懐かしの南武線
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支線の101系・・・
とか南武線の昔を語るスレです。 >>147
応援歌は
♪栄えある歴史 関電ホエールズ♪
か
♪嵐を呼ぶんだ 我ら関電親衛隊♪
になるとこだったな
で、茨城の関東鉄道は北関東鉄道にでもなってたか え?
合併も何も、南武線とか青梅線とか、その辺全部浅野さんの経営だったんじゃないの? >>150
だから、浅野系4私鉄合併計画というのがあったんだよ。
その計画中に鶴臨が強制買収されたので、
残りの3社(南武、青梅、奥多摩)で合併する予定だったが、これらもあえなく買収されてしまった。 陸運統制の政策に恭順の意をあらわそうとしてたのかもな 関電グループが浅野財閥のバックアップのもとで
ドル箱南武線を中心に業績をあげ大手私鉄の一社に
川崎球場はプロ野球のほか都市対抗野球とプロレスの聖地に
同じグループの日本鋼管の製品を運び貨物も好調
行楽地は奥多摩や五日市もあり観光路線にも使える >>121
俺は南武線で車内オルゴールを聞いたのは1989年くらい
すなわち国鉄分割民営化後 仮に国有化されてなかったら、東急辺りになっていてもおかしくねぇけどなあ。 浅野系、西武と東急の争奪戦になっていたのでは?青梅、五日市線は西武だろ。 ・・・なんで、浅野系の私鉄でまとまっていたところを東急や西武が・・・っていう発想になるんだろうか。 国有化か大東急のどちらかだったろうて話
大東急解体時に元に戻るとも限らない いくら強盗慶太といっても、株式売ってくれなかったら買収できなかったわけであり。
実質的に救済合併だった小田急を除けば、池上電鉄から京王電軌に至るまで
大株主を口説き落とす(池上の川崎財閥、京王の穴水熊雄、玉川電鉄の千代田生命)とか
大株主が売りにだした(相鉄の昭和産業、箱根登山の日本電力)から買収できた。
浅野が自社の製品原材料輸送路線である南武・青梅・五日市を手放す理由はないだろう。
堤康次郎にしたって同じ。
まあ、武蔵野鉄道を巡っては、経営危機後、経営権を債権者代表として浅野から堤が奪ったのであるが。 逆に言えば、浅野系列の影響力を排除する手段としての国家買収だったとも考えられるわけだ。
昭和18年に五島慶太は内閣顧問に就任している(ちなみに運輸逓信大臣になるのが、翌昭和19年2月)。 >>157 カマトト?釣り針か?
・・・方々の私鉄スレで「旧型国電みたいなのが走っていた」とか・・・
書き込みオマエ ダ・ロ。
五島慶太といえども国策には逆えないダロ。
国電や蒸機の入線試験も行われたくらいだから小田急だってもう少し戦争が長引けば国に持って行かれたよ。 【不買運動】キリンビバレッジは男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的企業
キリンビバレッジは女性専用車両という卑劣な男性排除によって生じた女のみの状態となた場所に広告を出して金儲けをしようとする反社会的企業です。
<カフェデリの広告>
http://www.youtube.com/watch?v=XiQ8blpfEzo&feature=channel&list=UL
男性の人権を毀損したこの企業の製品・サービスに対して不買を心がけと情報拡散をしましょう! 浅野は本業に特化し、子会社たる鉄道会社の株式を東急、西武に譲渡する可能性は少なくないと思うが。
国有化されなかった場合だけど。
浅野が鉄道経営にどこまで真剣に取り組む気があったのか?ということだけど。
京成と新京成のような関係になっていたかもね >>165
小杉の立体交差で揉めたのの意趣返しとか言われたようだな
ソースは南武線物語 >168
本業に直結する路線で
戦後、各社を温存し返還運動まで行った状況で
それはないだろう。
戦後の五島はカネなかったし。 あまり、たられば話を続けるのもどうかと思うが。
実際には、返還実らなかったあと、南武と青梅のバス部門は
小田急と京王が買収する(つまり立川バスと奥多摩振興→西東京バス)んだが、
小田急が立川バスを欲した理由は、実際には先に川崎市に譲渡してしまった、溝の口近辺の路線バスが欲しかったのではないか?と邪推するところ。
奥多摩振興の京王による買収は、武蔵野乗合、立川と比較的近いエリアを小田急に次々攻略された京王の危機感の結果とも、思う。 浅野が青梅鉄道などを支配下に置いたのは、石灰石輸送料金をダンピングさせるためで、青梅の経営危機を招いたほど。
戦後の財閥解体によって、財閥本家に当たる浅野セメントの、系列私鉄会社に対する支配力は弱まる。
浅野にとって、南武などの私鉄に対する利権が減少、通勤輸送にしても川崎の工業地帯付近を除けば、昭和30年代まで大したことなし。
浅野が鉄道子会社の株を大量に売り払う可能性は決して少なくないと思うよ。 > 青梅の経営危機を招いたほど。
まるでHIS傘下時代のスカイマークだなw それって、武蔵野鉄道では?
秩父鉄道や三岐鉄道を見る鍵ら 三岐鉄道や秩父鉄道の例を考えると、そう簡単には手放さないんじゃ?
1950年代に入れば、石灰石輸送はむしろ増加するのだし。
増資や株の放出により支配力の低下は考えられると思うが
他社へのまるごと身売りまで行くかな? 山全体が石灰岩という武甲山から採掘できる秩父と、日原などに鉱山が点在する奥多摩とでは、前者の方が相当上。
石灰石輸送への依存度が異なる。
多摩川の砂利採掘も30年代には規制され衰退。 歴史にifは禁句だから、
架空鉄道として纏めるでもない限り、結論はでないだろう。
ところで、
鶴見臨港は東亜建設工業、南武鉄道(太平洋不動産)と奥多摩電鉄(奥多摩工業)は日本セメント→太平洋セメントの系列で
現在に至るまで旧浅野系企業の枠内にあるけど
15年くらい前に無くなった青梅電鉄はどうだったんだろう。 ところで東横と南武は何故小杉の交差で揉めたの?
両社の旅客導線考えた上では、競合損失はないしメリットがあると思うのだが・・・
競合関係の池上と目蒲が旗の台を設けなかったのとは意味が違うともう。
南武側が、近隣各社に侵攻をかける目蒲=東横を警戒したの? 南武鉄道の存続会社は太平洋不動産だったよな
社史コレクションで知られる川崎図書館で
社史を探してみたんだが見付からず >>178
南武鉄道は着工が遅れて
新鶴見操車場の計画でルート変更を強いられてさらに遅れ
そうこうするうちに今の東横線が建設されて
先に敷くのだから地上を通そうとしたら
いやいや南武が先だとなって揉めたらしい
そして政治決着で南武の言い分が通った
ソースは南武線物語から俺のうろ覚え 有難うございます。
いずれにしても、戦前の東横=目蒲が同業者間の間でトラブルメーカーであったことは間違いないようですな。
旗の台(無論当時は設けず)も池上の認可が先だったから目蒲は高架を強いられたそうだが、・・・・
政治決着と云うことだが、役人にもなった五島慶太のほうが南武や池上より政治力(コネ)が利きそうなのだが・・・?
二子玉川は、先に開業した玉川に目蒲が寄り添って来てしまったと云うことか? >>181
時代が違うべ。
池上も南武も1920年代の話だから。
それに、五島も昭和の恐慌とは無縁ではなくて、一説には自殺まで考えたとも。 矢向に、車籍はとうになかったはずだが、昭和50年頃モハ10(旧モハ30・31の中間電動車)があったと思うが、詳細わかる人いない? 南武線は101(支線)、103、205、209が一時期混在した。93〜96年なら、中原へ入庫する鶴見線のクモハ12が209と擦れ違う場面もあったと思う。
101と209が同時に存在したのは南武線だけ? 209が登場した時点で101自体が貴重品(南武支線と鶴見線)だったからな。
クモハ12の家って弁天橋じゃないの?中原に何の用事で? >>186
クモハ12はたまに南武線を回送してるのを見かけることがあった。
クモハ12と209、同時に撮りたかったな。 南武線は旧電の頃も車両が色々混ざってて面白かったよね クモハ12とE231との並びなら、東総セのイベントで
見たことはあるけどな・・・ 武蔵溝の口の手前にきたないアーケードがあって飲食店や食品店が軒を連ねていた。確か田園都市線の入り口の方にまで伸びていた。 >>179
会社自体は渋谷区千駄ヶ谷に残っているから、本社に直接行って聞けば良い。
神奈川県に在る同名の不動産会社は南武鉄道と何も関係無い会社だけど。 Wikipediaコピペ乙
昔は川崎西口にあった気がする 千駄ヶ谷っていうか、新宿新南口の東急ハンズの先にあるパークホテルのことだけどね
>>太平洋不動産 >>206
そりゃアレだろ。
東北の、レールバスの会社と紛らわしくなるからだろ。(^^)b 南武線の101系というと、カナリア色の印象が強いけど、スカイブルーの方が先に入線してたらしいですね。 >>206
関東人でないとわからないことだけど,
西武は西武蔵野
東武は東武蔵野
南武は南武蔵野の略。
>>210
エー?ホント?
カナリアとオレンジしかみたことない。 スカイブルーは確かに101系の初期に入ったが
スカイブルーだけで入ってたという記憶はないなあ
子供だったしそこまで熱心に見てたわけではないけど 今主要駅で昔の写真貼り出されてて
武蔵中原では今日展示室まで設けてたが
撮影地不詳だと何でも「尻手」にしておくのはいい加減過ぎるw >>214
展示会は改札内ですか?
見に行ってみようかな? >>210-212
スカイブルーは京浜東北に残ってたやつ(最勢時で10連5本いた)が、カナリアは赤羽線から入ってきたんだっけ。
そういえば101系廃車第一号がこのブルーのサハ100だったような・・・ そもそも南武線に10両編成なんてあるわけないのだが。 懐かしの南武線イベント「205系1編成をチョレート色にラッピングして運行
いたします」 スーソ中○電車区 もし国有化されてなかったら南武鉄道のままで
青森県の南部鉄道と紛らわしくなってたところだった >>221
それはない
浅野系の鉄道を併せて「関東電鉄」になる予定だった
茨城の関東鉄道はずっと後に命名されたものだが
混乱を避けてインバラキ鉄道になったかもしれない 昔南武線103系オール非冷房が1編成いたな
14編成の MC103−116 M102−253 T103−774 M103−226 M102−381 TC103−587だった。
行先幕は101系(丸ゴシック体)流用だったが、のちに103系標準の角ゴシック体に交換された。 そうか、南武鉄道は浅野系だったね
鶴見線駅名にも浅野系企業が由来になってるものがあったっけね >>225
M103-226とM'102-381ユニットは後年にAU712冷改のうえ,
もとATC車と編成を組んでいましたね。
1993年度以降,AU712冷改車は本線ではほとんどいなかったので
特に目を引いた記憶が・・・(遠い目)。 >>226
「浅野」。
あとは「扇町」(浅野家の家紋)。 浅野と小田急って何故親密だったの登戸貨物の直通やっていたダケの関係なら
ワザワザ買収後の南武の車両規格改修(国電が入線できる様に)に小田急が電車貸し出す筋合いも無い様な気のするのだが・・・
帝都(井の頭線)の空襲被害車両不足時 青梅形とか借りたお返し&国有化後も現場サイドでは、両当事者関で協力が親密だったの? 82年まで、川崎駅6番線ホーム内に東芝工場方面の分岐線があったな…
そこのポイントを電車が通過した時はガシャンガシャンという音がしてうるさかった。
103系が転入して来た時にはポイントが撤去された。当時東海道、京浜東北線はコンクリの枕木で、南武線のみ木製枕木だった。
あと6番線ホーム向かい側のうどん屋が懐かしい >>5
自分的には、中央快速線だと、たかが立川に行くだげなのに、
南武線を経由する場合は、立川に行くだげなのに、気分は、中央線で例えると、相模湖や松本方面に行く気分になっていたよ 南武線の101系の中に、最末期まで原型ライトの車両があったと思う Mc84・85とT200が入った編成を知らない?
座席は赤かった
常磐で長生きしたのは意外だった デカ眼の新型車なんかそこかしこに走ってたと思いますが
そんなに希少価値有りますか?
間違って鶴見線スレに書き込んじゃった
すみません 秩父鉄道でチョコバナナ色に復刻された元101系が、最後まで残った元南武線の101系みたいだね。 >>235
そう、記憶では川崎駅6番ホームのセンター側に立ち食いそば屋があった
まだ、朝は横須賀線が優先で川崎駅停車だった気がするが、1〜4番ホームには
立ち食い系はなかったと思う
とにかく、電車床板のワックスには悩まされた
ありゃ、つけすぎだよ >>244
本数減らせばいい。
朝とかガラガラなのに本数多すぎ。
いつか踏切で死亡事故起きるぞ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています