懐かしの南武線
支線の101系・・・
とか南武線の昔を語るスレです。 >>3
そうそう、しかもチョコレート色(それはそれで嫌いでは無かったが)
ばかりの中に現れた雀群の一鶴!
中央特快なみのヘッドマークも誇らしいが、俺の利用駅は通過…
どこかの鉄研が出した新書に、快速のダイヤ改善案が
(快速が廃止された後に)載っていたのも懐かしい。 停車駅は
登戸・武蔵溝の口・武蔵小杉・川崎
でしたね。
おれは立川だったけど登戸でまっていると立川方面は少ないんだよね。
ひどいときは30分近く待ったこともある。登戸駅1番ホームには
待合室があってそば屋があったな。対面の2番線には「快速」が停留
していたのを何度かみたことがある。 連投だが
↑の時代下り電車は稲城長沼までは6両でも,稲城長沼〜立川間は4両だった記憶。
西国立には下りホーム下車の場合矢川方に構内踏切がありそれを渡った。
矢野口駅は下り上りともにホームに一切屋根がなかった記憶。
中野島駅はカリタス学園が近くにできるまでまわりは「荒野」だったな。
稲田堤駅は京王相模原線が開通した後はそれだけが新幹線みたいに輝いて見えたな。
支線の101系が昔か・・・
やっぱり31系でしょう。 支線のクモハ11+クハ16は厨房の頃オート110のポケカメで撮りました。
さすがに鶴見線のクモハ12以外の17m級は見てないっす。 今日、Googleマップで宿河原付近見てたら
砂利用の廃線跡(?)を初めて見つけてテンション上がったw
あれ綺麗に線路の跡残ってるのな
Youtubeにも関連動画あったし 黄色い電車に身をまかせ〜
(ry
あヽここは南武線 中野島ブルースよ 西国立行くと、機関区があってED16が佇んでると錯覚し、
府中本町近づくと、競馬場駅があると錯覚してしまう。 西国立に住んでいる若い同僚に尋ねたら
「むかし機関車が止まってたという話はよく聞きます」と言っていた。
機関区が無くなった後の生まれだった… >>16
もうそんなに経っちまったか、昭和も遠くなりにけりだな……。 ときどき黄色とオレンジの混成車両に遭遇
武蔵野線の4色混成にはかなわなかったが 南武線では黄色と黄緑とエメラルドの3色編成も見た事ある。
でも混色は確かに黄色とオレンジが多かったね。
黄色と黄緑混色は山手線に205系が随時投入されてる期間のみ見られた。 俺が小学4年位の頃、稲田堤に折返し用のポイントが有ったのを微かに
覚えている、ホームから釣り堀が良く見えた。 >>5
確かお盆や彼岸の時期は臨時で津田山にも停車してたっけ。 >>12
俺地元住民だけど、近所の文化祭見物しに行って
鉄研の厨坊に教えてやったら、「へえぇwww(シルカwハゲww)」とか。
ムカつくぐらい無関心な顔しやがるw 幼少の頃(S30年代後半)、矢向付近の線路近くに住んでいたが、当時は本線にクモハ11、クハ
16などが主力で、青梅線から来たのか反流型のクハ55?も、たまに活躍していた記憶がある。
また、奥多摩(当時は氷川)直通貨物列車はED16、線内貨物はC11、C12が主力で活躍して
いたが、ターンテーブル等の設備が無く、下り方向のSLは常に逆行運転となっていた。 狭いバス停前に、小鳥の糞だらけのペット屋があった武蔵溝ノ口駅 20年近く前稲城に引越した時、稲城長沼の駅周辺に「昭和」を見た。
駅舎の雰囲気とか、改札出てすぐタクシー乗り場があったり、
斜め向かいに日通の営業所(それも古めかしい感じで)があったりで、
まるでドラマか鉄道模型の世界だなぁと感じた。
クモハ101-901モハ100-901モハ101-901クモハ100-901 >>29
その編成懐かしいね。前面に立ち上げられた雨どい、量産車より若干狭幅の方向幕、時計の秒針のように
「カチン、カチン・・・」と機械的な動きをしていた速度計、オールMによる民鉄車両並の軽快な高加速・・・ >>27 中原方面に線路沿い歩くと段々奥行きの狭くなる店舗群(立ち飲み出来る酒屋とか場末のスナックとか)もね。 武蔵中原が地上だった頃、朝ラッシュ時中原街道
の踏切が締まりっぱなしで大渋滞を起こして
いたな… 府中本町−西国立が単線だったころ、谷保でいつも交換待ちでよく待たされたものです。
そのころは、クモハ11、クハ16などの17M車が主力。
43年10月のダイヤ改正に合わせるかのように、73系が徐々に増えてきた。
17M車と73系の混結も見られた。
17M車は白熱灯で、73系は蛍光灯。夜になると明るい車内の73系に、感動したものです。
そうそう電気機関車は、ED16が主力でしたが、一般貨物は、EF10、11、13が担当してました。
特にEF11は、全国的に希少だったんで、今でも、その走行が目に焼き付いています。 >>29
のちにその編成、オレンジのサハを2両組み込んで6両編成になったね。 矢野口駅での思い出。
笛を鳴らす。ドアを閉めようとしたそのとき
券売機のところにいるお客「すみませーんまってくださーい」
改札の駅員「いいからいいからそのままいってー」
そのお客が乗るとすぐドアをしめ,乗務員室のドアを開けると
「どちらまで?」といって車補を取り出す。
昭和50年くらいの話。
もっとも当時だと地方のローカル線にいくと,
「おーーいまってくれーー」といって手をふると
一度動き出したディーゼルカーが再度停まったなんてのが
あたりまえにあったけどね。
質問です。
南武支線(浜川崎線)の旧型車両、について聞きたいことがあります。
80年まで残ったクモハ11(222,244,248,270)とクハ16(003,007,211,215)は70年台前半に鶴見線から来た車両だったのですが、
これらの車が入線する前に走っていた車(確かクモハ11-400台)のナンバー分かる方いらっしゃいますか?
分かる方いらっしゃいましたら御教授願います。 快速のヘッドマークって、最初は153なんかで使う横サボ位の大きさだったんだよね。
101の正面窓の真ん中に下げていたよね。
小坊だった俺は、オレンジを地元で見た事が衝撃的な出来事だった。
中央特快もどきのヘッドマークに変わった時は、未来永劫この快速が走るんだ!と
思ったんだけどね・・・。 南武線に快速が登場したときの感動は今でも忘れられない。臨時の南武・奥多摩号を除けば、実質
同線初の新性能車でオレンジの101系の車体に見とれたことを思い出す。これまで旧型車ばかりで
肩身の狭い感があったが、これで川崎で顔を合わせる東海道、横須賀、京浜東北線や途中駅で交差
する私鉄とも対等に肩を並べらるようになり、南武線が少し大人になったような気分だった。 その昔、矢向から川崎河岸までの単線非電化貨物線の近くに住んでいたことがあり、SL・DL牽引の
貨物列車がたまに走っていた。その線路際にあった床屋によく行っていたが、SLが通過するとあの独
特の臭いとかすかな煤が店内に漂っていた。牽引機はC11・12、DD13だった?と思う・・・
花粉症と言う言葉も無く、クモハ73の運転室直後の窓全開で身を乗り出し、制輪子の鉄粉を全身に
浴びてた。
そんな時代が懐かしい。今じゃ窓開けるのも、周りの気配を読まないと出来ないもんね。 >>41
目は大丈夫だったかい?「ブレーキの粉が目に入ったら大変だから顔を引っ込めろ」と、親父から注意を
受けた事があったぞ。
まだ小さいころの夏、シートの上に立膝をついて開いた窓から外を眺めていたら、「開けた窓が落ちて
くる事があるので、窓枠につかまるな」とも言われたな。
懐かしいねぇ。
ギロチンのごとく、窓が落ちて来るんだよね。
鉄粉はロマンチック的に言えば、ダイアモンドダストみたいなもんだったよ。
目に入る、なんて発想は全く無かった。 >>37 レスがないようなので・・・雲を掴むようなかなり探すのが面倒で
資料としては、微妙だが参考までに・・・
昭和35年製作の映画で「夜の街の流れ」?とか云う映画がある。
それの 終りの方のシーンで尻手駅で草笛光子が、映画の中で離婚した元旦那に無理心中に巻き込まれるシーン
(つまり飛び込み・・・合成だろうが、こんなシーン 当時の国鉄だから許可おりたのかな?)
その時進入してくるのが17m旧国だよ。電車は、カーブ側(川崎側)から来るから本線の電車です。
※当時既に浜川崎支線って完全に専用車両なの?(本線も同レベルで制約無い筈だが?)
線路下でホーム&電車側面に向かって映すカットがあるから車号は確認できるかも?
CS放送で探し録画でもして調べて下さい。
懐かしくもなんともないじゃん。
何が101系だよ。
南武線と言ったら17メーター車天国だよ。
クモハ11.クハ16.モハ10.サハ17この4連だよ。
73型も少し居たっけなぁ。
>>37
東京西鉄道管理局・中原電車区 昭和46年
クモハ11 445.457.487.497
クハ16 002.006.524.540
これでよいかな?
昭和50年ごろの話だが、昼でも運転台の後ろの幕は下ろされたままなのは当たり前。
でも、小学校低学年だった俺はわずかな隙間から運転台を覗くと、漫画雑誌を読みな
ながら運転してる運転手を発見。こう書くとネタだろう?って疑われそうだが子供ながら
あの衝撃は覚えてる。ブレーキ、マスコンに両肘ついて漫画を読む。まあ、線路脇の
道路を走る車に余裕で抜かされるくらいの低速運転が当たり前だったから、それほど
危険ではないんだろうけどね。国鉄の闇の時代の出来事でした。 自分も同じころの南武線で運転席後ろの降ろされた幕の隙間から、
タバコを吸いながら運転していたのを見ました。
今では考えられないけれど、あの頃は当たり前だった。 >>49 俺も確かに、そういう時代が懐かしいけど・・・
もう1980年(昭和55年)からだって30年経過してるんだぜ。
その後の年代を懐かしむ人が出て来てもおかしくないだろ。
否定するなよ!年代ギャップを認めろよ!
俺達の世代なんかが、昭和30年代(39年も含む)を懐かしがったりし始めたのは、だいたい20年経過の昭和58、9年位からでしょ。
>>51
当時朝日新聞が中央線のウテシがパン食べながら運転してる写真を掲載して
叩いていたりしたなw
確かに南武線でも横浜線でも当時のウテシは見た目でも香ばしいのが多かったな。
パーマ・サングラス・開襟シャツ襟出しなんかざらだった。
電車区に行っても駐車場はヨンメリやセリカLBやRX−3やSG−Xの
当時の「街道レーサー」があちこちに止まってて壮観だった。
今でも某区に止まってた330セドのホットロッドは鮮明に覚えてる。
写真撮っときゃ良かった・・・。
>>54 俺 他社で鉄道の現業全般(駅、乗務、車両整備)経験したけど。
そういう人達って風貌は強烈だけど仕事は出来たよ(センスがあるって云うか)
勿論 素行(監督者受、就労、金銭、オンナ、博打等 それなりに泣き処の個々にもっていたが・・・)
旅客公衆に非礼な人はあまりいなかった、(そりゃ、仕事も出来ず問題山積の危険人物も皆無では無かったが・・・)
俺が入社した時はマダマダそういう人が職場のぺー頭で現場を仕切っていた。
仕事中理不尽な先輩の頼みで無断外出で買い物にいかされたりもしたし、職場に押しかけたオンナと先輩が逢引する為 突然仕事入らされたりもした 驚!。
でも、みんな面倒見が善くて可愛がってもらったな・・・・。
昔は、破天荒な事は許されたけど、臨機応変というか取り扱いにも情があったよな。
変に真面目な先輩の方が仕事で困った時とか、旅客に対しても薄情だったな。
古豪の吊りかけの電車が、豪快に走行音を轟かせたのが信じられないような遠い過去の事として風化する今
走るんです全盛の今日の鉄道係員のマニアル対応は、どこか味気ないし、本当の技術は引継ず失われていくような気がする。
南武線沿線はやたらと梨園ばっかりだったよなぁ・・・ 南武線の立川のホームは中央線や青梅線から外れた所にあって、北口のメインの駅舎まで
薄暗く小便臭い長い地下通路を通らなければならなかった・・・
幼い俺は、あの地下通路が大っ嫌いだったよ! 尻手(浜川崎)〜武蔵中原付近までの高圧送電線は元私鉄(南武鉄道)買収路線であることを
容易に連想させてくれたな。国鉄民営化で今も私鉄に戻ってはいるが・・・ 浜川崎って 元々南武、鶴臨と別会社とは云え同じ浅野系なのに何故あんなに、分離した駅になってるかな?
クモハ73600の偶数車が懐かしいす。
同じ切り妻・4ドアでも後ろにパンタがあるだけで、妙に新鮮だったよ。 あと3年もすれば「節電の国策に再び消えた南武線快速」とかな。 「節電の国策に消えた南武線」ってのは勘弁してほしいな。 南武線快速が101系時代に設定されず横浜線と同時期(1988年3月)に初登場したら?
おそらく府中本町以南で快速運転、踏切改良前は駅通過時45q/hに減速。
東急に対する嫌がらせで武蔵溝ノ口と武蔵小杉は通過。
その後程なくして武蔵溝ノ口が停車駅に追加されるが、武蔵小杉への停車は横須賀線の駅が開設されてからだった。
快速幕に「快速矢向」が収録され、「快速小机」並に珍重される。 >>64-65
「戦時統制の国策に消えた南武鉄道」ってのも勘弁してほしかった 子供の頃、小杉の踏み切りで我が家の車のエンジンが落ちそうになり
あわてて親父と踏み切り番が押し出しました。昭和35年頃です。 >>68
そういう思い出話をここ↓ですると大喜びされるぞゴルァ。(^◇^)
【今日も修理?】ボロ車スレ Part35【でもめげない】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/car/1312296734/l50
>>68
日中遮断が長かったよな
30両編成くらいの貨車が通ってたような思い出がある >>68
です、確かに日中遮断も多く線路が何本もあった様な気がします。因みにそのボロ車は
昭和30年だかそこいらのスズライトと言うスズキ、いや世界初の量産FF車らしく
えげれすのミニより先です、エンジンマウントが切れかけたようです
>>71
スレちだが、世界初の量産FFはシトローエンじゃなかったか? まだモハ72型が走っていた頃、最高速度65kmの南武線を京浜東北線並みのスピードで
ぶっ飛ばす運転士に遭遇したことがあります。尻手では車掌が時間調整のためしばらくドアを
開けっ放しにしてしばらく停まっていたのにもかかわらず、川崎までの急カーブをこれも制限速度
いっぱいでぶっ飛ばし(超えていたかも)大変興奮した思い出があります。この運転士さん、何を
思ってこんなに飛ばしたんでしょうね。限界にでも挑戦していたんですかね。 自分の下がゴトゴトうるさいから、強ブレーキで削正してたんでしょう。 >>73 トイレだよ。
それか、不遇にも車扉操作を意味もなくチンタラする車掌(南武線のような管轄の狭い線区なら運転士仲間でもマーク)との遭遇。
組合相違による確執そんなところだな。 >>72
それも違うみたい、各メーカでそれは手叩きで作ったから量産じゃ無いとか
台数的に量産といえないとかケンケンガクガクのようです。
スズキオサムは譲らないらしいけどね。スレチスイマセン。 >>76
トラクシオンアバンは70万台以上造ったけどね 南武線と言えばとにかく遅いイメージ。今は快速が走ったり、普通もそこそこまともに走ってますが、
武蔵小杉ー武蔵溝ノ口間が地上だった頃、脇の道路を走る車に電車が抜かれていましたっけ。
確か駅間を50kmぐらいのスピードで走ってました。今は70km?ぐらいかな。 昔、登戸辺りでセメント撒き散らしながら走ってるのを見たな。 >>54
帽子をどのくらい潰せるかやってましたな。
73系の方向幕車は幕がずれて何行きだか分からなくなってるし。
でものんびりして良い時代でしたな。
南武線は津田山で死亡事故を起こしてますね。
昭和三十五年か六年でしたかね・・・ 昭和37年の三河島事故の直後ですね。第二の三河島事故と騒がれました。
事故現場そばにあった帝国臓器製薬の医薬品が救護活動に役に立ったとか。 南武線は幕車は方向幕使用
隣の鶴見線は幕車も前サボ枠設置で使用
この辺が、各職場の流儀(面子)だな。
運転関係の仕事をしていると移動のとき各職場の流儀(くだらんシキタリ)に翻弄されるのは苦痛だったな。 国鉄の時代は方向幕や方向板の整備は駅員の作業だったよね。民鉄のように乗務員が降りがけに
変えれば済むのに絶対にやらなかった。 >>83
自分がガキの頃沿線だった西武は、幕も板も駅員だったぞ? 南武線の一部の73形全金車の幕に
KAISO
回 送
があった、とか。 高圧送電線を兼ねた架線柱は減ったなあ。
残っていても、上を切られている。 >>83>>84>>85 西武東武は善くも悪くも国鉄的な業務慣習をしてきた会社だからな。
>>87 阪和線の阪和時代の物々しい頑丈そうな架線柱は? 子供のころパパがバスが好きで電車は嫌いだった。ある日曜日に「あとでバス乗せてあげるから」ということで
父親に連れられて立川から南武線に乗った。南口ユーザーだったのでいつも長くて狭い地下道を中央線ホームまで歩くのに
そのときは歩く距離も短かった。コゲ茶色の電車には見慣れていたので違和感もなく空席もなかったので
正面運転台後で「かぶりつき」。電車嫌いだったのに父親と2人だとなぜかいつもこの場所が「指定席」
だった。府中本町で下車して父の「用事」をすませた後,今度は別の電車に乗った。この電車も
コゲ茶色だが来る電車からはあふれんばかりの人波が押し寄せてきたのは覚えている。それに乗ってしばらく
すると左手からいつも見慣れた中央線が合流して国分寺で乗り換え,武蔵小金井からは
当時お気に入りだった関東バスに乗り途中乗り換え吉祥寺まで。
今思えば最初で最後の下河原線乗車。その後彼は地方に転勤したが,免許はあるのに車を持たず
本数稀少かつ空気輸送の路線バスを使って通勤していた。定期券の更新時期になるとバス会社の
営業所から電話がきたり,さらには職場まできて出張販売までしてくれたそうだ。たぶん付近の
学校に出張したついでだろうが・・・。 旧国末期の西ナハ区は親切だった。
構内撮影も快く許可してくたし、撮影から戻ると運用表の青焼や使い古しの「禁煙」「非常ドアコック」プレートまでくれた。 遮光幕終日全閉暗黒時代も南武線は助士側は開いてることが多かった。 どうして戦後南武鉄道に戻らなかったんだろう?
国鉄線でありつづける必要なんかないんだから >>95
そのころの私鉄って現大手のとこでさえ電気代滞納して送電減らされちゃったりなんかして
経営に不安があり信用されてなかったから青梅線もそうだが沿線利用者・有力者が嫌って反対したらしい。
>>101 口の訊き方だけじゃなくて
西武池袋(旧武蔵野)のハナシも知らんのか・・・・呆。
戦後南武線の規格改修時等 度々 小田急との相互車輌貸し出しがあった処を診ると、
現場サイドでは暫く(昭和30年代初めくらいまでは、)再度民鉄に戻れる?みたいな微妙な空気はあったかもな。 米軍が絡んでいるって言う話もある。今でも米タン輸送はあるし稲城には弾薬庫もあった。(今、米軍ゴルフ場?)
いざっていうとき私鉄なんかには任せられないというのがあったのかも。 昔、南武線にアナウンスの面白い車掌がいたらしいね。 今10時ですが次は久地〜って人な。
実は俺知らないんだがオールドファンの間では話題に出るw
昭和40年代くらいかな? >>106
居ましたよ。「次は武蔵小杉だよん」みたいな。
この電車は立川行きです。この電車は長い6両編成ですが前寄り2両は途中の稲城長沼で切り離しとなります。
南多摩、府中本町、分倍河原、谷保、矢川、西国立、立川方面ご利用の方は後寄り4両をご利用ください。 登戸にあった昭和エーテルの引込線の貨車入換に、C11かC12が来ていたな。
稲城長沼の貨物側線、津田山の粘土山引込線、久地のヒューム管工場側線…
ED16が牽く一般貨物列車、溝の口の貨物側線……遠い過去の素敵な記憶。
ところで浅野グループの買収私鉄各社はお互い接し相互に貨物輸送もおこなっていたのに
何故車両は、それぞれ独自性が強いの?
非電化の五日市や設立当初の別資本経緯とかは解るが、共通性が皆無だよな。
セメント輸送の中心となる導線部分を構成する南武が一番車両限界規格が低かったの解せない。
同じ買収でも飯田線を構成した豊川一派とは違うなあ〜。 >>117
豊川・鳳来寺・田口の3社は、実質的には豊川鉄道1社だったからでしょう。
浅野各社は、そもそも線路規格が異なるし、出資比率も異なるからだろうね。 ttp://umemado.blogspot.jp/2012/06/blog-post_07.html
小田急 向ヶ丘遊園駅と南武線連絡線 >>120 >>121
目立ちすぎると車掌区ではいじめられていたみたいだね。
で、若くして亡くなったとか。 >>124 当時なんか就労管理&職場規律が乱れだした時期なのにそういう事を云う老害に限って
正則作業をしろ!
作業内規を守れ!
職場規律を乱すな!
とか 抜かすんだよっ!組合役員の鎧着て(多少の問題起こしても)自分の地位はしっかりガードして!(査定・転配免除)
年代もずっと後だし会社も違うけど、俺もやられたよ。 先日、最後の中原所属実績のある秩父の元101が引退したらしいね。 登戸から武蔵小杉まで茶色い電車に乗った。
50年近く前の話しだけど。 JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL 南武線は極端に男ばっかりだから女性専用車はないだろうな(笑) 初代南武線快速を葬り去った政党のビルがいよいよ解体 初期の南武線の101系は4両だったらしいね。その中に試作車もあった。 >>134
社民党(>>133の話の時は社会党)ではないか。
南武線自体あまり本数が無くて、ホームでやたら待たされた記憶あり。
茶色の電車の中にポールが建っていて、従妹と遊んでいたら車掌さん
に怒られたり、中ノ島の駅付近で手を振ると、たいがい運転手が手を
振り返してくれたりと、40年以上も前の思い出です。 鶴見臨港鉄道は、会社としては存続してるのな。
現在は、保有不動産の管理が主な事業のようだ。
戦後、鶴見線の払い下げを企図したが、かなわなかったとのこと。
ってか、買収国電スレって、無いんだね… 南武鉄道も系譜的には現存してた筈
こっちも不動産関係だったかな
あったあった「太平洋不動産」だって
ということは旧浅野セメント系に合わせて改名してるのか >>135
南武線での101系運用開始は1969年の快速運転開始からで中央快速用の付属編成の借用じゃなかったかな
だから3+3の6連で主に日中快速に使われてラッシュ時は普通にも使われたんじゃないかな
本格的な導入(73系の置換え)は1972年からで当初から6連だったと思う
あと試作車だけのオールM4連も日中の立川行に使われていた 浦和の水色も来てたよね
どう組み替えたか知らんけど 黄色以外の101系に誤乗防止ステッカーってあった?
国鉄末期〜JR化直後の黄緑・青緑103系には貼っていたと記憶。 南武線はかなり遅くまで原形ライトの101系が走ってたと思う 南武支線の話題はどちらかと言うと鶴見線でのくくりの方がいいのかな。
旧クロハが走っていたね。 旧一等室の奥行きの深い座席と肘かけと
天井の区分けの仕切りがそのまま残っていた車両。 路線別の板では鶴見線の括りになってるね
実際弁天橋営業所だし 国鉄に買収されずに南武鉄道のままだったら
ホエールズかオリオンズの親会社として
川崎駅の西口当たりに立派な球場建ててまだ川崎本拠のままだったな 青梅電気鉄道と合併して、関東電鉄になろうとしてたが、
国有化の話がもちあがって、お流れになったんだな >南武鉄道 >>147
応援歌は
♪栄えある歴史 関電ホエールズ♪
か
♪嵐を呼ぶんだ 我ら関電親衛隊♪
になるとこだったな
で、茨城の関東鉄道は北関東鉄道にでもなってたか え?
合併も何も、南武線とか青梅線とか、その辺全部浅野さんの経営だったんじゃないの? >>150
だから、浅野系4私鉄合併計画というのがあったんだよ。
その計画中に鶴臨が強制買収されたので、
残りの3社(南武、青梅、奥多摩)で合併する予定だったが、これらもあえなく買収されてしまった。 陸運統制の政策に恭順の意をあらわそうとしてたのかもな 関電グループが浅野財閥のバックアップのもとで
ドル箱南武線を中心に業績をあげ大手私鉄の一社に
川崎球場はプロ野球のほか都市対抗野球とプロレスの聖地に
同じグループの日本鋼管の製品を運び貨物も好調
行楽地は奥多摩や五日市もあり観光路線にも使える >>121
俺は南武線で車内オルゴールを聞いたのは1989年くらい
すなわち国鉄分割民営化後 仮に国有化されてなかったら、東急辺りになっていてもおかしくねぇけどなあ。 浅野系、西武と東急の争奪戦になっていたのでは?青梅、五日市線は西武だろ。 ・・・なんで、浅野系の私鉄でまとまっていたところを東急や西武が・・・っていう発想になるんだろうか。 国有化か大東急のどちらかだったろうて話
大東急解体時に元に戻るとも限らない いくら強盗慶太といっても、株式売ってくれなかったら買収できなかったわけであり。
実質的に救済合併だった小田急を除けば、池上電鉄から京王電軌に至るまで
大株主を口説き落とす(池上の川崎財閥、京王の穴水熊雄、玉川電鉄の千代田生命)とか
大株主が売りにだした(相鉄の昭和産業、箱根登山の日本電力)から買収できた。
浅野が自社の製品原材料輸送路線である南武・青梅・五日市を手放す理由はないだろう。
堤康次郎にしたって同じ。
まあ、武蔵野鉄道を巡っては、経営危機後、経営権を債権者代表として浅野から堤が奪ったのであるが。 逆に言えば、浅野系列の影響力を排除する手段としての国家買収だったとも考えられるわけだ。
昭和18年に五島慶太は内閣顧問に就任している(ちなみに運輸逓信大臣になるのが、翌昭和19年2月)。 >>157 カマトト?釣り針か?
