【うんたん】運炭線の思い出【うんたん】
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国鉄ならば歌志内線から夜須原線まで
旅客輸送も熱かった夕張鉄道等も。 鉄道ファン(交友社) 通巻412号(1995年08月号)
探そう探そうと思ってて、まだ見つけてないや。
藤田炭鉱・北拓炭鉱専用軌道(北海道猿払村)が載ってる号らしいけど。 私鉄では珍しかった、C56の同形機、雄別鉄道の1001号…
見たことはないけど… ,r;;;;ミミミミミミヽ,,_
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/⌒〈:::::::::::::::::::::::::::::::::::イ::::::::/ `ー‐' * 夕張は国鉄と私鉄両方があっただけでなく
両方に有料急行が走っていたんだな。 http://nrb-www.mlit.go.jp/Air/photo400/76/cho-76-2/c3/cho-76-2_c3_38.jpg
この時点で弥生炭鉱、奔別炭鉱のホッパーが残っているが、幾春駅別構内に入る直前、
貯木場線が分岐する付近にコンクリートの構造物が、これもホッパー? 万字線を撮影にいったとき、見慣れた九州の石炭車に比べてでかいことに驚いた。 三井芦別のC58同形機は
船底テンダーの戦後型がモデルだったが
やはり給水加熱器が無かった。 もしこのスレが1000まで逝ったとして、
うんたん♪の元ネタがアニメのけいおん!だったって覚えてる住人、
そこ頃にどのぐらいいるだろう? 左利き用のエレキベースが日本中の楽器屋で品薄になる原因を作ったアヌメ 俺が間に合ったのは夕張・大夕張・真谷地・貝島ぐらいだったなあ。まあそれを体験できたのだからよしとしようか。 筑豊に行けばごまんと見れたのになぁ…30年くらい前だが。
路線がそもそも運炭線がルーツってのもあるし(添田、上山田、幸袋線等) >>22
長井鶴に居たお弁当箱みたいなアルコがいいんだよね。 昭和32年10月改正の列車運転時刻表の歌志内線に
「歌神炭鉱側線分岐点」「歌志内炭鉱側線分岐点」があるけど、どういった施設だったんだろう?
>>6
国鉄からはちろくを譲受したのは羽幌炭鉱鉄道。
>>7
C58がいたのは天塩炭鉱鉄道。
北海道や九州もいいですが、昔の常磐線も川尻(現十王)〜内郷の各駅から運炭線
が分岐していましたよね。石炭専用線には国鉄から直接、水戸機関区や平機関区
配属のハチロクやC50などが入線していたような。過去に十年くらい前かな?鉄
ピクに特集が組まれたしね。 >>27
「蒸気機関車」誌上に掲載された「重内炭礦専用線」のレポートが印象的でしたね。 >>10
幾春別に、おととしくらい行ってきたけど
駅周辺はまったく跡形がなかった...
奔別炭鉱のホッパーは残っていたけどね...
常磐炭鉱は地元の人が出した
集大成みたいな本が最近出たと思う
炭鉱じゃないけど、個人的には電気機関車使っていた鉱山が気になるね
五能線のどっかに金属鉱山ですごいとこなかったっけ?
スレ違いになるがけいおんってP-MODELが以下略 >>29
なにって・・・運炭に悶える少女じゃないか。たぶん俺たちと趣味が合うぞ。 常磐地方で運用された国鉄の石炭車って、軌間に落とすヤツだったんですか? >>30
五能線にあったのは八森。G=610だったので。
>>33
九州や北海道では、専用の石炭車(セキ・セム・セラ)が使用されたけど、
常磐だけは、最後まで普通の無蓋車に石炭をバラ積みして輸送していた。 基本的に(当然例外もあり)石炭車は炭鉱から積み出し港へ石炭を運ぶものですからね、
常磐炭鉱なんかは無蓋車で消費地直送だったでしょうし。
石炭車は、北海道向けのは石灰石運搬用のホッパー車のように
線路の左右に積み荷の石炭を落とせるようになっていた。そして
九州のは、レールとレールの間に中身を落とすような構造だった、で桶? 石炭車は物資別の専用貨車で、石灰等に転用された例はあるけど基本的に石炭しか積まない。
煮降しには大掛かりな設備が必要で、事実上港湾に限られる。だから石炭車のみの専用列車を組む場合が多い。
無蓋車は石炭も積めるというだけの汎用車。特殊な荷降し設備がなくても対応できるので小口顧客向け輸送に向いている。
と、いう事でしょ。
だから戦時中に筑豊から本州の需要家へ直送することになったときは石炭車ではなくトキ900になった。
需要家は石炭車でこられても対応できないから。 アメリカのストラクチャキットの定番にコールデポというのがある。
日本と違ってアメリカでは石炭車の荷降し設備が、簡単なものだが石炭問屋ごとにあったらしいんだな。
だから戦前のアメリカの長い長い貨物列車には石炭車がポツリと一両か二両混じって連結されていたりする。
小口顧客向け輸送も石炭車で行っていたわけだ。
消費量の差もあったんだろうが、商習慣の違いは面白い。 こんなところにまで、けいおん!厨房が沸いているのかね?
ならば、私が始末してやろう。
見せてあげよう。宇宙戦艦日光号のイカズチを! そろそろ北海道の保存機関車たちもビニールシートに身をつつむ季節… >>3
雄別のC56、あれ1941年の三菱製ですね。国鉄のC56は最終番号のC56160が1939
年の川崎の製造であり、そのあと2年後に、天下の三菱がD51なんかの製造で
忙しい最中にたった1両だけというのはなにか不自然さを感じます。
雄別炭鉱は当時も閉山時も三菱の傘下にあったわけですが。
その辺、何か事情があるのではないでしょうか。例えば、軍関係の注文流れと
か。ご存知のかたいらっしゃいましたらご教示下さい。
ちなみに、C56はその後、日車が樺太向けに4両製造していますが。 この前、古い友人に会ったのだが、何故か中間〜水巻間の運炭線(廃線)の研究に
ドップリと漬かっていた。
本来、鉄分が全くゼロな奴だったのに、何が彼を突き動かしたのかは本当に謎だ。
話を聞いてると内容は、この運炭線限定なのだが濃い〜事、濃い〜事。
自分は元から鉄なんだが、これにはちょっと引いたw 日炭高松ですね。あそこの頃末の車庫、一度だけ行ったことがあります。
もう5700はなく、C11とC12だけでがっかりした。今なら贅沢いうなという
ことになりますね。木造の客車もありました。かなり強烈な客車でした。
48様のご友人と一度お話がしてみたいですね。
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