【懐かし】阪神国道線について語る【路面電車】
このスレでは1975年5月6日に廃線となった阪神国道線の思い出を語っていただきます。
足の遅い国道線の電車が阪神本線を回送し武庫川線に移動する場合とかって深夜行われたのですか?
・・・他車併結とかでは無いような・・・。 20年ほど前に朝日放送からでたビデオに
金魚鉢の重連が本線走行してるシーンがあったような >>3 昇圧前の話ですよ。
武庫川線の運行に軌道線の電車を充当していた時期があったのよ。 武庫川線だけじゃなくて、尼崎海岸線とかも国道線の車両だったよなあ。
軌道線用と言っても、高床式だから、その辺はつぶしが利いたんだろう。 保存車が極めて少ないのが残念。阪神パークの奴は惜しかった。伊丹の奴も消えちゃったしな。
残ってるのはセンタープール前近くの2箇所の公園にある奴だけか。 >>3
武庫川線は昔から使用車両が限定されていたから、早朝と深夜に入庫出庫専用のスジあり。
車両交換も途中でしないから、新設軌道線車両でも併用軌道線車両でも車両性能と無関係。 >>10 阪神本線と国道線の線路が繋がっていたのは元町側でしょ。
毎日送り込むには、結構距離がありません?
それとも尼崎の車庫(当時も在った?)に常駐の軌道線車両居てソレを充当? 本線と国道線が繋がっていたのは杭瀬。
おそらく尼崎車庫に常駐車がいたと思われる。 600V最晩年は尼出庫入庫だよ。古い時代は知らんけど。
尼→甲子園→武庫川→尼
神戸市電の花電車が山打出まで直通していたんだよね・・・。懐かしい。 >>9
伊丹の保存車は、別の人が引き取ってレストアしているらしい。
ネットに、レストア中の車両の写真がありますよ。 >>15
なるほど。そうだったんですか。それは良かった… >軌道線用と言っても、高床式だから、その辺はつぶしが利いたんだろう
国道線の車両は高床式だったんですか?
だとすると路上からの乗り降りはかなり大変だったんでしょうね 1段折りたたみステップはあっても、安全地帯(島)が無かったので、結構
高さがありました。
当時子供だったので、乗り降りは大変だった記憶があります。 >>20
ということは低床式だったの?
一体どっち? 台車自体は路面電車用のものであり、床下高さは鉄道線用のものよりは低いですね。
京福の車両より少し床下位置が高いと考えれば良いかと思います。
凶徒死電スレより甜菜
161:回想774列車[sage]2012/08/06(月) 15:43:07.15 ID:2J6/NuAa
>>153
阪神国道線なんか末期は定刻ダイヤでも40〜45分に1本という惨憺たる有り様
>>160
おかげさまで観れた ありがと
162:回想774列車[sage]2012/08/07(火) 01:29:39.90 ID:OcMxVaU6
>>161
国道線末期は36分に1本でした
しかも岐阜みたいな安全地帯のない電停
163:回想774列車[]2012/08/07(火) 08:24:01.26 ID:kW4LSYHO
交通量の多い国道2号線に安全地帯を作るのは、たぶん難しかったのでしょう。
何度か乗りましたが、車掌さんが赤旗出して車が停止しても、道を渡って電車迄
たどり着くのは怖かった記憶があります。 国道線や北大阪線の代替バスも近年は本数削減や系統分離が進んで惨憺たる有様ですな。 渋滞と新快速には勝てんか
阪神バスも昔は阪国バスを名乗っていたんだがなぁ 少々余談になりますが…
阪神の関連会社未成線であり、阪国バスの路線でもある県道尼宝線が、
ついに全線四車線化目前になりましたね。
残る二車線区間は、阪急のオーバーブリッジと、武庫之郷北〜昆陽里、
宝塚IC周辺のみ。具体的な工事の気配が見えない阪急のオーバークロス以外は、
1か月見ないと状況がどんどん変わってるような具合です。
いかにも鉄道、という路盤だった、昆陽里の北側(イズミヤ横〜)が
周囲の地形に合わせて埋められたり削られたりして、
均一な勾配で緩〜く上っていく感じは、見られなくなりました。
何本か残っていた「阪国」の用地界標も、全部なくなりました。
こうなると、残された鉄道風の風景は、阪急の陸橋ぐらい?
(改修前のJRのガード部分に較べると、ぐっと鉄道臭薄いけど)
いずれにしても、ついに鉄道路盤の面影がわからなくなる時代が
来るのだなあ、という感じです。 >>23
昔は安全地帯があったけど戦時中に撤去して復活しなかっただけなんだがな。 用地界標といえば、阪神国道のどこかの橋は
阪神電気鉄道が費用を負担して架けられたと聞いたような…? そもそも、線路用地自体が阪神の所有物で、拡張工事も阪神の費用負担だった筈。 大きい橋には通行止めか防水か忘れましたが
道路を封鎖する門扉があって線路と直交していました。
電車の線路に切れ目があって
電車同士の平面交差みたいな通過音を出していました。 末期の頃、乗ろうと思って停留所の時刻表を見て仰天。
日中は2〜3時間おきの運転間隔だったよね。 東側はもう少し運転間隔が短かったですね。
夕方のラッシュ時、ホイッスルの「ポー」という音を鳴らしながら、車の波に
もまれつつ走っていた姿を、今でも思い出します。
>>29
国道なので阪神の負担は2割ほど
線路用地は自社所有 5ヶ月近くどなたも書いておられませんが質問です。
1975年以前には存在していない世代です。
関西の1435mmの鉄道(新幹線は除く)のレールは過去の時代においては、路面電車を介して
すべて繋がれていたと聞いております(すべてが同時代に繋がっていたとは言い切れませんが)。
※平面交差のみは車両の移動が出来ませんので、この範疇には含めていません。
【例】
・阪急〜(梅田)〜大阪市電
・近鉄〜(丹波橋)〜京阪〜(三条)〜京都市電〜(元田中)〜現在の叡山
ただし、阪神の路面電車と大阪市電は野田や天六では接続されていなかったと聞いています。
神戸市電とは東神戸でレールが接続されていました。間接的にでも大阪市電とレールが繋がって
いたことはないのでしょうか?
新幹線は除くと書きましたが、大阪市電の廃車が森之宮に集められている映像を見たことが
あるのですが、地下鉄(谷町、中央、千日前)と線路は繋がっていたのですかね? 北大阪線の中津の鉄橋が知らない内になくなっていたのはショックだった。 >>36
阪急宝塚線高架後に造られた「北野線」は、大阪市電とつながってたそうです。
その大阪市電は、京阪電車と平面交差はあったとか。
阪神国道線と大阪市電は、線路の交差もありませんでした。
阪神国道線と阪急電車は、
阪神国道線〜杭瀬連絡線(昭和50年廃止)〜阪神本線〜神戸高速鉄道(昭和43年開業)
でつながっており、さらには山陽電車とも繋がってたとも言えます。
大阪市交通局内でも、市電と地下鉄の線路がつながってたことはないです。 ありがとうございます。
自分は現在の阪神に付いてもあまり詳しくない者です。
京阪と市電は野田橋(片町)で平面交差していたのですよね。
昭和40年頃のものかと思いますが、市電が1900系特急の通過を待っている映像を見ています。
阪急から京阪へ移籍した車両は梅田および野田橋経由(何らかの方法で京阪のレールに載せ替え)で行き、
現在の阪堺から阪急への移籍も梅田を使ったと聞いております。
阪神から京福(叡山)へは、レールが繋がっていない箇所で何度か「載せ替え」て行ったのでしょう。
阪神国道線と本線は杭瀬で繋がっていたのですか。知りませんでした。大昔の武庫大橋でも
線路は繋がっていませんでしたし。
阪神国道線は間接的に阪急電車と繋がっていたので、地下鉄堺筋線(昭和44年開業)とは繋がっていますね。
大阪市電と地下鉄の線路の繋がりがないことは了解しました。
何らかの方法で車両が森之宮に集められていたのですね。
春日出車庫の幕を出したまま車体が解体され、野焼きにされている映像も見ています。 >39
市電と京阪が平面交差している踏切の横に京阪の片町駅があった・・・。
阪急の天神橋(天六)は、少なくとも1960年代後半には高架駅になっていましたね。 廃止直前、寂しげに車の洪水の中を走る金魚鉢を見て、ホロっときた事があります。 阪神阪急は、神戸高速以前に戦時下当局の圧力で今津でダイレクトに繋いでいたでしょ。
新幹線だって(切り替えだろうが)建設工事の兼合いで平行の阪急京都線が高架切り替えの際新幹線の軌道を使用 新幹線の線路を先に阪急が使っていたのは有名な話だね。 >>40
どうも有り難うございます。
京阪片町駅はその場所にあったのですね。
阪急の天神橋は元々高架駅(日本で初めて駅舎を内蔵した駅ビル)で、
1969/12/6の堺筋線開通とともに地下に移りました。
>>42-43
戦前、阪神国道の手前で阪急600系が坂道を暴走して転轍機も壊して阪神の線路に侵入し、
久寿川駅のホームで車体を擦って停まったんですよね。
新幹線の建設と、並行して走る阪急の嵩上げ工事は、工事の段取りの都合で昭和38年に
阪急が新幹線の線路を借用していましたが、あくまで開業前なので>>36では含めませんでした。
鹿島建設や朝日放送の昔の映像で見たことがあります。
開業前に新幹線と阪急の擦れ違い実験もやったそうですね。録画して家にあります。
※新幹線の土手を建設→阪急がそれを一時的に借用→阪急の土手も出来る→本来の姿にですね。
スレの趣旨とは逸れてしまいすみませんです。 連続ですが、神戸市電は山陽電車とのレールの繋がりもあったので、そちらのルートでも
阪神国道線と山陽は繋がっていたことになりますね。
阪急が西灘〜上筒井に行っていた頃に、西灘付近で阪急とレールが繋がっていたという
書き込みも見たことがあるのですが、現役時代はあったのかもしれません。
廃止直後には、すでに今のように引き込み線が名残として残る程度になっていたのでしょうか。 上本町では近鉄と市電のレールも接続されていた。
www.geocities.jp/dtn2301/db260.htm
全てが同時に接続されていたとするなら、
山陽〜神戸市電〜阪神国道線〜阪神〜阪急〜大阪市電〜近鉄(旧奈良電など含む)〜京阪〜京都市電〜京福(京福・叡山)〜愛宕山の
ネットワークが存在したことになる。
阪急〜能勢電、大阪市電〜南海軌道線、京阪線〜大津線も接続されていた。
従って関西の標準軌は東海道新幹線と第三軌条、工場などの線を除いてすべて接続されていた(可能性がある)。 >大阪市電〜南海軌道線
車両売却や緊急時の車両搬入と相互乗り入れ時以外で常時接続されていた場所はどこ? 明治期は市電と阪堺は天王寺西門を介して直通運転もしていた。
この時期は確実に接続されていた。
大正期に天王寺西門〜天王寺駅前が市に買収されたが、天王寺駅前が
南に移設されるまでは線路もつながっていたんじゃないか? >>46
これは仮想世界(フリーランス)の話で、こんな車両は居ないし、線路も実際に
接続された事はない筈です。 ちとワロタ
架空鉄道のページは本当紛らわしいよな
最悪なのは実在の列車名で時刻表うpしてるタイプのサイトだが 天満橋では歴史的な経緯から、つまり京阪が高麗橋から天満橋まで後退させられ、
その代替的な措置として市電に乗り入れるという案があったことから、接続があって
もおかしくないような気はするんだけどな。実際には直通は実施されなかったが。
近鉄も路面電車の解釈で始まっているけど、大阪市内に路面の区間ってあったの? >>51
奈良市内併用軌道じゃん
>>48
買収後は線路は切り離されている >>51
今里辺りに併用軌道があったとか言う説がある。もっとも、書類上の形式的なものだったとも言われてるみたい みなさん、どうもありがとうございます。
近鉄と大阪市電、京阪と大阪市電は、歴史的に一度でも常設的な連絡線があったのかどうかは分かりかねますが、
近畿地方の1435mmの路線の多くが過去には接続されていたことが分かりました。
しかし>>46のサイトは紛らわしいですねw 昔は国鉄から路面電車、軽便鉄道まで、鉄道は貨物、荷物、郵便など人以外の「物」を沢山運んでいたからな。
会社間での連携も大いに必要だったのだろう。
昔は人と物を併せた全輸送の85%近くが鉄道に依存していたが、今や60%程度にまで落ち込んでいる。
かつては市電がトラックのような役割も果たしてたんだろう。 戦後、オート三輪が発売、何処の商店も購入したが、決定的になったのはトヨエースが発売されたことだろう。
多くの商店がトヨエースを購入した結果、鉄道輸送の代りとなり、大型のキャブオーバー発売が鉄道輸送にトドメを刺す。 国道線って貨物営業実績無いだろw
京阪神都市圏なんて昭和に入った頃には軌道の貨物需要なんてほぼゼロだよ それにしても
>今や60%
てのはどこから出たのかね
国土交通白書からはとんでもなく乖離してるな >>61
国道線って貨車0なのにw
営業貨物は無い
散水車すらない(本線はある)
>人と物を併せた全輸送
どうやって合算するのか定義が分からん