山鹿温泉鉄道・熊延鉄道・熊電廃止区間
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熊本バスに乗って熊延鉄道の写真展に行って来た
健軍の引き込み線が複線でびっくり 通りすがりだが
皆さん熊延鉄道や山鹿温泉軌道でよくこれだけ語れますね!
ちょっとリスペクトw 菊池や山鹿は古くからの温泉街だが、熊延鉄道の砥用などの沿線、目立った観光地があるのか?
熊電沿線に比べれば人口集中度低いようだし、観光客需要も少ないから、60年代半ばで廃止されるのも仕方なかったような。
まあ、旅客数が多ければ電化してたのだろうし 平成28年 千人灯籠踊り市外参加者募集
山鹿灯籠まつりのハイライト「千人灯籠踊り」参加者を募集します。
山鹿市外にお住まいの方が対象です。
当市の郷土芸能である山鹿灯籠踊りを体験して、素敵な夏の思い出にしませんか。
募集期間 2016年6月1日〜2016年7月1日
※定員が200名になり次第締め切らせていただきます。
http://www.yamaga-kankoh.hinokuni-net.jp/events/detail/362 >>269
当時の田迎・嘉島周辺は低湿地帯みたいなもので、しょっちゅう水害にもあっていたから
宅地化や商業地化が健軍方面や清水方面と比べても大きく出遅れていたのが痛かったな。
今でこそ浜線バイパス沿いとか嘉島とか大発展してるけどその頃は南熊本をでて御船までめぼしい集落もなかったし。
ちなみに山鹿は温泉街としての歴史は古いが、菊池は戦後にできた比較的新しい温泉場だよ。 熊延は水前寺まで乗り入れしてた。
引き込み線も熊延に委託されていた。
鹿鉄も熊本まで乗り入れしていた。 もし、あの時の水害かれ再起できてもコレだけゲリラ豪雨や台風、地震等 天災多発じゃとてもじゃないが生き残りは無理。 熊延鉄道沿線は確かに発展めざましいが、時期が遅すぎた感はあるよ、多分どのみち存続はしてなかった
熊電は元々沿線に人口持ってるけど、春竹から郊外って地形もだだっ広いうえに田圃だらけ 熊延沿線は地盤が悪いところばかりだからなー
今後家建てる人も減るでしょ 山鹿の事を書いたつもりなのだが・・・
廃業後に鹿鉄自動車教習所(公認?非公認?どっち)とかやったみただけど、
とっくに廃業したところ視るとこの辺(山鹿沿線)もう過疎なの? >>276
むしろ廃止する時期が早すぎた、ともいえないでもない。
砥用とか先のほうは切っても、御船くらいまででも粘っておけばね。
川尻線なんかも廃止するのが早すぎた。
>>278
田舎とはいえ、過疎というほど過疎ってはないけど、起点の植木がとてつもない田舎なのと、
植木〜肥後豊田あたり谷間の人口希薄地帯ばかり通り抜けていて沿線の需要を拾えてなかったのがね。
やはり植木・北部の中心部を通ってなかったことには。 鹿鉄が廃止に追い込まれたのは水害と産交。
沿線に温泉地があるとは言え肝心な植木町内が人口希薄地帯だったのは痛いね。
国鉄乗り入れも行っていたというのに。
>>278
鹿鉄バスは遅くまで貸切バスを細々とやってた。先代セレガが最後だったかな。
川尻線は豊肥線のガードがネックで大型車が入れなかったのが。
残っていたとしても今回の地震で液状化の影響を受けていたでしょうね。
いつ来るかわからないバスよりははるかに信頼性はあったでしょう。 市電の子飼線があった時に電鉄と乗り入れしたら良かったのに
今更どうにもならない >>282 軌間が云う事利かん。
マア メトロ01入れたときパンタ集電にした上で改軌とかなんとか出来なくもなさそうだったが・・・ 市電4号線は元々は熊電だったのを市が買収。その名残で3線軌条が残っていた。
http://drfc-ob.com/wp/archives/72178
よく見ると左側(4号線)の片側が3線軌条。 川尻まで市電が走ってたが、残ってたら鹿児島の谷山みたいな感じになってただろうなぁと 今回の地震での被害は大きかったでしょうね(液状化地盤沈下) 川尻線はほぼ専用軌道だったんで定時制も保たれたしちゃんと整備さえすれば使えた代物だったのにね。
白川の河川改修に思いっきり引っかかったのが痛かった。
川尻も歴史的な建造物とかあったりして隠れた観光地なんだけど、市電が残っていたらもっと注目されていただろうな。 >>289
地元の図書館に配置されている「山鹿に汽車か走ってた」
を読むと開業以来ずっと自然災害との闘いに明け暮れていたそうだ
都市部に線路を敷いてボロ儲けするのも経営学的にありだが
地元貢献に徹して災害に痛め付けられながらも存続を模索し続けた人々に感銘を受けた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています