懐かしの東武鉄道について語ろうパート5
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>>429
戦前の車両には付いていたが1960年頃に撤去。当時の本数なら長距離乗る比率高かったろうに。 東上線も本社直轄になって独自性は薄れたね、駅名票も本線仕様になったし、種別も
本線に合わせてるし。 車内の落書き、車内と言っても78の車掌台とか折り畳まれた乗務員室の貫通路なんだけどさぁ、
書いたヤツが通う学校名なんかが書いたのもあってさぁ、栃木や群馬の学校名だと「あぁ〜ヤッパ
長距離準急とか広域運用なんだわ」と感じたな。
78がなくなった後、8000や5050が長距離準急の主役を勤めたのだけど、ダイヤが乱れて新栃木以北に
8000が全然なくなっちゃって、乗務員が「8000が一本もないから明日の準急できないよ」なんて言ってた。
都市部では当たり前の8000でも、新栃木や館林あたりだと、ある意味特別なんだろうね。 >>437
あとスニーカー履いてて、常に足を組んでいて、貧乏ゆすりしてて、乗務員室ドアの窓開けてそこからヒジ出してて、
通過待ち中にずっと週刊誌読み続けてて・・・・・。 >>438
網棚のところのつかみ棒の有無が大きな違いだよな。
8000でも後期製造分は標準装備になってたけど、
初期製造分に改造で付けたのは東上線、そのまま使っていたのは本線。
ドアの開閉速度を早くしてあるのが東上線。
この辺の話、今月のピクの特集では触れてなかったな。 >>445
8000系では貫通路上の広告枠の有無か。 >>445
東上線の8000系の網棚の前のつかみ棒固定用にゴツイ金具がついてたな。
でも、8165Fだったかな、稀につかみ棒のない編成もあった。 >>444
マンガ読みながら仕切りに背中を向けて監視もしないドア操作する
車掌とか、日比直の交代で発車時刻を過ぎてから慌てて運転席に
駆け込んでくる運転士とか。
今だったら大問題だけどかつては組合が強かったから許されてたのか。 北千住の上り日比直ホームのおしぼりガールも組合が強いからか? ドア閉まる前からあらかじめマスコンを力行位置にして
閉まった瞬間に動き出したことも何度か見た。(ホームから) 大師線の車掌って上りも下りも、いつも下り方に乗務しているカマボコ車掌だったけど、あれって
正規の乗務位置だったんすかぁ? >>429
東武は東上線のお客にウンチさせたくなかったんですよ
7890型やトイレ付73系は東上線に回って来なかったからね
トイレ付疑惑のあったクハ361もトレイン誌の東武特集で付いてなかったと書かれちゃったし
疑惑の犯人が浣腸らしいところも笑ってしまいました クハ361は西新井で接触事故を起こして急遽繰り上げ更新された車両。
もしかして更新時にはトイレ取付を予定してたのではと思ったけど、
更新は昭和37年で館長のピク誌の記事は41年だから年が合わないよね。
73系の更新を半鋼製車で昭和39年まで続けた事を時代錯誤と批評されるけど、最後の2年は中間車で更新されてるんだよね。
10000系を10連にした時も既存車に仕様を合わせたけど、当時もそんな感覚だったのだろうか。 >>454
まず78と混結するから編成美に拘った、だろうな。 >>419
末端区間の列車は、日比谷線から撤退する20000系にトイレ付ければいいじゃんw https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト >>428 >>430 >>433
自分も経験があるのだが、70年代末〜80年代中頃の年末年始などは、急行
「りょうもう」の急行券が完売で、仕方なく(?)準急を利用していた客も
多かった。また、館林発の浅草行きの臨時普通も出していて(北春日部始発
の臨時延長?)、それに乗って館林から浅草まで乗り通したこともあったが
、こちらもそこそこの利用客があった。(乗車していて「長い」とは感じた
が、何回か繰り返すうちに慣れてしまい、「長い」と感じることは次第に
なくなっていった。)
伊勢崎線東武動物公園以北へ直通する列車の車両は7800系・8000系・5000系
・5050系が使用され、デビューした頃の10000系は浅草−幸手間の普通の運用
が多く、準急にはほとんど使用していなかった記憶がある。
>>437 >>444 >>448
北千住での日比谷線直通電車の乗務員交代で、東武の乗務員は電車が到着
してからホームに出てきて、多くの人がカバンと座布団と共に漫画雑誌を
これ見よがしに携帯して電車に乗り込んでいた。一方、営団の乗務員は電車
が到着する前からホーム上で待機していて、漫画雑誌をこれ見よがしに携帯
していた人は一人も見かけなかったので、両社の社風の違いが90年代の初め