・・・方々の私鉄スレで「旧型国電みたいなのが走っていた」とか・・・
書き込みオマエ ダ・ロ。
五島慶太といえども国策には逆えないダロ。
国電や蒸機の入線試験も行われたくらいだから小田急だってもう少し戦争が長引けば国に持って行かれたよ。 【不買運動】キリンビバレッジは男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的企業
キリンビバレッジは女性専用車両という卑劣な男性排除によって生じた女のみの状態となた場所に広告を出して金儲けをしようとする反社会的企業です。
<カフェデリの広告>
http://www.youtube.com/watch?v=XiQ8blpfEzo&feature=channel&list=UL
男性の人権を毀損したこの企業の製品・サービスに対して不買を心がけと情報拡散をしましょう! 浅野は本業に特化し、子会社たる鉄道会社の株式を東急、西武に譲渡する可能性は少なくないと思うが。
国有化されなかった場合だけど。
浅野が鉄道経営にどこまで真剣に取り組む気があったのか?ということだけど。
京成と新京成のような関係になっていたかもね >>165
小杉の立体交差で揉めたのの意趣返しとか言われたようだな
ソースは南武線物語 >168
本業に直結する路線で
戦後、各社を温存し返還運動まで行った状況で
それはないだろう。
戦後の五島はカネなかったし。 あまり、たられば話を続けるのもどうかと思うが。
実際には、返還実らなかったあと、南武と青梅のバス部門は
小田急と京王が買収する(つまり立川バスと奥多摩振興→西東京バス)んだが、
小田急が立川バスを欲した理由は、実際には先に川崎市に譲渡してしまった、溝の口近辺の路線バスが欲しかったのではないか?と邪推するところ。
奥多摩振興の京王による買収は、武蔵野乗合、立川と比較的近いエリアを小田急に次々攻略された京王の危機感の結果とも、思う。 浅野が青梅鉄道などを支配下に置いたのは、石灰石輸送料金をダンピングさせるためで、青梅の経営危機を招いたほど。
戦後の財閥解体によって、財閥本家に当たる浅野セメントの、系列私鉄会社に対する支配力は弱まる。
浅野にとって、南武などの私鉄に対する利権が減少、通勤輸送にしても川崎の工業地帯付近を除けば、昭和30年代まで大したことなし。
浅野が鉄道子会社の株を大量に売り払う可能性は決して少なくないと思うよ。 > 青梅の経営危機を招いたほど。
まるでHIS傘下時代のスカイマークだなw それって、武蔵野鉄道では?
秩父鉄道や三岐鉄道を見る鍵ら 三岐鉄道や秩父鉄道の例を考えると、そう簡単には手放さないんじゃ?
1950年代に入れば、石灰石輸送はむしろ増加するのだし。
増資や株の放出により支配力の低下は考えられると思うが
他社へのまるごと身売りまで行くかな? 山全体が石灰岩という武甲山から採掘できる秩父と、日原などに鉱山が点在する奥多摩とでは、前者の方が相当上。
石灰石輸送への依存度が異なる。
多摩川の砂利採掘も30年代には規制され衰退。 歴史にifは禁句だから、
架空鉄道として纏めるでもない限り、結論はでないだろう。
ところで、
鶴見臨港は東亜建設工業、南武鉄道(太平洋不動産)と奥多摩電鉄(奥多摩工業)は日本セメント→太平洋セメントの系列で
現在に至るまで旧浅野系企業の枠内にあるけど
15年くらい前に無くなった青梅電鉄はどうだったんだろう。 ところで東横と南武は何故小杉の交差で揉めたの?
両社の旅客導線考えた上では、競合損失はないしメリットがあると思うのだが・・・
競合関係の池上と目蒲が旗の台を設けなかったのとは意味が違うともう。
南武側が、近隣各社に侵攻をかける目蒲=東横を警戒したの? 南武鉄道の存続会社は太平洋不動産だったよな
社史コレクションで知られる川崎図書館で
社史を探してみたんだが見付からず >>178
南武鉄道は着工が遅れて
新鶴見操車場の計画でルート変更を強いられてさらに遅れ
そうこうするうちに今の東横線が建設されて
先に敷くのだから地上を通そうとしたら
いやいや南武が先だとなって揉めたらしい
そして政治決着で南武の言い分が通った
ソースは南武線物語から俺のうろ覚え 有難うございます。
いずれにしても、戦前の東横=目蒲が同業者間の間でトラブルメーカーであったことは間違いないようですな。
旗の台(無論当時は設けず)も池上の認可が先だったから目蒲は高架を強いられたそうだが、・・・・
政治決着と云うことだが、役人にもなった五島慶太のほうが南武や池上より政治力(コネ)が利きそうなのだが・・・?
二子玉川は、先に開業した玉川に目蒲が寄り添って来てしまったと云うことか? >>181
時代が違うべ。
池上も南武も1920年代の話だから。
それに、五島も昭和の恐慌とは無縁ではなくて、一説には自殺まで考えたとも。 矢向に、車籍はとうになかったはずだが、昭和50年頃モハ10(旧モハ30・31の中間電動車)があったと思うが、詳細わかる人いない? 南武線は101(支線)、103、205、209が一時期混在した。93〜96年なら、中原へ入庫する鶴見線のクモハ12が209と擦れ違う場面もあったと思う。
101と209が同時に存在したのは南武線だけ? 209が登場した時点で101自体が貴重品(南武支線と鶴見線)だったからな。
クモハ12の家って弁天橋じゃないの?中原に何の用事で? >>186
クモハ12はたまに南武線を回送してるのを見かけることがあった。
クモハ12と209、同時に撮りたかったな。 南武線は旧電の頃も車両が色々混ざってて面白かったよね クモハ12とE231との並びなら、東総セのイベントで
見たことはあるけどな・・・ 武蔵溝の口の手前にきたないアーケードがあって飲食店や食品店が軒を連ねていた。確か田園都市線の入り口の方にまで伸びていた。 >>179
会社自体は渋谷区千駄ヶ谷に残っているから、本社に直接行って聞けば良い。
神奈川県に在る同名の不動産会社は南武鉄道と何も関係無い会社だけど。 Wikipediaコピペ乙
昔は川崎西口にあった気がする 千駄ヶ谷っていうか、新宿新南口の東急ハンズの先にあるパークホテルのことだけどね
>>太平洋不動産 >>206
そりゃアレだろ。
東北の、レールバスの会社と紛らわしくなるからだろ。(^^)b 南武線の101系というと、カナリア色の印象が強いけど、スカイブルーの方が先に入線してたらしいですね。 >>206
関東人でないとわからないことだけど,
西武は西武蔵野
東武は東武蔵野
南武は南武蔵野の略。
>>210
エー?ホント?
カナリアとオレンジしかみたことない。 スカイブルーは確かに101系の初期に入ったが
スカイブルーだけで入ってたという記憶はないなあ
子供だったしそこまで熱心に見てたわけではないけど 今主要駅で昔の写真貼り出されてて
武蔵中原では今日展示室まで設けてたが
撮影地不詳だと何でも「尻手」にしておくのはいい加減過ぎるw >>214
展示会は改札内ですか?
見に行ってみようかな? >>210-212
スカイブルーは京浜東北に残ってたやつ(最勢時で10連5本いた)が、カナリアは赤羽線から入ってきたんだっけ。
そういえば101系廃車第一号がこのブルーのサハ100だったような・・・ そもそも南武線に10両編成なんてあるわけないのだが。 懐かしの南武線イベント「205系1編成をチョレート色にラッピングして運行
いたします」 スーソ中○電車区 もし国有化されてなかったら南武鉄道のままで
青森県の南部鉄道と紛らわしくなってたところだった >>221
それはない
浅野系の鉄道を併せて「関東電鉄」になる予定だった
茨城の関東鉄道はずっと後に命名されたものだが
混乱を避けてインバラキ鉄道になったかもしれない 昔南武線103系オール非冷房が1編成いたな
14編成の MC103−116 M102−253 T103−774 M103−226 M102−381 TC103−587だった。
行先幕は101系(丸ゴシック体)流用だったが、のちに103系標準の角ゴシック体に交換された。 そうか、南武鉄道は浅野系だったね
鶴見線駅名にも浅野系企業が由来になってるものがあったっけね >>225
M103-226とM'102-381ユニットは後年にAU712冷改のうえ,
もとATC車と編成を組んでいましたね。
1993年度以降,AU712冷改車は本線ではほとんどいなかったので
特に目を引いた記憶が・・・(遠い目)。 >>226
「浅野」。
あとは「扇町」(浅野家の家紋)。 浅野と小田急って何故親密だったの登戸貨物の直通やっていたダケの関係なら
ワザワザ買収後の南武の車両規格改修(国電が入線できる様に)に小田急が電車貸し出す筋合いも無い様な気のするのだが・・・
帝都(井の頭線)の空襲被害車両不足時 青梅形とか借りたお返し&国有化後も現場サイドでは、両当事者関で協力が親密だったの? 82年まで、川崎駅6番線ホーム内に東芝工場方面の分岐線があったな…
そこのポイントを電車が通過した時はガシャンガシャンという音がしてうるさかった。
103系が転入して来た時にはポイントが撤去された。当時東海道、京浜東北線はコンクリの枕木で、南武線のみ木製枕木だった。
あと6番線ホーム向かい側のうどん屋が懐かしい >>5
自分的には、中央快速線だと、たかが立川に行くだげなのに、
南武線を経由する場合は、立川に行くだげなのに、気分は、中央線で例えると、相模湖や松本方面に行く気分になっていたよ 南武線の101系の中に、最末期まで原型ライトの車両があったと思う Mc84・85とT200が入った編成を知らない?
座席は赤かった
常磐で長生きしたのは意外だった デカ眼の新型車なんかそこかしこに走ってたと思いますが
そんなに希少価値有りますか?
間違って鶴見線スレに書き込んじゃった
すみません 秩父鉄道でチョコバナナ色に復刻された元101系が、最後まで残った元南武線の101系みたいだね。 >>235
そう、記憶では川崎駅6番ホームのセンター側に立ち食いそば屋があった
まだ、朝は横須賀線が優先で川崎駅停車だった気がするが、1〜4番ホームには
立ち食い系はなかったと思う
とにかく、電車床板のワックスには悩まされた
ありゃ、つけすぎだよ >>244
本数減らせばいい。
朝とかガラガラなのに本数多すぎ。
いつか踏切で死亡事故起きるぞ! 近くE233に統一されるらしいけど
南武線車両の顔が全部同じになるのは史上初? >>248
1978年の73系引退から1982年の103系導入までの4年間はオール101系だったのでは? >>249
その頃って混色花盛りの時代じゃない?
先頭車両だけは黄で統一されてたかな 昔は終夜運転があった。
川崎〜(30分毎)〜登戸〜(60分毎)〜立川。
成田方面は新宿発の列車があった時代だが。 南武線から東横線、小田急線、京王線経由の山手線各駅への通過連絡切符は懐かしい思い出。
券売機で売ってない駅で、マルス発券お願いすると、売れないってよく揉めたな。 南武線電車内JKの下半身ばかり盗撮してる男を盗撮してみた
https://www.youtube.com/watch?v=MkSeX8TLpA0
2015/12/17 に公開
この動画を撮り始める前、男のすぐ前にJKがいて、スカートの下からスマホのレンズを向けていました。
動画撮影のスタート時、ストップ時に右下のスピーカーを足に押し付けて音が聞こえないようにしているのがわかります。 S55年前後101系はほとんど混色だったのが懐かしい。非冷房車や中間に先頭車が入っていたり。
矢向駅の尻手方にはいつも浜川崎線用の電車が止まっていた。ラッシュ用編成だったのだろうけど。 南武鉄道の塗装ってどんな色?
ぶどう色2号でいいのかな? 昔川崎駅も自動改札なんてなくて、ずらりと駅員さんが並んでましたね。
上の方にありますが、6番線に東芝へのポイントがあったころは、ほとんどのバスは東口でした。
東口の地下道は浮浪者がいて暗い感じでした。
当時駅ビルの2階にお好み焼きとかの店あったですよね。アルミホイルでくるまれたお好み焼き懐かしいな C12が登戸まで来ていたなんで
信じられない…一度見てみたかった。 南武線
いつもボクは下ばかり
ボクと交差する新幹線他各線はボクを跨いで颯爽と走っている
それでもボクは毎日毎日
勤め人と遊び人を乗せて黙々と走ってきた
雨の日も風の日も・・・・ クモハ103が撤退した時、一つの時代が終わった気がした。 >>270
懐かしい!本線からのクモハ完全撤退は確か1994年3月でしたね。 ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリリーン
ピュゥゥゥゥイ
ガラガラガラガラバッターン
ガァーーーーーゴゴッゴッゴッゴーゴゴッゴゴー
ゴーゴーガガンガガーンガーン(カンカンカンカン・・・) エー只今10時ですが次は久地です(と小ネタをかます車掌が実在した) 旧国の時代 、正面の行先板の内容を全部引っ張り出して見た事あるが、通常は行き先として設定されてない「稲田堤」「府中本町」「矢向」があったよ。
編成長の関係で、そのままでは入線不可の「浜川崎」「尻手」も。
巻き取り幕タイプだと、青梅五日市線も入っており、「氷川」だの「武蔵岩井」も入ってた。 赤羽線ユーザーだったので、毎日乗ってた101系が103系に追い出されて廃車だと思ってたら南武線に、しかも冷房改造まで受けたときはびっくりした >>275
支線の101系が鶴見線でさよなら運転した時
鶴見での撮影タイムで「矢向」出してたわw そりゃあ幕はその路線のためだけに作られるもんじゃないからな 浅野駅でシングルスリップスイッチ動いてるのボヤーと見てた 何で浜川崎駅は構内はおろか改札内さえ統合しないの?
合併、買収から半世紀以上経つのに・・・
単純にこの辺の路線になるべくカネかけたくないだけ? >>275
あの頃、少年時代、電車がボロイから、ナンボロ線って言ってたけど、
いまやE233だもんな!時代は変わったよ 101系の冷改車が集結してた頃は周辺線区(青梅・五日市・武蔵野)は非冷房車が大多数だったから子供心に「都会路線」と思ってたな(by中央沿線民)。 >>281 旧国走っていた頃に比べると、横浜線と地位が逆転したような感じがする。
70年代前半、南武線は全線複線で101系快速も走っていたのに比べ、横浜線は複線は小机まで、新性能車はなし、快速もなし、という有様だった。 >>280
具体的に何をどうしろと言うんだよ
道路の上に橋を掛けろとでも?
多分それやっても誰得だよ
浜川崎商店(後藤)だってきっと黙ってないw >>283
横浜線は永遠のライバルというか同属嫌悪というかw
「るるぶ」JR編が横浜線南武線から手を付けたのも興味深いw
昭和の頃までは横浜線の方が明らかに郊外だったけど随分開発も進んだし
新横浜、町田、橋本と途中にそれなりの街があるのも大きいかな 旧国時代、基本4B+附属2Bだった事は尻手ますか?
附属無しの4Bで川崎を発車する運用も存在したかな?あと、101が始めて入線した当時、最初は全てオレンジ色でした。
イエローは暫くたってからで、混色編成も多かった。そう言えば、101の試作編成の900番台もよく乗ったな。これ4B固定編成だった。 >>274
今でも気の利いたコメントを放送に入れる車掌さんの多いこと!
中原の伝統なのかね? >>286
つまらん駄洒落はスルーするが長沼で切り離してた頃の話?
101は当初快速用に中央線から借りてきたような気がする
転入組には一時スカイブルーもあったね
>>287
自動放送で駄洒落はないやろ〜チッチキチー
E233入る前でも多いどころかサッパリ聞かなかったぞ
せいぜい「ながーいシートは7人がけ」の人くらい
他にあったら例示しやがれ >>287
中原?昔、「矢向車掌区」がありました。
先日久しぶりに乗ったら、矢向到着時、交代の車掌がホームに居たから
まだ矢向では?? >>280
三セクが分離してから浜川崎状態になった伊万里駅をご覧ください。
ttp://nd2620.la.coocan.jp/img/060722/pict0649.jpg 矢野口駅
駅舎は下り後方にあるだけで、構内は踏切で連絡している。
4両ギリギリの有効長なので、当時立川行は稲城長沼で2両切り離して4両編成
(または最初から4両編成)。
駅のまわりはほとんどなにもなく、柿の季節になるとところどころ
真っ赤な柿が成っている木が見えたものです。
・・・なんてかいているとどっかの相模線みたいな感じがするな。 南多摩駅から立川行に乗り右にカーブすると
ガタンガタンガタン・・・ガタンガタンガタン・・・ガタンガタンガタン・・・と
レールを刻む音が単調になる。多摩川を渡っているわけだが
お隣さんのほうがすごく立派にみえたりする。
そして鉄橋を渡り終えてすぐ左側に目をうつすと
東京競馬場前駅跡のホームやレールがそのまま残っているのが
確認できる。
「競馬場前」といいながら府中本町駅よりも遠かったということが
よくわかる。
ただ、それならばなぜ「下河原線」をわさわざ敷いたかというと、
たぶん競馬客の輸送が当時の南武線ではキャパ的に無理だったから
というわけだろうな。 >>294
待避駅1箇所で立川〜川崎が41分でしょ。
中央特快なみのスピードじゃないか。
この板の対象とする「昔」は
立川〜川崎を各駅停車で63分なわけで
昔と比べれば便利になったと思うよ。 やはり久地の緑化軌道は黄色いペンキ塗りの電車が似合う 今も昔も、ギャンブル好きな感じだね
それと、連結部分のゲロのイメージが強い この線は元私鉄だから、駅間距離が国鉄にしては短いんだよ、と
初めて南武線体験した時に同乗した先輩が得意気に教えてくれた
今となっては非買収線でもどんどん新駅ができて距離はそんなに変わらなくなってる? >>304
それはいえるね。
南武線や仙石線に73系が活躍したころの
仙山線の駅群を見てみるといい。 >>274
おもしろいそれw
今でも自動放送で流れるとつい腕時計で確認してしまう >>307
昭和40年代の話だろうが
今でも無意識に腕時計見てしまうよ
まだ8時じゃんと心の中でツッコむ 「矢」と「失」の違いを南武線で習ったオレがいる(小学生の頃)。
鉄道マニアであったおかげで、地理と漢字には強かった。
ただし、覚える順番に難があり、大蔵省を「おおさししょう」と
勝手に読んでしまうといったことは多々あったが。 へ〜
面白い車掌さんがいたんだね
俺の国鉄の乗務員氏に対する勝手なイメージは無愛想か、カタブツばかりだと。 小学生のころ、南武線はトロい、横浜線は速い、と言ってたわ
そうだったんだろうか >>317
IDに72キタ━━━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━━━!! おおっ、スゲえなw
>>314
とはいえその後横浜線は次々に新駅を造って平均距離が短くなってしまったね 逆に南武線に新駅なんて出来ないだろうと思っていたから
西府ができた時はビビった ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄(40代ブラックバラエティ道路公団談合)
違法改造大好き在日中国人報道中国車リコール発言台湾反日飛行機会社
ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足まいちゃりマイカー窃盗犯
安売ドラマ魔界村ビールぼったくり販売員適正価格
適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (★民主党鳩山政権TPP問題★★
トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社テレビビジネス森友学園パチンコ必勝法オークション販売時代)
NHK中国人用トランプ大統領テレビニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 川崎駅へ向かう人が利用しているとは思えないので
他の目的地に向かう人が予想以上に多いということだな 流動調査の結果は何処かで公開されてるのかな
もしあるなら小田栄の解析も出来そうなのだが >>320
分倍河原−谷保間の駅間距離が南武線の平均駅間距離の2倍くらいあったためみたいだね。
昭和53年に今の西府駅の立川よりのカーブのあたりに、そんな理由で新駅を設置して
欲しいという内容の看板立っていたのを見たことがある。翌年にはなくなっていたけど。 かつては存在してたみたいだし
請願駅なら止めてやってもいいぞって感じ 川崎で京浜東北から乗り換え、しっかり尻手まで一駅座って小田栄まで行くリーマン、OL結構いるよ。 >>329
バスは渋滞などで時間通り来なかったりするから、駅ができて電車を利用しやすくなったから
バスからシフトした人が多いのかな。 小田栄。駅小さいから、降車客の渋滞が起きる。乗って来た電車、見えなくなっても駅から出られない。 なんか小田栄って人名みたいだね
どこかのテレビ局の社長のような 南武線と、並行している府中街道との間には建物が少なく、電車からもクルマからもお互いがよく視認できた。1960,1970年代の思いで。 おー、南武線名物、駄洒落車掌を知ってる人が居るんだあ、ここ。 今では高齢の世代で通勤通学で乗ってた人は覚えてるみたいね
「長ーいシートは7人掛け」の人や
クリス・ペプラー似の声のDJ車掌
自動放送は味気ないな なぜ南武線ユーザーだけこんな愉快な乗務員に恵まれてたんだ
横浜線は揃いも揃って仏頂面だったぞ 昔は電車がボロだったが
今は地上設備がボロのようだな >>341
将来
電車がボロくなったときに、
地上設備がまたまともになるw 昨日の溝ノ口はともかく
今日の鹿島田-平間は高架化予定だったかな >>341-342
両方新しくしたら将来両方ボロになるだろ >>344
それはそれで、新しくなるサイクルが一体になるから、良いんじゃね? 「VVVF 初めまして、209系です」のヘッドマークが思い出される
少数のオタ客には通じるが圧倒的多数を占める一般客には何のこっちゃら 何だ。南武線の津田山駅〜久地駅って二ヵ領用水の上に線路を敷いたのか。
戦時中の昭和19年に緑ヶ丘霊園の場所の山を掘り崩して、粘土を採取して土管を作っていたらしい。
帝国臓器製薬(今のあすか製薬)では、何やら人体実験していたっぽいな。線路の向こうに火葬場があるし。 武蔵中丸子駅跡は、玉川中学近くの
道路がちょっと駐車スペースっぽくなっているあのあたりだろうな
うちに近いけど今さらもう復活は無理だろう そういえば、今から25年くらい前に川崎到着と出発。登戸到着と
出発でチャイム鳴らす車掌が居たな。電車と気動車は聞いたが
客車はなかったな。
103系にもそういう設備があるんだと感激したのもいい思いで。 >>350
オルゴールじゃなくて、電子チャイムですか?
矢向の車掌さんは自前でオルゴールの入った箱を持っていた方がいて、始発駅を出たときにマイクを箱にあてて鳴らしていました。
103系は受話器だったので、塩梅が悪かったみたいです。 今日、ブラタモリで武蔵小杉を放送していた。
現武蔵小杉がグランド前とは知らなかった。
https://i.imgur.com/RvcAJ4a.jpg 南武線に平成になってからもなお原型ライトの101系走ってなかった? ライトのシールドビーム化は都会では早かったと思うけど 中野島って割と最近まで古いタイプの駅名標有ったよね >>359
2017年くらいにLEDランプの吊り下げ式に変わってしまった
久地もあったけどステーションナンバー導入で表示部分が変えられてしまったな >>358
懐かしいなあ
15年くらい前まで住んでた
でも車両以外は今もあまり変わってないような 1990年代になってもまだ101系が走ってた
その中に秩父鉄道に移籍した車両があって、つい最近まであった >>365
それをいうなら鶴見線だろう
南武線も地味だがローカルと言い切れるだけの辺鄙性は乏しい 沿線に田園調布のような高級住宅街がほとんどないから、地味でどん臭く見えるのかも。
国立市内通るが、一橋大学周辺の高級住宅街から離れた所を通ってるし。
かつては梨畑の中を行く電車だった。 >懐かしの南武線
西国立に、ED16がタムロしてた >>369 72系走ってた頃は、下町の工業地帯のど真ん中を走り田舎に向かうという感じの路線だった。 新旧入り交じっていた頃は線路際の空き地から次に来る電車を予想して遊んでた
思えばその頃から鉄ちゃんの素養が培われてたかも
雨樋が正面に露出してた101系が来ると幸運が来ると鉄友と言い合ってたっけなw >>374
雨樋が正面にある101系って試作型だっけ?
一度も見たことなかった 4月24日(土)お昼頃に武蔵中原駅で痴漢が取り押さえられるところを目撃した
あんなスカスカな土曜の昼の電車でよくやるなぁと思った
犯人はオッサンで、被害者は制服の女子高生 101系の試作は4両全M、立川まで運用可能
当時稲城長沼−立川間は4両限定、101系6両は川崎−稲城長沼限定
旧型は立川発4両で稲城長沼で2両増結、がありました 国鉄時代、南武線は営業係数がつねに黒字の収益路線だった
が、私鉄買収路線のせいかおんぼろの薄汚れた焦げ茶色の電車だらけで中央線や京浜東北線の電車がまぶしかった ですね
その、中央線や京浜東北線の101系が南武線にも転属
なかなかカラフルな時期までありました
青い101系が見られましたね >>379
オンボロの吹き溜まりといい、私鉄買収路線といい、
阪和線と相通じるものがあるね 【トラック児童死傷】「アルコール検査は普段から行わず、28日もしなかった」…南武運送の親会社『南武』の社長が謝罪
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1624995367/ 101系の試作車が走ってた
正面に雨樋があるのが特徴で >>382
しかしあちらは表定速度80km/hを超える超特急をぶっ飛ばした歴史もある高規格線 規格でいうと見劣りは否めないが駅の構造や配置は
こっちの方が利用客目線でよく考えられてると評価して良い 103系カラーが全色集まった路線とも言える
京浜東北のブルーは予備車扱いだったけど
カナリアを主体にオレンジ・ウグイス・エメグリと混色編成は圧巻だった >>389
駅間距離の短さは功罪相半ばすると思うがどうかな >>382
こらこら阪和電鉄の車はオンボロじゃねえぞ
国鉄形式を与えられたし、しかも逆にオリジナル高性能を抑制する改造まで施して使われた >>391
駅が近いのは何事にも替えられないメリット 駅に手軽に出られる利点は大きい
遅いのは電車のスペックの問題
また、緩急結合ダイヤを取り入れて小駅の客でも途中の主要駅で優等に乗り換えられるチャンスを保証している
このようにして私鉄はサービスアップして生き残ってきた
南武鉄道が買収されずに残ってたら今頃どんな姿かたちになってただろうか 買収されなかったら大東急になってるな
戦後独立出来るかどうか >>61
南武も鶴見臨港もどちらも浅野系ということはW浅野? >>393
その名車たちが追い出されてボロ寄せ集めの昭和50年頃のことっす
南武も17メートル時代は突出してボロイとも思わなかったが
72系末期は近隣と比べて時代がかった電車という印象 川崎立川が1時間かかっていた。
今もあまり変わらないけど。 >>402 登戸まで101系快速走ってたけど、あまり早くないし。 一度で良いから見てみたい
快速ヘッドマークをつけた72系 利用客はなんぶせんにスピードなど求めてないのです
駅をこまめに置いてくれたから手軽に乗れるメリットを提供してくれたのです 分かるけどその代わり一駅あたりの客数は少なくなるだけじゃないの
分散するわけだから
コスト面では良いとは言えない 30年ぐらい前だけど、溝の口と武蔵小杉を結ぶバスのリアに「宇宙一の出玉率 パチソコ南武線」って看板が付けられてたのをよく見たけど、実際どれくらいの出玉率だったんだろう? たしかオレが小6んときだから1977年のはずなんだが
南武線の快速が川崎から宿河原まで走ってた、ていう記憶があるんだがまちがいかな?
あのころの国電区間のマップ(車内の、ドア上に貼ってある路線図)で
そう記載されてた記憶があるんだけどな パチ店の屋号に路線名を使ってもいいのか
昭和時代は“国有”鉄道だったわけで。