山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. >>36
その通り!勿論乗降客ゼロの小駅の場合に限定される
そのガシャガシャガシャーンの表現久しぶりに聞いた >>36
日本海の京都駅到着でも伸び縮みしてたぞ。直通ブレーキ引かずに停めてたなww ホームとは反対側の道床に下りて駅舎に直接行ったりしてたな。 最後部の開けっ放しの貫通路から流れるレールと景色を見るのが好きだった。 ぜんぶ旧客の時代、よりどりみどりでどの車両に座ろうか迷って
せっかくだからと一番古そうなニス塗りオール木製シートの61系だったかに座った
寝不足で疲れていたせいもあるが発車のたびに「ズゴーン」と脳天直撃の衝撃とともに
体がシートから3pくらいズレて大変な思いをした
さすがに耐えられなくなってスハ43に移動したら快適だった >>39
急行日本海?
小湊鉄道の気動車が小さい駅では超微速だが停止していなかったな。
スレ違い失礼。 1978年昭和53年10月までは急行だいせんも旧客だった
勿論70年代後半は青春18きっぷはなかった訳だけれど
スハ43とは言え使われていたのは周遊券時代ならでは
今のムーンライトえちごやながらの感覚だったろうと
思ったが急行だいせんは全車座席指定車なので別払い
普通列車と急行列車が同じ車両とはすごい時代だった 大阪駅の中央改札を入り、階段をのぼる。
階段の上のほうへ上がっていく途中で客車の屋根が見えてワクワクした。
ホームに出ると、最後尾に乗ろうかそれともいちばん古いやつに乗ろうかと考えながら編成を見て回った。
どの車両もガラガラで席は選び放題。結局最後尾に陣取って大阪駅を出発。
行き先はもう覚えていないけど、鳥取まで乗り通した。
昭和59年の春休み。
東京から大垣夜行を使い乗り継ぎをした時の思い出。
淀川の鉄橋や武田尾の渓谷をのんびり走った汽車。
楽しかったな。関西の人がうらやましく思えた。 続き
大阪まで18切符で来て、四国ワイドを買って四国旅行をする途中の出来事。
結局、汽車の魅力に負けて鳥取まわりで因美線津山線経由の四国行きに急遽変更したんだった。
山陰線のある京都には汽車があるのは知ってたけど、大阪にも汽車があるのにすごく驚いたのを覚えてる。
たまに大阪駅に行くことがあるけど、あの日の光景をいまだに懐かしく思い出す。
中央改札もだいぶ変わったけど。 あの頃、山陰線だけ異次元の世界だった
東京から京都まで来て山陰号のスハフ42に乗り込むとあまりのタイムスリップに
異国の果ての知らない国まで来てしまったような気がした
2,3日、旧客ばかり乗ってカニめし三昧していると、しまいには感覚が麻痺して
12系さんべに乗るとまるで未来の客車のように感じた
その後14系の殿様気分を知ってしまうと12系なんかよく乗れたなぁなんだけどね 山陰本線は旧型客車引退後も50系や12系が頑張ってた
12系客車が引退し完全に客車列車が消えたのは1997年
平成9年だからもう15年前の話になるがよく頑張った
今は電化区間は223系電車になったが、やはり客車が
福知山線山陰本線には似合っていたんだなと福知山線
脱線事故のニュースを見るたびに嫌でも思ってしまう >>45
ディーゼル旧客に慣れた者にとっては、電機に牽かれてかっ飛ばす北陸線・常磐線の旧客に乗ってシビれたもんだよ。 >>49
北陸本線522列車、北陸本線523列車に乗った事あるが
北陸本線では当時既に快速電車が主役だったのが残念
522列車は糸魚川、523列車は福井で快速電車乗り換え 山陰本線で旧客に乗ってたら電子音のハイケンスが流れたことがあったわ。
どれくらいの車両が電子音に交換されてたんだろ? 福知山線で旧客が無くなる前、ごくたまにオハニ36が連結されていた。
荷物扱いがまだあった時点か、その後かは良く思い出せないけど、後の様な気がする。
郵便車が付いていた時は全く姿を見せなかったので意外に感じた。 旧型客車とか、車内の環境や衛生状態は実際どうだったんだろう?
もともと相当な経年車両だったし、エアコンなど当然無し
トイレも垂れ流し式だったし
真夏や真冬なんかに混雑している車両に長時間乗っていると、体調を崩す人とか居なかったのかな? >>53
昔はそれが当たり前だったからね
変な話、旧型客車全盛期は生理用品もなかったから、
女が人前で生理の血を垂れ流すのも不思議でなかった
何よりも、SL時代の匂いと煙草の匂いが充満していた
変な表現だが、昭和時代の匂いだったと記憶している >>53
現在の生活や車両を基準に考えると、そう思えるんでしょうね。
そういえば、国鉄時代は、車内に消毒液の匂いが残っている事がありましたが、あの匂いは
国鉄独特のものだった様に思います。 子供の頃(福知山線非電化時代)に宝塚に住んでいたけれど、親に連れてもらって大阪に行くときは殆ど阪急ばっかりだった理由が分かったような気がする。
阪急は既に冷房車が走り始めていたし、車両の設備や手入れがまるで違っていた。
古くて汚い、埃っぽい旧型客車自体を、多分毛嫌いしていたんだろう。
まして、煙草を吸わない人だったから、車内に充満していただろう煙草やその他油や訳の分からない臭いも相当不快に思っていたのかもしれない。
子供の頃には分からなかったな。
まあ、最大の理由は、運賃が高かったことや、本数が少なすぎて不便過ぎることだろうけど。 夏の暑い車内の窓から顔を出し涼んだことがどれほど楽しかったことか。
今となってはクーラーが普及したことと安全性が高くなって出来ぬこと。
ああ、もし戻れるならあの時代へ戻りたい。 開けっ放しの扉から手摺をしっかり掴みながら身を乗り出したのは良い思い出。
武庫川沿いとそのトンネル・鉄橋、淀川鉄橋は特に面白かった。 >>54
出鱈目にも程がある。
ゆとりを騙して悦に入ってるのか? >>47
山陰本線は最後の汽車運用やってた路線だからね。長距離客車列車が大量
に行き交い、荷物郵便輸送も健在、寝台車付きの夜行普通、夜行急行が残り、
渓谷、海岸沿いを走り、餘部鉄橋、撮影名所のコンクリート橋、
スイッチバックまであった。昭和30年代ぐらいまでの長距離非電化本線の
形態が最後まで残ったのが山陰本線だと思う。
>>51
最末期だね。山陰に入ってたスハフ42のオルゴールも既におかしかったな。w 客車の切り離しは大体どこでやってたっけ?
福知山?豊岡?鳥取? >>63
京都や大阪からのは、福知山で切り離し、上りは逆。
豊岡でやってたのがあると思うが、あと米子と出雲市でもあったと思う。
鳥取は覚えがない。 山陰線・福知山線で貨物が復活することは
無いのかな? 普通列車・荷物列車・貨物列車(この場合は列車掛資格を持ってる車掌)に
客扱専務車掌が乗務することってあったんだろうか? >62
山陰本線にスイッチバックなんてありましたっけ? >>68
鳥取と福部の間にスイッチバックの信号場はあった
相谷信号場の廃止・鎧・久谷の棒線化と、城崎〜岩美は悪循環してますなぁ。
旧客の普通列車にカレチやレチチが乗ることってあったんだろうか? >>69
「出雲」の廃止まで、残っていたんでしたっけ? 旧客最後の年、僅か1両残っていた
ぶどう色2号塗装のオハフ33に乗車して、このスイッチバックで列車待ちした記憶が
あります。 >>71
オハフ33 389です。48 は青15号でした。 ごめん、そうだった。
しばらく残ってた5両のうちでごっちゃになってた オハニ以外ではニス内装の最後の2両だね。
もう一両のオハフ33 2625は福知山で邂逅したが
一期一会だった。
(遠方&幼少なので旧客自体に乗り鉄できなかった)
生涯の残念。 2625は、福知山線で最後に乗った篠山口発大阪行き普通列車に連結されていて、
迷わず乗りました。確か60年3月10日だったと思います。
福知山からの普通は既に12系で運用されていました。置き換え数日前の光景です。 うらやましいね。
沿線に住んでたり親戚があったりとかだったら
幼少だろうが乗れたんだろうけどね。 沿線住民だったよ。汽車通学している小学生も居たな。1時間に一本じゃ、通いにくかっただろう。 >>76
当時の福知山線は、三田あたりまででもちょっとした旅行でした。今は篠山口行なんて
本数多いですからね。 夏休みと冬休みは小学校に入ってから毎年1人で福知山まで帰省してたわ
和田山で乗り換えるんだけど接続が悪すぎて1時間は待ってたな
電車が駅に止まる度に線路の錆が室内まで舞い込んで目に入るし、
乗降口は開きっぱなしだし連結部の蛇腹は破れて布そのものが無くなってるし今じゃ考えられないワイルドさだったな
俺の記憶だと戦後の青い客車の乗降口は引き戸で、戦前の茶色い客車の乗降口は中折れ式でまともに閉まらなかったと思うんだけど
今見る写真じゃ中折れ式が見当たらない、ガキの記憶なんかそんなもんかな
ボックス席の窓の下に設置された慎ましいテーブルの下に付いてた栓抜き使ったことある奴いるの? >>72
これかぁ。茶色のオハフ33だけが廃車されて、その他3両はJR化後も
生き延びた。オハ46 512は大井川へ、他2両は動態運転。
その後オハフ33 48だけ梅小路で解体ショー。w
http://blogs.yahoo.co.jp/ozayo1965/7480267.html
当時の国鉄にはレトロ=カネになるの感覚はまだまだ無く、どうせ残す
なら近代化改装された快適なハコの方が良いだろうって判断する人が
多かったそうな。高崎は静態保存も視野に入れて客車を集めたので、
未更新車も動態でギリギリで残せたって感じか? 酉に継承されたのは、マイテと64系以外では
オハフ33 289
オハフ33 48
オハ46 13
スハフ42 2254
の4両かな?
JR化初期の頃のドア保安は、今みたいにうるさくなかったんだろうね。
少し前までの束の旧客臨みたいに各ドアに配置とかはしてなさそう。
http://homepage2.nifty.com/tkataoka/history/008/history_008.htm
↑これとか。つか反対ホームへ出てるとか
まだ国鉄時代の大らかさのままだし。JR関係者も乗ってるのに。 ホーム反対側の道床に下りて改札口に向かうというシーンはあったな。 今日、古い資料を整理していて見つけた記事ですが、1984年夏に、大阪から熱海へのお座敷
列車に、米イモのオハネフ122018を連結し、寝具置き場として使用したとの事。
使用後は、721レに連結して出雲区へ回送したとの事ですが、団体旅行とは言え、営業運転で
東海道本線の京都以東に入線した、最後の10系寝台車かも知れません。 >>79
電車が止まるたびって
もう電化してたのか? JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL >>83
営業運転では最後かな。10系寝台の上野撤退は1982年の上越新幹線開通
によるダイヤ改正だったと思う。その後、臨時での使用があったかは不明。
回送なら高崎へ保存車回送してるので、それが最後。(その後、横川で保存) SL末期の山陰ローカルってどうやって出発合図出してたんだろ?
DL同様に無線機で合図出してたんだろうか? んなもんSL末期どころか国鉄末期まで同じでは?
当務駅長がいる駅は出発合図機で出発合図
無人駅が無線
じゃね? まあSL当時なら古風な
直接肉声で「ハッシャー」もあっただろうね。 ホーム端の小さなスピーカから『ビィーー』って音がしてから
機関士さんが汽笛鳴らして発車していったよ。
1973年か1974年の3月後半、早朝の特牛駅下り蒸気列車
降車後のはなし。(ホームに駅員無し)
他のいろんな駅でもブザーが鳴っていたけど覚えてるのが特牛
誰がどこからブザーを鳴らしていたかは不明。 >>90
どうやって鳴ってたのかまではあなたと同じで判らんけど、
ブザーは間違いなく出発合図だね。 ブザー付きのとこと、無線機でこちら○○列車車掌、機関士さんどうぞ、
こちら○○列車機関士、○○列車発車!、ポォー・・の流れだった。
旧客は静かだから、掛け声が良く聞こえたなぁ。 >>92
蒸機時代?
ともかく、車掌を介さない「出発合図」常用の頃だったなら
無人駅が無線機扱いだったらしいね。 旧客車両が好きで特に夏休みには、良く乗りに出かけていたな。
夜行山陰も窓を開けて真っ暗な中に白熱電灯が光る田舎の風景を見ながら楽しんでた。
落ち着いた佇まいの車内、61系、35系、43系・・・・、
何故だかあの車内の匂いが妙に好きだった。
あの頃にデジカメがあったら、どんなにか・・・・
そして、今はもうあの懐かしい匂いもすっかり忘れてしまった。 >>96
今残ってる現役車両も、あの頃の匂いは変わらないね。
束も支社内イベントばかりなので、長距離乗れる機会は無くなって
しまったけど。 京都駅山陰線専用頭端式ホームも架線が無くて、
ローカル線独特のムードが醸し出されていて良かったなあ。
あれはまさにディーゼル王国の象徴だったよ。 夏休みは福知山の祭りと花火が一番の楽しみだった
姫路から片道4時間の道のりが行きと帰りで正反対で長いこと
帰りに福知山駅の入り口で売ってた水槽のニジマス買って帰りたかった 100まで来たね
旧型客車=昭和時代と言っても過言ではないが山陰本線福知山線はまさにそれだ 旧客ではないが、蓬莱峡のキャンプ場に置かれている20系は一見の価値有り。 >>92
『ンヴゥゥ〜』
『〇〇〇レ、出発進行ゥ!』
『ホェ〜…』
『ップシャ〜ァ…』
『ガッツン…ガツン…ギシギシ…』
『タッタン…タッタン…タッタン…タッタン…』
『カタカタタタン…カタカタタタン…カタカタタタン…』
全てが皆、懐かしい…(遠い目) 旧客の合間にキハ58 キハ80 キハ181
一般型DC
DD51貨物 工臨
それに出雲
今から考えたら夢の様な線区だったな
ロケーションも含めて >>103
数百キロ以上走破する長距離普通、寝台付き夜行普通、夜行急行、
寝台特急、DC特急・急行、倉吉線の混合列車、スイッチバック退避あり、
山あり川あり海あり餘部あり・・・最後の汽車旅路線だったな。 鉄道に魅力あるとこって土地柄としては閉鎖的で縁の無い者が住むと村八分にされて
かつをにならざるを得なくなる感じ。
福知山はじめ山陰一帯は。なんかどんより暗くてねっとりしたてるよな。
それが景色としてみればいいのだが。たまにいって客人としてみるのがいいので
すむとこじゃねぇな。 >>102>>104
出発合図器のブザを用いての出発合図は
既に全国で小倉と博多のみ(しかもJR化以降は長らく回送列車とワンマンのみ)。
ED76の廃車で、機関車汽笛との取り合わせは絶滅してしまった。 昔の鉄道ファンに普通列車の12系客車にキハ58?が連結されている写真があったんだが、
よくあった光景? >>109
工場の入場出場や転属で、最後尾にDCをぶら下げて行くのは珍しくないものでした。
途中で他線へ行くDC列車を併結する例も遅くまで東北本線にありました。
また途中駅でDCを解放、そこからDCは別列車で折り返すのは函館本線や他の線区でもあったようです。
連結器強度の関係で、DCは後尾に決まっていました。 札幌駅では少なくとも、はまなす回送の時の出発合図にはブザーを使ってるな。 >>114
それってちゃんと汽笛で呼応してくれる? 福知山線の旧客、出発後・到着前の車内放送でオルゴールが流れたのは、大阪・篠山口・福知山と、あとどこかあったっけ? SL乗り遅れの自分にとっては、120さんと同じ思い
しかしもう10年早く生まれていたら、SL+旧客だったでしょう
実際、旧型客車という響きは、自分の世代だけで感じるように思います
主役は必ずしも機関車ではなく客車という意味で
(SL廃止から旧型客車廃止(和田岬は除外)まで10年間
10年上の世代では、SL+旧型客車がセットで、SLが主役、旧型客車は常識
10年下の世代では、旧型客車も夢のうち
120さんも自分と同世代と思います 121さんの言われるとおり、あと10年早く生まれていたら。。
たしかに。。なるほど同感です
120より。 自分もあともう少し早ければ同感です。
1968年昭和43年に福知山線からは既に、
SLは旅客列車牽引から消えてましたが、
1969年昭和44年翌年初めて乗りました。
1969昭和44年と言えば福知山線以外は、
SLがまだまだ現役の時代であったので、
SL福知山線残ってればと今も思います。 DD51旧客に乗って一人で武田尾(旧駅)へ遠出したのが消防の頃の思い出
猿と猪はいなかったw 皆さん仲間がいてうれしいです
旧型客車だけでも相当なのに、その上SL牽引だったら…
もはや夢の中ですが
武田尾もそうですが、もっと強烈な印象が尼崎港
自分の時は末期のせいか、混合ではなかったのが残念
尼崎の高架駅、金楽寺のさびれた駅舎、そして貨物駅に同居の尼崎港駅
当時感じた以上に、すごい体験であったことが今更思い出されます
帰りも塚口行に乗ればよかった… うらやましいです。
世代的に、動いている旧客に、乗れませんでした。
大阪市内の小学高学年でしたので、
親付き&日帰りの範囲でしかまだ旅行できませんでした。
福知山線は12系でした。
車内からの車窓や交換まつかぜ通過の様子などは
8mmビデオに撮ってあります。 12系時代だけど新線移行後も普通客車走ってたんだな スハ32や怪しいオハ41、白熱灯車が残ってた頃が一番面白かったな。
スハフ32(しかも現役時代乗車経験のあるハコ)が残るとは思わんかった。 同じです
スハフ32 2357に磐越西線で乗っていて、撮った写真までありますが、少し前尾久で乗る機会がありました時は少々感激(ただし動かず)
SLだけではなく、もう少し客車も残してほしいと思っていましたけど、ぎりぎり間に合ってよかったです
そういう意味では大井川はもっと評価されていいのでは
怪しいオハ41も同感
七尾線、津山線、伯備線、などは朝夕にわずかに動く程度で結構難しい
弘前か秋田でも1両、山陰線の西部で50系併結のオハフ41(早朝の行商人用で帰りのみ一般乗車ん可能?車内は魚のにおい)
四国だけは昼間もオハ41が動いていましたが、ガラガラの状態で乗ってきた人(高校生?)が、ドアを開けた瞬間「あ、長椅子」と叫んだのがはっきり覚えています
もう30年ほど前のことになってしまいました 正直それは否定できないですね
でもあと30年ほどたつと、今普通に走っている現役車両が同じようになると思います
自分でも、あの時乗っておけば撮っておけば、というものが多数ありますから
特に自分が専門でとっていたもの以外に、それを強烈に感じました
すみません >>129
私がスハフ32 2357に乗ったのは、磐越東線でした。当初保存候補にあがってたスハフ32 2131とのコンビで、
他の2両もオハ35とオハフ33のオール戦前製茶色の4両編成でした。昭和10年製の2131が解体になったのは、
惜しい事をしたと思ってます。(この2両がスハフ32最後の2両になった。) DE10型牽引による倉吉線の客車列車
列車によっては合造車と旧客の2、3両編成や貨車を連結した混合列車もあった
客車列車にはときおり、ナハフ11が倉吉線の客車列車運用に入ることもあった。
ただし、倉吉線は簡易線規格だったため、客車列車は気動車列車より鈍足で、
中には倉吉〜西倉吉間で27分かかる列車もあった 山陰本線には、旧客が似合っていたな。浜坂にビールを飲みながら
撮影が出来る宿があった。多分その宿の屋上から撮ったと思われる
動画だ。
http://youtu.be/yj2pfvtJ7Qs 偉大なるローカル線山陰本線と言ってた宮脇俊三の事思い出したお盆なので合掌 丁度30年前の今頃、「山陰」のB寝台で一夜を過ごしましたが、夏休みもあって、
上段まで満員でした。
寝台車には、昔で言う「車掌補」的な車掌さんが1名居て、乗車の際には寝台まで
案内してもらったのを思い出します。冷房もよく効いて、寒い位でした。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています