【うんたん】運炭線の思い出【うんたん】
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国鉄ならば歌志内線から夜須原線まで
旅客輸送も熱かった夕張鉄道等も。 >>10
幾春別に、おととしくらい行ってきたけど
駅周辺はまったく跡形がなかった...
奔別炭鉱のホッパーは残っていたけどね...
常磐炭鉱は地元の人が出した
集大成みたいな本が最近出たと思う
炭鉱じゃないけど、個人的には電気機関車使っていた鉱山が気になるね
五能線のどっかに金属鉱山ですごいとこなかったっけ?
スレ違いになるがけいおんってP-MODELが以下略 >>29
なにって・・・運炭に悶える少女じゃないか。たぶん俺たちと趣味が合うぞ。 常磐地方で運用された国鉄の石炭車って、軌間に落とすヤツだったんですか? >>30
五能線にあったのは八森。G=610だったので。
>>33
九州や北海道では、専用の石炭車(セキ・セム・セラ)が使用されたけど、
常磐だけは、最後まで普通の無蓋車に石炭をバラ積みして輸送していた。 基本的に(当然例外もあり)石炭車は炭鉱から積み出し港へ石炭を運ぶものですからね、
常磐炭鉱なんかは無蓋車で消費地直送だったでしょうし。
石炭車は、北海道向けのは石灰石運搬用のホッパー車のように
線路の左右に積み荷の石炭を落とせるようになっていた。そして
九州のは、レールとレールの間に中身を落とすような構造だった、で桶? 石炭車は物資別の専用貨車で、石灰等に転用された例はあるけど基本的に石炭しか積まない。
煮降しには大掛かりな設備が必要で、事実上港湾に限られる。だから石炭車のみの専用列車を組む場合が多い。
無蓋車は石炭も積めるというだけの汎用車。特殊な荷降し設備がなくても対応できるので小口顧客向け輸送に向いている。
と、いう事でしょ。
だから戦時中に筑豊から本州の需要家へ直送することになったときは石炭車ではなくトキ900になった。
需要家は石炭車でこられても対応できないから。 アメリカのストラクチャキットの定番にコールデポというのがある。
日本と違ってアメリカでは石炭車の荷降し設備が、簡単なものだが石炭問屋ごとにあったらしいんだな。
だから戦前のアメリカの長い長い貨物列車には石炭車がポツリと一両か二両混じって連結されていたりする。
小口顧客向け輸送も石炭車で行っていたわけだ。
消費量の差もあったんだろうが、商習慣の違いは面白い。 こんなところにまで、けいおん!厨房が沸いているのかね?
ならば、私が始末してやろう。
見せてあげよう。宇宙戦艦日光号のイカズチを! そろそろ北海道の保存機関車たちもビニールシートに身をつつむ季節… >>3
雄別のC56、あれ1941年の三菱製ですね。国鉄のC56は最終番号のC56160が1939
年の川崎の製造であり、そのあと2年後に、天下の三菱がD51なんかの製造で
忙しい最中にたった1両だけというのはなにか不自然さを感じます。
雄別炭鉱は当時も閉山時も三菱の傘下にあったわけですが。
その辺、何か事情があるのではないでしょうか。例えば、軍関係の注文流れと
か。ご存知のかたいらっしゃいましたらご教示下さい。
ちなみに、C56はその後、日車が樺太向けに4両製造していますが。 この前、古い友人に会ったのだが、何故か中間〜水巻間の運炭線(廃線)の研究に
ドップリと漬かっていた。
本来、鉄分が全くゼロな奴だったのに、何が彼を突き動かしたのかは本当に謎だ。
話を聞いてると内容は、この運炭線限定なのだが濃い〜事、濃い〜事。
自分は元から鉄なんだが、これにはちょっと引いたw 日炭高松ですね。あそこの頃末の車庫、一度だけ行ったことがあります。
もう5700はなく、C11とC12だけでがっかりした。今なら贅沢いうなという
ことになりますね。木造の客車もありました。かなり強烈な客車でした。
48様のご友人と一度お話がしてみたいですね。
三菱夕張の客車は5両すべて形式が異なっていたんだよな。 茨城県北部からいわき市にかけてのエリアは運炭線が無数にあったんだな
遺構はあまりないみたいだが >>50
客車といえば、三井奈井江の客車がよかった。6両くらいあったか、すべて、美しく
