうとB準急がダルくてなぁ…、上りだとA準急の運転時間帯はずれると、たとえ太田で
数十分待っても“りょうもう”に乗ったわ。 >>381
上りは加須でりょうもう退避があったからあまり速達効果が無かったような気が・・・
下りは春日部から伊勢崎まで数回乗車経験あるがそこそこ速かったな
さらに古い話になるが、かつて伊勢崎行きと赤城行きの併結準急があったけど、
これっていつ頃まで運転されてたんだろう?
オレンジ&ベージュ塗色時代の8000が運用についてる画像はどこかのサイトで見た記憶があるんだが・・・ 通勤車の館林・新栃木以遠喫煙OKなんてのも懐かしいな。
灰皿もなく床や窓外に火のついたタバコをポイ捨てだもんな。
時たま、知っててか知らぬか分からないが、禁煙区間でもタバコ吸ってるヤツいたしな。
今の常識から考えると到底信じられない。
今やったら乗務員通報ボタン押されちゃうだろうなw 東武電車のセージクリーム色は、最近の復刻車の色調と昭和50年代の東武電車の
色調とでは色の濃さや明るさが微妙に違って見えるのは当時と現在とでは、
塗料の質や成分が違うためだろうか 車内禁煙なのに煙草吸って車掌に注意されてるのはまだ7800系が居た頃見た記憶があるな >>391
若い目で見たのと、年とった目で見たのとでは違うよ、冗談ヌキで。
今のはどう見える? 復刻色の方がクリームの色が少しだけ濃いように見える セイジクリームはこないだ見たら錆汁出てたし色褪せてきてるからもう比較にならないのでは… 東武伊勢崎線堀切駅
「3年B組金八先生」によく出てきた駅で、駅周辺は金八に出てきたときと、
あまり変化が見られないところがまたいいね >>394
あ〜そうしたら記憶に頼らずクリーム色の8000の今と昔の写真を見比べればいいんだなぁと…。
で、現在、過去共に薄いのも濃いのもあるからわかんないゃorz ■■□
↓ダイヤ持った偉い人が乗って来る
■□□
↓偉い人が降りる
■■□ オリジナル塗装復元って難しいのよ。
当時だって定期出場直後とその後とでは、退色でトーンが変わるし・・・
顔料や下地色も反映するし・・・まして明るい政治クリームじゃ尚更(同じ色にぬっても下地色が影響)
各社の色復元では、倉庫内の車体の予備品 ドアとか廃車体の日に晒されてこなかった部分の塗装とか参考にしたり・・・それでも?微妙 >>396
今なら、バックに映るのが東急8500・・・の可能性アリ DRCによる特急「さち」が運転されたこともあったようだが、
この時は特急料金は1700系使用の特急とは差があったのだろうか 太田〜伊勢崎間沿線民だから上京する際は専ら東武で、行きは準急A、
帰りはAの終わった時間帯ならりょうもう号だった。
それが徐々にA準が少なくなり、やがてゼロになった辺りから
籠原や熊谷まで行って高崎線利用になった。
更に太田と久喜で分断された今では、東武は全く使ってないよ。
収支の面から見れば、太田から先の(館林からかも)各路線なんて東武としては「いらん子」なんだろうね。 輸送密度から見ると動物公園・川越市から先はお荷物路線じゃないの?
もちろん、培養線だから赤字即廃止とはいかないが
都市間輸送や観光輸送もあるし >>403
輸送密度だと、東武動物公園と坂戸、川越とせんげん台がほぼ同じなんじゃね?
スカイツリーラインは輸送量が先細りするのが案外早い。 >>402
太田市の実質の代表駅→熊谷
伊勢崎市の実質の代表駅→本庄
こういうことですね。遠回りだし久喜で分断してるし山手線に接続してない東武伊勢崎線は使う気になれないだろうな。
その点熊谷や本庄からは東京にも新宿にも行けて新幹線もある。
そういえば来年春で伝説の列車、東武日光線の快速が大減便になって10周年か。スペーシアの新宿乗り入れが開始されると快速にも影響が出るとか噂されてたがまさかあんな形になるとは。
2013年に東武動物公園〜栃木の快速運転が復活したが代わりに2時間1本に半減。
6050系が寿命迎えたら快速・区間快速は廃止なのかな。 熊谷線は東武で唯一の非電化路線で昭和58年に廃止されたが、
その後復活の話もたびたびあったりした
熊谷線の廃線跡の一部は現在も東武が所有しているので、一部区間だけでも
復活できそうだが >>406
唯一ではないぞ。矢板線というのもあった。 大谷線は謎が多いのかな
あまり研究文献に当たらない 大谷石の石材軌道なんて人権破壊今では許されない黒歴史だよな。
あれ若くして椎間板ヘルニアで動けなくなって弱って死んだ人
大勢いるだろ? まあ小資本の非人道的労働を東武みたいな
大資本がなくしたとも言えるわけかな。
6000系更新の6050はまだ走ってるんかいな?1983年頃国鉄栗橋大カーブ
に写真撮り行く途中腹痛くなってトイレでブリブリしてすっきりした
ありがたい思い出w 40代以上で親がケチンボだったやつは日光鬼怒川
観光ではロマンスカーより6000系の方がずっと思い出深いやろ?
あと俺らの小中学の日光林間教室臨で8000系使いやがったのは万死に値する!! うーん 微妙w 俺はいいけどクラスの容子ちゃんが酔っちゃうかも。
やっぱりクロスシートじゃないと。運がよければ容子ちゃんと嬉し恥ずかし
お見合いだし
清水のアスレチック公園とか大平山の登山とかまあそんくらいなら8000でも
十分だったけどねえ。大平山ではぶっといドバミミズ拾ってまゆみに投げ
つけたりしてたねえ。M先生怒ってたなあ。 地上時代の北越谷にあった
北
越
谷
?
っていう黒地に白文字の看板があったなぁとふと思い出した。 たぶん区準の停車確認用か何かだと思うけど。 >>415
その頃は区間準急は無かったような?
各駅が準急と勘違い防止とか
各駅(普通)〜準急〜快速
有料で急行「りょうもう」「しもつけ」「南会津」「きりふり」
特急が「けごん」「きぬ」
なんだか半蔵門が来る前の方が良かったような?
さらに昔は貨物もあったし、その前は単行の荷電もあった
黄色の2000系、営団3000系、57系の臨電やつり掛けの5000系など、懐かしく思い出す 吊りかけ5000系は本線系での活躍は短かった部類にはいるかな 26日に花上館長の本(新書)が出るみたいだけど、どのようなネタが出てくるか見ものだな。 8000系は冬場の北関東には不向き。
長距離に使うのにトイレもなく乗務員には天国で乗客に苦行を強いる車。
私は今でも3扉車の夢を持っている。by館長 とはいえ、館長は、経歴を見ると未だに8000系が小川町〜寄居などで使われている東上線には関わっていなかったんだよな… 7800系初期にはトイレがあったってことは北関東原野での必要は想定していたんだろうけどなんで撤去したのかな。夏の通勤快速とかで腹痛くなって幌にブリブリするやついただろ? >>421 古典的スタイルでありながら4扉ロングシートの汎用車を昭和29?年から
投入した事の真意が解かっていない!
つまりラッシュ時の混雑遅延が既にどれだけ酷くなってきたかというコト。
・・・で、遂には収容力拡大の為便所撤去!(有無の判別が困難かつ運用別けることの煩わしさ、旅客の錯誤) 沿線の黄害対策もあったと思う。
73や78のトイレは垂れ流しだったし。57みたいに汚物処理装置を付けてまで
残す価値はなかったのだと思う。 国鉄のストや順法闘争の影響で混雑が増大する一方だったしね。
その場から動けない程の混雑になればトイレがあろうと無かろうと関係ないし、国鉄でも東北、高崎線の混雑振りに103系投入を真剣に検討したらしい。 小田急にもトイレ付きの通勤車あったけどこちらも早期に消えたねえ
もっとも18m車だったので輸送力不足っていうのもあったけど 73型にも更新時につけたのいたね。
結局どちらも撤去。 トイレって言うが浅草から伊勢崎や宇都宮まで乗り通す客はどれだけいたのか。
宇都宮は新幹線が無くても国鉄の方が速かったし、伊勢崎は微妙だが。 トイレ付の吊り掛け通勤車って、東上線には関係ない話か? >>428
今は分断されてしまったが、以前は太田、足利市あたりから北千住、浅草まで準急(当時)で行く客はけっこう多かった
館林乗換えで小泉、佐野線から来る客もまた多かった
俺も太田まで出張の帰り、りょうもうの急行券(当時)をケチってワンカップを買い、8000系に揺られながらチビチビ飲ったものだ
西新井で一旦降りて「西新井ラーメン」を食べるのもまた良かった
猛烈に寒い赤城おろし、暖房が暑いくらい効く8000系の車内、早くも日が暮れた中、ぼんやりと照らされる小駅の駅名票・・・
仕事の疲れか酒の酔いか、または8000系の乗り心地のせいか、いつの間にか寝てしまう
東武線独特の旅情だったな 館長は寒い、便所が無いと8000を猛烈にこき下ろすのだけど、暖房がよく効くのは8000の美点だった。
一方103系は全車に貫通扉を備え、一見完璧なように思えるが、常時換気のグローブベンチレータと隙間風発生装置の戸袋窓が容赦無く寒冷地獄を作り出すのだった。
JR化後、暖房増設がなされたけれど、冬場の103系は寒くて耐えられない屑車両との評価を崩すことは出来なかった。 館長の言う通り、8000系の運転台は密閉性最強なんだよね。
乗客には関係ないかと思いきや、夏場の中間運転台通路は冷房の効きが最強でよく涼んだものだ。 >>430
本線の長距離準急って独特の風情があったよね
お客や乗務員や沿線施設の全てが東武で完結してる世界〜何か上手く言えないけど
同じ78や8000系使っても東上線では絶対に出せない味なんだよね 78の運転席後ろに貼ってあった路線図もいい味出してたよ 浅草で発車待ちの7800系などこの季節、板張りの床ベージュ黄色系の内装に手塗りの窓枠、そしてシート下からのぬくぬく暖房など永遠のよき昭和を感じさせるものがあった。 >>433 東上も同じ8000,カステラシリーズ(73007800)を使っていたのに、このイメージと云うか空気の違いはナニだったのだろう?
不思議。 一番いい味を出していたのは運転士のパンチパーマにサングラスではなかったか。 それらが故の「ミニ国鉄」だよな〜!!
同じ8000のはずなのに、本線と東上線じゃ何故か
雰囲気が違ってて、たまに転属車に当たると
「あれ?何か違う。」ってなったもんだ。 7800だったかな、この時期やたらと椅子が熱くて往生した記憶があるよ
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