懐かしの流線形車両を語るスレ
太平洋戦争が無ければ軍の影響力は排除されなかったわけだから流線形蒸気機関車の方が発達するんじゃないだろうか >>91 気動車の総括制御が実用化されると、分割併合運転のため前面貫通型にしなくてはならなくなる。
満鉄あじあ号の展望車のような卵型で先頭部分にドアのついた流線形デザインにするとしても、編成中間に流線形の先頭車が入るのでは意味がない。
国鉄では、キハ17登場以降、湘南型の気動車が造られなくなったし。 半流線形ならともかく、分割併合の都合上、通り抜け可能な貫通路を先頭車にも設けるという発想に流線形や湘南型はなじまないんだろうな。
ヨーロッパのように、電車でも動力集中方式を志向するのならともかく、日本は動力分散方式が主流だから。後者の方が分割併合容易で小回りが効くし。 湘南型は流線形になるのですか
だとすると一気に対象となる形式が増えますが。 ここでいう流線形って、原則、戦前製で半流線形は含まないということだろ。
厳密な定義は難しいけど。湘南型は別スレであるし >>83
デザイン重視というか、流線形採用の本旨である「空気抵抗の低減」に
極限までアプローチした結果があのスタイルだと思う。
極論すると、モハ52も京阪旧1000も、まだまだ甘かったのではないかと。 だから当時の技術では時速100キロが関の山。
ましてや廉価なガソリンカーでどれほどの高速運転を想定していたか。 戦前製流線形車両に実際に乗った事ある人いますか
学生の頃名鉄沿線に住んでいて3400など飽きるほど見てたのに、なぜか乗る事はしなかったんだな。
オープンスペースの運転席背後からの前面眺望を一度経験したかった。 >>100
京阪は急行形に留まらず一般形(1100)にも流線形を採り入れてます >>104
急行用も普通用もそんなに厳格に使い分けてなかったらしいよ 京阪1000って登場後すぐにロングシート化されたのでは 戦時体制下に入るまで数年間はロマンスシート装備で
花形だったと種々の文献には記されている。 >>108-109
1000型は戦時中もずっとクロスは残してなかったか?
それが幸いして初代の京阪特急の使用車両に指定された。 京阪の1000,1100の貫通(半流)側の運転台は、普通に常用していたの?
例えば、単車運転以外で流線型側が他車と連結した状態で本線列車で先頭に立ち営業とか? 京阪1000
ネットで探してると往年の写真をいくつか見ることができるが
やはり2連ではなくて4〜5連で走ってる方がサマになるよね。
阪急200が今一つなのもここに原因があるかも知れんよ
名鉄3400だって塗色では晩年の2連の方が合ってたかも知れんが
走り姿では4連時代の方が遥かによい ここで貴方の好みを主張されてもなあ・・
阪急200と京阪1000では製造の目的が根本的に違う。
阪急は火災焼失車の復旧名義だからね。
中間車を挟んで本線上を快走することなんて全く予定してない。 >>111
wiki情報だけど、貫通側の運転台は車庫内での使用に限定され、
営業運転では先頭に立つことはなかった、とのことです。 >>113
まあ今さら当時の事情なんて関係者もことごとく故人になってるだろうし確かめようもないが。
ただ「関西の鉄道1989年新春号」によれば、車体幅が他形式よりも広かったため十三〜梅田(宝塚線規格)には乗り入れられず、
十三折り返しでしか運用できなかったと書かれているので、やはり本線での大阪〜京都間の優等列車運用は想定してなかったと考えるのが
自然でしょう。 ん?
戦前は会社が違ってたからそもそも新京阪の電車が梅田に乗り入れることは
ありえなかったのでは? もう少し傾斜角度が大きければ躍動感出そうなのにな。 >>115
>>116
阪急200形の製造当時は京阪電鉄新京阪線でターミナルは梅田じゃなくて天六
規格の小さな宝塚線への直通は考慮してない。そもそも千里山線用だし >>102
なまずの前面展望がyoutubeに出てますよ。
貴重な映像です。 52系は後年改造されまくって無残にな姿になったのが惜しい
戦後国鉄はロクなことしてこなかったんだな >>121 戦後、関西圏において必要だったのは3ドアで通勤輸送に十分対応できる70系であって、52系は中途半端だったということなんでは?
優等列車に用いられた車両が後年改造されて、格落ちして通勤輸送に回されるというのは、私鉄にも当たり前に見られること。
ドア増設するなど通勤輸送対応改造に向かない車両は、短編成化してローカル線に回すのが合理的。
近鉄の2200系、2250系もその例だな。 >>121
スカートの省略くらいは許してあげてもいいのでは。
あれは保守点検時に相当な支障になったらしいよ。
名鉄3400はどうだったんだろうね。 >>121
戦後どころかすでに戦時中にあちこち弄られたし、戦後国鉄がどうこういうのはお門違いかと。
でも晩年の塗色については問題ありかなと思う。
色々あっても、原型に復されて保存されてるのは素晴らしい。 >>124
飯田線時代か。
色と言うよりも車体も車内も清掃がなってなかった。
これは戦後国鉄の問題。 52系は何故日車で保存したの?
本来 日車生まれで 相前後して引退した 名鉄のなまず や 後年引退の イモムシは、何故無視されたの?
当然 なまずも 揃えて保存するものだと思っていたのだが・・・
当時 日車に居た偉いヒトとかの采配(単に電車の好き・嫌い?) >>125
それ、52系だけの問題でもなかろうに。 >>118
あれ以上傾けたらかえって不恰好だよ。
誰かが書いてたように本当にスピードのためを考えるなら新幹線車両くらいにしないとダメ >>123
面倒だとか言わずにきちっと脱着してましたよ。
ここが国鉄と民鉄の違い。 保守の点もあるけど、クモハ52のスカートはアルミ製だったので戦時中の金属回収で
撤去されたとか聞いたけど 阪急200もどこかで保存してくれたらよかったのにね 流線形も湘南型も投入しなかった、いわば堅気の阪急の中で異端児的存在だから希少性があるのであって
スタイルは流線形としてはとりたてて変わったものでもないから保存の機運が盛り上がらなかった >流線形も湘南型も投入しなかった、いわば堅気の…
そういうのを堅気と言うのか?? >>135
国鉄、京阪、新京阪、名鉄、西鉄、相鉄、江若
大阪市電、仙台市電、 田舎の零細軽便であれだけの新車をよく調達できたなあと思う>西大寺鉄道 >>135
南海、山陽、京都市電、名前は忘れたが九州の中小私鉄 熊本電鉄500・600だと思います。元静岡鉄道の車両です。600は無人列車暴走事故で相方を失い、静鉄時代に撤去した両運転台を復活させ、車番変更をして601となりました。もう10年以上前に廃車されました。車体が薄く、丈夫ではなかったようです。 静鉄から熊本電鉄に行った電車は流線型ではないでしょ >>138
メーカーからの売り込みで価格交渉を鉄道側が主導できたから
いくらかは安く買えたらしい 値段がどうこうじゃなくて、中小私鉄がいきなり新車を買うことが珍しいということじゃないの?
経営の苦しさは戦前も戦後も変わらんのでしょ 西鉄(と地元では言われてたらしい)は914ミリ軌間で他社から中古車を譲受しても
足回りだけは別途調達する必要があるから、
どうせなら新車買おうってなったのでは? >>144
西大寺鉄道は軽便といってもバスとの競争がないし赤穂線が開業するまでは地域輸送独占で西大寺への参拝客もたくさんいた
おかげで経営は常に黒字
今と昔とでは同じ中小でも中身はまるで別物だよ 西大寺キハ7は空気抵抗の低減という流線形のメリットを
荷台取付で帳消しにしてしまう、このカオスさが堪らない。 139だが「九州の中小私鉄の流線形」思い出した北九州鉄道(現筑肥線)の
ガソリンカー。
追加で阪神の金魚鉢。 ガソリンカーは軽量化に気を取られるあまり車体は粗悪品だったというから、
すでに1960年前後には腐食等が始まってたのかな 名岐鉄道や三河鉄道からガソリンカーを承継した名鉄はこれらを電車化して
クハやサハに改造したが、戦後混乱期が終わった頃から大掛かりな補修を余儀なく
されたということらしいよ。外板が歪んだままで走ってる車も珍しくなかったとか >>154 もともと脆弱な機関でも単車か精々貨車を1,2両牽くなら不自由なく走れることを前提にして軽量化に
腐心した車体のクルマを高速運転の電車に組み込み起動、加速、減速、停止の度衝撃を受けるだから使い方が荒い。 >>156
かなり昔に築港線で電機に牽引される客車代用であったらしい
その他に瀬戸線の大森近くで速度超過で横転して引きずられたやつも元ガソ車のはず 保育社カラーブックスの名鉄編に客車代用されてる元ガソ車と
辛うじて判別できる写真が出てる 自重が軽いから客車代用は適任だね。
東武もそんな扱い方だったのかな 戦中戦後の物資不足の中で電装するための
主要機器を調達できたのがすごいね 部品もさることながら燃料事情の悪化が深刻だった。資源貧国日本の悲哀だね >>161
実は電気式ディーゼル車なので電装品は装備済
エンジンを外してパンタを載せれば電車の出来上がり 戦前のいわゆる“気動車”が電動車に化けたのは
相鉄の一例だけかな。 神鉄にもガソ車改造のTcがいたね。
相鉄からの転売らしいが 神鉄のは片運だったらしいが、貫通側の正面の資料をみたことがない 雄別?で客車に化けた北海道鉄道のびわこ形と大して変わらんと思うよ。
ところで豊橋に行った昔の同僚の連結側は?(貫通にしたの?) >>169
豊鉄に行った神中ガソは昭和39年に貫通化した。 >>165
TcやTなら結構ある。
電動車なら他に淡路交通にもあった 越後交通(長岡、栃尾共に)、下津井も・・・あ、流線型スレ脱だな。
相鉄が作った電気式気動車と同じ車体のサハ?なんて流線型デザイン無意味の極致だな。
(まあ 同じ図面流用で製造コスト減、将来の動力化想定があったのかも知れないが・・・) 飯田沿線に住んでいて、流電はもちろん、ナマズ、イモムシを普通に見ていた
私は、子供心に「なんて格好の悪い電車たちだ」と思っていた。
その後いずれも貴重な車両だと知り、見方が変わるまでは
ただ、湘南スタイルのクハ86やクモニ83100は格好いいと思っていた >流電はもちろん、ナマズ、イモムシを普通に見ていた
羨ましいなあ… 湘南型の方がスタイルとしてはよほど洗練されてたよね 流線形を貫通型に改造するには結構手間がかかりそうなんだけど >>174 流行のデザインを顕著に採用した製品というのは、そういうものだ。
時代(価値感)が変わったとき露骨に価値感のズレが露呈するから。
中小の場合そういう改造は、結構ラフ(穴あけの採寸とか)に行っていたんじゃないだろうか?
元来軽量構造で作られ、戦時中の酷使で車体の痛み(歪みや、狂い)も結構出ていた思う。
現行の電車の部品でも同じように作っても長年の補修で較差が出て結構相性とかあるよ。
鹿島参宮に居た元東横キハ1形で切妻に化けたヤツの改造は何処でしたの?
ひょっとして西武所沢工? 飯田線で、80系の投入により流電が無くなるって話になった時、あたかもクモハ52だけが無くなるような
言い方をされ、特に脚光を浴びていた。しかし実際にはクモハ42、43、51などの貴重な車両も多数淘汰された。
一方で、クモハ52だけ残すわけにもいかないとのことだったが、その割にはクモハ53や一部の同等の車両が
その後もしばらく残った。
結局、5両中2両も保存がかなったクモハ52はとても幸運で、決してそれを否定するわけではないが、旧型
としては多数派だった半流の54顔や湘南2枚窓が、最終的に一両も保存されてないのが惜しくてならない。 半流線形で思い出したが
半流とされてる車を見るとただの丸妻に見えるのだが
半流=丸妻ってことで合ってるの? >>177
手間以上に車体強度が落ちるのが最大の課題。
家やビルなどの建築物と同じで、最初にパッケージでできたものに穴をあける行為は
やり方が拙いと致命的な打撃を与えることになる。 最新のダブルスキン工法なら穴を開けたら強度がた落ちだが、在来のフレーム工法ならフレームを取り除かない限り強度の心配はない。取り除いた場合でも補強は容易い。 >>174
俺も流線型はむしろ洗練どころかゲテモノ的要素が強いものにしか見えなかったけどな
昔はこんなものがもてはやされていたのか、なんてねw 流電クモハ52の話題が出てきたところで
いくら原型が良くて復元されたのかは知らないが、俺は飯田線でスカ色を纏って
活躍していた晩年の姿が一番好きだった。って言うか、その頃しか知らない。
直前の湘南色は辛うじて記憶に残ってはいるが、走る姿の記憶は皆無
全て新製当時の部品で復元したのなら別だが、恐らく新しく調達したのだろうし
JR東海の保存車(52004)は飯田線時代の姿で残して欲しかったのがホンネ >>183
湘南型も当初は窓の両サイドが下がって見える、いわゆるタレ目のようなデザインと
金太郎の腹掛けのような配色が随分嘲笑の的にされたようだよ。 まあ見ようによってはノッペリ顔に見えなくもない
貫通扉が良いアクセントになってるとも思う 熊延から江若に行ったキハはタレ目ノッペリ湘南の最たるモノ。
留萌や定鉄、静鉄以外の軽便キハ(井笠、遠州、簡易軌道 等)は腰高湘南。
すれ地失礼。
>>184 それは、無茶な要求です。(組織がデカイと年月の経ったオリジナル専用部品まして戦前に失ったモノなんてとっくに散在、処分されている。)
余談だが、近年復元された 戦前型の電車は何処の会社のでも大抵他社現存、在庫品の似通った部品を流用したのもが多い。(仕方がない)
流線型の貫通化もそうだけど湘南形の貫通化も妻面を整形してからでないと面度臭そう
確か井の頭線の1900形に中間に封じ込められて運転台失った奴がいた筈だけど、アレはどんな状態だったの?
もしかして湘南のままノッぺラ坊? 逆に目がつりあがってるように見えたのが西鉄初代600。
晩年に一度乗ったことがあったっけ >>187
中間に封じ込められたのは井の頭の1900は1910と1913の二両で、
1910は前面そのままで運転機器だけ撤去、乗務員仕切も撤去され、前面の内側を触れた。
元乗務員室の部分は、シートも続いて無くポカンと空間が空いてる状態。
1913はガッツリ前面を取り、貫通路付き妻面が作られ、完全中間車化された。 >>188
末期は水色に赤帯だったが
それよりも青色に黄帯(昔の特急色)が似合ってた 西鉄の初代600原型はソコソコ格好好かったのに・・・・
無理して若造りして可哀想なコトになってしまった。