整備された木造ボギー客車でした。いわゆるブドウ色のきれいな塗色でした。
ちょっと脱線しますが、客車の塗色ということで、やはり木造やリベットのゴツゴツ
した初期の鋼製客車はあのブドウ色が一番いいように思います。一部の私鉄などでは
いろんな色を塗ったとこもありましたが、どれも私的には×でした。
スカ色の木客なんてまったく何を考えてそうなったのかなどとおもいます。せっかく
貴重な古典客車を。 オレが高校生の頃は石炭列車の末期で当時は幌内無き後、それ以北で残るは空知炭鉱・住友赤平だった。
毎朝、ED76+50×4と光珠内で轟(ぶぉぉぉぉぉ!)音を立ててハイスピードで走るDD51牽引の石炭列車とすれ違ってた。 国鉄/JR線内での石炭列車の牽引機って、動力近代化以降はDD51のイメージが強くて
電機牽引列車って輸入炭専用列車以外ではピンとこない。
末期の三井三池からのセラだとED76だったっけ? >>54
ED73-1000だったよ。
赤間で特別快速の通過待ちで止まってるのを良くみかけた。 >>54
常磐線だと主に内郷機関区のED75初期車やEF80が充当されてた 夕張鉄道は若菜〜夕張本町を電化して、夕張市内便(67年の旅客列車削減までは多数あった)を電車化する構想があったらしい。 羽幌のハチロクや昭和のクラウスが残っているのはなにげにスゴい。 石炭の行き先だが、江別火力発電所の車両ヤードが当時6線くらいあっただろうか。
セキが並んでるところを337から見えたりしてた。
江別駅西の貨物留置線にセキがいたりもした。
江別王子製紙工場線を含めて、車両が走行していたりする画像(無煙時代)はネットでは見たことないんだよなあ。
誰かうpして欲しい。
リアルで操業中の炭鉱を見ているのは空知炭鉱、三井上砂川、住友赤平、北炭幌内、北炭真谷地、北炭清水沢
閉山直後のは北炭夕張新、夕張2は見た記憶がある。美唄の常盤台や我路の廃アパート群も小さい頃ながら強烈だったな。
意外と走行中の石炭列車の記憶はなかったりする。 電機牽引の石炭列車なら新日鐵のくろがね線にも走ってた。
積み荷は石炭じゃなくてコークスだったかもしれないが、D級の凸型か箱型の電機と
貨車はホッパ型だったりトラ型だったり。
それと、最後尾には緩急車代わりのD級凸型DLをぶら下げた編成がデフォだった。
今や単線化され運行本数も激減してしまって、本来の鋼さい運搬列車中心になったが、
昔は茶色い電機に牽かれた貨物列車が製品や鉄くず等の原料を積んで頻繁に行き
かってたもんだ。
ごくマレに人車らしき謎の車両や、トラに作業員を乗せた除草作業列車とか珍しい
列車も走ってたり。 旭川市高砂台、ニュー温泉
三井芦別、C58-2
昭和24(1949)年汽車会社、
舟底テンダー、昭和45年退役 うんたん♪ http://www5f.biglobe.ne.jp/~kousha-_-/clip2/img/1148.jpg 室蘭本線苫小牧〜岩見沢も電化する案があったというのだが真偽不明。 運炭鉄道で使用された蒸機については、諸先輩のみなさんがたの手で、いろいろと
発表されてもいますが、ここにいた客車たちについてはあまり発表されたものを見
ません。わずかに地方鉄道となった線区については、P誌の私鉄車両めぐりに記載
が見られる程度です。
私はそのほんの一部を見ただけですが、美唄や大夕張のようなれっきとした鋼製客
車もあれば、明治の面影をつたえる木造客車も、またどうも自家製らしいなんとも
珍妙な車両もありました。
どこかの雑誌などで、これらをまとめた記事がでないものでしょうか。
やるとすれば、P誌か、R誌あたりでしょうか。 やるとしたらRMライブラリーかな
ピクトリアルで特集を組むにももう昔の話になりすぎた なぜプレスアイゼンバーンのレイル、北線路を読まない? 門司港のセムフは端の方過ぎて観察するのが大変。
他の車両の位置を詰めてもう少し手前に持って来て欲しい。
それと、現在は全車山側からしか見れないけど、海側に猫走りみたいな観覧スペースを設けて欲しい。
現在の展示方法だと足回りや床下の観察が困難なので。
セムフの床下をもっと良く見たい!
三井芦別鉄道は旅客輸送にかなり力を入れていたな。
旅客列車が30分間隔で走り、都市鉄道並みの短い駅間距離と芦別の市内線としても機能していた。 三井芦別の蒸機はDLに駆逐されたんじゃなく、当時すでに
産炭量が減少趨勢にあったからなんですね… >>74
私が書き込んだ不謹慎な書き込み…。
こりゃ、削除を喰らうと、やっぱり悪いことは出来ません。
※私は削除されるとおとなしくなります。 ttp://www.kajima.co.jp/news/digest/jan_2009/tokushu/toku01.html
沼田町昭和
廃墟写真で有名な昭和のアパートの現役時代と思しき写真があったので。
鉄道からは外れるけどすまんね。 九州の炭鉱各地にあった電化炭鉱構外軌道も気になるね
あとネット上では佐賀県の炭鉱はなぜか情報が少ない
日炭高松炭鉱はものの見事に跡形無く、消滅しましたね...
炭鉱跡の保存状態がいいのは九州だと筑豊よりも大牟田だと思う
あと宮古島の炭鉱軌道の詳細もさっぱりわからんな.... しかしいまだに炭鉱への補助処置がずっと取られていたらどうなってたんだろう?
近代化されているのかな
三井三池とか10年も使用しなかった最新の炭車もあったんだよね
もったいない 環境問題で、石炭使用自体が止めさせられるだろうから、助成は途中で打ち切りかと。 >>80
いまだに輸入炭を大量に消費しているのにそれは無いだろう
ifを妄想するには面白い題材だと思うぞ 一昨年見にいった
めったに走らないと聞いていたので動いているのを期待していなかったが、
なんと日曜日にも関わらず港で石炭を落としているのを見て感動してしまった
日本で石炭岸壁残っているのってあそこだけじゃないかな
昭和30年代石炭景気に沸き 羽振りのよい北海道の私鉄各社は、こぞって
ディーゼル車の導入を始めたが、その事実を鑑みて(石油資源の利便性)も自分達の将来の暗雲を予見し
設備投資を控え、他事業転業を何故 早くから模索しなかったのかな・・・。 現在でも石炭は多量に輸入されている。夕張等の原料炭は海外炭との価格競争に敗れた >>90
価格交渉で資源メジャーに振り回されてる現状を思うと、石炭政策の転換は果たして正しかったのかどうか……
鹿ノ谷に夕鉄の庫が残っているけど、ここを拠点に動態のSLを走らせて欲しいものだ >>92 残念ながら 今の夕張にそんな、エネルギー(人材・財源)無いんじゃないのかな・・・ もし定鉄と夕張の札幌急行電鉄が実現していたらどうなったかな。
石炭で寂れるにしても利便性向上でココまで、衰退しなかったと思うのは希望的推測かな。
夕張鉄道が途中駅 新二股で接続していた 角田炭鉱専用鉄道ってどういう存在だったのですか?
あまり情報がないのですが・・・。
一般旅客営業はしてなかったのですか?
旭川市街鉄道の電車が持ち込まれたようですが、使った((国鉄から分岐した夕張鉄道線の沿線途中山間部?で(何故に必要性があり・・・)単独で電気運転してたのですか?)) >>101
通勤「電車」があったようですね。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/ooyubari9201/folder/488584.html
このスレに出てくる「チンチン電車」がそうでしょうか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/4406/1112403541/l50 # 角田線の電車について少し
ttp://wapedia.mobi/ja/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%82%AD%E7%A4%A6%E6%B1%BD%E8%88%B9%E5%A4%95%E5%BC%B5%E9%89%84%E9%81%93%E7%B7%9A?p=3 新二岐駅分岐 角田炭砿(株)専用鉄道 新二岐 - 角田坑 (4.6km) 1934年4月1日 - 1970年
北炭角田砿への専用鉄道で、石炭輸送のほか、夕張鉄道から客車を借入れ旅客輸送も行っていた
1949年から1965年6月19日まではDC600Vで電化され、元旭川市街軌道の路面電車(1929年川崎車輌製半鋼製単車)2両が新二岐駅 - 事務所前駅間で通勤輸送用に使用された
角田も北炭系列だったんだ。
鉱区全域を掘りつくしたわけじゃないのに閉山。 後に東幌内炭鉱と一緒になって北星炭鉱となったが、B6や8100の活躍した反対側の美流渡も北炭だな。 >>103 >>104 >>105 レス有難うございます。
しかし、国鉄線と連絡しない山間部の街に数キロをたった2両の電車のために、変電設備まで調達し電車を走らせるとは、・・・・
幾ら駅間の短い小区間運転向けとはいえ、既存の蒸気列車で事足りるような・・・
ココに限らず、一時期 地下資源産業に所(松尾鉱山・軍艦島 等)は、本当に羽振りがよかったんですね。
三井美唄の職員さんで、昭和25年頃、
給料が3ヶ月位毎に上がったなんて話もあったり
ttp://www.sorachi.pref.hokkaido.jp/so-tssak/html/kioku/kioku_case_shigoto_rodo2.html まあ朝鮮戦争による好景気って要素もあるがそれはインフレじゃないんだろうか? >>111
三笠トロッコ鉄道
ttp://www.karamatsu-train.co.jp/mikasa/mtr.html
三連発すまんね >>114
ボディーは骨董品、足回りは手造り。まあ大変。 >>114
「札幌から車で40分」なところに鉄道廃線が当然だった臭いを感じるな
岩見沢からバス30分三笠市民会館より市営バス乗換8分って書いとけおw >>59
羽幌炭鉱鉄道の8620形SL「58629」は、2009年の6〜7月頃解体。 Googleストビュー・三井芦別鉄道・炭山川鉄橋付近?
43.480486,142.168891 >>95
こういうのもうんたんの史料だ
ttp://www.youtube.com/watch?v=ubapfNXOIUc どなたか九州の貝島炭坑にいたアルコとコッペルのその後を教えて下さい。
昔、筑前宮田から歩いて炭坑へ行ったら各2台元気に活躍してました。 >>123
真谷地と夕張。DL+貨車+SLでドラム缶に突っ込み炎上した夕張21号は、
しっかりと栗山に保存されている。 夕張・大夕張・真谷地・鐵原(運炭じゃないけどコークス運んでた)と貝島にかろうじて間に合いました。
いい写真は撮れなかったけど日本の産業を長く支えてきた石炭産業の繁栄の最後の姿を目にdけいたのは貴重な
経験でした。 岩見沢の元町方面石炭置き場線へトラ+DE10がゆっくりのそのそ行くのを見たことある。 九州の炭標、札幌局の石炭車票について、ご存知の方はいらっしゃいませんか。
wikiレベルの情報しか持ち合わせていません。
色々調べているのですが、資料にたどり着けすら出来ないといった状況です。
歴史、標記の意味、様式の変化等を知りたいのですが・・・。
ご存知でしたら是非教えて下さい。 唐津線西唐津の先、大島まで行っていた線。
港のところでは高架になって石炭を船に落とすようになっていた。
西唐津には9600が12両いたな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています