名寄本線
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>>160
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駅本屋内ではなく2、3番ホームでベンチに腰掛けて
風景を眺めながら 名寄駅2番、3番ホームの上屋が無くなり、キヨスクも閉店したし
0番ホームも無くなったし、寂しいなぁ・・・ >>162
キオスク以前にツィンクルプラザもなくなったし、駅弁もなくなったし、営業時間も8時ちょい前から17時過ぎにくらいまでに短縮された。
夏のまだ日が高い17時代に無人になるとか、終わってる感がハンパない。 >>166
この駅は昔は蒸気機関車が昼夜を問わず
忙しげに走り回り、もうもうと煙を吹き上げていたよ。
2番、3番ホームなんて今にも蒸気機関車が現れそうで、いい雰囲気だったけどね...
構内が広いだけに、音威子府や幌延よりも寂しい感じだよ。 >>159
滝川〜富良野の方が名寄線開通より先だったね >>168
富良野線が先に開通して、更に明治44年に池北線が開通すると網走方面への
鉄道ルートが一応は完成した。その後、大正2年に滝川〜富良野間が開通
大正10年に名寄本線が全線開通するとこっちがメインルートに移行した。
石北本線の中越〜白滝間が開通したのは昭和7年。 >>170
昭和4年に石北西線が中越まで開通すると
中越駅前から石北東線の白滝駅前まで
義侠心に富む某が馬車運送をしていたとの事だけど
結局、大赤字で間もなく撤退したとの事
名寄本線は大正9年秋に下川〜上興部間が先に開通して、
翌大正10年3月に名寄東線の中湧別〜興部間が開通、
その年の10月に興部〜上興部間が開通して全線開通した。
天北峠の分水嶺が最終工区になったのではなく、網走支庁の上興部までが
少し先に開通した訳だけどちょっと珍しい開業パターンかもね。
名寄本線廃止当日の名寄発最終も上興部行だった。
もちろん名寄方面からの利用者がいたのかも知れないが
手前の一ノ橋の交換設備が撤去されたために
交換設備のある上興部まで運転していたのかも知れないな。 当たらずも遠からず。
一の橋は営林署もなくなって過疎まっしぐら、交換設備もなくなり閉塞区間が上興部までだから、いやでも上興部まで運転することになる。
まあ、上興部ってか西興部村の住民は興部や紋別より名寄に出る傾向が強い気がするから、それが自然なんだろうとは思う。 >>172
名寄本線が開通した当時の西興部駅周辺(瀬戸牛)は無人地帯だった。
西興部市街は鉄道が開通して街ができた様なもので
下川〜興部間でまともな街だったのは上興部くらい。
上興部は西興部の顔と言われ、昭和40年代までは
西興部よりも上興部の方が発言力も大きかった程だし
下川〜上興部間が先に開通しても不思議でもないか。
昭和30〜40年代の名寄発最終も一ノ橋行ではなく上興部行だったから
名寄や下川、一ノ橋と上興部の結びつきがあったのかもね。
上興部も寂しくなったけど今でもまずまずの街があるし
旅館や駐在所、郵便局などが一通り揃っているよ。 >>176
石北本線や千歳線、長輪線がまだ無いね。
名寄本線で最後に開通したのが興部と上興部の間。
当時は混合列車で荷物の積みおろしにも時間がかかったのでは?
開業当時は主要幹線の筈の名寄本線だけど列車本数も少なかったんだね。 炭層に圧をかければ出て来るらしいが、北海道程度の規模では採算合わないらしいね。 興部駅の駅弁を食べた事ある人いる?
製造元の米田さんは初めは駅逓業者で
鉄道開通後は上興部で駅弁を販売していて
後に興部へ移転したとの事
興部駅で弁当を販売していたのは昭和60年位までかな。 >>183
私も起点の遠軽と終点の名寄の弁当しか食べた事がない
こくわ餅は上興部が発祥みたいだね。
また、昭和30年代の時刻表では中越に急行や準急が止まっていた。
当時はここで補機を連結していた事に加え、後背地に豊富な森林資源を控え
木工場も立ち並んでいた昭和35年頃には100戸以上の家が軒を連ね、
550人以上の人口を数えたので、それなりの乗降客もあったか?
しかし、昭和41年に蝦名林業が他地区へと移転すると急速に過疎化が進み
昭和45年には39戸、112人に減少、昭和48年には中越小学校が閉校に、
昭和55年の人口は僅かに19戸、37人だった。
中越駅の衰退も続き、昭和50年には一般駅から運転関係の駅員のみ配置する
停留所扱いの無人駅となり、昭和58年に石北本線が自動信号化されて
中越駅が無人駅になると程なく中越も無人地帯になったとか・・・
昭和61年11月1日からは中越には乗降客がいないという理由で
白滝〜上川間の普通列車は平日上下1往復の運行となったが
採石場や工事関係者のプレハブ住宅、国鉄・JR乗務員休憩所が
あったので全くの無人地帯という訳でもなかった。
また、中越駅のホーム側に掲げられていた
「標高四七八米・中越驛」の黒字に白文字の看板は
かつては駅正面右側に掲げられていたよ。 すごいなこのスレ、6年前からあるのか
ところで名寄本線ってまだ線路残ってるところあるの? 富丘〜渚滑間の思沙留川橋梁はまだ残ってるみたいだけど、この資料も10年以上前のものだしなぁ…。 急行紋別にキハ183投入して特急格上げしてテコ入れはしなかったんだな
高速バスに負けた路線ともいえる オホーツク海沿いはまだ鉄橋残ってるな。
名寄・下川あたりの国道は跨線橋が現役で、路盤あとは見つけやすいし、上興部駅あとも泣ける。
遠軽駅や構内も。 ちゃんと線路残ってるのは美幸線と白糠線の上茶路くらいか・・・。 >>186
中湧別の跨線橋とホーム、上屋、レールがあった筈 名寄本線含めて、天北線、興浜南北線残ってつながっていたら
オホーツク海を眺めながらの良い旅が出来たろうにな 石北本線の中越信号場付近で土砂崩れ発生して不通だと・・・
迂回路として名寄本線や池北線が残っているとね。。。 沿線に紋別市があったのに廃止になったとか異常w
大隅線も人口10万の鹿児島県第2の都市の鹿屋市通ってたのにあっさり廃止されたな
あっちは陸路だと錦江湾を大回りする格好になるためフェリーの方が便利だったという地形的要因が致命傷だった
他に「市」を通ってたのに廃線は大口市を通ってた山野線とか輪島市を通ってた七尾線末端部とか珠洲市を通ってた能登線とか色々ある 名寄駅を発車して程なくレールが森の中へと突入した様な気がする >>200
線路沿いに防雪林や防風林が続くが、ほどなく名寄神社、現北国博物館。
そこがまさにキマロキ保存場所で、その先は一瞬林だな。 >>201
平成7年9月に名寄駅裏の名寄本線の廃レールの上を歩いて
キマロキ編成まで辿り着いたと記憶している 紋別はでっかいバスターミナルあるんだな
国鉄時代から高速バスに負けたともいえる
名寄本線使うと名寄経由(急行紋別は名寄経由だった)でも遠軽経由(名寄経由より微妙に営業キロが短いが石北本線の峠越えがボトルネック)でも札幌からだとどうしても遠回りになって不利だった 浮島トンネルがトドメを刺したんだろうなぁ。開通前にバスあったか知らんけど。 高速バスは滝上町経由したほうが近道だな
渚滑線が石北本線上川まで開通してたら近道だったのに >>182
昭和58年5月1日、名寄から遠軽に向かう625D乗車中に興部駅で駅弁の
立売りをしていたので窓越しに買ったら弁当名称は忘れたけどキノコと
帆立貝柱の炊き込みご飯風だった。 廃止になった路線の駅弁は興部駅が唯一?
廃止後に復刻版が発売されたことが幾度かあったはず >>209
渚滑も駅弁があった模様
復刻版は知らないが かりにも名寄本線を語っていて上興部が出てこないとは。 上興部は開業から廃線まで運転上
かなり重要な地位を占めていたね 上興部が名寄、遠軽以外では
最も駅らしい雰囲気が漂う駅だったな 1985年、青春18きっぷで北海道に行き、深名線に乗るために名寄駅まで来たが、
あまりに待ち時間が長いので、名寄〜中名寄の一区間だけ往復という変テコなことをやった。
中名寄駅(もちろん無人駅)でボッーとしてたら、地元?のオッサンに声をかけられたが、話の中身は覚えてない。ちなみに当時中学二年。 紋別に行くには名寄回りか遠軽回りか、どっちが良かったのか未だに分からない 直通だとして、進行方向が変わるのが嫌なら遠軽経由しかなかろう。まあ今更どうでもいい。 >>216
石北本線〜名寄本線経由の気動車急行大雪と
宗谷本線〜名寄本線経由の急行紋別が同時に走り
札幌から紋別へと直通していた時期もあるが、
共に紋別を通る時は普通列車だった
ただ、大雪は大体1台、紋別は2台以上で運転される事が多かったな >>216
遠軽経由が微妙に営業キロが短いが石北本線の峠越えがネックだった
名寄経由は平坦だが遠回りな上に名寄でスイッチバック必須
高速バスは滝上町(渚滑線が通っていた)を経由する >>219
下りは興部に駅弁
上りは上興部に駅弁
本当にこんな運用をしたのだろうか? 道内で廃線になった路線で
一番風光明美だったのは? キハ183系が入線したことあったっけ?
確か臨時でニセコエクスプレスが入ったことがある >>223
湧網線が評判だった様だけど
羽幌線も見てみたかったな
どっちも乗らずに廃止になったけど 上名寄跨線橋撤去工事が始まっている。
渡るなら今のうち。 湧網線で駅員がいるのは常呂、佐呂間と計呂地だけだったね
網走〜遠軽間は湧網線〜名寄本線経由の方が
石北本線経由よりも距離が幾分短い 正式な駅よりも仮乗降場が多いイメージだな。
一体何カ所あったんやろか? >>232
分岐していた渚滑線も仮乗降場が多かった 名寄線は本線と名乗れるだけの輸送人員があったとはとても見えんよなあ >>235
支線が在れば本線を呼称するようになったからだよ 「留萌本線・羽幌線」
「日高本線・富内線」
「解せぬ」 >>237
渚滑線が廃止となり
紋別〜渚滑間の本数も減ったね 家に1915年12月の時刻表があった
名寄本線の湧別線開業当初の時刻
湧別軽便線(ゆうべつけいべんせん)の延長として、1915年に野付牛(現在の北見駅)方面(下生田原、現在の石北本線安国駅)から社名淵(後の開盛)へ延長された路線を発端とする。
https://i.imgur.com/ypM284W.jpg
https://i.imgur.com/W2gwtmq.jpg 紋別は空港があるが羽田から1往復飛んでるだけとか過疎空港なんだな
新千歳は不定期に就航してるが不調に終わって長続きしてない
バスの独り勝ち状態ともいえる 札幌〜紋別は高速バスは滝上町を経由するため近道
鉄道はどうしても大回りで不利だった
鹿屋市も鹿児島県第2の都市なのに鉄道だと錦江湾を大きく大回りする格好になりフェリーに太刀打ちできずあっさり廃止された 紋別はでっかいバスターミナルあるからバスの方が発展してしまってる
羽幌線も羽幌町に沿岸バスの巨大バスターミナルがあるし急行があったのに廃線になったのでバスに負けた可能性高い >>246
羽幌町のバスターミナルは鉄道施設の再利用
利用人口が少ないのに大型バスで運用しているのが無駄だよ >>246
原因と結果が関係しているようでそうでもねえって 代替バスも当初は名寄・遠軽直通が多かったけど
今は直通しなくなって系統分割されたね >>242
紋別空港を新しくしたのは名寄本線代替の意味合いもあったけど
札幌便が運航されなくなってしまう事態になった
そして紋別市自体が過疎化がさらに進んでしまった
バスも旭川に行く便は1往復しかない
>>249
ただ湧網線の沿線のように大半の地域で公共交通での移動がかなり難しい事態にならないのはいいけど今後さらに分断されて中距離以上の移動が難しい事態は避けないといけないけど 訂正
旭川⇔紋別のバスは3往復で
札幌発着で旭川経由が1往復のみの話 平成元年に放送された「ほっとないとHOKKAIDO」で廃止直前の沙留駅からの中継があった。
最後の駅長と岡田範子アナが出演していて、丁度19時05分発の遠軽行が1台で到着、
結構な人数が下車(数十人)したけど、タブレットの交換はせずに発車していた(※)
※記念に録画したので、全て確認済み。
この時間帯は興部〜紋別間が併合閉塞になっていたか? 末期の沙留交換は朝の1回だけでしたっけ。
個人的には、渚滑でなくて沙留の交換設備を残したことを不思議に思う。 >>253
この方のブログに当時の時刻表が載っている
https://4travel.jp/travelogue/10176510
興部〜紋別間の距離を考えると中間に1つくらいは交換駅が必要だろうし
沙留でも渚滑でも街の規模も同じくらい、距離的にも然程変わらないけどね。
渚滑線代替バスが紋別からの直通ではなく、渚滑駅前発だったら
渚滑の交換設備も残して無人化しなかったのでは?
結局、名寄本線内で終日、通票交換が行われていたのは
下川、上興部(※)、興部、紋別、中湧別の各駅か?
※上興部は名寄発最終が上興部行だったので通票扱いの駅員が必要 それは末期の話だろ?
貨物廃止の頃までは他にも交換駅あったし。
あと、たしか旧上興部駅に閉塞関係の確認図があったが、早朝や夕方以降は二つ以上の閉塞区間をまとめてたな。その取り扱いの正式名称がわからんが。 >>255
併合閉塞
小向や中興部も最終日まで交換駅だったけど
早朝や深夜は併合閉塞にしていた
他にも一の橋、西興部、開盛や元紋別なども昭和61年11月までは交換駅だったよ >>257
1970年代と
昭和61年11月ダイヤ改正前 >>258
全国版でなら開業当初あたりから1968年位までならほぼ毎年
道内時刻表では1969、1973.1982-1986あたり、途中抜けは多数
家に帰ったら適当にアップしますよ
もうちょい詳細に言ってくれたら有難い
ない場合は近い所をさがします >>260
61年10月末に西興部や一の橋が無人化されたり
上名寄、開盛などの交換設備を廃止したので、その前
53年12月に大幅な合理化も行われた様なので、その前 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています