常磐線 上野⇔仙台 直通鈍行
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「仙台」のサボも誇らしげに82年11月改正まであった、旧客を連ねて日暮里から松戸までノンストップ。
あの時代はもう巡ってこないのか? 上野発5:55だったな。
松戸から長町まで乗ったよ。ナハ10だった。 何故か東北本線経由より後まで残った、
常磐線経由の上野発仙台行…。
>あの時代はもう巡ってこないのか?
こういう長距離の各停(普通列車)は、営利企業が鉄道を
運行してる限り復活は困難なんだろう…。
第一、現在いわき以北は特急だってろくにない。 >>5
ダイヤ"改悪"の度に短距離ぶつ切りが増えてるね。東海道東京口でE仕立ての静岡行きが廃止になった時が一番衝撃的だったが、いずれ房総でも木更津、君津、茂原、上総一ノ宮、佐倉、成田で217須賀と糞ワンマンに分断になるのはビギナー鉄でも予想がつくな。 >>7
仮にJR甲信越が実在していたら境界は大月だったと思う。せっかく205系を富士急にやるんならパンタだけ小断面トンネル用にしてJR―FQ相互直通可能にしないとね。すれ違いゴメンズウォーカーだが 221レは青春18のびのびきっぷで、上野〜平間を乗りました。
水戸でED75に機関車交換したのもいい想い出です。
夕方の平行きは、松戸や我孫子まで乗ってプチ旧客の旅を楽しみました。 上りの仙台発上野行きに夜ノ森から乗ったことがある。
駅前の食堂で時間つぶししていたら高校生の男子が数名入って来た。
野球部だと言っていた。
みんなどうしているんだろう。駅で切符売っていたおじさんも元気かなあ・・・ 上野―仙台に限らず、スレタイのような列車では「旅」ができた。
今は、それをやるには特急料金を余計に払わされる時代…。
E531系で上野から仙台まで乗るって…。
まあ、「束」の幹部にさせてみたい気がするけど。
「あんたらはこうやって、客を客とも思わん仕打ちしてるんだ」って言いたくもあるから…。 >>11
「旅」の定義って、客車、長距離、鈍行の3つでOK? >>12
異論もあるとは思われるが、個人的にはそれらが重要なアイテムとという気がする…。
別な考え方があっても、それはそれで尊重すべきではあるけど…。 >>10
夜ノ森か〜
今、どうなってるんだろうなぁ・・・
死にたい >>14
今年もつつじは咲くでしょう。誰も見ないつつじが。 >>16
夜ノ森のつつじは植物が放射能の影響をどのように受けるかについて重要なサンプルになる。毎年咲いたつつじの花について線量を測定し記録を残す学問的価値はあるな。もしも異常な大きさや奇異な色彩の花が咲いていたら学会に報告する義務がある。 >>16
花は昆虫によって受粉し種子を形成するから昆虫の行動範囲いかんでは警戒区域外に高線量地帯が拡大する危険性がある。生物学者は植物に限らず、交尾期はあらゆる浜通りの生物についてアンテナを張り巡らす必要がある。 スレタイの鈍行が消えた頃、常磐線では既に他線区に先駆けて中電のロングシート化が始まってた…。
上っ面だけの「お客様」なんて台詞が飛び交うのと裏腹に「乗車券だけで乗るようなのは客じゃねえ」
って扱いが以後蔓延してくようになった印象…。
いまから35年ぐらい前に完乗しました。確か仙台着が14時ごろだった
と思います。友人と2人でしたが、車内で地元のおばちゃんから、パンや
みかんなどもらいました。高1の冬かな。よい時代でした。 ガキの頃、上野で東北線の冷房付き115系に乗って発車待ちの時、
隣のホームにいたのを見た覚えがある。
うちの親は冷房のないポンコツ客車で仙台まで行くのは大変だなと言っていた。 上野発1535の常磐線平行普通列車
一日三本あった客レ、これに乗って松戸まで、旅行気分
松戸で降りて切符を買いなおして今度は上りホームに行くと、なんと上野行きの客車が来る
帰りも同じく旅行気分
しかも最後尾は運が良ければ特等展望車
上野から松戸往復で、こんなに楽しめたこともありました 北への新幹線が東京発着になったと同時に失われた数十年が始まった。長野新幹線で碓氷峠廃止後は更にデフレが深刻化。昨年の原発事故で常磐線が広野−原ノ町間が少なくとも300年は復旧出来ない事態に…我々は上野駅高度成長期の生き証人を二つ失った。 初めて買ったRJが長距離ドン行特集の号だった
上野発常磐経由のドン行も載っていたな >>23 その上り客レには機関車の後に荷物車と郵便車、そして客車10両で
かなり長い編成だったと思う。
平行き客レは、古いながらもきれいに塗装され、手入れされていたのが
印象に残ります。
>>25
RJのS82.5月号だね。223列車のルポがのってたね。
あの頃までのRJは読みごたえがあったのにね… >S82.5月号だね。
「1982年5月号」ってこと?それとも「S52年…」?
まあ、「特集」になったってことは、長距離鈍行が稀少価値化してきたってこと
だろうから、とすれば「1982年」なんだろうと推測したけど…。 >>28
27です。間違えたよ。s57.5月号が正解。
乗車ルポは、常磐線223列車と磐越西線の郡山発新潟行き229列車。北陸線米原発長岡行き523列車。
根室線釧路発根室行き混441列車。筑肥・松浦線博多発佐世保行き1647D。京浜東北線大宮発大船行き。
それと山陰線の旧型客車の大型運用の詳細な記事。
連載記事では、車両系列シリーズで153系電車の特集。特定地方交通線シリーズで深名線。
今読んでも面白いよ。
自分の場合は常磐線最北部から仙台まで乗るだけ。
他の列車の変わりのないオンボロだったと思う。
>>5
東北本線よりも後まで残ったのはきっと
水戸鉄道管理局の最北部範囲が亘理までだったでしょう。
ここまでおれっちの範囲だって、示したかったんじゃないの。
実際、水戸発仙台行きの急行とかもあったし。 >>32
ただ、行けたのか、だけじゃ誰も答えようがないと思う。
その日のうちに、とか、青春18切符だけで、とか、そういうこと? いけた時代もある。
でも面白いもんでいけない時代のあといけた時代があったってことだな >>32 常磐鈍行使ってなら、昭和57年11月までなら、
上野発仙台行 原ノ町発青森行き 青函連絡船 函館発札幌行き又は旭川行
昭和42年ごろまでなら、ズバリ上野発青森行普通列車。そして青函連絡船。
函館からは稚内行なんて普通列車があったのではないかな。 >>36
スレタイがスレタイだから、それは或る意味不可避だろう。
常磐線に限らずだけど、今の、何処まで行っても「国電区間(車両の形態に関する限り)」
的な状況を嘆く向きが必然的に集まってくる。 川崎の生田緑地にある旧客は常磐線を走った旧客の最後の生き残り。 上野―仙台の客車列車と併走・離合していた経験のある車両はメトロ6000のみとなってしまった。
そのメトロ6000も引退の時期が近付きつつある。 >>47
最近の列車に限っても
モハ73・103・203・401・415・451・481・501・583・キハ56・キハ58
キハ82・12系、14系、20系の各客車・C62・EF80・EF81・EF65・EF15・DD51
DD13・DE11・営団5000 あたりが思いつく 203系はデビューの年と旧客廃止が同年だから、離合があったのはほんの数ヶ月 上野発仙台行きの旧型客車に乗って、友部まで行くと
水戸線経由の小山行きの旧型客車とすれ違うシーンがありました。
昭和54年くらいだったかな。。。
当時は、
中央本線の臨時の急行アルプスも旧型客車で運転されてましたね。
余談ですが当時の165系・急行アルプスのビュッフェで、
カツカレーを食べたのも、良い思い出です。 上野発の旧客って、常磐線以外はいつなくなったんだろ。宇都宮線や高崎線の運用も以前はあったんですよね。 昭和53年頃まで、東北本線経由の上野発一ノ関行きの旧型客車の鈍行があった気がします。
黒磯〜仙台間は、昭和60年代に入っても旧客天国だった気がします。
ただ、「急行まつしま」とかが廃止になって、急行用の電車に移行していきましたね。 >>51
常磐線の上野口旧客撤退後も水戸線の旧客は残ってくれたので、乗りに行ったな。
よく写真等でデッキのステップに腰掛けているのを見てたので、走行中にデッキに
行ったけど、走行中の扉開けっ放しのデッキは、怖くて、とても真似は無理だと
思ったなぁ。
走行中に扉全開なんてのは、今じゃ考えられないですねw
当時は、列車が止まる前に飛び降りるのが、カッコ良いと思ってましたww >>52
高崎線の旧客も常磐線と同様に57−11まで
早朝に1本だけ残ってたよ。最後の1〜2カ月は
12系で運転されてたけど。
改正を前に旧客の検査期限が切れたらしいが。
小学生時代、昭和54年ごろの夏でしたが、下館から我孫子まで移動するのに、
「常総線は古いディーゼルカーばかりで、冷房がなくオイル臭いから嫌」と母にだだをこねて
水戸線−友部乗り換え−常磐線で行きました。水戸線は冷房付415赤電だったのでご機嫌でしたが
常磐線がこの旧客鈍行なのでがっかりした記憶があります
今となっては旧客鈍行も、関鉄のごった煮DCも、もっと味わえばよかったと後悔してます 旧客の列車って、JRになってからもあったのかな。JRマーク付けた旧客が想像できない。 和田岬線とか平成初めまで残ってたみたい。
ある程度距離走る定期列車はどうだったか・・ 水戸線は1982年の改正後も旧客が残っていたんだね。首都圏で最後まで旧客が残ったのは何線だろう。 デッキのステップに座ってとか、怖かったろうな。
特にトラスのない水戸線鬼怒川橋梁とか。 今日で上野口の客レがなくなって三十年経ったのか…
(;つД`) 川崎の生田緑地の旧型客車は、この線で活躍した車両の生き残り? ID:j6r3tUYA
自分で撮影してきた画像でもないのに、得意げにベタベタ貼ってんじゃねーよカス。 ゆうづる
みちのく
ひたち
スーパーひたち
十和田
もりおか
ときわ
ひたち
上野⇔仙台旧客鈍行
これらの名だたる列車が走った幹線も、今や立派な廃線跡wwwww >>73
「そうま」が抜けている。たしかDC急行だったな。 16:00頃仙台を出て、23:00上野着。
そして、折り返し、最終列車水戸行。
上野発着にしては6両という中途半端な短編成。
地味だが、けなげさに思い出すたび涙が出る。
DCから電車のときわになっても同じパターン。勝田まで延びたが。
Sひたちになっても、18:15分仙台発で22:30分過ぎ、上野着。
上野を最終のFひたちになって、勝田行。 >>77
原町に住んでいおり母と仙台へ行く際にはもっぱら急行そうまを利用していました。
思い出深い列車ですね。
下りが原ノ町8:59発で上り仙台発は17:10だったかな?
上りは原ノ町で下り「みちのく」と交換だったので1番線・2番線両方で弁当売りの声が響いてました。
一応指定席とグリーン車が1両づつ連結されてましたがいつも空気輸送だったのを覚えてます。
そんな指定とグリーンですが、流石に初売りと七夕の時期はそこそこ埋まってました。
そんな時期には4時には仙台駅3番(5だっけかな?)ホームの乗車口札の下に並び始めてました。
その間、頻繁に発着する特急急行やホーム上にずらっと連なる「八甲田」や「ゆうづる」といった
未知の列車の乗車口案内の札を堪能できたのでまったく退屈はしませんでした。 確か、大昔には奥羽本線経由の上野発青森行の鈍行もあったように記憶
しているが・・・。 そういう列車って、どのくらい通しで乗る客がいたんだろ? 長距離バスも整備されていない時代なら、それなりにはいたんじゃないかねぇ。
特急はおろか、急行も高嶺の花だったりしたかも知れん。
逆に超長距離の特急なんかは無駄に空気輸送だったんだろうねぇ。
西鹿児島行の富士とか、大阪ー博多のまつかぜとか。
もちろん対抗相手にはやぶさとか、新幹線があったからというのが大きいだろうけど。 仙台行きのスーパーひたちも乗り通す客が意外に多くてびっくりしたな。 急行津軽が出世列車と呼ばれていたということは、それより格下の列車(準急?鈍行?)が
他にあったからでしょうね。 つばさは「出世列車」と言われなかったの?
…ああ、でもあの距離で昼行は利用しにくいか。
一般に「出世列車」というと「あけぼの」ないしは「津軽」だけど、山口県にも存在した。
あさかぜである。
時間帯から山口県へは利用し易かったのだ。
松田優作も庵野秀明も松村邦洋もあさかぜで帰郷したらしい。
逆にあさかぜは博多へは時間帯の関係上、実は利用しにくかった。
博多への人気ブルトレはさくらであり、はやぶさである。 「出世列車」なんて言葉を東北からの出稼ぎの人たちが使っていた時代に
あけぼのはまだ誕生していない。
それは、マニアの後付けでしかないでしょう。 451系は東北本線にはビュフェがついていたが、常磐線にはついていなかった。
東北本線が羨ましかった思い出がある。 昔は上野まで線路が繋がっていたことの証として廃止直前に原ノ町まで来て、
上野の方向幕を出したまま静態保存(実質放置)されている651系K202編成
http://archive.shinsai.c.yimg.jp/v1/resource/emgphoto-0483/081/72483.jpg
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2011年3月11日10時00分、上野駅から「スーパーひたち15号」として、
651系付属編成のK202編成が、原ノ町駅に向けて帰らぬ旅へ出発した。
同日14時46分をもって常磐線の広野−原ノ町間と相馬−亘理間の廃止が決定しており、
K202編成は原ノ町駅構内に静態保存することになったからだ。
また、それに対応する設備改修のため、同時刻にいわき以北の全区間も
当分の間運転を停止することになっていた。
11時11分、勝田駅発車。
もう戻ることのない勝田車両センターを横目に見ながら、一路北に向かって走り出した。
12時07分、いわき駅到着。
基本編成に永遠の別れを告げ、12時10分にK202編成単独でいわき駅を発車した。
12時27分頃、広野駅通過。
ここから先、間もなく列車が走らなくなる線路を、K202編成は淡々と走る。
13時09分、定刻通りに終点の原ノ町駅到着。
乗客を降ろして役目を終えたK202編成は、
原ノ町駅構内の留置線に移動し、静かにパンタグラフを降ろした。 >>88
2年近く野ざらしでもはや廃車同然だな。このまま朽ちていくのだろうか・・・ フェミニスト政党の候補者を落選させ女性専用車両を根絶しよう
「未来の党と公明党は男性を差別した政策主」
石原慎太郎さんが都知事時代に的確な問題提起をされていますので、皆さんも視聴しましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=U04E6G2Cy8o&list=PLC6839F661C03104D 常磐線はグリーンの乗務員も特急の車内販売員もかなりキモイ。
性格が悪いからちょっとしたことで切れて
崩れた顔がさらに崩れて壊滅的になる
常磐線はどの企業にもある左遷場所なんだろうな。 昭和57年8月に乗ったぞ。原ノ町6:00発だ。
原ノ町発車時はなんと13両で後ろ補機がついた。
仙台と盛岡で切離しがあって、青森到着時は客車4両だ。 直通鈍行、EF81-300が牽引した実績や、それとわかる写真ってある?
ググったら実績は「あった」「なかった」正反対の記述が出てきて・・・ 首都圏における客車鈍行は近郊型普通よりも行き先は遠く、
また近郊区間は電車普通が停まる駅も結構通過して、
しかもデッキつき全席ボックスシートだったので
急行未満普通以上というワンランク高い普通という印象があった。 上野・仙台直通鈍行は、水戸、平(いわき)辺りで増解結していたんだろうけど
どんな編成構成だったんだろう?
例えば仙台行きが水戸で機関車交換時?(EF80→ED75?)に前X両が水戸止まりでEF80と
一緒に移動して、残りの後Y両の仙台行きにED75?を連結して、みたいな感じだったのかな? 増解決なし。機関車交替だけ。
下りは朝5:55分発が、客車10両程度に〒1両
昼12:25分頃発が8両に〒1両
15時15分頃発平行きが客車のみ10〜11両
原ノ町発上野12:35分頃着、のちに浪江発上野着11:30頃着が客車のみ10〜11両
仙台→平・平→上野 実質仙台上野直通16時頃着が 荷・〒・客車10両程度、
仙台→平・平→上野 実質仙台上の直通21時半頃着が、〒・客車10両程度
というところか。 そして、どの車両も車内はきれいな塗装で手入れも良かった。
冬は暖房がよく効いた。 ついでに、上野着16時ごろのなかの[荷]は、前夜急行十和田で〒と一緒に上野を出て
仙台で[荷]だけ解結、折り返しになったもの。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています