【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
>>609
朝食がバイキングスタイルになって不評で止めた翌々年だと思う
朝食は中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食
のみで手数のかかる和朝食をやめて不評をかったので上りでは
静岡駅で幕の内弁当を仕入れてて車内販売で販売拡大してた。
東京発着ブルートレイン・食堂車の末期で完全に凋落していた。 >>612
朝食としては珍しいメニューばかりだな
あと和朝食は仙台が担当したころには復活していた >>603
昭和30〜40年代は都会でも地方都市でも
特急でも急行でも寝台列車でも夜行列車でも
当たり前の事だろ。
寝台特急のみ深夜停車が減ったのはあけぼの
登場のころからじゃないか?
寝台急行でも深夜2時や3時の停車でも不思議ではない。
京都、大阪停車が不可解すぎる
国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? でも東京発着のブルトレは京都や大阪に止まる列車が結構後でもそれなりにあった 昭和30年代、西鉄ライオンズ球団は、
あさかぜだのはやぶさだのかもめだのに乗って関西や関東へ遠距離通勤していたらしい。
西鉄はまだまし。スタメン選手や監督クラスなら寝台や2等車には乗れたらしいからな。
広島カープなんてもっと酷くて選手全員三等車の通路で雑魚寝だぞ。 国鉄スワローズには優先的に寝台割り当てて
他の球団には座席で徹夜させて選手を疲弊
させる戦略だったんだな >>617
いくら当時でも巨人や阪神あたりのカネ周りがいい球団は1等車か、2等車に乗せられたぞ
当時のプロ野球選手の羨望度は今では比較にならない。東映(現日本ハム)〜巨人などで強打者となった張本勲氏は、
広島戦でやってくる巨人の宿舎でビフテキを食べる選手に憧れ「強い選手になって稼いで家族を楽にさせる」と言う闘魂で結果夢をかなえ、
金田正一氏は国鉄(現ヤクルト)に入ったとき2等(現グリーン)車で移動が出来るのがまず夢だったという(もっとも新人は3等車で至極失望したとも言う)。
そして当時の広島カープは三等の普通車。 夜行列車の狭い席に4人が向かい合って座る。
東京までの15時間、難行苦行の旅だった。
昭和20〜30年代、球団創立当初の広島カープは「地域密着型スポーツチーム」のはしりではあるが
まともな企業の後ろ盾がない状態で設立されたため、極端なほどの資金力不足で運営されていた。
連戦連敗が常で、勝ったと言う記憶そのものがない弱小球団だった。
球団幹部は野球連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と言われたこともあるし
しかも監督や選手たちの待遇は、全球団のなかで最低・最悪レベルだった。
だから選手の給料や遠征費がまるっきりでなくなるくらい貧乏な時期があったくらいだ。
ただし、ファンだけは腐るほどいて、当時の本拠地・広島総合球場は連日、満員に膨れ上がっていた。
当時の関係者曰く・・・・。
“当時のファンの熱狂ぶりは今では考えられない。
食うにも困る時代に、金を払ってまで野球を見に行っていたのだから” >>617
創成期の広島カープ球団は「あの」史上最弱球団の高橋ユニオンズよりカネが無かったからな
何でも初期の広島カープは東京に遠征するときには急行「安芸」に乗って一般客と同じ3等車で雑魚寝していた。
だから2等車や寝台車で移動することができた巨人に嫉妬していたのは当然だろう そりゃそんなキツい移動させられてたんなら勝てるわけないよな。
もちろんチーム力だってかなりの開きがあっただろうに、その上そんなハンデ厳し過ぎる。
15時間座席普通車で揺られて、仕事しろって言われたってできっこないよな。 板東英二氏が現役時代、広島への移動は「あさかぜ」や「さくら」で花札に夢中
になって、気が付いたら浜松や静岡まで何度も乗り過ごしたと著書に書いて
いたな。 >>622
戻ってきた時の事じゃないか。
俺も「プロ野球これだけ知ったら」シリーズで読んだ記憶が有る。 >>620
漫画などによく見る典型的な連戦連敗ヘナチョコ貧乏プロ野球球団の元祖といえば
球団創立当初の広島カープのことだからなww
「プロジェクトX 挑戦者たち 史上最大の集金作戦 広島カープ 〜市民とナインの熱い日々〜」
でも言ってたけど遠征できても列車は三等くらいの劣悪な客車に一般客とともに詰めこむように座り、
旅館に泊まるカネもないから遠征先に選手の実家があったら
そこにあの大人数が食事込みで泊まってたらしいね。 あさかぜ1・4号の食堂車といえばエビフライをつまみに瓶ビールを飲んで
〆に当時800円だった関門定食を食べるのがあさかぜ出張の楽しみだった
1978〜1979年くらいだったけど食堂車には活気があったよ >>625
夜行の食堂車ってその時代だと
東京発九州方面にしか
なかったからな >>25
それでもブルトレ乗れるなら上等
貧乏人は急行津軽とかだろ >>625
もしそのころから朝食にバイキングスタイルや
朝食が中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食の対応になっていたら
受け入れられていたのだろうか(九州ブルトレ全体にこれを適応すると仮定) 1958年11月現在の国鉄特急列車
はつかり 上野=青森 1日1往復(旧型客車使用)
こだま 東京=大阪 1日1往復(151系電車使用)
こだま 東京=神戸 1日1往復(151系電車使用)
つばめ 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用)
はと 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用)
あさかぜ 東京=博多 1日1往復(20系客車使用)
平和 東京=長崎 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用)
はやぶさ 東京=鹿児島 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用)
かもめ 京都=博多 1日1往復(旧型客車使用)
・・・なんと、全国でたったのこれだけ。
その中で全車冷房搭載で、3等車にも冷房がついているのは151系と20系のみで後は食堂車か展望車・寝台車の一部だけ冷房搭載。これだけでも当時20系客車での旅が憧れだったかがわかる。
当時の特急列車で移動出来たのはこれこそ巨人レベルの金持ち球団で、王・長嶋みたいな当時のスター選手なら2等寝台も乗れたはずだから、
急行列車の3等車で新聞紙敷いて移動していた広島カープ選手が嫉妬したくなるワケも納得。・・・か?! >>630
そうだな、151系になったのは1959年からだったな 下関あさかぜと瀬戸のラウンジカーは2種類あったんだよな >>621
静岡や浜松まで乗り過ごした後どうしたかが気になるな。
花札して乗り過ごしたでは誤乗扱いにならないだろうし、切符はマネージャーが
持っていたかもしれないし。 >>634
そりゃ列車の中じゃ起きているうちは花札くらいしかやる事ないからな。あと名古屋到着が早朝じゃ寝過ごすリスクはあるだろう 昔は車掌補ていうのがいてたよな
下車駅近づいたら起こしにきてくれた 車掌補、列車給仕(列車ボーイ)とも呼ばれていましたね。
チップをあげると革靴を磨いてくれたり、終着駅だと
赤帽を呼んで荷物をホームまで降ろしてくれました。 オレ旅館の女中さんとかうっとおしくて
放っておいてってタイプだけど、ブルートレインには車掌補が各車両に乗っているのがいいな。大勢で列車運行してる感じがいい。 >>637
確かに「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど・・・
現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルはセントレジス、旧軽井沢ホテル、sankara hotel&spa屋久島、ザ・ブセナテラスなど
これこそ超最高級クラスのスーパーラグジュアリーホテルだけに限定されており
欧米のホテルの格付け制度ではバトラーサービスは高級格付けのホテル「必須」のサービスになっている(無いホテルは高級じゃ無い!!)
つまりどこのホテルでも やっている大衆的でチープで安っぽいサービスではないのだ
このスーパーラグジュアリーなサービスがいくら時代が違うとはいえ、公共交通機関で提供されていた事実は凄い事なのは間違い無い 殿様あさかぜだけじゃなくて
金帯あさかぜ時代(特に下関あさかぜのグレードアップ後)があさかぜにとって豪華な時代の一つでもあった 補足
下関あさかぜの開放B寝台は銀帯だけどラウンジカーとシングルデラックスが金帯になっていたから
グレードアップ後と書いた 639氏とは反対に就寝中の窃盗事件とか多かったので各車両でボーイさんが目配せしてなければいけなかったらしい >>641
最後まで残った下関あさかぜはA寝台も他より広くシャワーも使え、ラウンジカーもあったんだよな〜
当時機会あればさくぶさ富士ばかり乗り鉄していたのが悔やまれる… >>644
窃盗犯らしき奴に
「お前が窃盗犯って分かってるよ。見張ってるからね」
と目配せして牽制してるのかも >>645
犯人に合図するの?
目配りならわかるけどw 昔何かの番組で見たが、列車給仕や車掌は15両編成300mを一晩で20から30往復
15km前後車内を歩いていたらしい。 >>647
それは、多分番組用の答えだろうと思う
基本、優等列車列車の全編成を受け持つことはなく、各レチ毎に担当する号車が決まってる
カレチが総責任者になる為、要注意人物が乗り合わせてるなど、状況によっては巡回することはあるだろうが15kmというのは・・・ >639
20系客車までは乗降扉が手動ロックだったので閉める作業
寝台設備の朝の解体、昼仕様の座席にするのが主な仕事だったのでは 638ですが、すんまそん、目配りだよね。自分でもおかしい気がした。オレのオヤジは中学生位の姉弟で本土から満州に行ったりしてたんだけど、優等列車の優等車でボーイさんが面倒見てくれてたらあまり不安はなかったんだろうと推測 >>634
昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。
野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。
西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない
飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。
当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、
こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。
こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。
昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、
とてもプロ野球選手など務まらないと言える。
ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。
昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 「あさかぜ」に初めて乗ったのが1974年夏の「あさかぜ2号」(11レ)で14系寝台車が
14両連なっていた。2回目に乗ったのは1976年の8月で「あさかぜ51号」(8011レ)は
24系25形で自分にとって初めての2段ハネであったが結局20系の「あさかぜ」には
乗る事ができなかった。その後、臨時「あさかぜ51・52号」として走ったけど2段ハネ
に慣れてしまった身にはベッド幅50pの3段ハネは乗る気がしなかった。 >>656
14系「あさかぜ」に乗ったのは貴重だと思うけど。
当時としては「殿様あさかぜ」と比べ、編成のバリエーションが物足りなかったのはあるかも。
ところで14系「あさかぜ」で食堂車は利用した?
また「あさかぜ」「さくら」だけの、列車名記念スタンプもあったと思うが・・ 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース いいじゃん。面白い切り口で。
655の画像見て思ったんだけど、蒸機の機関士は自分の後ろで
カニのディーゼルエンジンが軽油燃料にがーーと唸ってるの見て
どう思ってたんだろう。もう世の中は石油の時代で蒸機は時代遅れ
などと感じていたのか。 >>660
20系が走った時代は非電化区間ではDLでなくSL牽引区間が存在してたが
当時のDLはDF50が量産されていたが、これがとんだ大駄作でパワー不足に悩まされ続けた
C62=1620ps
DF50=1200ps
しかもDF50についてもっと頭が痛い問題としてエンジンにスルザー社のライセンス生産品を使用を強いられた
そのため、当時のカネがない日本にとって調達コストが高額だった。だから国鉄はDD51を開発した。 1958年「あさかぜ」がデビューして間もないころ3連敗4連勝の日本シリーズは
西鉄と巨人が同じ「あさかぜ」で移動していた
1、2戦後楽園で連勝した巨人ナインは畏まってて、
連敗したのに西鉄ナインは麻雀とかで賑やかだったとか。 >>662
2連敗後の移動はさちかぜだったかと
あさかぜは3連敗後2連勝して後楽園に戻る時だったと思う いや、違う。「さちかぜ」は「あさかぜ」と似ていて紛らわしいため1958年10月で「平和」になっているはずだ
昔の西鉄のプレーヤーたちに聞くと、移動そのものには、それほどの問題はなかったという。
「そういうものだ」とあきらめていたらしい。問題だったのは、宿泊環境が、球団格差が酷くて巨人と他球団では、まるで違っていた。 青大将が引く20系あさかぜが赤沢トンネルを抜け根府川橋梁にかかるカーブ
もう路線自体が無い >>664
巨人は高級ホテルor旅館
その他は2流旅館 あさかぜと言えばこの列車“さちかぜ”定期列車としては昭和32年10月から33年9月までの僅か1年だけという短命列車
あさかぜの続行ダイヤで運転された上、名前が似ているという事から誤乗が多発したため、
1年と3ヶ月で“平和”に名称が変更になった。
名称変更直前の「さちかぜ」に乗ってる巨人選手
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171002-OHT1T50213.html
http://www.hochi.co.jp/entertainment/garticle.html?id=20171002-OHT1I50158 列車系統が続いていれば短命列車としてあまりラインナップされない件は
どうお考えで? その考えだと初代と二代目のへいわ、平和は短命列車じゃなくなるなあ
あれ?
三代目も初代へいわ号の後身のつばめ号になった訳だから短命列車じゃなくなるのか >>671
このあさかぜが結局かなり後まで存続していた
ちなみに上りのあさかぜのダイヤはまだある >>666
1958年当時の「あさかぜ」でありそうな球団格差
【巨人】
個室寝台車(ナロネ20)=首脳陣・エース投手など数名
二段寝台車(ナロネ21)=スタメン選手
三段寝台車(ナハネ20)リクライニングする座席車(ナロ20)=入団数年目のルーキー
【西鉄】
二段寝台車(ナロネ21)=首脳陣・エース投手など数名
三段寝台車(ナハネ20)=スタメン選手
ノンリクライニングの座席車(ナハ20・ナハフ20)=入団数年目のルーキー >>674
1958年当時だと読売でナロネ20は正力さんじゃないと無理じゃないかな
務台さんでもどうだろってレベルかと >>675
昭和40年代になると俺でも乗れた!(笑) >>676
40年代前半は無理だろう?
等級廃止後だな 等級制時代は上等クラス(ここでは例えばナロネ20のルーメット)はいくら金を出しても一般には切符を売らなかったという話あるけどマジ話? >>678
それは有り得ない、しかし一等車に乗ればそれなりの所作、振舞いを暗黙の内に求められていたものだ。 >>678
みどりの窓口開設後も、ナロネの個室はマルスに入ってなかったので、有り得る話かもなw >>681
有り得ない。マルスに入っていないと云えば24系二段ハネのオロネ25も登場当初はマルスに入っていなかった。 >>682
100系新幹線の個室も当初はマルスになかったはず 盆暮れになると あさかぜ51号まで繰り出す大盛況だったがこの時季、以外に個室の空きが多く切符の入手がしやすかった。ビジネス客の移動が少なくなったからだろう。 個室寝台って出張で使えた人おるん?
うちの規定見ても使えた形跡ないお 会社が用意してくれたプルマンの切符を乗変して差額を手出ししてルーメットに乗ってました。 >>687
二等寝台に変更じゃ無いのかw
昔名古屋から関東に出張で
新幹線代は出るので
大垣鈍行で前日に出て
差額GETはよくやった 昔はちょこまかせる手段が色々あったんだな
ウラヤマシス >>691
前日に乗り込み現地宿泊できて費用が会社持ちなら
風呂もテレビもなく食料さえ手に入らないこともある寝台列車を選択することなどあり得ないだろ >>692
東京から仙台→札幌の経路で
飛行機可能(仙台→札幌)だった。
通しで東京→札幌の乗車券を購入
仙台から新青森まで新幹線で行き、はまなすを利用していた。
650円の急行券とドリームカー300円はお得だった。 >>692
航空機や新幹線の影響もあるけど地方都市の宿泊施設が整備されたことも寝台列車の衰退に大きく影響しているな。新幹線博多開業前は博多辺りでもホテルの確保は結構大変だった、今の乱立振りとは隔世の感だね。 乱立しててもイベントの時に宿の供給不足になる博多地区 >>694
時刻表の巻末にビジネスホテルのほとんどは掲載がなかったから余計そう思うのかもな、俺はいつもビジネスホテル一覧の全国版ガイドブックを鞄にいれていた 時刻表よりもビジネスホテルガイドブックの方が売り上げ急減してるよなあ >>696
大型時刻表の巻末に2ページ程あったが、それでは物足りなかった?
まあホテル広告の要素が大きかったけどw
>>697
ホテルもサイトから予約する方が安くなったり、事前に空室状況が把握できるからなw >>695
だから昔はホテルの確保がもっと大変だったんだ。 >>698
満員になるときは時刻表に乗ってるホテルは軒並みダメ、それと所在地がよくわからないのが不便すぎた
初めての町ならとくに、時刻表、地図、ガイドブックなどでしっかり情報をつかんでおかないと混雑時はえらい目にあう >>701
昔は交番に行くと、親切に宿に電話を掛けて聞いてくれたりした。
今では交番に人が居ないからなぁ 地方の主要駅なんかでは、駅前は賑やかだったがそれも19時頃まで、何か食い物をと思っても駅弁、市場、駄菓子屋、パン屋全て閉店でコンビニないほか弁ないの世界だった
銭湯は大概見つかったな 宿がなくても駅の待合室が開いていたので助かった。
冬場の水上や敦賀、富山でもお世話になった。
「本日は接続列車がございませんので明朝まで
駅の待合室でお待ちください」 昔の言葉
パークホテル → 公園で野宿
ステーションホテル → 待合室で野宿 乗り鉄だと食事に困ったな。
駅弁は高い、駅そばも夜間は閉店、
キオスクで買えるのは三色食パンや
5つ?入りのザラメをまぶしたぱさぱさの
ドーナツ、それもなければ100円のカルビー
ポテトチップス。 臨時あさかぜは20系・14系14形・14系15形・24系24形・24系25形どれも使用経験があるけど
その点はあまり触れられていない それはあかつきや彗星も同じ。
臨時あさかぜといえば旧客で編成された熊本行き。 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。
野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。
西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない
飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。
当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、
こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。
こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。
昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、
とてもプロ野球選手など務まらないと言える。
ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。
昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 >>712
だろうな
ファイターズは全部飛行機だろ?
ホークスは広島行きだけは
新幹線かも
まあ札幌延伸になれば仙台は新幹線でも
行けなくはないか
特に飛行機嫌いの人は… >>713
関西も新幹線じゃね?
知らんけど
確か常宿が新神戸のホテルだったかと
名古屋はどうだろうか
ちなみに二軍は基本新幹線、三軍ともなるとオールバスらしい
>ファイターズは全部飛行機だろ?
札幌からまたは帰る日程ならね
でもビジからビジも多いから 巨人軍甲子園遠征時の定宿は
芦屋の竹園旅館だったが、今も
あるのかな? >>715
今もあるよ
ホテルになってるけど
ホテル竹園芦屋
今でも巨人の定宿だよ >>714近鉄の2軍は名古屋来るのに
近鉄特急使ってたな… >>711
寝台列車でバッチリ休養出来たから西鉄は強かったのかもよ? 小説「張込み」より
「張込み」は、2人の刑事が、東京目黒で起こった二人組の強盗殺人のうち、まだ捕らわれていない殺害犯を追って、列車で九州へ向かうところから、物語が始まる。
東京駅から乗車しなかったのは、顔見知りの新聞記者に見つかるとまずいと思ったからである。当然、汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、
尻を下ろして一夜を明かした。京都で下岡がやっと座れ、大阪で、柚木も腰をかけることができた。太陽が上る中、2人とも、欲もトクもなく眠りこけた。
岡山や尾道の駅名を夢うつつのうちに聞き、はっきり目が覚めたのは、広島あたりであった。岩国で駅弁を買い、昼食とも夕食ともつかぬ飯を食った。
物語の冒頭、20数行でこれだけのことが語られ、当時の列車事情がよくわかる。
映画化は、昭和33年1月封切り、松竹映画(橋本忍脚本、野村芳太郎監督、大木実、高峰秀子、田村高広出演)で、これはDVDで観られる。
原作冒頭の列車の旅を、映画でもタイトルが出る前、えんえん12分間にわたって描き、それだけでも、当時の鉄道事情がうかがえる貴重な資料である。
松竹映画「張込み」 の長〜い導入部
https://www.youtube.com/watch?v=-7p3OYYH7lA
舞台になった列車は急行「さつま」急行「筑紫」、特急「はやぶさ」の先代にあたる。
1956年11月に「急行筑紫」を改称して誕生した列車である。
東京21:45発、翌々日鹿児島5:46着の気が遠くなるような超長距離列車だった。
「急行筑紫」は、博多行きとして残った。ロケは、「急行筑紫」の1車両を借り切って、行われたという。
http://ameblo.jp/kyuzho/entry-11709963126.html
昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
旅は楽しいものでも快適なものでなく、ケツが悲鳴をあげる劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。 >>715
NPBでは巨人が最も待遇がよかったからな、今でも巨人の選手の待遇はいいほう
重要な試合の前夜には重要な選手ならばナロネに乗せてくれる可能性が高かったはず
逆に最悪なのは、広島カープ >>712
かつて12球団の多くが関西と関東に集中していたのも、移動事情が影響していたのかもしれません。
飛行機網の発達がなければ、北海道の本拠地なんか考えられなかったことでしょう。 >>718
そんなわけない。
座席の質も今と比べるとよくないし、ベットも狭いので移動だけで選手たちは疲労が溜まる。
だから昭和30年代の西鉄にとって最大の敵は「遠征」による疲労で
どれくらい最悪かといえば選手寿命を縮めるくらい酷かった >>723
狭くてもハネなら座席車よりは
格段に楽だとは思うけどね >>723
狭くてもハネなら座席車よりは
格段に楽だとは思うけどね >>722
単に親会社になるような企業が地方になかったってのもあるし
集客の問題もある
当時は今と比べりゃ格段に移動手段は劣悪だけど
それは社会水準そのものの低さでもあったから
軍隊帰りがゴロゴロしてた時代だし
今の基準で考えちゃ駄目 >>727
元祖あさかぜのB寝台70cmベッド化は東京発着特急ブルトレでは最後になったけど20系使用末期は評判悪かったんかな?
あれはルーメットと食堂車があるために25形置き換えが後回しにされてB寝台利用者が割りを食ったようなものだったが。 >>729
20系使用よりも、大幅値上げした国鉄全体の評判の悪さが先立っていた。
20系はB寝台が狭い分、日中の居心地は14・24系より良かった一面もある。
また20系の寝台幅を嫌うなら、大幅値上げ後は「さくら」「はやぶさ」「富士」でも確保は困難でなかった。
少なくとも「みずほ」は当時でも取りやすかった。
最終的に20系急行「銀河」と東京〜大阪は区間がダブってたけど、
利用者層は「銀河」と競合しなかった。
国鉄財政上の問題と、食堂車・A寝台をどうするか?の課題があった原因が大だったろうね。 >>731
このスレにいるお前もジジイだろw
元祖あさかぜ廃止からもう23年経ってるし >>730
なぜ「みずほ」がとりやすかったのか理解に苦しむ
3段式だから「はやぶさ」より快適性に劣るだろうが、「さくら」と比べて時間帯も悪くないし不思議。
「さくら」より停車駅が少なかったから利用チャンスが少なかったからか? 乗客の多い長崎行きにA寝台がなかったから?
まさか車内でのアベック心中があったとか? >>734
九州ブルトレの中で、補完列車的位置づけだったから。
つまり「さくら」「はやぶさ」が取れない場合の、第二希望的列車。
設定時も、他のブルトレが取りづらく増発されたところ。
そんな「みずほ」が、九州新幹線で「のぞみ」同等の位置付けになったのは意外だった。 >>741>>742
同感。知識だけでリップゲームに終始する鉄ヲタの悪習!! 歴史など無関係に目の前の料理が美味ければ人は食べるし、今月号が面白ければ月刊誌は売れる
登場時期がどうか知らないが昭和50年代の時刻表を見る限り「みずほ」は2段寝台の「はやぶさ」や「富士」との差はわかっても「さくら」との差は確認できない 744の1行目が何を言いたいのか
いまひとつわからない。 >>744
「さくら」と「みずほ」は、同じ14系編成で共通運用。設備の差はない。それは1994年「みずほ」廃止まで続いた。
>>739が触れているように列車のブランド差で、「みずほ」第一希望者は少なかった。 全廃された今となってはブランドで何故そこまで人気に差が出るのか分からんという意味じゃろ 「みずほ」を「さくら2号」にすれば客が分散したわけか 当時は団体利用でみずほを使いやすかったとか、そういう需要にも対応してたっぽい 列車名の影響はいなば→出雲3号の例もある。
あれも、出雲に人気が偏っていたこともあったから。 >>750
EF58牽引でヘッドマークなかったらしいな まあでもヘッドマーク掲出縮小の時代だったから仕方がないよ >>746
みずほの話題が出たけど
臨時あさかぜの14系はみずほの車両がメインだったんだよな
後に他の14系も借りるようになったけど 東京区EF65の寝台特急専用運用が特別だっただけで
たとえば浜松区EF58は荷物列車で東奔西走するのが本業で合間にいなば・紀伊を牽いてたようなもんだし 運転士は国労とは別に動労を組織してたりって事情もあったな
昔は他区の乗務員は始業前点呼に出なくで良い、なんて風習が残っていて、飲酒運転もしてたりとか 元祖あさかぜ、20系下り最終列車から40年!
そのA個室に、RJ編集長だった故竹島氏が乗っていた。 14系や24系の臨時あさかぜの編成は結構短かったな あさかぜラストランから今日で丸13年。
最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ。
そして翌3月1日は岩国駅から光駅まで立席特急券でさよなら乗車。
しかし月日が経つのは早いな・・・ >>759
>最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ
すまん
新下関駅での見送りってどうやって下関駅から新下関駅まであさかぜより速く移動したの?
下関駅であさかぜの発車を見送ったあと次の電車で新下関駅に移動、新幹線で新山口駅であさかぜに追いついてまた見送りってこと? >>760
ゴメン、書き方が悪かった。下関ではホーム入線まで見届け在来線で新下関に移動。
新下関で見送りした後、新幹線で新山口に移動して新山口でも見送ったよ。 >>739
どう見てもJR九州が山陽新幹線乗り入れの九州新幹線の最優等列車をはやぶさにするつもりだったんだろうが
JR東日本に盗られちゃったからね
だから慌ててさくらとみずほを確保 富士あぶれちゃったね。
新幹線に漢字はあわないのかな。
栄華を誇ったのは戦前の話だしな。 「富士」はもともと四国相手の特急、連絡船を挟んで接続するのは特急ではなくローカル急行
表舞台に出るような列車ではないよ >>764
こんな過疎スレで釣りとか…。
まさか日本初の特別急行だった戦前の富士を知らぬはずもなかろうし。 764の知見はさておくとして
山・川・旧国名等は本来急行・準急の愛称、
151系特急でも対九州寝台特急でも富士は亜流だな。 鹿児島本線、長崎本線がAランク
日豊本線、筑豊本線はBランクてとこか >>766
特急の愛称の第一は「日本を象徴するもの」だろ >>763
富士だと富士山近辺を通過する列車に限定されるんじゃない?
リニアが使うんじゃないかと踏んでるんだけど 「あさかぜ82号」や「玄海」についても、宜しくお願いします。 >>766
あのね、
特急は特別急行列車の略称なの
現在と違い、急行が存在するのが前提だったんですよ。
富士命名時は急行に名称は無かったので、格上であるがゆえ名前がついた 5歳くらいのとき、東京―西鹿児島を「あさかぜ」と同じ20系「はやぶさ」で往復した
覚えはある。 >>776
特急はやぶさ、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。 寝台特急「はやぶさ」 、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。
しかも東京ー鹿児島間には「きりしま」という急行列車があって
急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました
寝台や2等座席もありますが、今もあるリクライニングしない膝がぶつかるような、
座席でかしこまって、2昼夜汽車に揺られる旅も可能だったのです。食堂車も付いているところが泣かせます。
当時は九州に用事があったら、他に選択肢が少ないので2夜行でも仕方が無かったし、
それなりに乗客がいたと思います。
しかしそんな旅では体に悪すぎるということで、
全車寝台・冷房つきの寝台特急になったのでしょう。
こんな列車が設定された理由としては
「鹿児島からの奄美・沖縄航路連絡を担っている列車」
1954年、毎月3の倍数日の午前11時に、那覇と鹿児島双方の港から、
定員200人クラスの貨客船「沖縄丸」「那覇丸」が出港していました。
しかも当時は飛行機の信頼性がゼロでいつ落ちてもおかしくない乗り物だった
飛行機が本土と沖縄を結ぶ主要な交通機関になるまで那覇港から東京・鹿児島へは海路が主力だった
ttp://www.tt-museum.jp/cold_0185_rk1968.html
だがしかし、奄美諸島は1945から1953年まで、沖縄県は1945年から1972年まではアメリカが統治する「飛び地」だった。 >>778
>急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました
銀河 飛行機の信頼性ゼロ?
高かったから使われなかっただけだよ。 あさかぜ 喪失
さくら 新幹線復活
はやぶさ 新幹線流出
富士 見込み薄
みずほ 新幹線復活 >>781
大昔の飛行機は高額なだけではなく、今の飛行機より遥かに霧や悪天候に弱かったし、1年に1〜2回は墜落事故をやらかしてたぞ
いわば「空飛ぶロシアンルーレット」と同じレベル >>784
その大昔っていつの話?成田開港前?
すでにその頃でも国内定期航空会社輸送実績は年間2800万人を超えてたんだが。
信頼性ゼロの乗り物にそんなに人が乗るのかい? >>786
「日本の航空事故 1950年代」「日本の航空事故 1960年代」ググってみな、
この時代の飛行機は墜落死亡事故だらけだから
事故が多い理由は簡単。技術的に未熟だから 究極の航空機事故は、33年前の御巣鷹山事故だろうな。
当時長距離は既に飛行機の守備範囲だったが、あの事故をきっかけに新幹線・寝台特急が持ち直した。
特に犠牲者になった坂本九の奥さんは、日本各地移動で飛行機に乗らないよう心掛けてたようだ。
今はどうか知らんが。 持ち直したのに何で次の年に早速あかつきが減便されてるんですかね 飛行機と列車は持ちつ持たれつ
日航機事故の後は新幹線が繁盛
阪神大震災の時は飛行機嫌いも飛行機へ流れた
ま、夜行は蚊帳の外だな >>792
大阪〜福岡の高速バス「ムーンライト」が前年から走ってた。
関西〜九州は当時でも寝台特急は飛行機より高かったし、フェリーの選択肢もあった。
>>791の持ち直した寝台特急は、東京〜九州だろう。こちらは減便がなかった。 >>791
デタラメ書くなよw坂本夫妻はもともとANAユーザーだ、それがさらに顕著になっただけ
そんなこと書くから鉄ヲタは排他的って言われるんだ サンライズをベースにしたのをやってもらいたい
形式は585あたりでw 基本的に昔は飛行機は運賃が高かった
国鉄は安かったから寝台車が繁盛してた
それが国鉄の値上げで飛行機に人が流れた
その後、格安航空の参入で飛行機の運賃が下がった
そして、のぞみの投入で飛行機嫌いの人も新幹線の方に流れてトドメを刺された 懐かし板に出入りするようなおっさんなら
なるほど、につづいてザ・ワールドだろうが! >>794
実際減便が落ち着いたのも事実
関西発着の九州ブルトレも86年の明星あかつき減便以降
00年のあかつき彗星併合化まで減便がなかった 東京発着の九州ブルトレよりも関西ブルトレは乗車率は悪くなかった印象 >>801
新幹線博多開業前や、翌年の国鉄大幅値上げ前まではそうだったかもしれない。
国鉄が高くなってコスパが悪くなった。
特急・寝台料金部分が、東京からでも関西からでも差異はなかったので、
国鉄大幅値上げ後は航空機より高くなってしまった。 >>804
関西と聞いて叩かないと気が済まないんだなぁ
お国自慢でどうぞ。 メモメモ 点と線 東京駅シーン
10分あたり スロ54 5号車 15番線
ロケは昭和32年5月から9月の間 新大阪発着だったあかつきが京都まで延伸したように、あかつきが大宮まで延伸してたらどうなってたかな それではここで一曲
【教養学部】福岡人は娘を福岡女子大学入れるくらいなら埼玉大学入れたほうがいい【博多美人】
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1569506288/ 主題歌
一、
陽は昇り 蒸し暑い 福岡で 知性ありそうな君を見た
夏服 制服 美しく しゃべりは かわいい博多弁
AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年
君も飛び込もう 教養学部
埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう!
二、
空青く 息白い 受験シーズン 浦和の街で君を見た
誰もが 入れる わけじゃない けれども せめて君だけは…
AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年
君も飛び出そう 博多から
埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう!
AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年
君も飛び出そう 博多から
埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう!
埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう! あさかぜは 福岡から早慶等首都圏の大学へ進学した方も重宝してた事だろう
【福岡女子大】どうしたら慶應義塾大学に福岡出身の女の子が増えるのか【狙い撃て】
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1505182285/ 主題歌
※慶應!(売り込めよ!) 慶應!(君の番!) 慶應!博多へ…※
慶應はそこまで遅れてる 慶應は女性を軽く見る
このまま行けば早稲田とは やがて差が開く
学内を穢す敵は その手で叩き伏せろ
それが 慶應の使命 それが 慶應の課題
地元福岡女子大 目指すコとその親に
必ず 必ず 売り込めよ慶應
慶應が呼ぶ声響けば 慶應に今すぐ答えて
夜行バスとか飛行機で すぐに飛んで来て
美人が多い街で 魅力アピール続く
そんな 慶應を見たか そんな 慶應が好きか
地元福岡女子大 目指すコとその親に
必ず 必ず 売り込めよ慶應
(※くり返し) こんな写真があった・・
http://
blog-imgs-61.fc2.com/a/l/l/allxa/kaizuka-blue15.jpg
子供の頃、上り「あさかぜ」のこの小窓から、赤沢トンネルの窓の音を聴いていた。 もしも、あさかぜが千葉発着で横須賀線経由だったらと思うと…
【国際教養学部】福岡人は娘を福岡女子大学入れるくらいなら千葉大学入れたほうがいい【博多美人】
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1582467619/ 主題歌
一、
博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに
千葉市民は博多から 届けられる出逢い待ってる
始めたばかりの キャンパスライフ 東京が近い 千葉の街
近付いてみたい 福岡育ち なにげに多いよ 綺麗な人が
博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに
しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁
二、
博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに
地元出るの怖がって 生きてるのはもうつまらない
国際教養 キャンパスライフ 東京近くの 千葉に住む
ディズニーランドと 成田の間 なにげに多いよ 優しい男
博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに
しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁
しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁 かわいい博多弁 西村京太郎のトラベルミステリーの第一弾は、
「あさかぜ」が舞台の「寝台特急殺人事件」。
「あさかぜ」を選んだ理由は適当と思われるけど、
この作品は西村京太郎自選のベスト5に入っている。 ttps://hcj.jp/EF66/home.html
アシェットより9/9(水)創刊の模様。取り敢えず創刊号だけでも買っておくか… 「朝風とともに目的地に着くんだ!」ということで、夜行列車の愛称として画期的な命名だったんだって。
(当時国鉄常務理事だった故・石井昭正氏が命名者) 博多発18時23分の「あさかぜ82号」に乗り込んだ。
「あさかぜ82号」が出発してから、約1時間後の19時25分に「みずほ」が、そして、19時43分には、「さくら」が博多駅を出ます。 あさかぜ82号とみずほが共存してるのって1986年の年末から1990年の年始までって物凄く短い期間なのな >>808
あれ京都まで延伸ではなく、早岐と宮原の客車区が喧嘩しちゃって、
宮原が「早岐の客車なんて面倒看るか!」となってしまい『あかつき』編成は野洲まで回送。そこで整備って事になったのが原因。
なので営業部は「ほならついでと言っちゃなんやが京都まで営業しよか」ってなったと。 いまだに山陽新幹線みずほ&さくらですら京都延伸がないのに
あかつきだけがそんな特別待遇なのはそういう事情があったからか 山陽特急はそもそも京都始発だからなあ
1953年3月 京都-博多間特急かもめ運転開始
その当時の急行も
天草 京都-熊本
玄海 京都-長崎(大村線経由)
だしね 喧嘩とか妄想だろうしな。実際は他区の客車を留置する場所がないからでしょ >>834
新大阪発着列車が宮原区に絡むなんてのはホント戯言だわさ >>832
新幹線は新大阪より向こうは会社違う
東海は16両編成以外は入れさせてくれない レチが九州じゃん。
当時リアルで知ってるとはいえ、今あらためて見たら信じられん >>839
はやぶさの事だろう。はやぶさは国鉄時代からの伝統で博多車掌区だった。 福岡県警の父が警察庁へ出張するときはあさかぜのB寝台に乗っていたなあ。
一度博多駅へ見送りに行った。
昭和48年だったと思う。 平成元年の博多あさかぜ。満席だったとは隔世の感が!
この当時は既に、博多〜下関でEF81が通しで牽引だった?
https://youtu.be/sBmpmZS-5AI あさかぜ
この列車は二段の寝台です、お好きな時間にご自由にお休みください
さくら
ただ今より、寝台セットの作業員が、寝台のセットにお邪魔します
ご面倒でも、通路でお待ちください
うちにある音より 20系あさかぜで赤沢トンネル・・50年以上前か
58の覚えはないが、65-500が引っ張ってたな >>844
臨時が出されてた時代だから満席状態なのは当然でしょ。
当時俺は臨時の20系のほうに乗ったけどね
編成表の記録がワープロのフロッピーに入ってて見れないけど
機関車は関門間だけだったと思うが。 1986年にEF81の基本番台から改造された400番台がある程度投入された時から、下りは一番最後・上りは一番最初の関門トンネル通過ブルトレとなる博多あさかぜ(1・4)で門司付け替えなし運用が始まった
wikiではED75(300番台)牽引があったとあるが、それはEF81 400番台による門司付け替えなし運用が始まる前の話
20系臨時あさかぜが下関で3両増解結するようになったのはなぜだろうか? >>847
しかしそんな時代なのに、その数年後に食堂車が無くなるまで衰退したのは何だろう?
当時日本食堂勤務の知合いが、食堂車廃止前に既に陰りがあった雰囲気だったが。 >>849
帰省ラッシュの時はどんな特急でもだいたい混むでしょ >>850
食堂車廃止後の九州ブルトレは、そうでもなくなった。 確か1990年1月7日? あたりに博多から東京まであさかぜに乗ったけどガラガラだった記憶。。 ビデオHi 8で発車シーンと下関の機関車
交換まで撮ったけど、テープはどこに行ったやら >>852
1月7日だと繁忙期が終わってないか?
当時はまだ成人の日が1月15日だったし。 1990年1月7日だったとして
この日は日曜日
この日まで正月休みという職場も結構あったかもしれないが
正月休み最終日に乗車する人は少なくて当たり前かな
もっとも?付いてるから本当に7日だったか分からないが >>854
東京到着が9時30分だったので、月曜日にその到着時間は、会社勤めにはきついだろうな。
静岡地区ならいい時間帯だっただろうが、利用パイが恐らく少ない。 それ言い出したら現役のサンライズ関東圏到着時間帯も同じくらいなんだが そりゃ夜行列車を会社勤めに都合のいい時間帯に東京着にすると
それ以外の大多数の会社勤めに大迷惑になるからな
会社に行きたい奴は熱海あたりで降ろして
羽沢か高島あたりでバカ停させても良かったのかもしれんが >>857
それなら浜松町付近の元大汐線にブルトレ&カートレイン兼用ホームを設置すればいいだけ
といいたいところだが、朝ラッシュ時長距離列車運転禁止区間に差し掛かるから貨物線経由となり、横浜駅停車が不可能
さらに夕方発車の送りこみが下り本線逆走とか大汐線分岐−品川駅間の東海道本線下り本線から東側にて次発回送が線路をふさいで品川機関区への出入り不可能などなど >>858
9時半と7時じゃ別次元だよな
何でこういうこと書く奴が湧くんだろ >>860
九州ブルトレ全盛期に乗れなかった事に対してのひがみかもなw 20系全盛期、カニとナハネフが横並びで写真に納まるって事は絶対になかった?
大ミハ辺りでは九州方面の編成と『日本海』『つるぎ』の編成が入出庫の都合で逆向きで入線して・・・とかありそうだけど・・・。 >>862
新大阪発着の九州方面行き20系は向日町入出区で宮原へは入らないよ >>864
そういう場合、人へ「僻みだ」と言うようなヤツ自身が僻んでる場合が大半 >>864
出雲・銀河からさくらまで、東京駅を6時台から11時台まで到着列車があった時代を
知らないのだろうw >>866
知らないのかもしれないが
何で僻みになるのか意味不明だ 852 だけど 博多発が7日だったかはあまり自信がない。8,9日かもしれん。ただしそこまでいたら居候先のおばさんにいい加減いやがら
れたかもなあって思う。年末からいたからね。
ビデオが出てくれば日付が入ってるんだが。
ちなみに下関出たら、上段寝台に潜り込んで
そのままぐっすり眠って新橋出てから降りる
準備開始。東京駅降りたら早速そのまま
まっすぐ秋葉原ラジオセンター地下一階の
タンゴトランスに行って、オーディオ用の
トロイダルトランスをおばさんから貰った小遣いで買って帰った。ボンクラ大学生だった頃ののお話 >>868
ガラガラなら下段を好む者が多かったけど、上段の方が好きだった? 下段の方が物理的には確かにいいんだけど、
人が来るんじゃないかとか、朝になったら
寝台空けなきゃとか気を使う必要ないから
上段の方がいいかも。
でも小中高何回も乗って、その度に同じボックスの人とずっとおしゃべりして過ごして来たから、果たして自分は人間嫌いにいつの間にか
なって劣化したのかと思う事はあるよね >>870
確かに上段は自分だけのプライベート空間で、気兼ねしないのはあるね。それに荷物置き場に手が届くのは良かった。
梯子を昇り降りするのと、車窓を楽しみにくいデメリットはあったが、車窓なら通路の折り畳み椅子に座って眺めることはできたので。 >>872
583系パンタ下以外、進んで中段を選ぶ奴は聞かなかった。
もっとも中段のカテゴリーが、いち早くレアになったが。 >>874
・梯子を昇り下りしないで済む。
・583系は幅が広い >>876
開放A寝台は上下で幅が同じなのに、そのくらいの差があったけどな。 あさかぜに限らず関西民にとっては東京発ブルトレは憧れだったわ
当時の大阪発ブルトレはヘッドマークなしのEF58牽引か583系だったからEF65ヘッドマーク付きの神々しかったこと
よく深夜に写真とりにいった >>874 >>876-877
重要な項目を忘れとるぞ
側窓独占 >>878
山陽末端沿線民にとっては関西ブルトレは見ることも乗ることも困難だった
通過する時間帯は非有効時間帯もしくはその前後に集中していたから写真撮影は困難だった
583系そのものは「金星」で撮影はできたけど、「彗星」「明星」「なは」は実質不可能だった
東京発のブルトレは夏至に近い時期ならなんとか撮影はできたが、4倍増感でないと厳しかった
「西海・雲仙」「阿蘇・くにさき」が廃止されなければ駅に入場しての撮影も出来ただろうけど MonoMaster(モノマスター) 2022年 11月号
11月号の特別付録は、鉄道開業150周年記念!!!!ブルートレイングッズ豪華3点セットが登場!!!!!
★懐かしいブルートレインそっくりポーチ
★懐かしヘッドマークのステッカーシール8点
★ステッカーも飾れる!トレイン顔キーホルダー
ポーチには切符がそのまま入るメッシュポケットや、列車旅をともにしたいアイテムを収納できる!
ヘッドマークのステッカーは以下8路線
★あさかぜ ★さくら ★はやぶさ ★みずほ ★富士 ★あかつき ★彗星 ★なは
monomax.jp/archives/136108/
tkj.jp/monomaster/202211/ トワイライトみたいな車輌の博多あさかぜが今あれば面白い
16時間掛けて東京ー博多を走行 一夜限りの復活だったらどのぐらい客を集められるだろうか クルーズトレインであれだでの値段付けてくるから
片道一人100万円くらい?