DF50総合スレ
>>161
デッキなしの機関車だと小さなステップに足を乗せ手摺につかまって手旗信号振る
わけだけど、特に雨とか雪とかの時はちょっとやりたくない作業だろうね 箱型デッキ付きディーゼル機が好きなら、くろがね線のDD70がマジお勧め。
もちろん未だ現役。
初めて見かけた時のインパクトは強烈だった。
牽引してる貨車も強烈だったが。
ただ最近、列車本数が激減してるから今後が心配でもある。 確かにかろうじてデッキありますた
でもなんで? なんで ライトがないの? >>166
DD10の竣工直後?を写した写真にはライトがあった気が… 1947年に車籍が消えてしまったのか・・・
ライトが着いてる写真はナイだろなぁ >>168
いや、竣工時のメーカー公式写真には前灯が付いてるから 別にDD10やDD50の話題出てきても構わないけど。DF90やDF91新旧ならさら可。
DF200はちょっと違うとおもうが。 この機関車って西日本だけかと思ってたが、長野・新潟から青森まで走ってたんだね。
あの矢立峠越えの写真見て驚いたわ。 >>124
昭和53年9月下旬までは、下関に入っていたはず。
小串折り返しの筋があった事を、はっきり覚えている。
一旦引退して、10月だったか、重連さよなら運転を行った。 DF50が京都まで来なくなったのはいつだったっけ? 走行音が聞いてみたいね。
さぞかしうるさかったことだろう。 どっかで録音されてるのを聞いたら、
ガルガルガルガルみたいな感じだった。 親の実家が日豊線の脇にあり、毎晩夜行列車を牽く音を子守唄にしていた。
蒸気とは違う「キーン」という音なのに何故か悲哀を感じた。 お召機だったのか・・・
修復後だとしたら、お召機には充当されていないだろうなぁ。 DF50の運転士は、突然現れたD51を確認する時間もなかったでしょうね・・・
頑丈に見えるDF50がこんなに粉砕されてしまうとは…。 <br> しかも破損範囲が少ないD51の方は実は単回。 <br> <br> 恐ろしい事故ですね。 やっぱSLって頑丈なんだな。
乗用車と大して大きいとも思えない2屯くらいの
小さいトラックがぶつかると、乗用車だけが粉砕される様を思い出した。
どうでも良いけど、時々見かける<br>って何?タグでも使おうとしてるん? 頑丈だろうな。電気やディーゼル機関車は引張力がかかる台枠は強固だけど車体は鋼材を組んで
鉄板貼り付けてるだけだからな。16mm(だっけ?)の板厚あるボイラーには敵わんだろ
ただしSLは足まわりにシリンダとか重要部品が露出してるから意外ともろい部分もあるよ。
城東貨物線で車を跳ね飛ばしたD52142が、結局それが原因で三ヶ月後に廃車になった。
本体は何ともなかったけどシリンダが痛んだそうで。 確かにこの事故でも一見小破っぽいD51の方が廃車になってるな。 まぁ時代の需要もあったんじゃないかねぇ。
D51なら掃いて捨てるほどあったんだろうし、
これからディーゼルだから、是が非でも直そうみたいな。
・・・と言ってもウテシが亡くなっている機は、やはりこわひ。 DF50の車体外板は非常に薄く2o程度しかない。
だから四国では積極的に全面補強したんだよ。 D52142が事故に遭ったころはSLがどんどん淘汰されていく時代だったからな。
ちょっと調子悪いSLは優先的に廃車されたんだと思う。
事故が無くてもいずれDLに置き換える計画が間近かだったんだな〜
ただし、廃車されたのは吹田から北海道の五稜郭に転属してからだから、一応は
修理してまだ使うつもりだったみたいだけどな。
DF50の話題じゃないけどすんまへん。
DF50は後継のDD51との馬力の違いがあまりにも甚だしいので、
集団でお払い箱になっちゃったけどね。
四国での後継はDE10かな。性能的にはDE10のほうが強力やろね。
スルザーのDF50はちょうどC58と同じくらいのけん引力やったよ。
501〜のマン型は強いて言えばちょっと強力で坂道ではD51クラスかな。
「富士」が24系になった時の夏に西鹿児島から東京までシンデレに乗ったけど、
宗太郎あたりでDF50オーバーヒートで停まってしまった。
やはり20系より重たかったのかな?
10分以上ラジエター全開で再スタートしたが、蒸気が圧を上げるのに停まったのに似ていた。
(狙いはまったく逆だけどね)
ちなみに余裕時間が多くとってあったようで大分では定時発車。
宮崎近辺でリニア実験線を見た記憶が残ってます。 すまん、シンデレって何?ツンデレとは関係ないよね・・・? 研ナオコのCM…。
知っているのは最早40代以上だな…。 34歳の俺には分からなかったっす。
物心付いた頃にDF50は既に絶滅危惧種で、
子ども心には何故ディーゼルなのに凸型じゃなくて箱形なのか、
(凸→ディーゼル 箱→電機ってイメージだったw)
そもそも「電気式」ディーゼルって何だよ?って思ってましたw >>201
DLDC開発を担った近藤恭三氏が「大型液体式も構造が簡単になるから凸型にしろ!」と命じて
DD51が凸型になっちゃったんだよな。
そりゃ簡単にはなるけどさ……オサレではない。 凸型だとエンジンの点検修理、部品交換なんかが箱に入ってるよりはるかに
簡単にできるからな〜。バック運転も簡単だし。
しかしあの凸形が本線まで出回ってきた頃は、「車両」というより
足まわりのついたエンジンと言う感があったが、、 でもラジエーターの熱気が視線に入るんだよな。
陽炎がゆらゆらと視界を乱してる気がする。 陽炎は確かだが、踏切事故の時の乗務員の安全には凸型の方が有利やな。 >>204
何か自分の言葉じゃないよね
本の受け売りか、学校の先生が言ってたそのまんまって感じ 別に箱の見た目が好きだからって凸をdisる必要もないだろうに。 DD51維持費に金かかりそうなんだよな
エンジンルームが狭いと空気の通りが悪くて熱がこもりそうだ
オイルもヘタリやすくてマメに変えなきゃならないし
エンジンも熱で歪みが出てメンテにカネがかかる 琴電がDF50に遠慮して警笛の音をわざわざ変えたくらいだからね。
四国にはウヨウヨいたんだろう。 というか四国には長らく電化線区はなかったのだから
DLがたくさんいるのは当たり前なんだけど。 小学生の時、亀山機関区で見ました。もう名古屋までは
来なくなっていた。キハ81とか、流電とか、豊橋の
EF10とか消え始めていた。国鉄の電車はトイレとか汚くて
サービスが悪かった。アニメでは宇宙戦艦ヤマトが流行っていた。
3億円事件とか、山口百恵の引退とかもそのころ。 DF50が四国に集結してた末期、おれ、高校生だった。
高松機関区に撮りにいくと、管理室?でJNRと書いたヘルメット貸してくれて、
(以下、リアルに讃岐弁で再現)
「どこでも好きに撮ってかんまんきんの、ほなけんどレールを渡るときには気ぃつけまいよ。
突放貨車やこし、音も無う走ってくるけんの」
「マニアの人がこなな立派な写真パネル贈ってくれてのう、ほれ、ここに飾ってあるがい」
「おまー、これ(ダイヤ表)見てんまい、xx日のこの昼の列車はDF50の1が引くんぞ。
これ撮りまい、あ、ほうか、おまー、高校生なきん、授業サボっては撮れんわのう、がっははは」
高松機関区の中でおれがDF50撮ってると、運転士のひとに声をかけられ、
「おまー、ワシが今から運転するキハ30も撮らんか!機関車もええけどキハも珍しいんぞ」
だが、鉄ちゃんに理解があり過ぎるほどあった高松機関区も、
ある時点から部外者一切立ち入り禁止になってしまった。
鉄ちゃんを快く機関区に入れていたのが仇になり、
DF50の製造所銘板を外して盗んだ大馬鹿者がいたからだ。
どこの誰だ、あれから何十年もたつけど、その大馬鹿者、ブン殴ってやりたい気持ちがいまだにある。 >>217
そうだな。
今なお俺もそいつらを探し続けているぞ。 >>218
岡山支社スレで有名な赤じゃないのか?。
ヤツは宇野駅で「瀬戸」のヘッドマークを盗ろうとしてつかまったことがある。 当時「高松まつり」に高松機関区のひとが屋台出したことがあって、
DD13のピストン(ひっくり返すと灰皿になるとか)なんかも売ってたけど、
あまり売れてなかったなあ。
いまみたいに鉄道部品に高値がつくご時勢なら、あっという間に売り切れたかもわからんね。 そもそもDF50は無煙化推進計画で量産されたもので、
結局蒸気の置き換えようだった。SLファンにとっては
あまりうれしい車両ではなかっただろう。北海道意外
ほとんど走っていた。最終的にSLを絶滅させたのはDD51と
DE10だった。性能が良かったから。当時SLファンには目の敵に
された。 >>221
ミンス盗の真栄原なんかがこの部類だよな。
撮影するものが無くなって鞍替え。
二転三転する政治家にぴったり。 DF50 急勾配トンネル区間のウテシ窒息対策だったような 国鉄DCスレで、DF50の悲惨な事故の話で盛り上がってる。。。 しかも酷い低レベルな流れになってて笑った。
おっさん以外もいるんだな、この板。 子供の頃、石見大田で鈍行の車内から、急行出雲を牽引しているのを
見掛けたことが印象に残ってます。 なにかのサイトで
EF65+EH10+DF50+DD54+カモレ
なんて言うすごい列車の画像を見たよ。
確か、本務機+回送+入場+廃回だったかな…。 今月のJトレでしょ。
3483レね。
関西では廃回を撮影する元祖的な列車だった。 そうだ、Jトレだった!ありがとう!!
しかも今月号…。
ボケたか、俺も…。 日豊線南宮崎電化の時に、定期列車のDF50の前にED76を付けて訓練運転を盛んにやっていたのを思い出しました。
見た目は同じでしたが、鹿児島まで電化完成で今度はそのDF50がED76貨物列車の機関車次位に連結されて小倉工場に向けてひっそりと回送されて行くのを時折見かけ、ああ、お疲れ様DF50…と思ったのも遠い思い出です。 DF50って軸重15tなのに亜幹線、すなわち乙線区間で走ってたのが
多いけど、線路傷まなかったんかいな?
おらが村の小野田線でも走って欲しかった。DD51、DE10しか見とらんでな。 >>236
軸重は14tじゃなかったかな(確か満載で84t強) >>237
236でつ。ほんまや。軸重14tね。失礼した。
最高速度90km/hを重量90tとずっと勘違いして覚えてた。 D51と正面衝突したり、土砂崩れに巻き込まれたり、ミキサー車とぶつかったりと
事故に遭ってばかりの印象のDF50。 DE10に比べて最高速度が5km/h速い以外、実質性能で負けてるな……
軸重制限のために、泣きたくなるほど非力だ 粘着力じゃ上だろ。降雨降雪連続勾配のような条件じゃDE10より使いやすかっただろうと思うが。 DD50は語っちゃダメ…?
かく言う俺も精々米原で長いこと野晒しになっているのを新幹線車内から見れただけなんだが…。 >>242
気持ちは分かるが、やはりスレ違いになるからダメですね。 DD50スレ作っても伸びないだろうし、ここも過疎化してるから少しくらいは
良いとも思うが、果たして語れる住人がどれほどいるものか・・・?
ここの住人の書き込み見てると結構語れそうな年代のお歴々も少なからず
居そうな気もするが、そもそもDD50でそんなに沢山話題があるかのかな? じゃあDD50に関する話題を一つ。
DD50に「日本海」のヘッドマーク付けている写真を見た事あるんだが、
これは何の企画で撮影されたんだろう?
単機での写真だったので、米原〜坂田の継走運用の際に特別に付けた
という感じじゃなさそうだし。 そもそも定期運用でDD50のブルトレ牽引ってあったのですか? むかし米原あたりにセクションが有った時に、交流直流の橋渡しに使ったらしい
>246
客レ、貨レは米原〜坂田をDLで継走していた時代、
DE10とDD50は共通運用だったので、どっちも短区間
ながらブルトレ牽引した。 >>248
もちろんその際はいちいちカン付けたりしてないですよね? ググるとDE10がブルトレ日本海を牽いてる画像は出てくるんだけどねー
DF50よりDD50の前期型のほうが好みになってきた
何やら共産圏の機関車みたいな危なっかしいニオイがしてw 軸重が無闇に大きい
エンジンがズルツァー直8の900PSで低速堅実指向、おまけに馬力がないのを最初からわかっていて重連運用前提で片運
確かに共産圏あたりの試作車っぽいな
そこから考えると、同じエンジン(チューンしたが)を使いながら
乙線仕様、暖房用ボイラー付きで中間台車の横転動対策まで整えて両運貫通型としたDF50は、非力ながら随分まともになった感はある 確かに茶色のDD50一次型はなにか異様な雰囲気すら漂うなw この流れなら聞ける。DD50ってさ・・・
重連運用専用って事は前と後の製造番号って違うんでしたっけ?
「DD50 1」+「DD50 2」みたいな感じで。
もし違うんだとしたら、永久連結のペアなの?
EH10は前後の番号って一緒でしたよね。 >>253
当然です。
1両でも運転実績あります。
初歩的内容です。 製造番号書き出すのじゃまくさかったんで下記参照。
製造年はwikやバケネコの本が間違いで正解は27・30年。
ttp://www.jnr-photo.com/DD50/DD50-No1.htm >253
1輌で運用した事もある。
四国に1輌だけ持ち込まれた時、終点ではターンテーブルで方転という、
DLとしては噴飯ものな使い方をした。
尤も、SL全盛時代の事なのでターンテーブルでの方転は日常茶飯事だから
手間とは認識されていなかったのだろう。 >>257
土讃線で借り入れたDF91が不調(レールへの横圧が過大)でメーカーに
戻しての修理の間、ピンチヒッターで4号機がただ一両四国に行ったんですよね。
D51の65%しか出力が無いDD50一両で満足な運用が出来たのだろうか? >258
ここの記述が正しいなら、当初はC58を補機にして運用したようですね。
次のページには、客車をはさんだプッシュプル運用した事があったという記述も。
ttp://www.geocities.jp/mochihamochiya23/zdd50no2.html
豪雪期は通常の気動車列車をDD50×1+客車+DD50×1に置き換えて運転
なんて運用もあった。
重連総括できないDD50だから、進行方向最後部のDD50は死重扱い。
>>259
ゴメン、よく読まなくて書き込みがダブった。
でも厳密には「プッシュプル」ではなく「プル」だけだったようだ。