懐かしの流線形車両を語るスレ
静鉄から熊本電鉄に行った電車は流線型ではないでしょ >>138
メーカーからの売り込みで価格交渉を鉄道側が主導できたから
いくらかは安く買えたらしい 値段がどうこうじゃなくて、中小私鉄がいきなり新車を買うことが珍しいということじゃないの?
経営の苦しさは戦前も戦後も変わらんのでしょ 西鉄(と地元では言われてたらしい)は914ミリ軌間で他社から中古車を譲受しても
足回りだけは別途調達する必要があるから、
どうせなら新車買おうってなったのでは? >>144
西大寺鉄道は軽便といってもバスとの競争がないし赤穂線が開業するまでは地域輸送独占で西大寺への参拝客もたくさんいた
おかげで経営は常に黒字
今と昔とでは同じ中小でも中身はまるで別物だよ 西大寺キハ7は空気抵抗の低減という流線形のメリットを
荷台取付で帳消しにしてしまう、このカオスさが堪らない。 139だが「九州の中小私鉄の流線形」思い出した北九州鉄道(現筑肥線)の
ガソリンカー。
追加で阪神の金魚鉢。 ガソリンカーは軽量化に気を取られるあまり車体は粗悪品だったというから、
すでに1960年前後には腐食等が始まってたのかな 名岐鉄道や三河鉄道からガソリンカーを承継した名鉄はこれらを電車化して
クハやサハに改造したが、戦後混乱期が終わった頃から大掛かりな補修を余儀なく
されたということらしいよ。外板が歪んだままで走ってる車も珍しくなかったとか >>154 もともと脆弱な機関でも単車か精々貨車を1,2両牽くなら不自由なく走れることを前提にして軽量化に
腐心した車体のクルマを高速運転の電車に組み込み起動、加速、減速、停止の度衝撃を受けるだから使い方が荒い。 >>156
かなり昔に築港線で電機に牽引される客車代用であったらしい
その他に瀬戸線の大森近くで速度超過で横転して引きずられたやつも元ガソ車のはず 保育社カラーブックスの名鉄編に客車代用されてる元ガソ車と
辛うじて判別できる写真が出てる 自重が軽いから客車代用は適任だね。
東武もそんな扱い方だったのかな 戦中戦後の物資不足の中で電装するための
主要機器を調達できたのがすごいね 部品もさることながら燃料事情の悪化が深刻だった。資源貧国日本の悲哀だね >>161
実は電気式ディーゼル車なので電装品は装備済
エンジンを外してパンタを載せれば電車の出来上がり 戦前のいわゆる“気動車”が電動車に化けたのは
相鉄の一例だけかな。 神鉄にもガソ車改造のTcがいたね。
相鉄からの転売らしいが 神鉄のは片運だったらしいが、貫通側の正面の資料をみたことがない 雄別?で客車に化けた北海道鉄道のびわこ形と大して変わらんと思うよ。
ところで豊橋に行った昔の同僚の連結側は?(貫通にしたの?) >>169
豊鉄に行った神中ガソは昭和39年に貫通化した。 >>165
TcやTなら結構ある。
電動車なら他に淡路交通にもあった 越後交通(長岡、栃尾共に)、下津井も・・・あ、流線型スレ脱だな。
相鉄が作った電気式気動車と同じ車体のサハ?なんて流線型デザイン無意味の極致だな。
(まあ 同じ図面流用で製造コスト減、将来の動力化想定があったのかも知れないが・・・) 飯田沿線に住んでいて、流電はもちろん、ナマズ、イモムシを普通に見ていた
私は、子供心に「なんて格好の悪い電車たちだ」と思っていた。
その後いずれも貴重な車両だと知り、見方が変わるまでは
ただ、湘南スタイルのクハ86やクモニ83100は格好いいと思っていた >流電はもちろん、ナマズ、イモムシを普通に見ていた
羨ましいなあ… 湘南型の方がスタイルとしてはよほど洗練されてたよね 流線形を貫通型に改造するには結構手間がかかりそうなんだけど >>174 流行のデザインを顕著に採用した製品というのは、そういうものだ。
時代(価値感)が変わったとき露骨に価値感のズレが露呈するから。
中小の場合そういう改造は、結構ラフ(穴あけの採寸とか)に行っていたんじゃないだろうか?
元来軽量構造で作られ、戦時中の酷使で車体の痛み(歪みや、狂い)も結構出ていた思う。
現行の電車の部品でも同じように作っても長年の補修で較差が出て結構相性とかあるよ。
鹿島参宮に居た元東横キハ1形で切妻に化けたヤツの改造は何処でしたの?
ひょっとして西武所沢工? 飯田線で、80系の投入により流電が無くなるって話になった時、あたかもクモハ52だけが無くなるような
言い方をされ、特に脚光を浴びていた。しかし実際にはクモハ42、43、51などの貴重な車両も多数淘汰された。
一方で、クモハ52だけ残すわけにもいかないとのことだったが、その割にはクモハ53や一部の同等の車両が
その後もしばらく残った。
結局、5両中2両も保存がかなったクモハ52はとても幸運で、決してそれを否定するわけではないが、旧型
としては多数派だった半流の54顔や湘南2枚窓が、最終的に一両も保存されてないのが惜しくてならない。 半流線形で思い出したが
半流とされてる車を見るとただの丸妻に見えるのだが
半流=丸妻ってことで合ってるの? >>177
手間以上に車体強度が落ちるのが最大の課題。
家やビルなどの建築物と同じで、最初にパッケージでできたものに穴をあける行為は
やり方が拙いと致命的な打撃を与えることになる。 最新のダブルスキン工法なら穴を開けたら強度がた落ちだが、在来のフレーム工法ならフレームを取り除かない限り強度の心配はない。取り除いた場合でも補強は容易い。 >>174
俺も流線型はむしろ洗練どころかゲテモノ的要素が強いものにしか見えなかったけどな
昔はこんなものがもてはやされていたのか、なんてねw 流電クモハ52の話題が出てきたところで
いくら原型が良くて復元されたのかは知らないが、俺は飯田線でスカ色を纏って
活躍していた晩年の姿が一番好きだった。って言うか、その頃しか知らない。
直前の湘南色は辛うじて記憶に残ってはいるが、走る姿の記憶は皆無
全て新製当時の部品で復元したのなら別だが、恐らく新しく調達したのだろうし
JR東海の保存車(52004)は飯田線時代の姿で残して欲しかったのがホンネ >>183
湘南型も当初は窓の両サイドが下がって見える、いわゆるタレ目のようなデザインと
金太郎の腹掛けのような配色が随分嘲笑の的にされたようだよ。 まあ見ようによってはノッペリ顔に見えなくもない
貫通扉が良いアクセントになってるとも思う 熊延から江若に行ったキハはタレ目ノッペリ湘南の最たるモノ。
留萌や定鉄、静鉄以外の軽便キハ(井笠、遠州、簡易軌道 等)は腰高湘南。
すれ地失礼。
>>184 それは、無茶な要求です。(組織がデカイと年月の経ったオリジナル専用部品まして戦前に失ったモノなんてとっくに散在、処分されている。)
余談だが、近年復元された 戦前型の電車は何処の会社のでも大抵他社現存、在庫品の似通った部品を流用したのもが多い。(仕方がない)
流線型の貫通化もそうだけど湘南形の貫通化も妻面を整形してからでないと面度臭そう
確か井の頭線の1900形に中間に封じ込められて運転台失った奴がいた筈だけど、アレはどんな状態だったの?
もしかして湘南のままノッぺラ坊? 逆に目がつりあがってるように見えたのが西鉄初代600。
晩年に一度乗ったことがあったっけ >>187
中間に封じ込められたのは井の頭の1900は1910と1913の二両で、
1910は前面そのままで運転機器だけ撤去、乗務員仕切も撤去され、前面の内側を触れた。
元乗務員室の部分は、シートも続いて無くポカンと空間が空いてる状態。
1913はガッツリ前面を取り、貫通路付き妻面が作られ、完全中間車化された。 >>188
末期は水色に赤帯だったが
それよりも青色に黄帯(昔の特急色)が似合ってた 西鉄の初代600原型はソコソコ格好好かったのに・・・・
無理して若造りして可哀想なコトになってしまった。 >>184
せっかく吹田で001を原型姿で残しているんだから、004は末期で残して欲しかった。
広窓も原型にしたいなら、003か005、またはクモハ53007か008の、どれか一両を残す手もあったんじゃないかと。
保存費と言われれば、それまでだけど残すならキチンと繋がりあるように残して欲しかった希望。 >>193
実際、昭和50年まで鉄マニアの的は全て蒸気機関車だったから。
その次に新型電車と新型電気機関車で、旧形電車や旧形電気機関車は蚊帳の外だった。
ほとんどが電化された路線で、撤退間際の蒸気機関車が牽く貨物や普通列車の撮影がメイン、
空いた時間に偶然通る電車を暇を持て余して撮影したら、後年それが貴重になったとかが多い。
だから貴重な旧形電車を撮影したマニアのほとんどが、もっと旧形電車を撮影しとけば良かった、
そうHPでも書いているのが多い。
全廃で蒸気撮影が無くなったマニアは次の的で旧形電車に向いたから、末期の飯田線に集中した。 東北本線で57を狙ってたら運用変更で58になったのでそのままスルー
それを撮影しなかったことを今になって悔やんでいるベテランカメラマンが多い
って15年位前に出た某趣味誌に書いてあったの思い出した 今なら片っ端から撮っておけばいいけど当時はフィルム代も馬鹿にならんしなあ >>195
>174を書いた者ですが、たしかにその通りだと思います。
私にとっては旧型国電が日常の足でしたが、やはりほとんどカメラを
向けることはありませんでした。それが流電がなくなると知った頃から
急に注目するようになって・・・しかし時すでに遅く、記録に残っている
のは流電よりも、その後も残った80系を含む他の旧型車が大半です。
もっとも私は、日常的に見るクモハ52が貴重な車両であることなど知らず、
ボロい電車(東海道等と比べて)に乗せられる劣等感の方が強かったわけ
ですが、今更ながらに後悔しているのは言うまでもありません。 寄る年波には勝てない。
外観の劣化を隠すために塗装を繰り返すといわゆる「厚化粧」になり
ますます醜化していくのがオチ >>200 鉄道車両の定期検査時の車体補修は、(戦前の鋼製車)は、
点検用ハンマーで浮きの部分を叩き腐り箇所を把握。
その部分はガスで切り取り 同じサイズの鋼板でパッチ溶接。
但し正直 錆の再発防止は完璧ではない、あくまで不具合箇所の当座の処置
(次回定期まで持てば善いと云う考え)、で鉄道車両の塗装は自動車が塗料で
クリアも吹き塗膜が硬いのに対して ペンキ(乾きが鈍く多少塗膜に弾性がある)。
ボデイは切り継ぎ修復はする場合もあるが、けっして完璧な修理ではない。 >>200
厚化粧は特に戦前型に顕著だったな。シルヘッダーにリベットが並ぶ頑丈そうな
戦前型に合っていて個人的には好きだった。 >>194
まあそんなもんだよ。
たとえば千代田線6000系が登場したときあの類の非対称ルックスには
大いに衝撃を受けたが今あらためて見返すとそんなによくない
まあ70年代中盤以降類似品が雨後の筍の如く出てきたのもあるけどね 汎用型でスタイルがどうこう言われてもなぁ…
「格好いい事」が意味を持つのは特急型でしょ。 戦前(少なくとも国鉄では、80系で本格的に長距離運転が開始するまでは)
汎用も専用もあまりないんじゃないの?
無論特定線区への車種統一による合理的運用はあったが・・・。
電車やガソリンカーは、蒸気機関車牽引の列車に較べマダマダ新しい乗り物という概念が強かったから
近距離でそれ以前に普及した在来車(電車、ガソリンカー)とさして変わらぬ用途に用いる車でも斬新なデザイン(流線型)を好んで採用してんじゃね? 電車は「乗る」ものであって「見る」ものではないから
スタイルなんかどうでもいいと思ってる乗客が大半 >>203 日本の非対称前面電車の奔りは、参急2200形のトイレ側運転台(2エンド?)か?
気動車なら鹿島参宮鉄道が購入し整備改造した買収気動車旧阿南鉄道のキハ40401?かな? 別に侮ってないけど、電車も自動車や飛行機と同じ乗り物だってことだよ。 毎日通勤で利用する身にとっては、静かな走行音と揺れの少なさが達成できていればいい。
最近はVVVF車も静かになったし、揺れは台車と軌道の改良でもともと問題ないし、
特に不満はない。ましてや正面のデザインは、オタだと興味はあるが、気に入らないからとか格好悪いからといって
乗らないわけにいかないし。 >>188
湘南型ならいざしらず、時代的になぜあのようなデザインの車が忽然と投入されたのか興味深い。
実際初代600の直後に湘南顔の313を作ったわけだし。 戦前には07タイプの200系を作ったかと思えば
張り上げ屋根に広窓、半流ともいえる100系、その後戦中に連接500系を作るし、
九鉄→西鉄の車両政策は独特のカオス感を醸し出してる >>213 メーカー(近車)に、そそのかされたんじゃね?
近車って流線型とは無縁みたいだし、(近鉄も当時は貫通型ばかりで奇抜なのを作らせなかったから 工作技術向上の為)
昭和30年以前ってマダ人々の意識は勿論 工作技術、デザインとかもモノによっては戦前の絶頂期の水準を回復することを目標にしていたんじゃね?
それか、連接車500形を見れば判る様に西鉄社内に力を持つ車両のデザインや技術開発意欲的ないヒトがいたんじゃね?
で313形は、その反動で(そのヒトが担当から外れたとか社内の反対派の仕業)二枚窓ながら極めて地味につまらないモノに・・・
戦後生まれの東急の玉電80形も見方によっては、丸型の前面で窓上部角にRがついていたり結構古典的だよ。 >>214
100系は当初クロスシート装備だったというから優等列車に充当する目的があったのかな。 >>111
京阪1000形、1100形の貫通側の運転台は、
営業運転の先頭に立つためのものではなく、
回送運転台の意味合いで存在してたらしい。
もっとも、晩年は、流線形運転台と貫通側運転台が向かい合って
連結された編成もあったとか。
1000形のロマンスシートの写真は、本でみたことがあるけど、
戦前のものとしては派手なデザインだね。 個人的にだが、京阪1000,1100ってリアルに知らないけど格好好いよな。
ただ、ライバル省線の関西急電のデザインをストレートにパクるというのは、戦前の官尊民卑の意識の強い時代
よく思い切ったコトができたよな。(戦後 京急の湘南デザインのソレはデカ窓でワリとアレンジがされているが・・・) 戦前に登場した京阪の車両では、一番格好良いと思う。
ただ、戦後、特急運用に就いていた頃の
鳩マーク付の姿はちょっと微妙だ。 そういえば京阪500の更新車体は正面2枚窓で湘南顔モドキになってたよな
京阪って結構ミーハーっぽい部分もあるのね 京阪1000は国鉄クモハ52のパクリなのか
今まで気づかなかった パクリというか、一定の制約があるなかでどんなにデザインに工夫を凝らしても
出来上がりは自ずと似たり寄ったりになってしまうのは仕方ないと思う。
京阪びわこ号にしても、江若や鹿島参宮、西大寺に類似品が出たが、
これをパクリとは言わない。 びわこ形の件(びわこに端をはっし地方私鉄に同じ前面の気動車が多数出現)は、
デザインを考案したメーカー(日車)の仕業だな。
京阪がどれだけデザイン発想に関与したかにもよるが、その後問題になっていないのだから
日車がある程度ユーザー希望(近代的で都会のものと遜色ないものを・・・とか)を聞いて導入したのだろう。
余談だが、びわこ形でも社外品というかパチモノが西大寺鉄道にありソイツは川崎製で正面の窓は2枚 >>223
同時期に阪急も機器流用車210系や610系に非貫通顔を採用してる
ただし3枚窓だが。これも湘南ブームの影響なしとは言えない。 >>228 製造両数や使用線(短い支線用)の限られた車両でやっているから 遊んでいる(試行)しているのはだろうね。
それか単純に貫通にすることによるコスト削減。 乗務員サイドの要望反映(視界、居住性・・・操作環境、空間、隙間風対策)
>>223 湘南スレで議論してたけど、4面の鼻筋ないから違わない?
確かに小型で車体幅の狭い500を更新するにあたり、湘南電車みたいに2枚窓にしてみよう!
そのほうが、経済的だしみたいなハナシは内部であったかもしれないが、
コレ入れちゃったら キハ4100の私鉄払い下げ車(電車にも)で2枚に改造したのなんか全部湘南扱い。 >>228
今や古典となった「私鉄ガイドブックシリーズ」(慶応鉄研の方)によれば
湘南ブームの影響があった、と解説文に記されている
少なくとも出版当時の1960年代後半にはそういう評価だったということ。 >>228>>230湘南スタイルではないが、80系一次車の影響?ってことか? >>214
西鉄旧型車といえば200系や500系に目が向きがちだが、
自分は100系こそが最も注目されていいスタイルの形式だと思ってる。 全金車体に更新されてサイドビューがバス窓になった時には卒倒しそうになったがなw
西鉄は何をしてくれてんねん!と。 昔も、中小私鉄が新車を調達する時はメーカーのカタログから目ぼしいのを選んで注文するという感じじゃなかったの?
びわこスタイルが多かったのも、日車がスタンダードとしてあの顔の車をいわば“ショーケース”に陳列したってことなんだよね。
それを見て江若や鹿島参宮が買った、という。 びわこ号は名車として名を遺したが、同じ顔でも江若や鹿島では有名になりようがなかった。
マイナー線区の悲哀だ。 鹿島や江若の奴等は、戦後もホームグランドに入れたが、北海道鉄道や相鉄に居た奴等は、
お家騒動(買収、電化)と戦中戦後の激動(燃料入手難、酷使)の荒波にもまれ一族離散、地方私鉄ドサ廻りだから未だ好運だな。 江若の2両のうち1両は整形手術で別人に変わり果ててしまったがね。
これは幸運なのだろうか 西鉄大牟田線の100系の更新も?だが、未だ当時基準で現場の使いやすさとか考えていそうな気がする。
岡臨の5001や岡臨での同僚で常磐炭鉱からきた3001は、お家取り潰しで
紀州に嫁いだ際 更新を受けたけど、これ等はもう観てくれ3の次位の考え方で
単なる輸送機械として老朽化進行を少しでも抑える為に施した加工だな。
本当に可哀想だった。(近代化というより入手しやすい汎用資材を使う方が製造当時に近いで治すよりカネがかかるから、こんな感じにしました。って感じ) 別人に変わり果てたのは日立電鉄13くらいでしょ
江若は流線形の面影は残ってたよ