頃まではっきりと見てとれた。 同じ乗務所のウテシさんの列車と離合すると、タイフォン、ハイビーム…
帽子のグルグル回しなど忙しかったですね(笑) 引き継ぎが友達だったときは発車時刻過ぎでドア閉まってもずっと喋ってたな
走り出してもホーム歩く同僚に合わせてスロー発進
話の切れがいい所まで加速しなかった
会話の内容はたいてい次の休みの日にやる草野球の事 回送列車で、「回送」の表示を出さずに、方向幕を字幕と字幕の中間の
微妙な位置に合わせるのは今もやってるのかな? >>462
え゙、20年の懲役で今日出所してきたのか!? 改造前の8000系は種別幕に回送表示で、行き先幕は中途半端な所で止めてあったな。 種別幕に回送が本線
行先幕に回送が東上線
50000あたりだと、本線と同じ流儀になってしまったのが寂しい。
同じなのは車両と職員の制服だけで、それ以外はすべて違うんじゃないか、
ってくらいまるで違うのが東武だったのにねぇ。 先月出た8000系の特集が載っている鉄ピク3月号で
8000の原型の方向幕及び種別幕にあった2つの穴が
ガラスを拭く為の物だったと言う事を知った俺。 >>469-470
実は、もう少し巻くと真ん中に一つだけ○が開いてて、ガラスの真ん中辺を
拭けるようになってる、という話を聞いたことがある。 >>471
うちに東上線の種別幕(緑特急・英字入り)があるけど、二つ〇はあるけど真ん中〇はないよ。 末期の5050なんて文字が見えないくらいに汚れてたな 5050は色々酷かったねえ。
走行中上窓が勝手に落ちるとか… 78系は乗り心地が悪くても車体も古いから違和感が少なかった
5050は車体がほぼ8000系であの乗り心地だから個人的には違和感が凄かった
雑誌で最後の釣り掛けがーとか書かれていても
こんなハンパ電車になにいってやんでえと思ったな 最後の高速走行釣掛車ガーと2006年通いまくったのは俺だけどな。笑
281レには良く乗りましたぜ。新鹿沼だっけか?から回送してくるからか、冬に乗りに行くと103系並みによく冷えていた。 新栃木の5050は会津田島幕用意されてたにも関わらず、
結局会津鉄道には入線しなかったんだっけ? 会津高原までは入った
雪の中を行く凄まじい写真がある。福島唯一の4ドア通勤電車
ttp://www.r-ways.jp/stream/tobu5000.html >>445
ドア上の広告枠、片側が幅広なのが東上線仕様
4辺とも同じ太さなのが本線仕様だと思ってた >>479
会津高原といえば、夕方に栃木を出て会津高原まで行く3070系スジが懐かしい。フルノッチで次々と長大トンネルを通り抜ける時の釣り掛け音に激萌え! クリーム一色時代の東上8000系の全検は西工と川工に別れてた
6連は西工で2連4連の短編成は川工が担当してたのは工場の規模とか効率性の関係だと思う
西工出場車は塗装が艶やかでシートもフカフカに整備されて技量が高いと思った
川工はやっつけ仕事的でマスキングいい加減なのか屋根までクリーム色だった
8連は53年度車が一度川工に入場したことがあったけど以後は西工の担当だった
ただ81115Fだけは例外で8連なのにずっと川工が担当してた
57年度車は73系置き換え用だったので工場のキャパとか予算が関係してたのだろうか
ドアの開閉速度を速くしてたのは川工出場車だけだったので6+2とか8+2の西工+川工編成はドアの開閉速度が全然違ってた
車側灯が消えるタイミングが2秒位違うので見てて面白かった 当時の東武では、車両整備の限度、基準がハッキリしない部分が多かったのか?
西新井で整備した車でも故障対応は、川越の意向影響下の森林公園が故障処置対応だから
川越と西新井で整備技術、方法論とかで揉めなかったか?
例えば基制装置の硬さや、ペタスタル台車の隙間・・・
幾ら東上事業本部と別組織治外法権でも定期検査回帰、年間入場車両調整とかで少しは現場職員の交流、意思交換の場はあったと思うのだが・・・
この辺の事情はどう!だったの 中のヒト タレこみ情報宜しく! 1マソで台車に問題とか、6050(新)の廃車が捗りそうだな…。 夏になると東武2000や営団3000の前面貫通戸を全開で運転していたな。
今ならそれだけでニュースになりかねん。
と、ここまで書いてふと思ったんだけど、野田線の3000で、
前面貫通戸開放ってのは見たことが無いな。 根岸のEF65や盛岡のキハ52は出発前まで全開だったな 側面の乗務員室扉全開で走行してるのは見たことあるな 青梅線の石灰石列車も夏場はカマの前面扉開けて走ってた 貨物列車の食料調達事情はどうだったのだろう
今だと特急を待避する小駅の近くに狙ったかの様にコンビニが立地して居るがw >>490
あれ、正確な場所って判明してるのですか? >>491
鶴瀬に時々、田面澤の線路平面図が張ってあるんです。 >>493
どこかに画像ないかな?
見たいけど本線の奥住みなので鶴瀬には簡単に行けなくて・・・ ある日と無い日、更に時間帯によってもなかったり、場所もかわったりで貼りだしの基準がさっぱりわからない。
あと写真は撮っていない。
平面図はよくある予想図とかではなく、白黒コピーの本物っぽくみえるやつが愚痴と共に貼ってあった。
他には田面澤のいろいろな考察記事が共にでているけど、マニアが適当にネットのをまとめて書いたのではなくてしっかりと昔の書類や図面を調べて書き上げたっぽい。
wikiや鶴瀬には図面は一枚たりとも存在していないって言うけど本当ですか?
そうなると偽物? 今日は朝も夜も無し。
Twitterで鶴瀬で検索 → 3日前ぐらいの奴にちらっとだけ写っているのがある。
ただし、画像検索では出てこないので注意。 やばい
もしかしたら百年史や趣味誌にないものが書いてありそうだ
ぜひとも間近で見てみたいぞ >>499
10枚前後のA4サイズぐらいのフィルムパックしたやつに色々書いてあったけど、wikiにも載っていないことや、
駅の配線想像図とかも書いてあったし、入間川の橋についても設計図らしき物を出して説明していた。
川越市〜田面澤は軽便の前に砂利採取用として先行開業していたみたい。
写真はあまりにも多いから撮っていない。
ネットからの画像の盗作は一切無いって何回か書いてありました。
鉄道雑誌では田面沢の特集を組んだのを見たことがないから分からない。
川越市の博物館の広報誌はだいぶ参考にしたと書いてありました。 わたらせ渓谷鐡道のDRCを使った「清流」の話題はここでアリ? 朝霞駅からスイッチバックで入線していた朝霞キャンプ場引込み線、
非電化のはずだったがロクサン入線したととあるサイトでみたような。
ほんまかいな? >>497,498
twitterの人mixiに写真出して頑張ってるな
ますます現物が見たくなったが、ただ写真が小さい・・・ >>502
朝霞キャンプ場なんてあったんだ。
米軍のキャンプ朝霞に名前が似てるから間違うところだった。 >>505 現在の朝霞駐屯地、元米軍のキャンプ・ドレイクへの引き込み線だろ >>508
なんだそれなら知ってるよ
>>502に朝霞キャンプ場なんて書いてあるからそういうのがあったのかと思ったわw >>504
ttps://twitter.com/sakurai1030 高校生の頃まだ5700が快速急行で走ってた。
夏の暑い時期に冷房もないのに有料。
乗客がいるのほとんど記憶がない。 遠足やら修学旅行やらで5700はなんだかんだで5回くらい乗ったな
遠足で貸し切りの時は本線から野田線に直通して清水公園までいってくれたぞ >>511
臨時だからですよ。非冷房車6000の快急は時代や曜日、時間帯
にもよるけどしっかり乗ってて、満席もザラだったからね。
おなじ
快急なら6000より5700の方が上物だ。 野田線がオール3000の6両編成だった冷房率0%の時代。
いつしか真新しい車体の4両編成冷房車が導入された。
新車なのにスムーズな加速音でなく、グゥオーと重たい音。
7800を更新した5050だとも知らなかった。 >>514
いやいや、最初は8000系4コテだよ
8115F、8118F、8125F、8128F、8138F
だったと思う、違ったらゴメン8126Fもいたような?
確か5〜6本だったか?
割とすぐに3000系とは性能差がありすぎるって事で本線に取られる(´;ω;`)
で、代わりにやって来たのが来たのが5000系列 >>515
3000の6連頃、2コテ×2の4連もあった(乗った)>8000系冷房車
4コテは乗った事なかったな >>511
窓全開で、利根川越えた辺りから結構爽快なのよ 5700は日光への修学旅行で1往復だけ乗った
3000と貨物だけの野田線に春秋の修学旅行時期になると
やってくる5700は楽しみだったな(8000だとがっかり) 10000がデビューする前の30数年前の話し
毎年今頃になると関東大手私鉄と国鉄主要路線の冷房車率が新聞報道されてたよね
西武や中央線東海道線はほぼ100%
東武と東急は冷房化率低かったなあ〜 >>519
だってその頃は日比直は非冷房、群馬、栃木のローカルも非冷房、快速も非冷房。
73,78だって残ってたし8000系の冷房化も完了してなかったし。
東上線が86年に冷房化率100%を達成したと思ったら翌年の有楽町線乗り入れで
冷房化率下がったなんて笑い話もあった。 >>519
中央線は101系が割と遅くまで残ってたね
800代のパンタ部分の屋根の低いやつが。 30数年前の北千住駅日中毎時発車パターン(記憶ベース)
快速鬼怒川温泉東武日光方面1本6000非冷房
準急A伊勢崎行き1本
準急B太田行き1本、館林行き1本
いずれも館林所属の7800か7300で非冷房
準急東武宇都宮行き1本
新栃木所属の7800か7300で非冷房
普通幸手行き2本、東武動物公園行き1本、北春日部行き1本計4本8000で冷房
日比谷線直通竹の塚行き、北越谷行き、北春日部行き、東武動物公園行き各1本計4本は2000か営団3000で非冷房
普通 >>520
窓全開で換気装置ガンガンに動かしている9000が和光市折返しの運用に入っていて、
東上線に直通してくるのは冷房のない営団7000。
運用入れ替えるわけにはいかないのかな?、と不思議に思っていた当時中学生のオレ。
相互乗り入れの車両使用料精算は距離で行うから他社線内のみの列車にも入るとのちに知った。
乗り入れ開始の翌年から、営団地下鉄でも車両冷房行うことになって、9000のクーラーが
有効活用されるようになった。
当時は地下鉄で車両冷房出来ないのわかっていたはずなのに、9101Fは換気装置もラインフローファンも
なかったのは何故なんだろう。 >>523
冷房装置に送風だけの機能があったから問題にならなかったのだと思う。 >>522
73や78が居た頃の日中は館林行きじゃなくて羽生行きじゃなかったっけ?
しかも羽生行きはほとんど4両だったような気がする
あと、昭和50年代中頃まで朝方に1本だけ存在した幻の伊勢崎発川俣行きをリアルタイムで見たかった・・・ 東武に限った話じゃないが、昔からの駅にはたいてい側線(ていうの?)があって
その直近には農協とかの倉庫があったね。
そういう風景、好きだったなあ・・・ >>526
今の蒲生駅東口に東武ストアとその駐車場があるけど、地形からして恐らく側線?引き込み線?の跡地だと思う。
農協なのか通運会社だったのか定かではない。 >>527
東武ストアを貨物扱い廃止後の敷地に立てた話は割りと有名だね。
国土変遷アーカイブとか言ったっけか?そんなんで見ると判るんでない? >>526 JRや東武など、貨物列車が結構走っていた路線は側線が多いけどね。
伊勢崎線は側線多かったようだが、東上線の板橋区内の駅で側線あったのは、上板橋位じゃなかったっけ?
下板橋・大山間の電留線は別として。 >>529
みんなほど詳しくないんで用語の間違いは許してくれ。
側線ていうかなんていうか知らないが、貨物の引き込みがあちこちあったからそれを言ってる。
ちなみに俺は東上線沿線の奥の方。
跡地は工事用の車輌を置いてるところもあったし、撤去して駐輪場とか保線の資材?を置く場所になったりしてるな。
てかなんで板橋に限られたのかも良く分からんがw 浅草・北千住間と池袋・成増間比較してみれば、共に昔から人口密度が高い地域なのに側線の数がどれだけ違うか、わかるんじゃね? 鶴瀬の田面沢のやつ、今日はありました。
側線があったのは、開業当初の駅が多いのでは?
鶴瀬の展示にも二面五線ぐらいの頃の鶴瀬の構内図もありましたよ。 >>532
>側線があったのは、開業当初の駅が多いのでは?
そうなのかな・・・
俺が見てるのは小川町・武蔵嵐山・東松山とか。
確かにいずれも古い駅だわな。 側線が多かったから、伊勢崎線の複々線区間で西新井、草加、越谷と6線もある駅を3つも造れたってわけで。
西武池袋線複々線区間でで6線ある駅は練馬しかないし、小田急の複々線区間は6線ある駅はない。東上線複々線区間も同様。 複々線化用地の買収を戦前から始めてたのもあるんだろうな 側線で思い出すのは現在でも確認出来る、武里駅の上り線方にわずかに残る線路
数年前に出版された鉄道ピクトリアルの東武特集号に、
昭和40年代前半頃に撮影された武里駅を通過する準急の写真があったけど、
現在と同じで退避線は無かったんだよね
それよりも前(せんげん台駅開業前)は退避線が存在した時代があったのかなあ? 廃線で○○線って名前が付いている多くは駅の側線なんだよな
たぶん百年史を編集するときに無理やり名付けたんだと思う >>529
成増も側線があったみたいだね。最近まで日通の関連会社の事務所があったし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています